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第四章/光を失うとき 3

 どん底の更に底へ落ちた祥平は、翌日、仮病を使って学校を休んだ。半日近くをベッドの上で過ごし、時計を見ればもう十六時を指していた。

 猛る炎が消えたように、感情は静かになっていた。ただ、ほの暗い水の底に溜まった絶望がゆっくりと支配していく感覚だけは明確にあった。

 部屋には祥平ひとりきりだった。午前中、必死になって無為な説得をしていた七海は、ようやく無駄だと悟ったか、泣きながら部屋を後にした。あとに残ったのは、静謐がたゆたう部屋だけだった。

 どうすればいい。

 平らだった思考の水面に、一滴の疑問が落ちた。

 どうすればいいんだろう。

 最初は一粒だけだった疑問は、次から次へと水面へ落ち、やがて雨のようにざあざあと降り始める。そうなってしまうと、今度は気力を取り戻した頭が勢いよく回転を始め、不毛な疑問を問いただす。

 苦痛だった。

 祥平は、いまの状態が間違いだと知っている。知っていても解決の方策がないから、こうしてベッドの上で死人のように寝ている。それなのに、まだ彼の中に残る“欲”がいまの状態を嫌だと叫ぶから、ありもしない希望を掴もうと必死になっているのだ。

「もう、やめてくれ」

 言葉とは反対に、祥平の頭は目先の希望を探そうと躍起になっている。壊れたラジカセのように何度も何度も頭の中を巡るから、気が狂っているのか正常な思考なのか検討もつかない。

 インターホンが鳴った。それを合図に、祥平の思考も止まる。長距離を走ったように荒い息を何度も吐いた。

 また、インターホンが鳴る。

 人に会いたくなかった。それなのに、身体は思考とは反対に来客の待つ玄関へと向かう。もう滅茶苦茶を通り越して破滅的だった。

 思考することが悪だというように、インターホンが鳴る。

 重い手で玄関の扉を開く。滞留していた重い空気が、外から入ったからっ風に押し出されていった。

「朝倉くん、会いにきたわ」

 風に黒髪を乱した月がそこにいた。

 月がいた。祥平を生へしがみつかせようとした、その元凶である月が、迷いを振り払ったように立っていた。吸い込まれそうに綺麗な瞳は、まっすぐと彼を見つめていた。

「中に入ってもいい? ううん、中に入らせて。嫌だといっても、入らせてもらうから」

 答える間もくれず、月は遠慮なく部屋の中に入っていった。びっくりして止めようと手を伸ばしても、彼女は中に進むばかりで届きもしない。

「おい、冬川。一体なんなんだよ」

「座って」

 問いには答えず、月がベッドを指差して祥平に命令する。

「はあ?」

「いいから座って」

「一体なんなんだ」

「座りなさい」

 ごねる祥平に、月は静かに一喝した。彼女の言葉には、違えることのない強い意思が孕んでいた。だから彼は従うしかなかった。言い応えする力も残ってなかった。

 ベッドに腰掛けた祥平の前で月が膝立ちになる。

「どうしたの?」

「それは俺が聞きたい。いまさら一体何しに――」

 祥平の言葉を月が遮る。

「真面目に聞いているの。もう一度聞くわ。どうしたの?」

 祥平は目を何度も瞬かせる。月の問いが何を指すのか分からなかったから、なにを答えるべきか口が動かなかった。

 ふっと笑んだ月が、両手を祥平の頬へ添えた。びっくりするほど彼女の顔が近くにあって、彼は目を逸らそうとするが、思いのほかがっちりと顔を掴まれて動かせなかった。

「聞き方を変えるわ。なにがつらいの?」

 心臓を握られたかと思った。月は、祥平がいま、正常な精神状態でないことを知っている。たぶん、それはすごく曖昧で輪郭すら見えないような、靄のようなものなのだろう。でも、彼女はその中に彼が苦悩する姿を見出したのだ。

