第四章/光を失うとき 1
この世に未練はいらなかった。朝倉祥平は弱い男だから、希望に繋がるものをひとつでも持っていれば、志乃へ捧げる“献身”が壊れることを知っていた。
だからいまより約二ヶ月前、引越しを間近に控えたその日、祥平は残り僅かとなった未練のひとつを消すことに決めていた。
祥平の家は、首都圏にある住宅街の一角に構えている。父親が高給取りということもあってか、一戸建ての家は都会にしては広かった。道路に面した庭には、性格的には絶対に似合わないガーデニングが趣味という母親が植えた植物が、秋の色彩を輝かせている。
その庭に面した縁側に、祥平はだらしなく横になっていた。都会の空気で濁って見える夕暮れには、霞のような雲がいくつも浮かんでいた。
「おい、祥平。アンタそんなところで何やってんのさ。明日引越しだろ? 最後の準備は済んだのかい?」
女性らしからぬ乱暴な口調で言ったのは、祥平の母親だった。男性に近い長身の彼女が片目を鋭利に細め、腰に手を当てた格好で祥平を見ていた。彼女は若い頃には“かなりのやんちゃ”をしていたようで、未だその頃の名残が態度や声といった節々に現れるのだ。
「ああ、もう済んだよ。大丈夫」
気のない返事を返す祥平に、母親が熊も射殺すような殆ど暴力同然の眼光を注ぐ。怒っているわけではない。心配しているのだ。かれこれ十数年共に暮らしてきて、彼は母親が何を考えているのかある程度は分かるようになっていた。
そのまま声に出せば震えると分かっているから、祥平は小さく息を吐いた。祥平が言葉にする前に、母親が先に口を開いた。
「アンタが決めたことだ、今さらやいのやいのと言うつもりはないよ」
「そっか」
「まあ、たまには電話はしてきな。私みたいに、とはさすがに言えないけど、ある程度のやんちゃしても後始末はしてやる。自由にやってきな」
「ああ、ありがとう」
簡潔な感謝の言葉に、母親が面食らったように目を開いた。いや、もしくは子どもの感情に聡い彼女は、祥平の心に渦巻く決意の片鱗を見つけてしまったのかもしれない。
「……やっぱり、しいちゃんに会いにいくのかい?」
今度は祥平が驚く番だった。だが、表情は変えなかった。それでも、彼女はそれだけで悟ったように一度瞑目した。
「あのときは、悪かったね。あんた達を引き裂くような真似をして」
「……しょうがないだろ。親父の転勤に付き合わないわけにはいかない」
「アンタ、あのときもそう言ってたよね。それは子どもの台詞じゃないよ。それに、今さら、本当に今さらだけどさ。アンタ、まるで何かから逃げたいみたいだったよ。だから、っていうのもあるんだけどね」
一度息を吐いた母親が表情を隠すように天井を仰ぎ、目頭に指を添えた。
「しいちゃん、いま元気かい?」
「渉はそう言ってた」
顔を戻した母親が笑う。
「わっくんか。あの子は毎日が楽しそうだったね。あの子には手を焼かされたよ」
「そうだったか?」
母親が笑みを消し、それた話題を戻す。
「ごめんな、祥平。しいちゃんのこと、何もできずに」
祥平の顔面が引きつった。母親は、志乃の家庭のことを言っていた。
「児童相談所には、わっくんのお母さんとそりゃあ何度も怒鳴り込みに行ったもんだよ。だけど取り合ってくれなくてね。だからあの子の家にも行ったんだけど、そもそも会ってもくれなかった」
母親が回想していく。己の罪を吐き出すことが懺悔だというように。
「実はね、しいちゃんにも何度か話したことがあったんだよ。でもね、あの子こう言うんだよ。“お母さんは悪くない。お母さんのことを悪く言わないで”ってね。あの子の中では、母親ではなく自分が悪者なんだよ」
志乃は母親が好きだった。だから己を無視する母親を決して悪く言わず、自分が悪いんだと言っていた。志乃に悪いところなどひとつも無いのにも関わらずだ。彼女は自罰的で、しかし、それが彼女が生きていく上で何よりも強い心の支えだった。あまりにも悲しい生の土壌だった。
だから救いたかった。
だが、子どもの弱い手では救えなかった。そしていま、母親が、子どもにできないことができる“強い大人”が、それでも志乃を助けることができなかったと吐露している。いまのお前でも救えないと言われているような気がして、頭がどうにかなりそうだった。
「お袋。悪い、もうやめてくれ」
「やっぱり、アンタまだ……」
「お願いだ。その話はやめてくれ」
ごめんね。一言だけ残して、母親は部屋から出て行った。縁側の上で祥平は頭を抱える。
