第一章/過ちの献身 1
そこは、まるで世界のすべてが繋がっている場所だった。この世すべての清らかさをかき集めたかのような、一切の邪気を失った聖域。世界に遍く大気は流動を忘れ、少年の周りで傍観者のように佇んでいた。崇める造詣を象ったステンドグラスから舞い落ちる光が、床に神を映し出す。ただただそれは綺麗で、神々しくて、光に当てられた彼は眩しさに目を細める。
住宅街の外れの一角にそれはあった。ゴシック調の無人の教会堂。聖堂に並ぶ長椅子の最前列、祭壇の前に朝倉祥平は立っていた。
温暖な地だというのに、室内は真冬を通り越した北極点が如き冷気に満ちていた。まるで神の意思が働いているかのように、熱を持ったありとあらゆるものから温度を奪い取り、消し去り、冷厳たからかな絶対聖域に作り変えている。外界とは雄に十度以上もの温度差があるのではないだろうか、そんな錯覚すら覚える。聖堂内は確かに世界と隔絶していた。
そんな極寒の中、祥平はずっと立っていた。参拝列の長椅子には座らず、祭壇の前で自然体のまま立ち続ける。満ち溢れた光の隙間を縫うように存在するまだら模様の思い出に、彼は懐かしげに目を閉じた。
朝倉祥平と紗枝倉志乃がまだ中学生だった頃、ここは二人にとっての遊び場のひとつだった。何をするでもなく、長椅子に座ってステンドグラスを二人で眺めていた。日に日に憔悴してゆく少女も、ここに来て光を浴びているその瞬間は、まるでこの世に舞い降りた天使のように煌びやかに輝いて見えた。
哀しいとき、辛いとき、泣きたいとき、ここに来ると心が洗われるような気がしたあの頃、彼は、きっと彼女も、神の存在を感じていた。
「ここに神様はいませんよ」
暖かい声が聞こえた。胸の疼きを感じながら振り返ると、教会の入り口に少女がひとり立っていた。栗色に染められた、流線型のセミロングの髪をなびかせながら、少女がゆったりとした優雅な動作で歩いてくる。大人と子供のちょうど中間点、二つの狭間にある可憐さを持ったビスクドールが彼の前で立ち止まり、ステンドグラスを見上げた。
「なら、神様はどこにいるんだ?」
祥平は少女に問う。己の罪をひとつひとつ拾い集めるかのように。
少女は視線を彼に戻して、やんわりと口元を緩めた。笑っているようにも、悲しんでいるようにも見える、曖昧な表情だった。
「きっと、初めからいないのかもね」
スカートの裾をふわりとなびかせて、少女――紗枝倉志乃が笑った。
祥平は詰襟のポケットに、訳も分からず震える手を突っ込んだ。首だけでステンドグラスを仰ぎ見る。
「たとい、死の影の谷を歩くことがあっても、わたしはわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから」
口について出た聖句は、いまの彼にとっては皮肉めいて聞こえた。彼にとってのあなたは、神ではなく幼馴染だった。そのどちらも、いまの彼の傍にはいない。
「詩篇二三編だね。詳しいんだ?」
「昔、教えてくれた人がいたんだ。この聖句が好きだって」
それは、記憶の中にしか存在しない幼馴染。彼にアルカイックスマイルを向けながら「神様と祥平が居るから私は大丈夫」と、かつて言ってくれた言葉だ。
笑みを深くした少女が、祥平の前に回り込む。一瞬だけ、彼女と視線が交錯する。すぐに耐えられなくなって祥平は目を逸らした。
「そういえば制服、神白高校だね。何年生?」
「二年、今日……編入するんだ」
今度は、声が震えた。無理やり作った笑みは、引きつってぎこちない。
「転校生なんだ。私も二年だよ。同じクラスになれたらいいね」
ころころと少女が笑う。
身体に氷柱でも突き刺さっているかのように、芯が凍えて痛かった。
「私は紗枝倉志乃。あなたは?」
息も細るような苦痛に、心が遂に悲鳴を上げた。壊れそうになった表情を必死に取り繕う。
「俺は、朝倉祥平だ」
慎重に吐き出した言葉は、それでも老人のようにひしゃがれたものだった。
いくら我慢できると思い込んでいても、幼馴染に初対面の対応をされると否応無く心に荒波が立つ。三年経っても彼女の記憶の喪失には慣れることができない。それは、彼の時間が三年前から止まっている証拠だった。
胸中に嵐が吹き荒れている祥平に対して、志乃は悠久の花畑を思わせる柔らかな微笑を湛えている。