「まだ言えない? じゃあ、こう聞けばいいのかしら」

 咳払いをした月が、赤子にも分かるようにゆっくりと告げる。

「受け止めてあげるから、苦しみを私に吐き出して」

 きっと、それが正解だった。なぜなら、祥平はそのとき、この地に戻って初めて嗚咽を落とした。涙こそ流れずとも、彼女の言葉は彼の心を救うだけの力を持っていた。

「私を救ってくれたあなたには感謝している。理由なんてもうどうでもいい。あなたを救いたい。だから私には本音を言って」

 もう無理だった。目の前に救いがあるのに、これを掴まない方がどうかしてる。

 祥平の中で、何かが音を立てて崩壊した。それは三年前、祥平が己に定めた“過ちの献身”だ。

「死にたいくらい、つらいんだ」

「そう。ようやく言ってくれた」

 月に頭を抱きしめられた。彼女の温もりが切実に脳髄まで響く。

「朝倉くん。私、本当はあのとき聞いていたの。黙っていてごめんね」

 月の家に泊まった翌朝、祥平は彼女の寝姿に弱音を吐いた。彼女が眠っているからこそ零れてしまったそれを、彼女はしっかりと聞いていたのだ。

「あなたの中にはずっと志乃がいた。いまもずっと、もしかしたら未来まで。できれば取って代わりたいけど、それは無理だと思うから。それでも、私はあなたの傍にいて、あなたのために尽くしたい。あなたとふたりで生きていきたい」

 月が祥平の顔を離す。

 泣けない祥平の代わりに、目じりにたっぷりと涙を蓄えた月が、見る者すべての心を掴むような微笑を浮かべた。

 祥平には、冬川月が女神に見えた。

「朝倉くん。自分の幸せは、掴んでいいのよ」

 いま、ようやく祥平は知る。自分を殺して志乃を生かす。この決意を置き去りにしたことが悪だと思っていた。それが間違いだった。その決意そのものが悪だった。間違っていたのだ。

 朝倉祥平は、紗枝倉志乃と共に生き残る道を探るべきだった。

 当たり前すぎて見失っていたものを、月は教えてくれたのだ。

「朝倉くん。もう一度言わせて」

 遂に涙を流した月が祥平を見つめる。

「好きです」

 失った色を取り戻したように、祥平の身体に勢いよく血が通う。

「朝倉くんのことが好き」

 遠回りをして、障害ばかりを乗り越えて、初めて祥平はスタートラインに立った。目が覚めるようだった。

 祥平は一度天井を仰いで、今度は一度たりとも目を逸らさないと誓って月を見る。

「ごめんな。俺は冬川とは付き合えない」

「知ってる。ずっと見てたもの」

「俺はさ、志乃を助けたいんだ」

「分かってる。そんな顔してるもの」

「いまはまだ話せないけど、ぜんぶ終わったら話すよ。ほんと、馬鹿馬鹿しい売れないファンタジーみたいな話だけど、それでも、俺が真剣になった物語だからさ」

 うん、と月が頷いて笑った。彼女の笑みは、祥平が取り戻したかった志乃の笑みに似ていた。

 あと一週間と少ししかなくとも、それでもやってみようと思った。七海には今さらかと呆れられるだろうか。

「ねえ、その前にひとつだけ欲しいものがあるの」

「いいけど、一応一人暮らしの身の内だから、高いものは買えないぞ」

「お金では買えないもの、よ」

 月の顔がすぐそこにあった。距離を無視して、あの告白の場で寸前にかわした彼女の唇が、祥平のものと重なった。

「んなっ!」

 すぐに離した月が子どものように無邪気に笑って言う。

「私をフった罰よ」

 月には酷いことばかりをしてきたから、反論する余地はひとつもなかった。甘んじて彼女の罰を受け入れると、世界はまだ悪いものではないように思えた。


 ◇◆◇


 心がぽかぽかとするような心地で家に戻ると、月はすぐに志乃へ連絡を入れた。今日、祥平の家に赴く勇気を後押ししてくれたのが志乃だったのだ。

 一コール目で出た志乃が、挨拶もそこそこに聞いた。

「朝倉くん、どうだった?」

「元気になってくれたわ。私でも、人の役に立てることがあるのね」

「何言ってるの、月は素敵な女性だよ」

 志乃が柔らかい笑みを零す。

 本当に、志乃には助けられてばかりだと月は思った。志乃だけではない、渉にも後押ししてもらった。きっと、自分をこれ程まで信頼し背中を押してくれる友人に出会うことなど無いと思っていたから、月はいまこのときが奇蹟だと思った。そんな幸福な中に、いつも人生の闇ばかりを見つめてきたのであろう祥平が輪に加わってくれれば嬉しいと思う。

