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第四章/光を失うとき 2

 指から滑り落ちた白磁色の皿が、刺すような鋭利な音を立てて砕け散った。一瞬何が起きたのか分からなかった月は、駆けて来た同僚に心配そうな声を掛けられた。

「月、どうした? これで三度目じゃん」

「え、あ……!」

 我に帰った月は足元に散らばった破片を集めようとして、今度は指先に鈍い痛みが走る。破片で指を切ったのだ。今日四度目の痴態に何もできなくなったように項垂れる。

 あれから月は、下校する足でアルバイト先に来た。いつも通りに勤務をすれば心も晴れるだろうと思っていたのにこのザマだ。どうやっても鎮められない憤りと失意で、心が占められてしまっている。晴れない霧の中を歩いている気分だった。

「あ~あ~、何やってんの。ちょっと見せてみ?」

 同僚に血に濡れた指を攫われる。手際良く治療する同僚の姿を呆然と眺めながら、何をやっているんだろうと自問自答をして情けなくなった。

「ホントに今日はどうしたん? いつもの月らしくないじゃん。なんかあった?」

「なんでもないわ。少し寝不足なだけだから」

 同僚の気遣いに首を振って応え、さっきは思い付きもしなかった清掃道具を取りにロッカーへ向かう。ちりとりと箒を持って戻ると、いつも気怠げそうな同僚が持ち場に戻らずに月を待っていた。

「彼氏と喧嘩でもした?」

 彼氏だったらどんなに良かっただろう。

「違うわよ」

 ため息のまま月は返す。

「ふ~ん、まあ色々あるって。人生色々~」

 得意顔で月の肩を叩いた同僚は、制服の裾をひらひらと揺らしながら持ち場へと戻っていった。

 ひとり取り残された月は、再びため息をついて、割った皿の破片集めを開始する。箒で掃く度に自分の内側にドロドロとした感情が沈殿していくような気がして、頭を掻き毟りたくなった。いつもは聞いているだけで落ち着くはずの店内に流れるBGMも、いまはイライラを助長させるものでしかなかった。

 かつて、冬川月は朝倉祥平に振られた。それだけでも十分泣きたいのに、放課後に聞いた彼の本心が心を抉ってしまったから、頭がおかしくなりそうなくらい雑多な感情が手の掛かる赤ん坊のように暴れている。

 たっぷり五分間、無駄に時間をかけて破片を集め、月がのろのろと片づけを終えると、店内に来客を告げる鐘の音が鳴った。一瞬周囲を見渡すが、誰の手も空いていなかった。今日何度目になるか分からないため息を喘ぐように吐き出して接客へと向かう。

 営業用の笑顔を無理やり貼り付けて客を見ると、見知った金色が立っていた。快活に笑った渡会渉が、片手を軽く上げて「よお」と月に声を掛けた。

「来たぜ。コーヒーひとつ。ついでに綺麗なお姉さんもつけてくれ」

 相変わらずの渉の軽口を聞くと、疲れていた心が少しだけ元気になるようだ。

 元はといえば、渉の甘言に乗って行ったことが始まりだから、辛く当たってもいいはずだった。それでもそれができないのは、彼が心配の末にやってくれたことだと分かっているからだ。

「ここはいつからキャバクラになったのかしらね」

 一番奥にある席に渉を案内する。ゆったりと席に腰を下ろした彼は、メニューに目も向けなかった。彼は、結構な頻度でこの店に通っている常連なのだ。

「とりあえずカフェオレひとつ」

「さっきコーヒーって言ったじゃない。自分の言葉もろくに覚えていない男は嫌われるわよ?」

 店員の対応らしからぬ月の言葉に渉が苦笑いを返した。

「相変わらずキツイな」

 木造のテーブルに頬杖を付いた渉が「じゃあ、それでよろしく」と言って、月の暴挙を受け止める。

「それじゃあすぐに持ってくるから。少し待ってて」

 厨房に向かおうと踵を返した月の背中を渉が呼び止めた。

「今日のバイトって確かもうすぐ終わるよな。少し時間くれないか?」

 渉の言葉に驚いて左腕に巻いた細身の腕時計に目を落とす。呆けて三枚も皿を割っている間に、シフトの終了時間が間近に迫っていた。とんだ給料泥棒だった。どおりで店内に空きテーブルがあった訳だ。

