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第一章/過ちの献身 3

 ――良いことを教えてやるよ。

 三年前に神白高校の幽霊の話をしたときと同じ台詞を、渡会渉が自慢そうに言った。

「怪談ならもう勘弁してくれ。幽霊は嫌いなんだ」

 牽制する祥平に――何も知らない、いや、三年前の顛末を教えられていない渉は、昔に戻ったように無邪気に返す。

「違う違う。今回のはそういうのじゃない。すごい生徒がいるんだ」

「すごい生徒?」

「たぶんお前も驚くぞ?」

 渉がいやらしい笑み浮かべる。

 窓から差し込むゆったりとした斜陽が、彼らの歩く廊下に縞模様を作っていた。その上を部活動の喧騒を聞きながら二人は歩く。

「そういえばお前、部活はやってるのか?」

 数歩前を歩く渉が、軽く伸びをしながら首を振った。

「いんや。こう見えてもいまの俺はそれなりに忙しくてね。残念ながら部活で青春の汗を流すわけにはいかないんだよ」

「どうせ街に繰り出して女の後姿を追いかけてるだけだろ。大層なことだな」

 言ってろ、と渉が口をアヒルのように口をすぼめた。可愛くなかった。

 それより、と渉が続ける。

「あの後途中で逃げやがって、こっちは志乃に言いくるめられて散々だったんだぞ」

 昼休みの志乃と渉の言い合いの最中、祥平は隙を見つけると口八丁でごまかして逃げ出した。単純に志乃と接触を持つ意味の恐ろしさもあったし、戻らない日常を感じることで大事な部分に生まれた痛みに堪えかねたからでもあった。

「自業自得だろ。あまり志乃に苦労かけるな」

 渉に先導されるまま歩いていると、左手に見える階段の踊り場から賑やかな声が聞こえた。何となく目を向けると、もうひとりの幼馴染がいた。成長した彼女の姿にまだ慣れていない祥平は、ギョッとして立ち止まる。よく見ると、女子生徒たちが志乃を取り囲んでいた。もしかして虐められているのではないかと心配になった祥平は、悪いとは思いつつ聞き耳をたてる。隣で立ち止まった渉が、やれやれとため息をついていた。

「紗枝倉さん、今度手芸部で手伝って欲しいんだけど。刺繍が上手くいかなくて」

「今度のテスト範囲の英語がぜんぜん分かんないんだよ。助けて志乃ちゃん」

「紗枝倉さん直伝のお袋料理を、ぜひとも今度の料理研究部で披露して欲しいの、お願いだから出てちょうだい」

 三者三様の頼みごとをする生徒達に、志乃はあのアルカイックスマイルで答える。

「いいよ。手芸部は明日なら大丈夫だから。料理研究部もレシピを決めたら今週末にいくね。英語は、今日はちょっと難しいけど、明後日で良いなら勉強方法教えるね。それでいいかな?」

 そこまで聞いて、祥平はその場を離れた。少し遅れて渉が隣に並ぶ。

「上手くやってるんだな、あいつ。心配して損したよ」

 呟いた言葉が、少しだけ胸に刺さった。

 記憶を失うまでの志乃は、家庭環境が原因で引っ込み思案だった。だから友達もおらず、いつも祥平と渉の三人でいることが多かったのだ。兼ねてより彼女の学校生活を心配していたのだが、杞憂だったようだ。それが嬉しくもあり、寂しくもあった。

 渉が祥平の肩をぽんっと叩いた。

「志乃は気立ても良くて優しいし、何より可愛いからな。あんなやり取りも今回に限ったことじゃないし、男どもから言い寄られることも少なくない」

「そうか」

 祥平にとって、時の流れは残酷だ。だが、志乃にとってはプラスに働いていた。もしかしたら自分が彼女の足を引っ張っていたのかもしれない。

 そこまで考えたとき、渉が祥平の前で足を止めた。大きくなった背を向けたまま渉が語る。

「一生懸命なんだよ、あいつ。お前の記憶はないけど、あいつにとっての支えが急になくなっちまったことだけは確かだ。だからこの三年間、志乃は頑張ったんだ。きっと気づいてるんだろうな、大事な人がいなくなってしまったってことを」