「よかった、これで、ようやく……次へ進める」

 ぽつりと、殆ど聞き取れないような声で志乃が言った。

「うん? 志乃、どうしたの?」

「ううん、なんでもない。月、ちゃんと朝倉くんを捕まえておくんだよ」

 それだけ言った志乃が、最後に挨拶を告げて電話を切った。不通の電信音を受け取った月は携帯電話を閉じて机に置き、ベッドに腰掛ける。

 ふいに、月は嫌な予感が浮かんだ。

 志乃に悩みはないのだろうか――と。


 ◇◆◇


 悪夢から覚めると、身体は歯車が噛み合ったように十全に動いた。昨日までが嘘だったような晴れやかさだった。失った指針を捨て去り、新しいものを心の中心に据えてしまえば世界は変わる。過ちを受け入れてより良い未来を作るために人は成長するなら、いまの祥平は丁度その過渡期だ。

 それでも、懸念はまだあった。ふたりで道を探るには、志乃の記憶を取り戻さなければならない。少なくともその方法を祥平は知らないから、一から十までを志乃に話さなければならないのだ。それは彼が一番怖れ逃げてきたことから真っ向から向かい合うことに他ならない。それでも、やると決めたからには突き進むしかない。

 まだ懸念はある。昨日から七海が帰ってきていない。彼女の姿がなくなるだけで、部屋は本当の家主を失ったように寂れて見えた。

 七海にも新しく打ち立てた決意を聞いて欲しかったから、彼女を探す必要もあった。それだけではない、志乃の記憶を取り戻す方法を七海なら知っているかもしれない。

 兎にも角にも行動しなければ始まらないから、祥平は早速学校に行こうと家を出る。視界に黒髪が踊った。

 恥ずかしそうに視線を外した月が、部屋の前に立っていた。

「ごめんなさい、待ち伏せみたいな真似して。でも、会いたかったから」

 失った青春が急速に戻ってきたみたいに、顔に火がついたように熱くなった。本当なら、月は祥平の下に来るべきではない。彼の目は月ではなく志乃へと向いているのだから、少なくともいま、月の恋は成就しない。それなのにここに来たのは、昨日の言葉を本当に実践しようとしているからだろう。

 冬川月は、祥平の傍で支えようとしてくれているのだ。

 泣きたくなるほど間違った献身だ。月を幸せにする要素などどこにもない、荒れ野のような道を彼女は歩もうとしている。男などどこにでもいるはずなのに、それでも祥平に尽くそうとしてくれる彼女は眩しかった。きっと、深い部分ではもう彼女に惚れているのだと確信していた。でもそれが言えないのは、彼にとって不実だからだ。

「やめるなら、たぶんいまだと思うぞ」

 女の貌をした月が祥平を見上げる。彼女は間違っていないというように、美しく、微笑んでいた。

「言ったでしょう。私はあなたの傍にいるって」

「参ったな、志乃より頑固な女は見たことない」

「図々しくなるって決めたの。だから隙を見せないことね。いつだって私はあなたを狙ってるから、隙なんか見せたら惚れさせるわよ」

「冬川は俺にはもったいないくらい良い女だよ」

 いまはそれだけで満足してあげる。そう言った月は、祥平の手を取って歩き出す。彼女の手の平は柔らかくて暖かくて、やってはいけないはずなのに、彼もまた彼女の手を握り返す。誠実さを不実で返すこの繋がりは、世間一般では最悪の関係と呼ばれるものだ。でも、彼女の想いが嬉しくて、少しだけこうしていたいと思う。

