第四章/光を失うとき 4
根幹にしていた前提が崩れたとき、祥平は救いの道の取っ掛かりをも失った。大本にあったそれは、“志乃が命を賭して救うに値するほど心優しい幼馴染”であることだ。これが“人を悪意のままになじる女”に変わってしまったとき、彼は命を賭ける理由を失ってしまった。ふたりで救われたいと思っていたからなお更だ。
祥平は、再び袋小路へと続く岐路に立ってしまったのだ。
泣きじゃくる月を送り返した足で、祥平は渉の家に行った。渉なら、何か知っていると思ったのだ。渉は、祥平が知り得ない三年間の志乃をずっと見てきたのだ。ならば、志乃があそこまで堕ちてしまった理由に検討がつくかもしれない。
祥平を迎えた渉は、部屋の中で話を聞いたあと、十年は歳をとったように様にため息を漏らした。
「そうか。悲惨だなそりゃ」
「おい、それだけかよ。こんな話を聞いて出てきた言葉がそれか?」
祥平にとって、志乃の豹変は悲惨の一言で片付けられるほど軽くはない。絶望に突き落とされ、這い上がることを許されたところでまた蹴り落とされたのだ。もう何をするのが正しいのか分からない。
「この三年で何があった。何があいつをあそこまで変えた」
縋れるのはもう渉しかいなかった。彼ならば知っている。きっと、祥平よりも彼女を理解しているのだと信じた。
「志乃の記憶が消えた。お前がいなくなった。母親が蒸発した。そして、お前が戻ってきた。他に何がある?」
幼馴染の言葉は、祥平には天地がひっくり返るほどの衝撃だった。
この三年間で何があったのかなど、朝倉祥平が誰よりも知っているはずではないか。紗枝倉志乃の記憶を消した張本人なのだから。
「俺が、あいつの人格まで変えちまったのか……?」
両手で頭を押さえつける。そんなこと、考えもしなかったのだ。
「あのさ祥平。志乃の記憶が消えてから、俺も色々記憶について調べたことがあったんだよ。それで自分なりに出した答えが、“人は記憶で人格を作ってる”ってことだ。まあ、当たり前だよな。記憶が消えるってのは、言ってみりゃその間の人生が消えるんだ。ようはその間の志乃は死んだんだ」
取り返しのつかないことが、いまになって鼻先に突きつけられていた。
安易に選んだ選択は、形を変えて何度も問い直される。己のしでかしたことの大きさに祥平は震えた。
拳を握る。
まだ間に合うと思った。折角見つけた希望をみすみす逃す手はない。もしかしたら何かがすれ違っているだけかもしれない。もはやそれが希望的観測であろうと、祥平はそれに縋るしか道がない。
「志乃を探す。あいつに、あいつに会って話をしてくる」
熱にうなされるように立ち上がる。
紗枝倉志乃は、いつも正しかった。彼女の感情は水よりも清らかで澄んでいたから、間違っていると考えたこともなかった。それが間違いだった。彼女も人間だ。醜い感情を生むのは当然だった。祥平が勝手に彼女に正しさを押し付けていただけなのだ。
志乃が道を間違えたのなら、祥平がそれを正しい方向へ導けばいい。たった一度、彼女が道を踏み外しただけで見捨てていい道理などない。
渉の家を飛び出して志乃のアパートへ走る。
祥平がここに訪れたのはただの勘だ。志乃はアパートには居なかったから、考えられる限りの場所を回って残った最後の場所だった。
深まる夜を走る祥平の目には懐かしい建物が近づいてくる。
神白中学校だった。
時刻は夜も更けた九時。校舎の中には人の気配はなかった。それでも祥平は、志乃がここにいると確信していた。
閉ざされた校門をよじ登って越え、ミドリガメが放し飼いになっている池を通り過ぎて運動場へと向かう。夜中でも運動場は照明の光で驚くほど明るい。祈るように視界を巡らせると、野球のバックフェンスの外側に、居てはいけない人がいた。
栗色の髪の少女が、サッカーボールが入る大きさの穴の横にしゃがみこんでいた。足元には古びた青いクッキー缶があった。
志乃は祥平に背を向けたまま何かを見ていた。それが何であるかを祥平は知っていた。