無理だと思うと、いままで必死に作ってきた道が崩れる思いがした。いま祥平が辛うじて正気を保っていられるのは、思い出に浮かぶ志乃の笑顔を見続けているからだ。それがいずれ壊れると心の底から信じてしまえば、その糸はたちどころに切れてしまう。
「なあ、志乃」
部屋には誰もいない。縁側から望める庭は、ただ黄昏に影を伸ばすだけだ。それが、祥平の口を軽くした。
「やっぱり俺、お前がいないとだめだよ。もう気が狂いそうで、壊れそうで堪らないんだ」
縁側に額を押し付ける。涙は出ない。一生分の涙をひとり隠れて流し枯らしてしまったから、目の奥が熱くなるだけだ。
「会いたい。会いたいんだ。ひと目でいいから、お前の顔が見たいんだ」
そうして、いくばかりかの嘆きを口にしている内に、外はもう幕を下ろしたように真っ暗になっていた。
時計を見る。時刻は十八時を回ろうとしているところだ。
限りある時間は、もう殆ど残ってはいなかった。立ち上がった祥平はその足で二階にある自室へ戻ると、勉強机にある鍵付きの引き出しを開いた。中には、今日発着の新幹線のチケットがぽつりと置かれていた。
明日まで待つつもりはなかった。
今日、両親の記憶から“朝倉祥平のすべて”を消す。
祥平にとって、両親は逃げ道だ。三年前、志乃の記憶が消したことが怖くて、幼馴染がいなくなってしまったことが悲しくて、死にゆく運命が恐ろしくて、父親の転勤という言葉へ安易に飛びついた。そこから、後悔の三年間が始まった。
だからもういいのだ。
志乃と同じように天涯孤独に身を落とすことで、幼馴染を救う献身をより強固にできるのなら、悪いことではきっとない。
一階から玄関の開閉音が聞こえた。普段は残業で遅い父親も、今日ばかりは仕事を切り上げて帰ってきたのだ。「祥平はどこだ」と父親の声がする。
心臓が嫌な音をたてた。
急に嫌になった。あの日。三年前のあの日。記憶を消された志乃に言われた一言を思い出してしまった。
爪が皮膚に食い込むほど強く、拳を握る。頭が痛くなるまで奥歯を強く噛んだ。
「思い出すな。忘れろ。やるって決めたんだろ」
握った手を解いて見下ろす。
もはやこの両手は希望を掴む為でなく、志乃を救うためだけに存在する。それが朝倉祥平の在り方だ。引き返す道など当に失っているから、すべてをかなぐり捨てて前へ進むしかない。
そう決めたのだ。
「祥平、夕御飯だよ。降りてきな」
階下で母親が呼ぶ。
ボロを出さないように一度大きく深呼吸して、祥平は一階に降りた。リビングに入ると、テーブルの上に夕食が用意されていた。両親は既に席について祥平を待っている。
「おう、祥平との飯もこれでしばらくお預けか。さみしいもんだなあ」
対面に座る祥平を眺めて父親がしみじみと言った。その隣で母親が、「なにバカなこと言ってんのさ。いい加減子離れする頃だろうに。情けない」と父親をなじった。父親が威厳の欠片も見えなくなるほど縮こまっていた。母親が絶対的な権力を握っている朝倉家では、男共は彼女に頭が上がらないのだ。
祥平は笑った。もうこんな風に家族団欒をすることはない。だから熱いものが胸を突き上げて泣きそうだ。必死に堪えて笑うしかなかった。
「いいからさっさと食べるよ。折角作った料理が冷めちまう」
母親の言葉を合図に食事を始める。最後の夕食は美味かった。きっと死ぬまで忘れない味だ。ゆっくりと味わい、時間をかけて食事を終える。食後のお茶をすすっていると、祥平の顔をじっくりと眺めていた母親が滑るように切り出した。
「祥平。ひとつだけ言わせてくれないかい?」
母親が湯呑みを置く。真っ直ぐに祥平を見つめた彼女が、目尻を優しく下げた。
「祥平、それだけはやめな。あんた、壊れちまうよ」
湯呑みを持つ手が震えた。驚いて母親を見ると、彼女は仕方が無いとでも言うように笑っていた。
「バレてないと思ったかい? ははっ、母親を舐めるな。それと、アンタの髪が真っ白になってるなんてバレバレだよ。あれで隠し通せたつもりだったのかい? 我が息子ながら笑っちまうよ」
父親は何も言わず湯呑みを傾けている。母親が笑みを柔らかくした。
「なあ、ひとりで一体何抱えてんだい? 言っちまいなよ。聞いてやるからさ」
「何もないさ」
「無いわけないだろ。アンタが転校したいなんて言ったときは驚いたよ。たいして我儘言わないアンタが無理言ったんだ。理由が無いわけないだろ」
「あそこに戻りたかったんだよ。それだけだ」
「本当にそれだけかい?」
「それだけだよ」
「アンタの悪い癖だね。何もかも抱えちまう。一体誰に似たんだかね」
母親が困ったように父親を見る。父親は黙ってお茶を啜るだけだ。母親が首を振る。
