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第五章/氷の論理 1

 神白高校は、二学期の最後をクリスマスイブ、つまり聖夜で締めくくる。奇しくも祥平の運命の前日でもあるその日、神白高校では伝統的に聖夜祭なる催しを行うことになっていた。文化祭と別にするその祭典は、終業式を終えて時間が経った十八時から校内の人間だけに開かれる。

「今日の聖夜祭って、去年と同じであの冬川さんが歌うんだって」

「知ってる知ってる。実は私、去年聞いてファンになっちゃった」

 時計の針がそろそろ十八時を指そうかという頃、一度は帰宅した者、校内で待ち続けた者、忙しそうに準備に汗を流した者を問わず、ほぼ全校生徒すべてが聖夜祭が行われる体育館へと集まっていた。館内は文化祭ほどではないが、ささやかな飾りによって彩られ、見る者を浮き立たせるような聖なる色を見せ付けていた。

 聖夜祭の存在は知っていても、参加することは初めてだった祥平は、一歩はずれた場所から陶然と祭りの様子を見つめていた。

 あの日から、志乃は学校に来なくなった。実に一週間以上も音信不通になった彼女から連絡が来たのはつい先ほどのことだ。送られてきた味気ないメールに書かれていたのは、彼女がゲームと称した賭け事のルールだ。

 曰く、十八時からゲームを初め、二十時までに私を捕まえれば祥平の勝ち。捕まえられなければ私の勝ち。敗者は勝者の命令をいかなるものであっても遵守すること。

 場所は、この街全域。

 思わず笑ってしまった。市内全域をたった二時間でどう探せばいいのだろう。あの女、端から勝たせるつもりなど毛頭ない。偏ったルールを押し付けてきたのだ。

 だが、ある程度予想していた。だから祥平の中には既に答えがあったのだ。志乃がこのゲームを吹っかけてきたことにこそ、大きな理由があるのだと思っていた。

 やがて、時計が十八時を指す。体育館が爆発したように、鼓膜を貫くほどの轟音が鳴り響く。軽音楽部による演奏が始まったのだ。祥平はそれを合図にゆっくりと歩き出す。いま自分が立っている場所を確かめるように地面を力強く踏みしめて、校舎の中に入る。

「志乃、いくらなんでも二時間は長すぎだろ。三十分もあれば片はつくさ。俺を少し舐めすぎだ」

 目指す場所は校舎の最上部、三年前、ふたりが前世と出会い、死の運命を宣告された屋上だ。ありふれた軽音楽部の歌を聴きながら祥平は廊下を進む。三年前の日が頭を巡るようだったから、いま自分が今を歩いているのか過去を彷徨っているのかが分からなくなりそうだった。

 そんな風にして時間を掛けて進みながら、屋上へと続く階段が見えたところで人影が見えた。外からの照明と月明かりだけが光源の廊下の中央に、目が覚めるような金髪をかきあげた男が、祥平の行く手を遮るように立っていた。

 見間違えるはずもない。幼馴染の渉だった。彼がここにいる事実が、志乃がやってきたことに彼が関わっていることを雄弁に語っていた。

「お前だったのか、渉」

「よぅ」

 腹の底から出されたような低い声が、少年の無表情の口から吐き出された。

「ずっと、志乃と一緒に何もかも仕組んでたのは渉……お前だったのか」

「ああ、俺だよ祥平。お前の代わりに俺が志乃を救い続けた」

 祥平と月は、渉によって出会いを仕組まれた。月の苦しみを渉は知っていた。祥平と記憶を取り戻した志乃しか知るはずのない、祥平が記憶を消すことができる力を志乃から聞いていたから、渉はきっと祥平が両親の記憶を消したことを知っていた。月の家に祥平が泊まったことを湊に告げたのは渉だ。志乃と湊の邂逅の場面を祥平に見せたのは渉だった。志乃の凶行場面まで誘き寄せたのは、渉だ。