「いいわよ。あと十分くらいだから」

「悪いな」

 残り時間くらいはしっかり働こうと渉に注文通りのカフェオレを渡し、勤務時間を終えた月は私服に着替えて渉がいるテーブルに向かった。

「おつかれさん。ほら、何か食べるか?」

 同僚が作った評判の良い手書きメニューを渉に差し出されるが、月は首を振ってそれを断った。とても何かを口にするような気が起きなかったのだ。

「いまはいいわ」

「そう言うなよ。今日はここの御代はもってやるからさ」

「あらそう? じゃあメニューの端から端までっていうの一回やってみたかったの。やってもいい?」

 急に表情を綻ばせて嬉々としてメニューを開いた月に対し、渉は引きつった笑みを向けた。

「お前は遠慮って言葉を知らないのか?」

「知らないわ。カルボナーラに海鮮サラダに濃厚コーンスープ、あとうちで一番高いパフェとか頼んじゃっていい?」

 たぶん財布と相談していたのだろう、何やらテーブルの下でもぞもぞとしていた渉は、諦めた表情で顔を上げると、やれやれというように頷いた。

「やったわね。女の子に奢れるわよ?」

「あー嬉しいな。俺にも春が来たぜ。財布は氷河期一直線だけどな」

「あなたの頭、いつも春じゃない」

「お前は俺に恨みでもあるのか? しまいには俺だって泣くぞ!」

 やはり彼をからかうのは楽しかった。祥平が隣にいれば。今よりもっと賑やかになると思った。

 急に鼻の奥がツンとして目頭が熱くなった。何か言おうと思っても、混乱した心が喉に蓋をして声すら出ない。

 どうして私じゃ駄目なのか、どうしていつも志乃ばかり気にしてるのか、どうして私を助けた理由があの子のためなのか。

 どうして。どうして!

 頭では理不尽な怒りだと分かっているのに、好きな人の一番になりたい我儘な部分の暴走を止めることができない。

 あの頃と何も変わっていなかった。我儘で横暴で、世界が自分中心に回っているのだと馬鹿な勘違いをしていた頃と何一つ変わっていない。優しくなろうと決めたはずの決意は、恋を抱いてすぐに何処かに飛んでいったようだ。

 知らなかったのだ。いままで月は恋をしてこなかった。いつも告白を受けては安易に付き合い、飽きたら別れてを繰り返してきた。本物の恋を知らないから、些細な言葉で傷つくことが分からなかった。冬川月がどれだけ悪辣なことをしてきたのか、改めて突きつけられているようだった。

 思考の森に迷い込んだ月に、ふと声がかけられた。顔を上げると、渉が頬杖をついたままテーブルを指差していた。

「先に食べちゃえ。話はあとでいいからさ」

 よく見ると、月がリクエストした料理がテーブルに置かれていた。彼女が自己嫌悪に陥っている間に渉が頼んでおいてくれたのだ。

「ありがと」

 促されるままに月は料理に手を掛ける。こんなときでも料理が美味しいから、自分の状況を見失ってしまいそうだった。

 雑多な感情と共に料理を消化しながら、渉とたわいのない話をした。彼は本当に本題に入らなかった。内容の検討はついていたから、彼の気遣いがありがたかった。

 食事を終えて一段落すると、渉が立ち上がって伝票を取った。

「それじゃ場所変えるか。ここじゃ何かと目に付くし。いいか?」

「ええ、私としても場所を移動してくれた方が助かるわ」

 先ほどから、同僚たちからチラチラと視線を送られてくるのだ。さっきまでの陰鬱な表情から一転して普段の装いに戻っているのだから、勘違いされてもしょうがない。

 レジで会計をするとき、食べた分は払おうと財布を出した月を制して、彼は本当に奢ってくれた。

 店を出ると、十二月の冷気がコートの内側にするりと入り込んでくる。人肌が恋しくなる寂しい寒さに身体が震えた。

 渉の背中に続いてしばらく歩いていると、外見からも閑散とした喫茶店があった。中に入ると図書館で香る古い紙の匂いが鼻孔をついた。渉に続いて最奥部の席に対面で腰掛ける。

 注文を取りに来た初老の男性に飲み物を注文すると「さて」っと深い息を吐いて渉が指を組んだ。

「祥平のことだが、許してやってくれないか?」

 やはり彼のことだった。途端に二人の間の空気が酸素を奪われたように息苦しくなった。

「私は……」

「確かにあいつが冬川を助けたのは志乃に頼まれたからっていう部分が強かったんだろう。だけど、途中からはきっと、あいつは純粋に冬川のために色々してくれたはずだ。だから、すべての好意を過去の動機を理由に足切りにしないでやってくれ」

 彼の真摯な言葉が月の心を貫いた。普段はおちゃらけている彼が、親友のためにわざわざ時間を割いて月の元まで尋ね、こうして説得している。だから彼の言葉は軽くは無かった。しかし、それで納得できるほど彼女は大人に成りきれていなかった。