「アンタ、記憶を消せるね?」
驚愕した。本当に、どこまで見抜かれているのだと思った。母親は分かっているのだ。祥平が両親の記憶を消そうとしていることに。
「だから、母親を舐めるな。まあ、殆ど勘みたいなものだけどね。その様子じゃ当たってたわけだ」
気楽な口調で母親が言う。だが、その言葉の中にある真剣さは間違いようがなかった。それは暗闇の真っ只中にひとり佇む祥平の鼻にまで匂う、我が子を想う母親の愛だ。
「こうなると母親としてはね、はいそうですかとアンタを行かせるわけにはいかないんだよ」
「なに言ってんだよ。まるでファンタジーだな」
「全くさ。さすがの私もびっくら仰天だ。だから祥平、やめちまいな。アンタが行きたいと言うなら止めない。だけどアンタが“ひとり”になるのは駄目だ。抱えてるもん全部置いていきな」
笑みが零れた。まさか、母親に見抜かれるなど思っていなかった。このまま会話が続けばなし崩しになると思った。
「お袋。もう遅いよ。俺は志乃を助けに行く」
「やっぱり、しいちゃんか。アンタ、昔からあの子が大好きだったね」
「ああ、だからこれは、俺しかできないんだ」
祥平は立ち上がる。母親が真剣な眼差しで祥平を見上げる。視線は射抜くように力強く、だがそれでいて包み込むような優しさがあった。母親を見ているだけで決意が鈍りそうだったから、一度目を閉じて視線を逸らした。テーブルを横切り、母親の隣に立つ。
「何がアンタをそこまでさせるんだい?」
母親の声は何かを堪えるように掠れていた。
何事もなく、普段の装いで幕を閉じようと思っていた。だから母親のその声は、祥平の心に一筋の亀裂を走らせた。
心が折れそうなとき、祥平はいつも志乃を思い出す。三年を経ても変わらず心に在り続ける彼女は、いつも春のように微笑んでいる。それを見ると朝倉祥平はかく在るべきだと言われているような気分になった。
もう、始めよう。そう思った。
「さあな、忘れたよ」
母親の肩に手を置く。母親の身体が、ぴくんと震えた。
「浪江、もういいだろう」
記憶を消そうとしたその瞬間、沈黙を守っていた父親がようやく口を開いた。口を出すなというように母親が父親を睨む。それを見た父親は、やれやれと大仰に肩をすくめた。
「こいつももういい歳だ。好きにやらせよう」
「……アンタ、自分が何言ってるか分かってるのかい?」
母親が恫喝と変わらないドスの利いた声で言う。いつもはここで謝罪のひとつもする父親だったが、今日は違った。
「俺はお前と違ってこいつをそこまで長い時間見ていないから、分かっているなどと滅多なことは言えんよ」
「だったら黙ってな。家庭のことは私に任せてアンタは茶でも啜ってろ」
「そうはいかん。こいつが男になろうとするところを母親が邪魔してるんだ。ここで父親が口を差し込まないでいつ出張る?」
「なに格好つけてんだい。もういいから黙って――」
反論する母親の口を父親が片手で塞ぐ。睨む母親の視線を受け流して、父親が祥平をじっと見た。
「行って来い。男なら惚れた女を守れ」
そんな大層なものではなかった。このときも、そしていまも、祥平は変わらず“過ちの献身”を持ち続けている。
「だけど、戻って来いよ。必ず」
母親の声を遮る父親の手に、祥平は自分の手を乗せる。後悔ばかりが立ち並ぶ過去に、またひとつ大きな後悔の帆を立てることになると思うと、胸郭が破裂しそうに痛かった。
祥平はゆっくりと首を振る。
「親父。それは、無理な相談だよ」
三年ぶりに、祥平は再び罪を犯す。両親の記憶から“朝倉祥平”の存在を消す。それは、誰しも持っている“帰ることのできる居場所”を手ずから打ち壊す、最低の所業だ。
母親が父親の手をはがして祥平を上目に見上げる。その瞳は今まで見たことの無いほど潤んでいた。
「悪いな、お袋」
「祥平!」
母親の声は震えるようだった。そして、大喝した。
「ふざけるな! “自己犠牲”が尊いなんてただの幻想だ! 自分の未来を踏みにじってまで得られる男の勲章なんて捨てちまえ!」
自ら作った箱庭を壊されそうだったから、孤独と絶望に抱かれた真っ暗な道を前にした旅人のように、祥平は儚く笑った。
「いままでありがとう」
世界の糸が切れた。
まるで劇の幕が下ろされたように、意識を消した両親がテーブルに頭を落とした。ごとりと、空の湯飲みが倒れてテーブルの上を転がる。
たぶんこのとき、祥平は人が持つ“大切なもの”の半分を失った。そしてすべてを捨て、何よりも強い“持たざる者”になった……はずだった。
◇◆◇