 決定的な何かが起こるとき、渉は何かしら関与をしていた。

「これが? これがか? 冬川を傷つけた果てに吐いた言葉がそれか?」

 なんなんだこれは。

 心の中で唾棄した感情が伝わったように握った拳が震え、幼馴染達の考えていることが何一つ分からない事実に身体が慄く。

「そうだよ。志乃が笑ってくれるのなら、他の誰が泣こうが知ったことじゃない。そう、知ったことじゃあない。お前もそうだろ? 志乃を傷つける奴はそれ以上に傷つけてやる。志乃を泣かせる奴はそれ以上に殴り飛ばしてやる。あいつが笑うのなら俺たちはなんでもする。一度で駄目なら十度。それでも駄目なら百度、千度でも諦めはしない。なあ、そうだろ、そう誓ったよな祥平?」

「俺たちはもう子どもじゃないんだ。子どもじゃいられないんだよ。そんな馬鹿みたいな考えを持っていていい時間は過ぎたんだよ」

「そんなことは分かってるんだよ!」

 渉が咆える。

「だったら他に何が志乃を救う? 祈ればいいのか? 苦しみを受け止めればいいのか? それだけじゃ駄目だったからこんなことしてるんじゃないか!」

「理由も知らずにか? お前はどこまでお人よしなんだよ」

 渉の間違いは、元を辿れば祥平が志乃の記憶を奪い、それを隠し通そうとしたことが始まりだ。だから、すべての元凶は間違いなく祥平にあったから、渉にこんな言葉を吐かせていることに寒気がした。

「なあ、お前がここにいるのはなんでだ? お前、どうせ志乃からろくに話も聞いてないんだろ」

「俺が言われたのは、お前を二十時まで志乃がいる場所まで通すなってことだ」

「お前なあ……そんなパシリみたいなこと言われて納得してんじゃねえよ。大体何から志乃を救うつもりだ? そんなことも分からずにお前は志乃の言うことを鵜呑みにしてこんなことばかり続けるつもりか? 主体性がなさ過ぎるにもほどがあるぞ」

 たぶん、これは祥平が言っていい言葉ではない。原因を担う祥平がのたまっていい台詞ではない。それでも投げかけざるを得ない。渉が抱くこの“盲目の献身”が怖かった。渉が一体何を理由に志乃のためにこうまで動かなければならなかったのか、祥平は知るべきなのだ。

「二年前のこと、覚えてるか?」

 渉の問いに祥平は重く頷く。

「志乃のクソッたれな母親が蒸発した日のことだろ。忘れるわけねえよ」

 記憶を失い、祥平のことなど忘れているはずの志乃が唯一かけてきた電話がそれだった。そして、彼女の下へ行くことのできない祥平ができたことは、渉に話しすべてを託すことだけだった。

 渉が、奈落の底を覗いた瞳で祥平を見据える。

「お前は、あいつの顔を見てないからそんな風に言えるんだ。あいつの、あんな姿を見なくて済んだから、そんなに暢気になれるんだ」

「……どんなだった」

 快活に、時にはいやらしく笑って道化を演じてきた渉の表情が壊れた。眼球が飛び出そうなほど大きく開いた目を覆うように顔面に手を置いて、渉が天井を仰ぐ。

「あいつ、泣いてた。狂ったみたいに泣いて、泣いて、泣いて、泣いて……でも、笑ってた。なあ、分かるか? あいつ、笑ってたんだよ。泣いてるのに、笑ってるんだ。父親を離婚で失って、母親も消えちまったのに、笑ってるってなんだよ。おかしいだろ」