「でも、だったら私は何なの? 彼のことが好きなのに、彼が私を助けてくれた理由が志乃だなんて、そんなの納得できるわけないでしょう? 私を馬鹿にしすぎよ」

 ヒステリック気味に月が言った。自分でもどうかと思うほど支離滅裂な感情だ。薄皮一枚先にある身勝手な欲望が本格的に表に出てきそうで怖かった。 

「そんなこと言うなよ冬川。あいつだって一生懸命なんだ。俺らの前じゃ格好つけてるけど、あいつもまだ高校生なんだぜ? 迷いもするし足元がおぼつかないことだってあるさ」

「そんなの知らないわよ。一生懸命なら何をやってもいいなんて、免罪符にもならないわよ」

「理由なんて別にいいじゃないか。大事なのは理由じゃなくてやってくれたことだろ?」

 月の態度にも渉は眉ひとつ動かさず、親友のために彼女を優しく諭そうとする。なのに暴れだした感情は留まることを知らないから、まるで自分が聞かん坊にでもなったようだ。

「私は志乃の代わりじゃない。記憶のない志乃に尽くせないから代わりに私に尽くすなんて……私が惨めじゃない」

「出会った当初の話だろ。いまは違うんだ。後ろばっか見てないでいまのあいつを見てやれよ」

 見ていると月は思った。彼女はいつだって朝倉祥平を見ていたのだ。彼がいつも誰を見て誰を気に掛けているのか、手に取るように分かるのだ。

 だから、渉の言葉が月の琴線に触れた。テーブルを叩いて立ち上がり、渉が悪いわけでもないのに怒声を浴びせる。

「いまだって朝倉くんは志乃しか見てないじゃない!」

 頭が怒りで爆発でもしたようにふらついた。

 朝倉祥平の行動のすべては紗枝倉志乃に収束する。月を助けているのも、たまたま志乃の親友だったからに過ぎない。彼は月を通して志乃を見ていたのだ。

 ならば、冬川月は一体何なのだろう。彼に感謝し、彼に憧れ、彼に恋慕の情まで抱いてしまった月は、その実、彼にその姿すらまともに見てもらっていなかったのだ。あまりにも惨めじゃないか。

「冬川、座れ」

 今までの優しい口調から一転、渉が怒りを宿した低い声を出した。だが、爆発した感情のまま反抗心を宿した月は、立ったまま彼を見下ろす。

 渉がいっそ面倒にでもなったように、苦い息を吐き出した。

「お前さ、自意識過剰過ぎやしないか? どこまであいつに期待してるんだよ。あいつが何を考えて誰を想おうが、お前には関係ないだろうが」

「ないわけないでしょ」

「ないだろ」

 月の浅慮を渉は鼻で笑った。

「なあ、聞けよ。今回の件であいつがどれだけ骨を折ったか知ってるか? 志乃のことだけじゃない、俺にも話せないようなことを腹の中に独り抱えたまま、冬川のことを背負ったんだ。それでも十分過ぎるほどなのに、冬川はまだあいつに期待するのか? なあ冬川、お前は助けてもらったんだ。たとえそれが不実な動機だろうと、祥平を責める権利なんてないだろ」

 月には返す言葉が思いつかなかった。祥平に助けられたことは、紛れもない事実なのだ。

 ストーカーの存在に初めて気が付いたとき、恐怖に慄き立っているのも辛いほど身体が震えた。誰に助けを求めればいいのか分からず、かといってこれ以上両親に心配を掛けたくなかった彼女は、ひとりで耐えるしかなかった。だから彼の存在は、彼女にとって青天の霹靂だった。何よりも勝る心強い力を手に入れたような気がして胸が高鳴った。

 目じりに涙が溜まって渉の姿が歪んで見えた。嗚咽しそうになって口元を押さえる。それでもくぐもった泣き声が漏れる。

 祥平と出会い過ごした時間思い出して、月は、本当は彼が誰を見ていたのかそれほど気にしていなかったことに気づいてしまった。

「だって、志乃は記憶がないんでしょ。想ったって応えてくれないならしょうがないじゃない。だったら、私でいいじゃない」

 これが本心だった。

 祥平がいくら志乃を想おうと、彼女には記憶がない。ならば、いま隣にいる自分を見てほしい想ってほしい。だけど彼が一向に見てくれる素振りを見せないから、やり場のない不満が心の奥底に溜まり、淀んでいった。放課後の彼の言葉など、それを舞い上げるきっかけに過ぎなかった。