運命を二週間後に控えた祥平は、気が狂いそうな心を抑え付けることに必死だった。一分一秒が犯しがたい高貴なものに思え、何かを残そうと心は必死になるのにいざ行動に移すと何も手に付かない。焦りと恐怖は山積するばかりだ。
「酷い顔をしてますよ」
部屋に漂う七海が心配そうに言う。机に出したままの鏡を覗くと、本当にこれが自分の顔かと思うほど酷い形相が祥平を見返していた。目はどこを見ているのか焦点が定まらず死人のように虚ろで、全体的に顔が暗くなり、肌は荒れて唇は紫がかった生気のない色をしている。
この地に戻る前、貪るように読んだ死に関する本の中で、死を間近にした人の心理について書かれたものがあった。その中で、人は次の状態を辿るという。
死を否定し、死を怒り、死を取引で克服しようとし、死に絶望し、最後に死を受け入れる。
一体自分はどの状態にいるのだろうかと考える。きっと、死に絶望した抑うつ状態なのだろう。いや、生きる方法ならあった。祥平は、確かに取引でもって生き永らえることは可能なのだ。最愛の幼馴染を殺すという、最悪な方法でもって。
頭を振って浮かんだ未練を振り払う。ベッドに殆ど横たわっていた身体をのっそりと起こし、祥平は制服に袖を通す。隅々まで倦怠感が染み渡った身体は持ち主の言うことを聞かず、着替えるだけで息が上がった。
身体はもう駄目だと言っていた。精神はもう限界を超えて悲鳴を上げていた。それでも、残りの日々をせめて有意義なものにしようと、搾りかすしか残っていない気力を総動員して支度を終える。
一歩足を踏み出しただけで身体がよろけた。足がもつれて倒れそうになって、冷たい手が祥平の身体を支えた。七海だった。
「あまり無理はならさないで下さい。本当に倒れてしまいますよ」
数日前から、祥平の身体は途端に歯車の歯が合わなくなったか、満足に動かなくなっていた。だからカレンダーを捲ることなく、否応なく道のりの終極がはっきりとした輪郭が見えるほどに近づいているのだと分かる。
「いつも這ってでも学校へ行けっていうくらいしつこいのに、今日はまた随分と優しいじゃないか」
「冗談を言わないで下さい。本当に心配しているんです」
前世の言葉は、祥平には心地よすぎるほど慈愛に満ちている。泣けとばかりに、触れれば壊れそうな声で言うから、聞いている彼からすればすぐにでも縋りたくなってしまう。だから、冗談や皮肉で返すことで何とか自制心を保っているのだ。それもいまや古びたメッキのように剥がれ落ちる寸前だ。会話を交せば交わすほど彼が篭った殻が壊されていくから、会話を早々に切り上げる他なかった。
「もう行くよ」
七海に預けていた身体を離して、祥平はふらつきながらも玄関へ向かう。彼女はすぐ傍を滑りながら胸郭が破裂したように壊れそうな表情で彼を見つめる。
「ですが……」
「大丈夫だよ七海。ちゃんと死ぬから。十二月二十五日に、俺は死ぬから」
七海の表情が光を失ったように凍りつく。祥平は精一杯微笑みかけた。
「迷って迷って、何度も過去を振り返り続けたけど、それでも俺は、志乃のために死にたいんだ」
玄関の戸を開ける。外に出た祥平の背に、七海の嗚咽が突き刺さった。
「違うんです。私は、私はそんなつもりであなたの傍にいたわけじゃないんです」
「もうあまり時間が残ってないんだ。せめてそれまで、そんな顔はしないでくれよ。人が泣く姿は、もう見たくはないんだ」
後ろ手に玄関の扉を閉める。そのまま寄りかかってずるずるとしゃがみ込みそうになるのを堪えて、祥平は学校へ向かった。
早く家を出たにも関わらず、校舎に入る頃には時間はぎりぎりだった。重い身体を引きずるように来たからだけでなく、登校時の風景を瞳に納めていたかったから時間をかけて歩いたのだ。
下駄箱で靴を変えて廊下に出ると、小柄な男子生徒と鉢合わせになった。女性と見紛う華奢な身体つきをした湊が、祥平の姿を見つけると軽く手を上げた。げんなりとした気分になった。
「やあ。君もぎりぎりに登校する口かい……?」
最初こそ軽い口調で話しかけた湊だったが、祥平と目を合わせた途端に声色が落ちる。表情が険しくなり、囁くように言う。
「死にそうな顔をしてる。どうした? 何かあったかい?」
「別に何もない」
殆ど他人同然の湊にまで心配されるほど酷い表情なのかと、祥平は七海の言葉に逆らい休まなかったことに今さら後悔を覚えた。湊が祥平の顔を呆然と眺める。やがて、息を吐いて顔を覆った。
「……これ以上はさすがに悪趣味じゃないかな。いまさらか」
自戒の響きを含んだ声だった。