 渉が理不尽を象る現実に苛立ったように、言葉を叩きつける。

「俺の言葉なんか耳に入らないみたいに泣いて、笑って、ずっと言ってたんだ。ごめんなさいって。私がぜんぶ悪いんだって。俺はもう、気がおかしくなりそうだったよ」

 手を離し、顔を落とした渉の頬には涙が線を引いていた。

「なんであいつが泣くんだよ。なんで謝らなきゃいけないんだ。なんであいつが悪いことになるんだ。なんで、あいつはそんな状態でも笑っちまうんだ」

 祥平は答えを知っている。志乃を見続け、誰よりも彼女を理解しようと、救おうとしていたから、祥平は分かっている。それは、渉も同じはずだ。

 紗枝倉志乃は、自己という存在が希薄なのだ。幼少時に母親から無視という虐待を受けたことによって、無条件で愛してくれるはずの母親を失った。そのとき、志乃は自己の存在が許されないのだと思ったのだろう、何もかも自分が悪いと思い込むことではち切れんばかりに張り詰めた心の糸を保とうと必死だった。自己否定だけが、志乃の悲しい救いだった。

 たびたび志乃が湛える特徴的なアルカイックスマイルは、紀元前の彫像に見られる表情によく似た微笑みだった。それは、静止像に生命感を表現するために流行った表現手法だ。生きて動く人間には不釣合いな、とても現代的ではない“生命感に欠けた”不完全な笑みだ。

 まるで、志乃自身が生きることを望んでいないかのように。

 志乃は、他人が思う以上に強く、また繊細で弱かった。だから祥平も渉も、彼女を救わねばならないと思った。彼女だけではきっと壊れてしまう。その硬い実感が彼らを突き動かしてきた。

「それでも、間違ってることは間違ってる。一番近くにいたのはお前なんだから、止めることくらいできただろ」

「あんな姿見せられて、あいつが泣きそうにしてたら、もう何にも言えねえ」

 思わず祥平は笑いたくなった。志乃の考えの一端が読めたような気がしたのだ。彼女はたぶん、渉をそういう風に使ったと祥平に思わせたくて、この場をわざわざ設けたのだ。人の心を読むことが得意な彼女が、その力を最大限最悪な方向に使って作った怖気がするように嫌な場面だ。

「で、どうする? 俺は先に進みたい、お前は俺を足止めしたい。いっそ青春でもするか?」

 渉が乱暴に涙を拭って言った。

「お前と殴りあったのって、いつだっけ?」

「さあな、忘れたよ」

 渉が笑う。

「祥平のこと、ずっと殴りたかったんだよ」

「ああ。俺も、渉に殴られるべきだって思ってた」

 制服の袖をまくった渉が足を踏み出す。

「そんじゃ、ま」

「最初はサービスだ。殴られてやるよ」

 拳を握った渉が走る。その姿を認めて祥平はそっと瞳を閉じた。

 三年前のあの日から、祥平は誰かに罰して欲しかった。何者かに殴られ、お前は間違っていると言われたかったのだ。それが祥平にとってのひとつの救いの形でもあった。そして、それを行うのは渉しかいなかった。何も知らずに一番最初に巻き込まれ散々な目に合った被害者だからだ。

 頬に鈍い衝撃が走った。脳が激しく揺れて、一瞬思考に空白が滑り込む。

 白と黒が混ざったような意識の中、祥平は頬を殴られて吹っ飛ばされた。気持ちの良い右ストレートだった。

 廊下に背中を打ち付けられて、ようやく目を開ける。

「青春ってのは、やっぱり痛いな」

 大の字になって寝そべる祥平の耳に渉の足音が届く。

「お前さ、三年間どうしてた?」

「そりゃ、死んだような気分だったよ。志乃の記憶を奪っちまったことを後悔して、三年後の未来が怖くて、独りになったのがつらくて。どうしようもなかった」

 片膝をついた渉に額を小突かれる。そのまま渉は祥平の隣で同じように大の字に寝転がった。

「そういうのは先に言えよ。祥平、ずっと昔から何でもかんでもひとりで抱えすぎなんだよ。そういうとこ、志乃と似てるよなあ」

「分かってるよ。最初から間違えてたんだ。全部話して、本当に助けを求めれば良かった。そしたら、こんな風にこじれずに済んだんだろうな」

 祥平の過ちは、三年前の出来事を誰にも話さず、ひとり身の内の隠してしまったことだ。誰かに相談すればよかった。そんな当たり前を自ら消してしまったのは、目の前に続く道の闇があまりにも濃すぎたのだ。だから見失った。