 学校に着くまで、ふたりの間で交わされた会話はまばらだった。祥平も、たぶん月も距離を測りあぐねていたのだ。生徒が増え始める道に差し掛かったあたりで離した手には、未だ根強く彼女の体温が残っていた。その想いを忘れず刻むように強く握り締めた。

 ふたりで教室に入って志乃を探すも、彼女の姿はまだなかった。代わりに目が合った渉が、声には出さずに口だけで笑みを返した。今回のことで渉にも随分と迷惑をかけたが、あえて声はかけなかった。幼馴染は助け合うのが当たり前だからだ。

 チャイムの鐘が鳴る直前になって、息を切らせた志乃が教室に入ってくる。腰が浮きかけると同時に教室前方の扉が開き、担任が入ってきた。すぐにでも志乃に話しかけたい欲求を何とか抑えて、祥平は腰を落とした。自然と視線が向いた先で、病人のように顔を青白くした志乃が慌てて席に着いていた。

 不安になった。

 以前、志乃が身体の調子が悪いと言っていたことを思い出した。まだ体調が直っていないのだろう、振り子のように頭をふらふらとさせている志乃は、いまにも倒れそうだった。

 苛立つほど長いホームルームが終わり、祥平は席を蹴るようにして立ち上がる。話すより前に、志乃の身体が心配だった。

 だが、それより早く志乃が席を立つと、あっけにとられる速さで祥平の前を通り過ぎ、渉の傍に立ち、見下ろした。彼女の相貌に嵌めこまれた瞳は、冬の空よりも冷たい色をしていた。表情はなく、まるで能面を貼り付けたようだ。

「渉、話があるの。来て」

「は? ていうか志乃、お前大丈夫か? 顔色が悪すぎ――」

「いいから!」

 志乃が苛立ったように言葉を重ねる。太股の両脇に置かれた小さな手が、ぎゅっと握られた。

「黙ってついてきて」

 開いた手の平で渉の腕を掴むと、脇目も振らずに志乃が教室を出て行く。

 声を掛ける間もなかった祥平は、席を蹴飛ばした不恰好な姿勢で固まっていた。志乃があんな風に声を荒げるところを見たことがなかった。

「志乃、どうしたんだろ。昨日電話で話したときはいつもの志乃だったのに」

 傍に寄ってきた月が祥平を見上げる。祥平は答えるべき言葉が見つからず、左右に首を振った。

 分からない。

 祥平は昨日、己に打ち立てた“献身”が過ちだとようやく気づいた。志乃のためだと遠ざけて過ごしてきた毎日が間違っていたから、今すぐにすべてを打ち明け、生きるための方策を練らなければならない。行動の指針を百八十度転換した以上、もはや形振り構ってはいられなかった。

