第一章/過ちの献身 4
ひとりきりの夕食はあまり楽しいものではない。学校にいたときの喧騒が嘘だったように、引越してきたばかりの部屋の中は活気がなかった。部屋にはまだ生活臭がないから、世界から取り残されたような寂しさを感じた。しかし、すぐ傍には冷ややかな青い光を身体に蓄えた、前世の気配があった。彼女との奇妙な共同生活を初めてまだ二日目だが、早くも慣れ始めた自分に彼は苦笑を禁じえなかった。
祥平が十数分ほどで作った簡単な夕食を食べている間、当の七海は窓の外を眺めていた。外はもう黄昏も過ぎて深い藍色に染め尽くされている。窓から見えるのは街灯の明かりと近隣の住宅くらいだから、彼女が何を見ているのか少しだけ気になった。
「もしかして、学校へは今日限りで行かないつもりだったんですか?」
いまにも消えてしまいそうな少女が、窓の外から祥平へと視線を移した。生気のない顔をしているのに、まるで生きている人間を相手にしているような自然さだった。
「言ってなかったか」
言葉にしていないのに、恐らく祥平の態度だけで見抜いた前世の鋭さに驚きながらも、彼はうそぶいてみせた。
「聞いていません」
ちょうど空になった食器をテーブルに置いて、祥平はベッドの淵にもたれかかった。転校初日の疲れが足元から忍び寄っていた。窓から入り込む涼風が心地良くて、このまま寝てしまいそうだった。
「それより、ご両親はそのことを?」
すぐには答えを返さず、祥平は湯飲みに手を伸ばしてお茶を飲んだ。空になった湯飲みの中を覗くと、まるで自分の内側を見ているような暗闇しかなかった。
「親は知らない。いや……俺のことをもう綺麗さっぱり忘れてる」
風が凪ぐように、七海の言葉が止まった。彼女の姿を盗み見ると、夜風に揺られる長い髪が部屋の照明を受けて流れ星のように輝いていた。自然と祥平の目が研ぎ澄まされていった。
「まさか……そんな」
取り返しのつかない場所に来てしまったから、祥平が自分を語る言葉はいつだって残酷だ。
「俺に関する記憶はすべて消した」
「なんて、ことを……」
弦を震わせたような声を七海が出した。
祥平自身ですら自覚していない黒い部分が、現実の薄暗い影の中から這い寄ってくる。
「貯金で三ヶ月は持つ。十二月二十五日までは生きていられる。記憶を消したのは心苦しいけど、生半可な覚悟じゃ志乃は助けられない。あいつのためなら、俺はどんなことにも手を染める」
でも、と七海が祥平を見つめる。
「明日も行くんですよね?」
祥平は言葉につまる。この先一体どうするのか、判断がつかなかったのだ。
沈黙の中にわずかな希望を見つけたかのように、七海が早口にまくしたてる。
「学校に行ってください。言える立場にいないことは分かっています。けど、せめて少しでも幸せな生活を送ってください」
今日一日を振り返る。
志乃と渉の三人が揃った昼休みは、本当は楽しく嬉しかった。昔に戻ったような気がして、涙が出そうになるのを必死に堪えていた。
夢想する祥平に耳に、凛とした七海の声が入る。
「私のせいで朝倉さんだけが酷い目に合うのは間違っています」
冬川の歌声を聞いたとき、すべてを放り出したくなった。生きていればたくさん幸せなことがあるのだと思わされてしまった。彼女との何気ない会話のひとつひとつに、祥平が欲しかったものが全部つまっていた。
「ああ、学校には通う」
沼の上で喘ぐ祥平にも、まだ掴んでも大丈夫なものが残っていた。
「ええ、その方がずっと良いですよ。孤独に泣くのはもう私だけでいいのだから」
だがそれらの思いはすべて、祥平にとって悪だ。
「私にとっての社会は惨たらしい地獄でした。ですが、あなたにとってはまだ――」
「だけどな」
七海が語る幸せをもう聞きたくなくて、祥平は腹の底から声を出す。彼女の瞳が、志乃から奪った輝きが怯えに揺れた。
たった一日で祥平は揺らぎ、ひとつの決意を欲の炎で燃やした。叶えてはいけない夢を叶えてしまった。だから彼の内にある何かが、獰猛な雄たけびを上げた。
「俺は、この三年間死ぬために生きてきた。分かるか? 死ぬためだけに生きてきた」