「もう話せよ。まだ時間あるだろ?」

 渉に言われ、祥平は携帯電話で時間を確認する。まだ一時間半近く残っていた。相変わらず志乃は用意周到だ。恐らく、渉と話をさせるために時間を多く取ったのだ。

「そうだな。できの悪いファンタジーだが、笑わずに聞いてくれ」


 久しぶりに渉と真面目に話し合った気がした。もっと早くにこうした時間を取るべきだったから、語ることが多すぎて柄にもなく饒舌になってしまった。

 渉と別れる頃には、終幕の三十分前になっていた。体育館から響く音は止まっていた。一瞥したプログラムの中には、十九時半から八時までの三十分間を冬川月が歌うことになっていた。

 すべてを終わすため、何もかもやり直すために祥平は屋上へ向かってただ足を踏み出す。

 やがて、冬川月の独唱が始まった。張りのある月の聖歌が、夜のしじまに支配された校舎を清めていく。物寂しい夜の廊下が、月の歌声が響くだけで邪気を失っていくようだった。

 ――志乃。志乃。

 お前がやったことは間違っている。誰かを故意に傷つけてまで何かを成すことに、一体どれだけの価値がある?

 廊下を叩く靴底の音が、終わりを告げる鐘のように響く。

 ――なあ、志乃。俺も間違っていた。お前を救う為に、何もかもを投げ出すべきじゃなかった。

 廊下を曲がり、屋上へと続く階段を上がっていく。聖なる歌が、彼が進む道を浄化していく。

 己すら犠牲にして女の子を救うことは、格好が良かった。美談にだってなった。きっと最後には悲壮なテーマソングが流れて、画面がフェードアウトして物語は終わる。それは、なんて素敵な最後だろう。

 だが、残された人はどうすればいい? やり場のない深い悲しみの矛先をどこに向ければいい?

 初め持っていた祥平の指針は、決意は、羅針盤は、この学校に戻り、志乃や渉、月と出会ったときに、もう直しようがないほど狂ってしまっていたのだ。

 祥平はそれを知らなかった。志乃の言葉を聞いて、月のそばで考えて、ようやく気づいた。彼は死を選ぶべきではなかった。自分を犠牲にして志乃を救おうだなんて、そんな悲劇のヒーローになろうとするべきではなかった。

 跳ね上がりそうな心臓を押さえて、祥平は運命の場所である屋上の扉を開く。

 ――なあ、志乃。やっぱり俺は、お前と二人で救われたいんだ。

「こんばんわ、祥平」

 冴え冴えとした月光が照らす寂れた屋上に、彼女がいた。祥平は、目の奥に生まれた熱いものをじっとこらえた。

 彼女がいた。

 旋律の最高潮、月の美声が大気の中をうねりながら屋上に届く。月の聖歌と志乃の存在が合わさり、汚れた屋上が一瞬にして絶対聖域に染め上げられる。そこはまるで、教会のようだった。

 祥平は、約一週間ぶりに聖域で再会した。不意打ちなどではなく、これが本当の意味での再会だった。

 かつての祥平にとっての終点は、不都合な記憶をなくしたまま、志乃が未来で幸せになることだった。すべてが志乃中心で動いていたから、彼女が記憶を取り戻すことを喜んではいけなかったはずなのに、嬉しくて頭がおかしくなりそうだった。でもいまは、純粋に彼女の記憶が戻ったことを喜べる。

「じゃあ、はじめようか」

 志乃が、口元だけを緩めたアルカイックスマイルを浮かべる。ゆっくりと、右手に持っていた銀を喉元に突き付けた。

「一歩でも動いたら、死ぬからね」

 告げられた言葉は、驚くほど氷のように怜悧だった。

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