 このポンコツの頭は、無駄に考えても良い答えなど導いたことがないのだ。

「冬川、一限目は……いや、最悪今日は休む。担任に言っておいてくれるか?」

「分かったわ。志乃をお願い」

 礼もそこそこに祥平は教室を出る。廊下を見渡してもふたりの姿はどこにも見えない。もう既にどこかに行ってしまったのだ。

 焦燥で心臓が焦げ付きそうなほどに早鐘を打つ。

 目の前で志乃が倒れる幻影が浮かび、あり得ないと、祥平は頭を振った。行き場所など分からないのだから、手当たり次第に校内を探すしかない。

 廊下を強く蹴って走る。校舎内の特別教室や空き教室を探す。

 あの日、紗枝倉家が離婚したあの日から、祥平はいつも迷い人のように宛てもなく探し続けている。志乃の心の闇を晴らす方法を探し、今もそれを求めている。

 あれからもう五年ばかり経つ。様々な経験と痛みを越えて、ようやく自分なりの答えを見つけ出したのに、今度は志乃がいなくなってしまいそうだ。

 校舎内をあちこち見渡しても、ふたりの姿が見つからない。

 視界の端に金が見えた。窓の外、隣接校舎の屋上のフェンス傍に、渉の姿があった。正面には薄っすらと栗色が見えた。

 志乃だ。

 すぐさま進路を変更し、渡り廊下を駆け抜ける。すぐ傍に伸びる階段を上がって、屋上の扉にへばりついた。

 さすがに体力が限界だった。精神的に回復したといっても、寿命はもうすぐそこまで迫っている。身体が死に掴まれているのだ。

 荒れる息を飲み下し、扉を開こうとノブを掴んだところで、渉の怒声が飛び込んできた。

「一体どういうつもりだ! ふざけんなよ! もういいだろ!」

「なに? 今さら怖気づいた? 困るな、こんな土壇場で尻込みされるのは」

「そういうことを言ってるんじゃねえよ。大体、前にも言っただろうが! 湊を巻き込むな! 大体なんだ、あ? 湊と付き合ってるだあ? んなことよく言えたもんだな!」

 渉の凄まじい怒りが、扉を通して祥平に伝わる。話している内容は一貫して分からない。だが、幼馴染のふたりが口論している様を放っておけるわけがない。

 意を決して祥平が屋上に入る。

 言い合っていたふたりが、侵入者に視線を浴びせた。渉の表情が崩れる。志乃は、教室に入ってきたときと同じ能面顔をしていたが、急に表情が柔和になる。百面相を見ているような気になって、志乃がおぞましく思えた。

「ああ、朝倉くん。おはよう。ごめんね、朝はろくに挨拶もできなくて。そうそう、月から聞いたよ。元気になったんだってね。よかった。昨日は急に休んで心配したんだからね。やっぱり季節の変わり目は体調崩しやすいよね。実は私もちょっと風邪気味なの」

 志乃が聞いてもいないことをべらべらと話し出す。渉は志乃の豹変振りと祥平の登場に焦っているのか、視線がふたりの顔を行ったり来たりしている。

「悪かったな、心配かけたみたいで。この通りいまはピンピンしてる。それより、お前らこんなところでどうした? 言い争うような声が聞こえた気がしたが……」

 ああ、と志乃が胸の前で手の平を合わせる。

「渉が宿題見せてくれってうるさくて。ちゃんと自分でやらないと駄目って叱ってたの。朝倉くんからも何とかいってくれないかな? このままだと、ちゃんと卒業できるか怪しいんだもん」

 白々しいほどの嘘だ。たぶん、志乃は祥平がある程度聞いていたことに気づいている。だから“詮索するな”と暗に言っているのだ。

 こくん、と祥平は喉を鳴らす。この手の駆け引きで志乃に勝てる気はしない。この場は志乃の嘘に付き合うことにした。

「了解、わかったよ。渉には俺から言っておくから喧嘩するな。ほら、教室に戻ろうぜ」

「そうだね。あ、そうだ。私、しばらく家庭の事情で休むから、もう帰るね」

 祥平は抜けた声を出す。

「は?」

 志乃が微笑む。

「家庭の事情。まえ話したよね。お父さんと暮らすって。その準備だよ。だから先行ってるね、バイバイ」

 軽く手を振った志乃が駆け出す。その後姿に追い縋ろうとして、祥平は渉に腕を掴まれた。振り払おうとするも、手跡がつくほどの力で握り締められて離れない。祥平は顔をしかめる。

「なんだよ。俺は志乃に話があるんだ、腕を放せ!」

「まあ、待てって」

「ああ? 話があるなら後に……渉?」

 祥平の声が詰まる。目を伏せた渉の顔面が、教室で見た志乃よりも病的な青で染まっていたのだ。

「どうした? 具合悪いのか? そういうことは先に言えよ。保健室行くか?」

 掴まれたまま祥平は渉の額に手を当てる。熱はなかった。顔色を覗こうと前かがみになろうとして、額に添えた手を払われる。

「なんだよ。悩みごとか? あるならさっさと話しちまえよ。遠慮する仲でもないだろ」

「タイムカプセル――」

 風に消え行く声で渉が言う。

「なに? タイムカプセル?」

「タイムカプセルに、何を埋めた?」

「はあ? いきなり何言って……」

「タイムカプセルに何を埋めたんだよ!」

 死神に取り憑かれたような顔で、渉が大喝した。

 中学二年の春のことだ。祥平は、いつものように志乃を連れまわして、“楽しい思い出”を作ることに奔走していた。タイムカプセルも思いつきのひとつだった。二十歳になったら開こうと決めて、志乃とふたりで祥平はタイムカプセルを埋めたのだ。