 結局この感情は、欲しいおもちゃを買ってくれない親に向ける、子どものそれに等しい矮小な怒りだった。

 思わず笑いたくなるほど冬川月は昔から変わっていない。成長したと思い込んで歩いてきた道は、その実、過去の自分へと戻る逆走の道だった。

 とめどなく溢れる涙が憎かった。泣く権利など月は持ってはいないのだ。なのに、涙が止まらないどころか泣き言までも口から零れ落ちる。

「私は、あれからひとつも成長してない。なりたかった私に、ぜんぜん近づいてないじゃない」

 自分のあまりの情けなさに呆然とした。剥き出しの感情が炎のように全身を炙っているのか、身体中が熱かった。

 月の熱を受け止めるように、渉が細く息を吸った。

「誰にだって目標はあるけど、なにもかも上手くいってる奴なんていないさ。だけど目標があるから、なりたい自分になろうと必死になる」

 冗談しか話さないはずの渉の口が、今日だけは重く響く言葉を紡ぐ。

 暗い色を瞳に宿して渉が目を伏せる。掠れた息を漏らして、一拍、視線を上げると感情の篭った眼差しになっていた。

「人ってやつは、どこまでいっても結局は屑だ。人を傷つけて痛めつけて、そしてまた自分も傷ついて――そんなことの繰り返しだ。でもさ、そうやって周りと自分を傷だらけにして、人はようやく成長する。自分も周りも綺麗なまま、なりたい自分になろうだなんて、そんなのは無理だ」

「でも、私はまた間違えて――」

「間違えたっていいだろ」

 この期に及んでまだ立ち止まろうとする月の背を、渉は力強い言葉で押す。

「失敗したって分かったなら直せばいい。思いのたけをもう一度あいつにぶつけてやれよ。一回くらい断られたからって不貞腐れるな。なりたい自分になれなかったからって俯くな。他人は冬川の後押しはしてやれるけど、冬川の願いまでは叶えてやれない。だから冬川が自分のために動いてやらなきゃ、好きな人も理想の自分も手に入らないぞ」

 中学で犯した間違いを見つめ直したときから、月は我儘になってはいけないと強迫観念に捕らわれてきた。だから彼への淡い想いに気づいたとき、彼女は黙殺しようとした。自分にはそんな権利はない、幸せになどなってはいけない、ただ優しくならなければならないと思い続けてきた。しかし、いつの間にか彼への想いは隠すことができないほどに大きくなってしまったから、欲しいものに飛びついてしまった。そうやって辿り着いた場所は、成長など微塵も感じられない、以前と同じ醜い自分だ。だというのに、渉はそれを肯定したのだ。立ち止まるな、歩けという言葉と共に。

「いいの? 私は、また彼に好きって言ってもいいのかしら」

 彼女にとって、渉の言葉は救いであると共に、己を食いつぶす禁断の果実のように思えた。だから背中を押してほしかった。

 渉が表情を和らげる。泣いているような、複雑な表情だった。

「いいんだよ。祥平に、自分の幸せくらい自分で掴み取ってやるってくらいの気概を見せてやれよ。いまのあいつにはたぶん、一番それが必要なんだ」

 もはや、迷うまでもなかった。祥平のことを考えるだけで胸が熱くなるのなら、手を伸ばすしか方法はなかった。自分を否定するだけでは何も成長しないことが、この一年で分かったのだ。だったら、欲しいもなりたいも、ぜんぶ望んで前に足を踏み出すしかない。


 ◇◆◇


 あの後どうやって家に戻ったのか、祥平には記憶がない。たぶん、感情が完全に擦り切れて消えてしまったから、夢遊病のように街をうろついた末に辿り着いたのだろう。

 家に入った途端、いつものように七海が部屋の中から顔を覗かせた。

「おかえりなさい。……朝倉さん?」

 途中で祥平の様子がおかしいことに気づいたか、七海が彼のすぐ前まで宙を滑ってやって来た。

「どうしたんですか。何かありましたか?」

 氷のような指先が祥平の頬に触れる。それだけでもう泣きそうだった。なのに、もう涙は乾いてしまったから泣くことすらできない。人が壊れたとき、こうなってしまうのだろうか思った。

 七海に寄り添われながら部屋の中に入ると、糸が切れた人形のように祥平はベッドの上に身体を投げ出した。

「朝倉さん、泣いても誰も責めません」

 前世が欲しかった言葉をかけてくれる。

 氷の冷たさが再び頬に落ちた。

 両腕の隙間から見せる青白い燐光が眩しくて目を細める。背後を透かせた、およそ現実味を持たない少女の目じりに、慈愛の表情がよぎる。無様に這いつくばる祥平に、彼女は偽者の光を見せてくれる。