「そっか、よろしくね」
志乃が手を差し出す。祥平は反射的にその手を掴もうとする自分の手を必死で諌めた。会いたくて会いたくてしょうがなかった最愛の幼馴染が目の前にいるのに、こんなときでも格好の悪いところを見せたくなかった。
祥平はなるべく自然な動作を作って彼女の手を握る。触れた瞬間、懐かしい暖かさに全身が包まれたようで、それだけで泣きたくなった。
守るべきものがいま、触れられる距離にある。それだけで箍が外れそうになるほど、感情は擦り切れていた。
「ああ、よろしく」
絶対に救ってみせると思った。彼女だけはこの死の運命から引き上げてみせると、このとき再び祥平は誓った。たとえ己を犠牲にすることでしか彼女を救えなくとも、彼女の温もりが現世に生き続けるのなら、彼にとって幸いだ。
だから、志乃には記憶を取り戻さないでもらいたかった。優しい彼女は、真実を思い出したら祥平を助けようとするに決まっているのだ。
決意と願いを新たにして交わした握手を終え、祥平は彼女から一歩離れた。そのとき、彼女の表情に一瞬、暗い色が走った気がした。
「じゃあ、俺は先に行くよ」
これ以上、志乃の顔を見ているのが辛くて彼女の傍を急ぎ足で通り過ぎる。背中越しに聞こえた名残惜しそうな彼女の声を振り切って、教会の扉を潜った。
祥平は無心で朝の街中を駆け抜ける。登校中の学生やサラリーマンとすれ違いながら走って辿り着いた先は、まだ新しい空き家の前だった。アイボリーホワイトの一軒家には、入居者募集中の看板が立っていた。
懐かしい記憶が脳裏に蘇りそうになって、大きく頭を振った。空き家の隣の家からゴミ袋を持って出てきた主婦が、浮浪者でも見るような視線を祥平へ向けた。居た堪れなくなってこの場を去ろうとするが、地面に縫い付けられたように足が動かない。ただでさえ走ったばかりで息苦しいのに、狂いだした肺はなお酸素を求める。過呼吸になりそうだった。
そのとき、すぅーっと周囲の温度が下がった。怪談を聞いたときに感じる、あの奇妙な寒気に似た空気が祥平を包み込んだ。
「おちついて下さい」
頭上からやわらかい声が落ちてきた。
「おちついて呼吸して、そう、ゆっくり」
耳に入る声の通り、祥平は震える肺を落ち着かせながら呼吸する。秋の匂いが身体の隅々まで行渡り、少しだけ平常心が戻ってきた気がした。
「あなたは何を考えているんですか。昨夜言ったことといまの反応はめちゃめちゃですよ?」
舞い降りた青い少女――七海は、ブロック塀に寄りかかる祥平へ、呆れ声を投げ掛けた。図星を刺された彼は笑うことしかできなかった。
「いまからでも遅くありません。あなた自身が生きる術を探すべきです」
彼女の言うとおりかもしれない、と祥平は思った。想像よりも志乃との邂逅はきつかった。会うだけではない、志乃に初対面の対応をされることが、何より心の傷を抉る。いまの彼は、とても許容できないほど心の血で濡れていた。
七海の怒りの声は止まらない。
「大体、こうなることが予想できてなぜ彼女に会ったんですか? あなたが辛いだけじゃないですか」
祥平は、志乃に会うために教会に赴いた。志乃が毎朝あの教会に訪れることを習慣にしていることを、彼は友人から聞いていた。
「会いたかったんだ。せめて、一言でいいから言葉を交したかった」
先ほどの邂逅を噛み締めるように祥平は言った。三年ぶりに見た志乃は、とても綺麗になっていた。面影を残しながらも大人の階段を登る彼女の姿は、彼には眩しかった。生きて欲しいと心の底から思い、願うことができた。彼は、彼女を助けるための決意を確固たるものにしたかった。
「会って何か得られましたか?」
七海の問いに祥平は頷く。
「死ぬ決心がついたよ」
七海の表情が一瞬だけ崩れた。堪えるように目を細めて、彼女が無理やり笑みを作った。
「それは、よかった……」
七海が淡く光る。蛍のような淡い光の粒が彼女の足元から生まれ、徐々に彼女の身体が薄まっていく。朝の光景には似つかわしくない、夢の中のような幻想的な光景だった。
「言い忘れていました。その制服、とても似合っていますよ」
そんな言葉を残し、七海は光の中に消えていった。
ふとに、時間が気になった。腕時計に目を落とすと、かなり際どい時間だった。転校初日から遅刻するわけにも行かず、彼は神白高校へ向けて走る。