「何って、別に大したもんじゃないよ」

「志乃は何を埋めた?」

「知るわけないだろ。中身を見ないで埋めたんだから。二十歳になって開こうって決めたんだから、そのときにならないと分からねえよ」

 そうか、と言った渉が腕を放すと、ふらふらと出入り口に向かう。その足取りが殆ど病的だったから、祥平が慌てて渉の隣を歩く。

「おい、大丈夫か? それにいきなりなんでそんなこと聞くんだよ」

「例えば、だ。例えば、志乃がそいつを掘り起こすとしたら、何の意味がある?」

「それは……あいつが記憶を取り戻した何よりの証拠だ。それ以外は、分からない」

「そうか……」

 扉を潜った渉が、一足で階段を飛び降りる。踊り場に着地した渉が祥平を見上げた。その顔は、さっきまでの暗さが嘘のような、いつもの明るい渉に戻っていた。

「おう、祥平。今日は冬川と一緒にいろや。お前、惚れてんだろ?」

「あ? はあ?」

 にんまりと笑った渉が、ひらひらと軽薄に手を振る。

「照れるな照れるな。バックアップは任せとけ。なに、そう悪いことにはならんさ」

「ちょ、は、ああ?」

 まったくもって発言の意味の分からない祥平に、渉はふざけた敬礼を向けた。

「と、いうわけで、我らが親友冬川月姫をお頼み申す。なんてな。じゃな!」

 渉が階段を下りていく。意味の掴めない言葉が、祥平の頭の中をぐるぐると回る。

 その後、二限目開始間際になって飛び込んだ教室には、志乃と渉の姿はなかった。

 想像もしていなかった闇に背中から掴まれたようだ。混乱する頭を抑えてやり過ごしていると、時間はあっという間に流れて放課後になった。

「大丈夫?」

 ホームルームを終えてすぐにやって来た月の開口一番がそれだ。祥平は思わず笑ってしまった。

「まあ、なんとかなるさ」

 楽天的になろうと決めていた。考えすぎても、祥平の頭はポンコツだから名案など浮かばない。なんとかなると高を括って日々をやりくりするしかないのだから、これくらいで落ち込む訳にはいかなかった。

「そう、なら私は部活へ行くけど……」

 言葉を途中で止めた月が、鞄を持った両手をもじもじと動かして俯いていた。彼女は考えが行動に出るから分かりやすかった。

「期待するなよ。でもまあ、そうだな。今日くらい待ってるよ。帰りにどこか寄ってくか」

 月の表情が花でも咲いたようにぱあっと明るくなる。

「約束よ。途中で帰ったりしたら恨むわよ」

「はいはい。分かったから行ってこい」

 教室を出る寸前に、念を押すように振り返った月が、鼻歌でも歌うように身体を揺らしながら廊下を走る。

 教科書を放り込んだ鞄を背負って祥平も図書館へ向かう。取りとめもないことを考えながら本を読んでいると、外は幕を下ろしたように真っ暗になっていた。本を棚に戻して合唱部が活動する教室へ行き、月と合流する。彼女は見ている祥平が楽しくなるほど嬉しそうだった。