「どういう意味だ?」
祥平が聞きなおすと、正気に戻ったように湊がはっとし、曖昧な表情を浮かべた。
「いや、いまのは気にしないでくれ。本当に。それより保健室に行ったらどうだい? きついのなら肩を貸すよ」
「心配されるような状態じゃない。朝が弱いんだ。それだけだよ」
いまは慣れない人物と話すだけで酷く体力を消耗する。会話を無理やり打ち切った祥平は湊を通り過ぎる。湊はそれ以上何も言ってこなかった。
教室に入り席に着くと、既に登校していた渉が近づいてきた。普段快活に笑う彼の表情は、少しだけ暗くなっているように見えた。
「祥平、ちょっと昼休み顔貸せよ」
「なんだ、俺は男に告白される趣味はないぞ?」
「いいから、顔貸せ」
渉らしくない返答だ。いつもの彼なら、少しくらいは冗談めかして返すはずだった。
誰だって底抜けに明るくなるときもあれば、奈落に突き落とされたように陰ることもある。そんな当たり前のことすら忘れてしまったのかと思った。
「分かったよ。昼休みだな」
「ああ」
億劫そうに言って、渉は席に戻っていった。
渡会渉があんな風に頼みごとをしたのは、記憶の中を探っても出てこなかった。だから、重要なことなのだろうと思った。そしてそれが、人生の道が途絶える二週間前であることに、呪い染みた運命を感じる。
「あ……」
びっくりしたような女の声がして、祥平が目を向けると月がいた。目が合うと彼女は視線を彷徨わせて、ついっと顔を逸らした。
祥平は暗澹たる気分になった。月の告白を断って以来、彼女との関係は疎遠になるいっぽうだ。それを求めたのは彼自身だから、これは自業自得で痛みを覚える権利すらない。それでも、芯から腐っていくような疲労が重く圧し掛かる。
祥平は大きくため息を吐き、目頭を押さえた。
生きることは辛いことばかりだから、人生の波間を縫うように瞬く幸せを見つけて人は生きる。光すら見えなくなったとき、生への希望を、生きる目的すら見失って死への坂を転がり落ちる。
いま何を見てどこに向かおうとしているのか、祥平はまだ理解している。だからまだ頑張れると思った。
胃壁をごりごりと削るような時間が過ぎ去り、昼休みになった。最近は食欲もすっかり落ち込んで、冷凍食品を詰め込むだけだった弁当を作ることもしなくなった。今日も購買の味気ないパンを買って食べることになるのだと思うと、いっそ昼食を抜いてしまうのも手かと考える。
そういえば渉に話があると言われていたことを思い出し、視線を教室の端へ投げる。渉は席に寄りかかったまま、携帯電話の画面を親の敵のようにずっと睨みつけていた。一分待っても動こうとしない渉に痺れを切らし、祥平は席を立って近づく。
「渉、話があるんだろ」
「待て、あと少し」
携帯電話に目を落としたまま、渉が答える。祥平は仕方なく隣の空席に腰を落とした。そういえば志乃はどうしたのかと思った。教室をぐるりと見渡すも、彼女の姿はどこにもなかった。こんなときでも志乃が大事かと、思わず笑みが浮かんだ。
ふと、渉が握り締める携帯電話が震えた。同時、渉の眉間に深い皺が生まれる。電話を勢いよく閉じた渉が立ち上がった。
「祥平、屋上へ行くか」
「なんでまた屋上に? 寒いだろ」
「青春はいつだって屋上から始まるんだよ」
唇だけに笑みを刻んだ渉が苦々しく言った。屋上に嫌な思い出しかない祥平には賛同できない言葉だ。
「どうでもいいが、手短にな。昼飯の時間がなくなる」
既に歩き出していた渉の後を祥平はついていく。
笑いあう平和な学生たちの姿を横目に廊下を歩いていると、祥平はいつも自分の立ち位置が明確になる思いがした。学校に来ることは苦痛だ。それでも学校に通うのは、もはや指針を失った意地か、それとも過去の思い出にしがみつくためなのか。あるいは、七海の泣き顔を見たくはないからだろうか。
屋上へ続く階段を昇っていると、途中の踊り場で渉が立ち止まった。渉は携帯電話を開いて何やらメールを打っているようだった。
「誰宛だ?」
祥平が聞くと渉が盛大に顔をしかめた。
「最低最悪野郎だよ」
先は問わずに待っていると、メールを送ったのか渉が携帯電話を仕舞って歩き出す。やがて、屋上の扉を渉が躊躇なく開け放った。
暗がりから一転、急に外の明かりが網膜に張り付いて焼けるような鈍い痛みが生まれる。しかし、すぐに目が慣れて眼前の光景を頭で認識したとき、声を失った。
そこには、志乃と湊がいた。丁度、いままさに、口付けを交わしているところだった。
愕然とした。
動揺する自分に吐き気がする。