「苦しいときは俯いていいんです。悲しいときは泣いても構いません。そうじゃなきゃ、社会なんて人を腐らせるだけのものです」

 祥平にはいま、彼女の言葉が天から垂らされた糸に思えた。縋った瞬間、志乃を殺し彼の未来を後悔で押し潰す蜘蛛の糸。

 前世が常識を裏切って祥平の腕を包むように掴み、顔から引き剥がす。暗闇の中にぽっかりと浮かぶ彼女の顔が、甘く苦いものに変わる。

「言って欲しい言葉があるのなら教えてください。助けてほしいなら手を伸ばしてください。現実はこんなにも理不尽なのだから、人は一人じゃ生きられません」

 彼が必死になって彼女の声を耳から遮断しようとしても、泣けとばかりに彼女の口からは心地のよい言葉ばかりが流れ落ちる。

 やさしい言葉のはずなのに、責め立てられているようで頭がふらついた。

「今日は私に甘えてください。私に社会の良い所を見せてください、させてください。我慢ばかりして壊れるのは、朝倉さんなんですよ?」

 祥平がいま立っている場所は袋小路だ。何を選んでも結局は、嘔吐したくなるような現実に打ちのめされる他ない。

「なら、頼むから……」

 だから、祥平はその糸に手を伸ばしてしまった。すべてを終わらす破滅の糸であると知っても、彼はそれを選択しなければもう一瞬たりとも堪えられなない。

「七海、俺を……」

 それは、何もかも一切合財を放り捨てる、最悪の選択だ。


 ――殺してくれ。


 七海が微笑んだ。何を冗談をというように頬を緩めて。しかし、祥平の表情を見ると次第に彼女の顔に影が差していき、笑みを崩してわなわなと震えだす。

 七海の顔が、はっきりと壊れた。

「七海、俺は死ぬ」

「分かってます」

 弱々しい声で七海が頷く。

「なあ、俺は死ぬよ」

「ええ、分かってます。分かってますから、そんなことを言わないで下さい」

「覚悟してた。その上で決意してた。死ぬんだって。これしか方法がないって」

「はい、ずっと見ていましたから。あなたの決意も覚悟も、理解しています」

「なのにさ」

「お願いですから、先を言わないで下さい朝倉さん……!」

 ――死にたくない。

 守らなくてはならない祥平の決意が、跡形もなく崩れていた。祥平は今日、ようやく気づいてしまったのだ。彼はもう、自ら死を選ぶことができない。ささやかな日常に触れ続けたことで、彼は幸せに魅入られてしまった。手放すことができないほど強固に握り締めてしまった。

「なあ七海、俺さ、死にたくない。生きたいんだ。もうほんと、救えないよな」

 祥平は、死ぬことが怖くなってしまった。志乃を殺してもいいと思ってしまうほどに。

 だから無理やりにも幕を下ろさなければならない。人生の先に開いた穴を避ける道を選んでしまうほど弱いのなら、誰かに突き通してもらう他方法はない。なら、それができるのはすべてを知る七海だけだった。

「もう死ねないんだ。怖くてたまらない。終わりが見えるのがつらいんだ」

 七海の瞳が一瞬、希望に揺れる。だが、それもすぐに消えた。

「だから頼むよ。七海が俺を殺してくれ。ぜんぶ、ぜんぶ終わらせてくれ」

「ああ……どうして、そんな――!」

「頼むよ。もう無理だ。考えたくない。楽に、させてくれよ」

 搾り出すように七海が言う。

「あの子を救うには、今日では……今日では駄目なんです」

 祥平にとって、それは死刑宣告だ。

「なんでだよ。もう嫌だ。もう疲れた。助けてくれ……」

「朝倉さん……生きて下さい。お願いですから生きてください――!」

「殺してくれ」

「それは、それだけは……」

 祥平は、ただひとり絶望を内に仕舞って咆哮する。

 死にたくないから殺されなければならない。無茶苦茶な思考の中で見つかった唯一の希望が眼前で踏みにじられたことが、あまりにも堪えがたかった。

 小さい頃、祥平は志乃を救ってやりたかった。でも幼い彼には彼女を救うだけの力がなかったから、いもしない神に祈って裏切られた。だから彼は、自分が彼女を救うことのできるヒーローのようなものになろうと思った。

 そしていま、祥平は自分の死を前に恐怖している。幼い頃になりたかった自分は、きっともう、手が届かない遠い場所に消えてしまった。

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