走ったせいか、それとも志乃を見つけたからか、破裂しそうに高鳴る心臓を抑えて息を呑む。
ゆっくりと、だが確かな足取りで志乃に近づく。
距離が縮むと志乃の背中から抑えた声が聞こえた。それは、身を引き絞って出したかのような嗚咽だ。三年前に聞いたものより遥かに胸を貫く、蚊の羽音よりも弱々しい泣き声。
すべてをかなぐり捨てて志乃を抱きしめるのが、あるいは正解なのかもしれなかった。しかし、祥平にはそれができないから、忍足で彼女へ歩み寄る。
掛ける台詞など思いつかなかった。いつも間違えてばかりだから、今度もまた間違えてしまうかもしれない。自分の愚かさが恐ろしくて、情けなくなるほど足が震えた。だが、祥平にはもう志乃と対話するしか方法ないから、逃げ出しそうになる足を彼女へと踏み出す。
三メートルほどの距離になったとき、足音に気づいた志乃が振り向いた。三年ぶりに見る、きっと本来の彼女のものであろう泣き顔が、祥平の姿を捉えた瞬間、唖然としたものになった。やがて、諦めたように笑って力なく項垂れた。
「なんでいるかな」
泣き笑う志乃に、祥平は苦笑を返した。
「たまたまだよ。たまたま散歩していたらたまたま中学に入りたくなって、たまたま……見つけた」
「うそつき」
涙を拭って志乃が立ち上がる。目を背けたくなるほどの、眩しいアルカイックスマイルを祥平に向ける。彼女の手の中にある紙が、ぐしゃりと音を立てた。
「私はね、あなたのことならなんだって知ってるんだよ」
――祥平。
これが、志乃が記憶を取り戻したことを認めた瞬間だった。
このとき、祥平は本当に――本当に間違いばかりを選んできたことを知った。この地に戻ってきてから志乃に対する態度や感情、あらゆるすべてがどうしようもないすれ違いばかりだったと気づいた。
「志乃……志乃」
もはや呼ぶことなど無いと思っていた名を口にする。志乃を彼女の名前で呼ぶだけで、身体の隅々まで暖かいものが巡るようだった。だから、考えるべきことも言うべきことも頭が混乱して纏まらない。
「いつからだ。いつから、記憶が戻ったんだ?」
「さあ、いつだろうね」
志乃が肩をすくめた。
「志乃、俺は……」
「少し遊ぼうか、祥平?」
祥平の言葉を遮って、夜に冴える強い口調で志乃が言う。
「今度の聖夜祭で祥平が私を捕まえられたらあなたの勝ち。私が逃げ切れば私の勝ち。鬼ごっこと同じだよ。ただ、勝った方はなんでもひとつだけ願いを叶えてもらえる」
あまりにも唐突で訳がわからなかった。志乃は、先ほどまで泣いていたはずなのに、いまは涼しげに祥平を眺めている。
「祥平が勝てば話を聞いてあげる。願い事もあれば叶えてあげる。その代わり、私が勝ったら、私の指示に従ってもらうよ」
「指示ってなんだよ」
志乃はアルカイックな笑みを絶やさない。
「さあ?」
「そんなことより、俺は話したいことがあるんだよ!」
「それも祥平が勝ったら聞いてあげる」
柳に風といったように、志乃は聞く耳を持たない。祥平だけが懸命に対話を望んでいるから、独り相撲でも取っている様に滑稽だ。
「ここの処理は任せるね。また今度、聖夜祭で」
それだけ言って、志乃は背を向けて夜の闇へと消えていく。
祥平はただその場で放心状態で佇む。分かったことは、志乃の記憶が戻ったことと、状況が決定的に変わったことだ。そして、彼の前には、彼女が残したクッキー缶があった。三年前、彼が思いつきで彼女と行ったタイムカプセルだった。
クッキー缶を拾い上げて蓋を開ける。便箋が一枚入っていた。桃色の可愛らしいそれは、かつて志乃が入れた手紙だった。彼女が先ほどまで読み、その手に握り締めたのは祥平が入れた手紙だったのだ。
桃色の便箋の封を開く。本当は二十歳になったら空けるはずだったそれを志乃は今日このとき開いた。それには意味があるはずだった。彼女が何を考え、何を思い、何を感じ、何を抱き、何を決めたのか。もしかしたら、その片鱗が埋められているはずだ。
祥平は、過去から未来へ向けられた志乃の手紙に目を通す。