目が覚めるような金髪を掻き毟った渉が、ふたりの姿を消すように祥平の前に立った。
「おい、学校でやることじゃねえぞ。ったく、俺たちじゃなかったらどうするつもりだったんだか」
笑い声が聞こえた。志乃の微笑だった。
「誰もいないからのここ、なんだけどな。偶然だね、渉」
「まったく、嫌な偶然だ。できれば幼馴染の情事は見たくなかったな。まあいいけど」
背を向けた渉の表情は見えない。だが、渉の声は明らかに苛立っていた。だからこそ、祥平も平静を取り戻すことができた。
「もう行くか」
そう言って踵を返そうとした祥平の腕を見もせずに渉が捕まえる。振りほどこうとするが、思いのほか強い力で握る渉の手が震えていることに驚いて、祥平は動きを止める。
「一応聞いておく、お前ら付き合ってるのか?」
「そうだよ、渉。湊と付き合っているよ」
「そうか、邪魔したな」
渉が腕を放して屋上の扉を閉める。渉は無言のまま来た道を戻り始めた。
渉の平静さが失われるほど、祥平の感情は天秤を保つように平らになっていく。殆ど走る寸前だった渉の肩を掴んで声を掛けた。渉が心配だった。
「おい、どうした」
振り返った渉は、今朝鏡で見た自分のものよりも、もっと酷い顔をしていた。渉がわななくように視線を上下左右に動かして、焦点も虚ろに祥平を見返す。
「なあ祥平、俺を恨むか?」
「なんでだよ」
そのとき、渉が一瞬救われたように目を大きく見開いた。しかし、すぐに顔を逸らしたかと思うと、肩に置かれた祥平の腕を払って走り出した。
「おい、渉! どうしたんだよ!」
「話は放課後でだ。いいから今はひとりにさせてくれ!」
渉の姿が視界から消える。大事なものが次々と壊れていくようだった。
それから放課後まで、沈鬱な時間がゆったりと流れていった。考える時間はあったはずなのに、渉のことが頭から離れないから、志乃のことで動揺する余裕もなかった。昼休みに消えた渉は、そのまま午後の授業すべてをサボって、戻ってきたのはホームルームを終えた直後だった。その頃になると、渉は昼休みに起こったことなど忘れてしまったように、普段の明るい表情をしていた。
「昼は悪かったな。ちっと場所を変えて話そうや」
「もう平気なのか?」
背を向けたままの渉が立ち止まる。
「もう忘れた」
「都合のいい記憶力だな」
「知ってるか? 忘却ってのはやさしい救いなんだぜ。忘れれば気を揉むこともない。悩むこともない。忘れちまえば、罪悪感すら消えちまう」
振り返ることなく言った渉は、「場所を移そう」と続けて進みだす。今日は渉の背中を追いかけるばかりだ。
昔、祥平の隣にいたのは渉で、後を追いかけるようについてきたのは志乃だった。いまとなってはお互いの立ち位置も変わり、交わりそうで交わらない平行線を歩んでいる。これが本当の幸せなのか、いまの祥平には理解することすらできない。それでも、彼女の道は湊と交わったのだから、きっとこれでいいのだと思った。
紗枝暮志乃は、朝倉祥平をもう必要としていない。
それだけ理解できれば十分だった。
しばらく歩いて辿り着いたのは、人が完全にはけた特別教室だった。細くなった記憶を手繰り寄せると、ここが理科室だと思い至る。秘密の会話をするにはぴったりの、放課後に誰も近づこうともしない場所だ。
実験器具が入った扉の隙間から漂う薬品の異臭が鼻腔を刺激する。渉は電気もつけずに、夕日だけが差し込む理科室の奥へと進み、手近な机に行儀悪く座った。
「まあ、なんだ。聞きたいことは、別に大したことじゃないんだ」
渉が歯切れ悪く言う。祥平は笑った。今日は幼馴染らしくない態度ばかりを見てきたのだ。今さら何を言われたところで驚くものでもない。
「話せよ。別に遠慮する仲でもないだろ」
「そうか。そうだな」
天井を仰いだ渉が続ける。
「どうして、冬川を助けたんだ?」
「誰かを助けるのに理由がいるか?」
「かっこいいな、おい。でも違うだろ? お前は志乃以外のことで、理由もなく動く人間じゃないって知ってる。なあ、どうしてだ」
幼馴染の真摯な視線が祥平に注がれる。祥平は疲労以外の、何か特別な感情が混じった息を吐く。いまになって欺瞞ばかりを告げるこの口が嫌になったから、せめて幼馴染にだけは本当のことを言おうと思った。
「お前の言うとおりだよ」
渉の顔色が変わる。勢いよく首を振って祥平の言葉を否定する。
「違うだろ。冬川が好きだったからだろ? だから何とかしたいって思ったんだろ?」
祥平は声を上げて笑った。どれだけ高尚に見られていたのだと思って、可笑しくなったのだ。