祥平の闇がひとたび蓋を開ければ、出てくるのは混沌とした呪詛だけだ。相手がすべてを知る七海だからこそ、本音がだだ漏れになる。祥平は、どうしようもなく疲れていた。楽しかった日々を思い出すほど、いま立っている現実との乖離に胸が軋むような思いがした。
「志乃を救う方法だけ考えて、どうすれば助け出せるか考えに考えて。わずかな望みにすべてを託して、それだけを支えにして何もかもをぜんぶ捨ててここに来たんだ。何もいらない。何も欲しくない。もう一度願って、もしそれが叶ったら俺はもうきっと動けなくなる。だから、唯一望むのは志乃の未来だけだ」
死の匂いがした。七海の声なき悲鳴すら飲み込む死が、狭い部屋の中に充満する。
「あなたは――この三年間でどれほど自分を痛めつけてきたんですか? この先、一体どれだけ自分を傷つけるつもりなんですか」
不毛な質問だった。
無言の空気に絶えきれないとでもいうように、七海がよろめき退く。「本当にごめんなさい」と涙ぐみ、悲鳴の光を迸らせて祥平の前から姿を消した。
七海がいなくなった途端に、部屋の空気が質量を持ったように重くなった。
真夜中、安物のベッドの中で横になった祥平は、夢を見た。大切な思い出を入れてきた宝箱が、もう入りきらないとばかりに中身を放り出し、思い出の欠片が夢を作る。いまはもう望むことすら叶わない、子ども時代の思い出。実に三年振りになる、悪夢ではない幸せな夢を――
「キットカットって、やさしいお菓子だと思うの」
小学生の頃、スーパーマーケットのお菓子売り場で、志乃が陳列棚からお菓子の箱をひとつとって、そんなことを言った。幼い祥平は、彼女の言葉の意味をいつも捉えることができなかった。
「どこらへんがやさしいんだ?」
「誰かと半分こできるところとか、甘くておいしいところとか。すごくやさしいと思うよ」
昔から、志乃は感情を言葉にすることが多かった。大切なものを探し出すように、彼女は丁寧に感情を掬った。
「他のお菓子でも半分こできるじゃないか」
祥平は思ってもない反論をしてみる。彼にとって、彼女が語る感情は真実だった。だからこの言葉は、彼女の話を促すための相槌のようなものだった。
朗らかな笑みを浮かべて少女が感情を語る。
「たとえば、ポッキーが一本しかないとき、どうやって半分こする?」
「真ん中で折ればいいよ。そうすれば半分こだ」
即答してみせた祥平に、志乃はゆっくりと首を振ってみせた。優しい仕草だった。
「ポッキーの半分こは難しいよ。だって、チョコレートは全部にかかってないもの。チョコレートがかかってないところに当たった人は、ちょっぴり損した気分になると思うの」
その通りだと思った。ポッキーは半分こに向いていない。
「他のお菓子も、ひとつを半分こにするのは難しいよ。ひとつじゃなくても、一箱を半分仔するのも大変だよ」
そうだなあ、と祥平は頷く。
「数えるの大変だもんな」
たぶん、お菓子を半分こするときは、いつだって適当だ。そこに優しさは含まれない。
「だからキットカットはやさしいお菓子なんだと思うの。大好きな人と一緒に半分こしたキットカットは、甘くてやさしい味がするんだよ」
そうか、キットカットはやさしいお菓子なんだ。志乃のお陰でひとつ賢くなった。今日のお菓子はキットカットにしようと思った。志乃と半分こして、やさしさを食べようと思った。
でもね、と志乃の言葉は終わらなかった。
まだ何かあるのだろうか。
「キットカットは優しいお菓子だけど、ポッキーとか他のお菓子は人がやさしくなれるお菓子だと思うの」
「人がやさしくなれるお菓子?」
志乃がふんわりとした動作で頷く。
「簡単に半分こできないお菓子を半分こするとき、人はやさしくなれるの。大好きな人にたくさん食べてもらいたいから、自分はちょっぴり遠慮するの。ひとつでも多く食べてもらえれば、大好きな人の笑顔がたくさん見れるの」
なるほど、と祥平は思う。簡単に半分こできないお菓子はやさしくはないけど、食べる人がやさしくなれるお菓子だ。
さて、と祥平は棚に陳列されているお菓子を眺める。
やさしいお菓子とやさしくなれるお菓子、どちらを選ぼうか。とても難しい問題だと思った。棚を見つめながらじっくりと悩む。
「ねえ、祥ちゃん。今日は何を食べよっか?」
にこにこと楽しそうに笑う志乃を見てから、祥平はその日食べるお菓子を決める。