 ああ、と祥平は見ない間にたくましくなった渉の背を見て、ひとり納得する。渉も志乃も少しずつだが着実に未来を歩んでいる。きっと、時には過去を振り返り悔恨しながらも、時間の歩みと共に成長している。

 祥平だけが三年前から一歩も動いていないから、彼らの後姿が輝いて見えた。

 渉の姿がぼやけて見えた。泣きそうなのだと思った。二人がいる場所まで駆けて行きたいけど、いまの祥平にはそれができない。道が違った。二人とは違う未来を選択してしまった。だけど嘆いてばかりはいられないから、涙を流さないように祥平はシミが走る天井を仰いだ。

 渡り廊下を越えて芸術科目の教室が並ぶ特別校舎に入ったところで、渉の携帯電話が軽快な音を鳴らした。彼が慌てふためきながら電話に出る。

「ああ、うん。分かってる。忘れてない。ああ、大丈夫だから安心しろ。了解」

 電話を切ると同時に、渉が盛大にため息をついた。

「どうした?」

 祥平が聞くと、渉は拝むように両の手の平を胸の前で重ね合わせた。

「すまん! ちょいと用事入った、というか忘れてた。ってことで、ここから先はひとりで行ってくれ! 場所は第二音楽室だから、よろしく!」

 それだけを口早にまくしたてて、渉は逃げるようにその場を駆けて去っていった。

 ほんのりと薄暗い特別校舎にひとり取り残された祥平は、どうしたものかと考える。いま帰ってもやることは前世と会話をするくらいだ。

「仕方ない、折角だしひとりで行ってみるか」

 ひとり呟いて足を踏み出すことにする。しんしんと降り積もる吹奏楽の演奏を背景に、祥平は第二音楽室へ向かう。

 歌が聞こえた。

 その瞬間、周りの何もかもが見えなくなった。いま居る場所も、窓の外にある風景も、自分さえも歌声に塗り潰される。毛穴ひとつひとつから、水のように澄んだ歌声が全身に染み渡る。白一色の視界の中に、歌が風景を作っていく。天と地が栄光にあまねき満ち渡るかのように。

 知らず心が震えた。

 祥平の足は、自然と歌がする方に歩き出していた。歌は渉が案内しようとしていた第二音楽室から響いていた。絶世の歌声を壊さぬよう、音をたてず忍び足で。彼は歌声を届ける部屋の前に辿り着く。

 軋む扉を開くと同時に、全身に衝撃が走った。それは歌の波濤だ。廊下で聞こえたひっそりとしたものではなく、ぞっとするほど乱暴に、巨大な津波が祥平の世界を壊してゆく。

 そして、歌が作った世界の中心に、旋律の女神が佇んでいた。玉のような白肌に背筋が凍えるほどの美貌。腰まで届く黒髪は黄昏の風にたゆたい表情を変え、人の次元から逸脱した姿は、まさに神の威容。勝気な切れ目から覗くのは、歌声には似合わぬほどナイフのように鋭い眼光。

 祥平は、生涯で初めて人に見とれた。声を発することも、呼吸することすら忘れて、何よりも鮮烈な彼女の威容を目に焼き付ける。

 歌の絶頂。独唱のはずが、どこからともなく旋律が走り始め、かすかに残っていた現実を一掃していく。激しく、なのに優しく柔らかく。まるで季節が移り変わるように自然に。

 全身を真っ二つに引き裂かれると思った。歌がもたらす――幸福の絶頂に。

 やがて歌が終わった。

 あるべき現実が戻る。だが、歌の余韻に酔いしれた祥平は、身動きできぬままその場で石像になる。魂すら縛り殺す芸術を体感してしまったせいで、興奮が止まらなかった。

「あら、盗み聞き? いい趣味してるわね」

 彼女の声で、ようやく彼は意識を取り戻した。

 旋律の女神が顎を上げて祥平を見下ろしていた。彼よりも幾ばくか背が低いはずだというのに、尋常ならざるオーラが彼女を高みへ押し上げているようだった。彼が普通の生徒だったら、すぐさま非礼を詫びて額を床に擦りつけることだろう。それほどまでに、彼女が纏う雰囲気は人を平伏させるだけの力を持っていた。