「そんな殊勝な奴に見えるか? 俺は、志乃のために冬川を助けたんだ。志乃が助けてくれって言ったから、あいつの願いを叶えてやりたくて、そんな自己満足を満たしたくて、冬川を助けたんだ」
そして何より、冬川月の歌が好きだった。その言葉だけは、喉の奥で封印するように殺した。言ってしまえばもう、取り返しがつかなくなるような気がしたのだ。
「違うだろ!」
渉が怒鳴る。何をそんなに慌てる必要があるのか、酷く狼狽したように机から降りて近づいてきた渉が、祥平の両肩を掴んで大きく揺さぶった。
「おい、なあ、違うだろ。いいから言えよ、冬川のためだろ、ぜんぶそうなんだろ」
「何度も言わすな。ずっと昔から、俺は志乃のために色んなことをしてきたんだ。お前だってそうだろ? だから、いつだって俺たちは志乃のためだけに動いてきたんだ。今さら何をどう取り繕ったって、その事実は変わらねえよ」
鈍い音が背後で聞こえた。このとき、祥平は音源を見やった。そして、視線の先にいた人物の姿を見て、どうして渉が慌てていたのかを知った。
もう、手遅れだった。
彼女の引きつった息遣いだけが、しじまに沈んだ理科室の現実を教えてくれていた。
「もういい。もういいから」
冬川月が、制服が皺になるのも厭わずに自らの胸を掴んでいた。前髪に隠れた表情は一切伺えず、それなのに全身で泣いていると分かるように、しゃくりあげていた。
月が顔を上げる。
「ねえ、朝倉くんにとって私は、志乃の身代わりだったの?」
頬に涙を引いた月の台詞は、祥平の心を跡形もなく吹き飛ばすには十分だった。
祥平が何も言わないことを肯定と受け取ったか、月は唇にぎこちない笑みを浮かべ、二人に背を向けて理科室を出て行く。
「違う、待て! そんなんじゃ、そんなつもりじゃないんだ!」
祥平の代わりに渉が叫ぶ。だが、その先にはもう誰もいない。渉がその場で頭を抱えてしゃがみ込んだ。祥平はその姿を他人事のように見下ろしていた。
これ以下は無いと思っていたから、祥平はいつも自分ではなく最愛の幼馴染の”未来“を夢見て生きてきた。足元を見ていないから、自分が夢の中を歩いていると気づかない。だから知らぬ間に迷い込んだ奈落に嵌って、更にどんづまりに落ちていくしかない。今回のことは、志乃ばかりに焦点を絞り続けてきたから見落とした、彼自身が掘った落とし穴だ。
祥平は冬川月の隣にいながらも、志乃しか見ていなかった。幼馴染に頼まれたから、彼は月を守ることにしたのだ。男気を装った行為はその実、幼馴染から寄せられた信頼を裏切らないための保身でしかない。信じていたであろう彼の不実さを知った月が失望するのは、当然の成り行きだった。
この三年間で、祥平は人の痛みを知った気になっていた。心の痛みが人にどれだけの苦痛を齎すのか、彼は身をもって理解したつもりになっていた。三年前から何一つ成長していないのに大人になった気になっていたから、彼は無自覚な残酷さで月の心を切り裂いたのだ。
頭がおかしくなりそうだった。
「冬川のことは、俺がなんとかする」
棒立ちになった祥平の前で渉が立ち上がる。表情は悲壮そのものといったように真っ青だった。
「なあ、お前さ、どうして……そんなになっちまったんだ」
渉が何を言っているかよく分からない。分からないことだらけで、もう考えることそのものが苦痛でしょうがない。
引きつった半笑いを浮かべた渉が、再び祥平の両肩を掴む。
「お前は悪くない。誰がなんて言ったって、お前は間違ったことはしてなかった。だから、ぜんぶ自分のせいみたいな、何もかも終わっちまったような顔するなよ」
つい最近まで、祥平の未熟さで傷つくのは彼だけだった。彼が生んだ刃の切っ先が内側に向いていたからだ。だが、いまの彼は独りではない。表面上の孤独から抜け出してしまった。だから不用意な言葉ひとつが一番近い場所にいた月を傷つけ、渉にこんな顔をさせている。
朝倉祥平の何かが、決定的に変わってしまった実感があった。
「いまから俺は冬川を追いかける。お前はもう何も考えなくていい。このまま帰って寝ろ。そしたら明日は元通りだ。いいか、ぜんぶ元通りだ。俺がそうしてやる。そうしてみせる。いいか、変なことは考えるなよ。絶対だぞ!」
最後に両肩を強く握った渉は、物言わず氷像となった祥平の脇を過ぎて理科室へ出て行く。
祥平の目的は、死の未来から志乃を救うことだった。この悪魔の契約を成立するには、代償として己の命を差し出すしかなかった。彼は、目的を定めるにあたって前提を作る必要があった。志乃が記憶を取り戻さないようにすることと、この世に未練を残さないことだ。