 だから、突然鳴り出した携帯電話は、ふたりを奈落へと突き落とすように呪い染みていた。

「祥平、まだ学校にいるなら悪いけどノート取ってきてくれないか。忘れちまってさ」

 朝、散々意味不明な言葉を浴びせた渉だった。

「いいけど、どのノートだ。どうせお前ぜんぶ学校に置きっ放しだろ」

「あー……、数学」

 掠れた声で渉が言った。

「数学だな。分かった、あとで届けるよ」

「悪いな、頼む」

 通話状態が切れた携帯電話を仕舞って、隣を歩く月を見る。彼女はくすくすと笑っていた。

「って訳で、一度教室に戻る。昇降口で待っててくれ」

「気にしないで、私も行くわ」

「そうか。じゃあ手早く済ませるか」

 来た道を戻って教室へ続く廊下を歩く。リノリウムの床を鳴らす靴底が、いますぐにでも引き返せと言うように不気味に響く。

 どうしてか、嫌な予感がした。

 あのとき。そう、あのときも数学だった。

 ストーカーの手紙を鞄の中に見つけた月が保健室で寝ていた日のことだ。確か、顔を見に来た志乃が保健室で月に数学の宿題がどうのと言って――

 奇妙な思考に没頭する内、教室の前まで来てしまっていた。扉を空けようともせずに立ち尽くす祥平を尻目に、月が手を伸ばしてそれを開く。

 そして、

 パンドラの箱が開いた。

「嗚呼、バレちゃった」

 扉を開けると、教室の中にはいるはずのない“黒髪姿の志乃”がいた。手には彼女には似つかわしくないカッターナイフが握られていた。そして、反対の手にはカッターナイフによってずたずたに引き裂かれた、月の、そう、月のノートがあった。

 志乃が月のノートを机の上に放り投げる。

 ――紅色の弁当箱の上に黒い髪が一本乗っかっていた。栗色の髪をした志乃のものではなかった。

 志乃がうっとりと蕩けたように笑みを浮かべる。まるで、悪魔に魅入られたような凄絶な笑みだ。

 ――彼女の髪から微かにゴムの香りがした。

 栗色ではない黒髪を、志乃が掴んで頭から引き剥がす。

 ――あの子の下駄箱の前で、女子生徒が周囲を気にしながら立っていたらしいよ。何か手紙みたいなのを持ってたって。

 志乃が頭から取ったそれは、

 ――髪は染めてなくて、セミロングだったかな。

 紛れもなく、黒髪のウィッグだった。

 すべては雄弁に志乃を犯人だと言っていた。月を追い詰めたふたつの元凶が、よりにもよって月を救って欲しいと頼んだ志乃だった。悪夢よりなお性質の悪い地獄の光景だった。

 隣に立つ月が鞄を落とした。

「どうして、なんで……志乃、嘘よね。何かの間違いよね」

 弦を震わせたような声で縋る月を、志乃がぞっとするような笑みで返す。

「うん、そうだよ。私は月が大っ嫌いなの」

 喉の奥で悲鳴を上げたように、月が声を漏らした。

「嫌いで嫌いで、本当に鬱陶しくて堪らないから、ずっとずーっとこうしてやってきたんだよ。途中、面倒になってやめちゃったけどね。あはっ。その顔いいね」

 こうも当たり前のように憎しみを言葉にする志乃が信じられなかった。彼女は誰よりも人の心を読み、誰よりも優しく、暖かかったはずだった。それが、いまや見る影もない。悪魔と呼んでも間違いないと思ってしまうほど、彼女の笑みはにたにたと気味悪く、月を嗜虐することを至上だというようだった。

 どこで間違ってしまったのだろう。

 もはや泣き崩れる寸前の月を庇って、彼女の代わりに祥平が志乃と対峙する。

「手紙もお前か」

「そうだね、それがなに?」

 祥平の顔を見ようともせず、志乃はカッターナイフを手の中で弄んでいた。それが彼の怒りを振り切らせた。

「なに、じゃねえだろ。なんでこんなことしてんだよ!」

「あのさあ、さっきも言ったよね。物分りが悪い人は嫌いだなあ」

 自分の頭を指先でこつこつと叩いて、皮肉染みた口調で志乃が言う。

 この女は一体だれだ? 俺が知っている志乃は一体どこへ行った?

 それとも――これが本当の志乃なのか?

 これが、命を賭して助けようとした志乃の本当の姿なのか……?

「それじゃあね、ふたりとも。できればもう会いたくないから、私の前に二度と現われないでね」

 カッターナイフの刃を仕舞った志乃が、鼻で笑いながらふたりに告げ、教室を出ようとして止まる。

「ああそうそう、月。本当に大っ嫌いだったよ。殺したいほどね」 

 背筋を凍りつかせる怨嗟を吐いて、志乃はその場から走り去る。祥平は動けない。すべてが終わった教室の中で、泣き出した月の嗚咽が世界が壊れる音のように響く。

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