 ふと、彼女が首をかしげた。艶やかな髪が肩に流れ落ちる。

「あら、確か転校生の……」

「朝倉だ」

「そう、朝倉くんね」

 壇上から降りた月が最前列に並ぶ机に腰を落とし、優雅な動作で足を組んだ。

「一応名乗りましょうか。私は冬川月ふゆかわるな

 知っていた。志乃が親しげに会話をしていた女子生徒だ。

「で、何か御用? 残念だけど私、こそこそ聴かれるのは大嫌いなのよ。言い訳を聞かせてもらっても?」

 歯に衣着せぬ物言いで月が言った。見た目に違わぬ高飛車な女子生徒だった。

 言い訳は浮かんだ。だが、彼女相手に、素晴らしい歌を聞かせてくれた冬川月には嘘をつきたくないと思った。

「歌が、聞こえたんだよ。いままで聞いた中で一番の歌が。聴いていたら、ここじゃないどこかに連れて行ってもらえるような気がして、それで、気づいたらここに居た」

 息をするように出した頭の悪い言葉が急に恥ずかしくなって、祥平は手近な椅子を引いて腰掛ける。視線だけで月を見ると、彼女は小動物のように目を丸くしていた。

「それは、本当?」

「嘘ついてどうするんだ」

「私が綺麗だからとか、私の気を引きたいからとか、そういう理由じゃなくて?」

「……お前はどれだけ自分に自信を持っているんだ?」

 頭が痛くなった。出会いのきっかけは人生の中で最高のものだったというのに、第一印象は滅茶苦茶だ。なんだこの自意識過剰女は、と勝手に幻滅しかけた祥平の目に、彼女の真剣な表情が飛び込んだ。

「本当に?」

「本当だよ」

 月がふっと消え入るような微笑を湛えた。

「そう、ありがとう」

 月の顔をまともに見ていられなくて、祥平は顔を逸らした。彼女を相手にしていると、素直になれない子供に戻った気分になった。

 のぼせそうになる頭を軽く振る。祥平は話題を変えることにした。

「もしかして冬川は、歌手だったりするのか? 流行の歌手とかじゃなくて、もっとちゃんとしたゴスペルシンガーみたいなさ」

 少しだけ照れたように月が頬を朱に染める。

「中学生まで、聖歌隊に入っていたのよ」

 へえ、と祥平は感嘆する。聖歌隊入隊者など見たことがなかった。

「すごいな。じゃあさっきのは賛美歌なのか? 初めて生で聴いたけど、聖歌隊ってすごいんだな」

「大したものじゃないわよ。上辺を品行方正に作れば、人となりに関係なく誰でも入れるから」

「それでも歌まではごまかせないだろ。いいもの聞かせてもらったよ」

「おだてるのが上手ね」と気を良くした月が立ち上がると、祥平の隣の席に腰を下ろして再び足を組んだ。紺色のスカートの裾から伸びる太ももが、彼の瞳に艶かしく映った。

「それでも、男の子は男の子ね」

 祥平の表情が引きつる。どうやら見られていたらしい。

「確信犯かよ。たち悪いなお前」

 月がにやりと笑って髪を払う。

「あなたがどういう人か知っておきたかったのよ。こう見えても結構警戒してるの。放課後の教室で二人きり、なんてね」

「襲うほど人間腐ってるつもりはない」

「そうね。これに関しては謝るわ。ごめんなさい」

 さて、と月が立ち上がりスカートの裾を軽く叩く。

「私は練習に戻るわ」

「少し聴いていっていいか?」

 滑るように言葉が出た。彼女の歌をもっと聴きたかった。振り返った月が珍しいものでも見るような視線を祥平に注ぐ。

「邪魔しないなら構わないわ」

「ありがとう、助かるよ」

 月が微笑する。

「変な人ね。まあいいわ」

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