志乃の記憶は不用意な接触を絶つことで何とかなってきた。一度は危うい機会はあったが、それでもどうにかなった。そもそも、消した記憶を取り戻す方法など知らないのだ。だから問題は、後者の方だった。
彼は決意を固めても、結局は死に怯える凡夫だ。未だ見ぬ未来を夢見ぬよう、彼は幸せになってはいけなかった。死に逝くために、彼は自分が生きる希望を捨てねばならなかった。
祥平は、いま自分が立っている足場を確かめるように視線を巡らせた。あかね色に染まった、燃えるような放課後の理科室には、彼ひとりしかいない。なのに、ついさっきまでは隣に渉がいて、話を盗み聞いていた月がいた。彼が望んで立つべき孤独の世界は、いつの間にか彼だけの世界ではなくなっていた。
ぞわりと、背筋に鳥肌が立った。
祥平は、本来在るべき場所から遠く離れてしまっていたのだ。彼の視界の中には未練ばかりが漂っていて、死に向かわんとする彼の身体を掴んで離さない。
祥平は、幸せに足を踏み出してしまっていた。
「う、そ、だろ……」
かつて、祥平は前世である七海に「自分の死が見えたくらいで覆せるほど、俺の決意は安くはない」とのたまった。その決意を遥か後ろに置いてきてしまっていた。胸にあるはずの羅針盤がないから、彼は孤独の海を真っ直ぐに進むことすらできない。目的地はもう、取り返しがつかないほど遠い場所にあった。まるで、生きたいから気づかない振りをしていたような、彼にとって都合の良過ぎる状況だ。
祥平の前には生きる道しかなかった。
世界は、やはり残酷だった。幼馴染には辛い現実ばかりを押し付け、死を願う祥平からは死を取り上げ生きろと脅迫する。
理不尽だと思った。
「ふざけるな。これでいいわけがない。どちらかしか生きられないなら、生きるべきなのは志乃だ。俺じゃないだろ」
本心からの言葉が、薄っぺらく聞こえた。どれだけ決意しても、本能が死を拒絶する。罪悪感でがんじがらめにされて動けなくなった。
慣れ親しんだ後悔の匂いが、ゆっくりと祥平を包み込む。色の無いジグソーパズルのピースに欲望が色付き、決して知りたくなかった願望が一枚絵になって祥平に見せ付ける。額縁に入れて飾っておきたいくらい、朝倉祥平は見事に卑怯な男だった。
何もかもが嫌になって、全部投げ出したくなった。
「あああああああ!」
獣のように咆哮を上げながら手近にあった椅子を薙ぎ倒し、蹴り上げた。静かな放課後の理科室に、理不尽な暴力の音が響く。床に落ちた通学用の鞄を掴んで振り回し、黒板に投げつける。ひとしきり目に付くものを殴り、蹴り、投げ飛ばすと、己の弱さを見せ付けられているようで心臓が縮む思いがした。
つらかった。痛くて苦しくて、どうして自分だけがこんな想いをしなければいけないのだと思った。その考えこそが卑怯なのだと、冷静な部分が鋭く指摘する。
自分を騙し、目的を取りこぼし、決意を捨ててすまし顔をしてきたツケがようやく来たのだ。挙句がこのざまだ。月を傷つけてなお追いかけて弁明することもできず、放課後の理科室で駄々っ子のように暴れている。
「もういいだろ。どこまで無様になるんだ、俺は……」
誰かに助けてもらいたいという弱さが、祥平の中に渦巻いた。かつて、前世から差しだされた安易な救いを今こそ掴みたかった。時間が経つほど情けなさが極まっていく。本気で目的に向かっていたはずなのに実は真逆の道を歩いていた彼は、道化じみていた。
だから、急に喉から笑いが込み上げてきた。声が嗄れそうなほど馬鹿みたいに笑った。途中で何に対して笑っているのか分からなっても、なお笑った。笑いが納まると、精神的に落ち着いて少しだけ冷静になれそうだった。
ふと、周囲に何もないことに気がついた。さっき暴れたことで、彼の周囲だけ穴を穿ったように空間ができていた。乱雑に倒れた机や椅子を呆然と見回す。
何もないまっさらな空間に彼だけが立っている。そこは追い求めるはずだった理想で、彼を殺す夢だったはずの場所だった。
お前はかくあるべきだと、茫漠とした何かに言われているような気がした。
この街に戻ってきた時ならば、志乃と再会する直前までなら、彼は何の疑いもなくその声に耳を傾けることができた。迷い無く頷くことができた。
だが、何もかもが遅かった。
決意したつもりになって、結局先延ばしにしてきた選択が、眼前に付きつけられていたのだ。
もう疲れてしまった。鉛がついたように気だるい身体も、動かしたくなかった。だから祥平は、七海に会いたくてたまらなかった。きっと彼女なら、心地よい慰めの言葉をかけてくれるはずだから。