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第三章/月明かり 4

 初めての体験をした。生まれて初めて好きになった人とデートをして、告白し、断られた。想像を絶する苦痛だった。

 一度引っ込めた涙は、自室に戻ってきて再び、梅雨のように流れ始めた。喉の奥からは思い出したように嗚咽が出る。心臓が締め付けられているようで痛かった。ベッドに放りだしたトートバッグの中から、縋るように携帯電話を取り出して電話をかける。手近にあった枕を抱えて、顔を埋めた。

 電話はすぐに繋がり、穏やかな声が届いた。

「月? こんな夜中にどうしたの?」

「し、の……わたし、わたし……」

 嗚咽が喉に絡まって言葉にならない。だが、志乃は月の声だけですべてを悟ったようだった。

「うん、そっか。ふられちゃったか」

「上手くいくって、思ってたの」

 志乃もそう言ってくれていた。だから月は信じた。きっと大丈夫だと信じて、そして失敗した。

 朝倉祥平は、冬川月を特別扱いしなかった。普通の女の子のように接し、友達のように会話をした。

 これが月にとってどれだけ喜ばしいことだったか。初めての邂逅で、きっと月はは彼のことを好きになっていた。逢瀬を重ねるほどに想いは膨らみ、結果として過ちを繰り返さぬよう慎むことすらできなくなった。彼もまた、それ相応の態度で応じてくれた。今日だってそうだった。

 勘違いだった。

「やっぱり、バチがあったったのよ。私はまだ、恋愛なんかしちゃいけなかった」

「そんなことない。月は聞いた頃よりずっと素敵になったから。そんな風に考えなくていいんだよ」

 志乃は、こんなにも醜い月を慕ってくれている。だからこそ、彼が彼女に心を寄せてしまう理由も分かるから、余計に苦しかった。

「きっと朝倉くんは、志乃のことが、好きなのよ」

 月の嘆きに、志乃が「違うよ」と柔らかな声で諭す。

「それは違うよ月。朝倉くんは本当にあなたのことが好き。だからきっと何か別の理由があったんだよ」

 大丈夫だよ、と志乃が続ける。

「大丈夫、私がなんとかするから」

 志乃の声が子守唄のように優しく身体に染み渡る。

 でもね、志乃。

 言葉には出さず月は思う。

 あなたは、本当は朝倉くんのことが好きなんじゃないの?

 表に出ない問いに答えは返らず、消して解消されることのない疑問となって月の胸の中で巡るしかない。


 ◇◆◇


 朝だというのに、清々しい気分になれないのは、昨夜ひとりの想いを踏みにじったからだろう。思えば気分の良い朝など三年近く迎えていないのだから、より一層最悪な朝といったほうが良いかもしれない。

 今朝も七海に追い立てられる形で家を出た祥平は、教室で待ち構えていた志乃に呼び止められた。先日のことがあるから彼女とも話したくはなかったのに、世の中はままならないことばかりだ。

「屋上に付き合ってくれないかな」

 志乃の誘いに無言で頷いて、祥平はバッグを机の上に置いた。教室には、まだ月は来ていなかった。

 志乃と共に教室を出て屋上へ入る。冬のからっ風が肌に染みて痛かった。季節にまで責められているようで気が滅入った。

 コンクリートが打ちっ放しの屋上の中ほどまで歩いた志乃が振り返る。彼女はアルカイックスマイルを湛えながらも、表情は少し硬かった。冷気で頬を赤らめながら、彼女が重々しく告げた。

「月のこと、ふったんだね」

 祥平は視線を志乃から外へと向けた。初めて明るい時間帯に屋上から見る景色は、夜とは別世界のように晴れやかに感じた。だというのに、話す内容は下水の底をさらったような醜悪さだ。己の心を映す姿見がもしあったのなら、どれほど醜い姿を見せつけられるのだろう。

「ああ。それを責めに来たのか?」

「月と付き合うことを私が強制できるわけないよ」

 寂しげに笑った志乃が、こつこつと靴底を鳴らしながら近づく。

「結局、何が正しいんだろう、何が正しかったんだろう。私には分からない。ただ……与えられるものと自分で得るもの、どちらがいいのか分からなくなっただけ」

 志乃が祥平の目と鼻の先で立ち止まる。頭ひとつ分低い位置から、彼女がしっとりとした瞳で見上げる。彼女に見つめられるだけで、心臓がきゅっと縮んだ。

 志乃が微笑む。

「朝倉くんは、いま何を考えているのかな?」

 芯まで寒さが沁みた身体に人肌が灯る。とん、と額を祥平の胸に置いた志乃が、両手を彼の背に這わした。

「好きだよ」

 息が震えた。

 いま、自分が置かれている状況が理解できなかった。志乃の言葉の意味も、行動も、真意も、何一つ読み取れない。それなのに、幼馴染と肌を重ねているこの一瞬が永遠に続けばいいのにと、よこしまな想いが風船のように膨れ上がって止まらない。

 志乃が祥平の胸に頬を寄せる。背中をぎゅっと掴まれた。

「愛してるよ」

 それが彼女の本心なら、どれだけ救われただろうか。

 祥平はもう、志乃の言葉をそのまま鵜呑みにできるほど子どもではない。だから彼女の腕を引き剥がそうとして、でもできなくて、上げた腕を宙に彷徨わせながら彼は問う。

「なあ、何がしたいんだ?」

 顔を上げた志乃が、いたずらがばれた子どものように笑む。

「ただの証明だよ」

 腕を解いて離れた志乃がくるりとステップを踏む。両手を広げ、果てまで澄み切った冬の空を仰ぐ。表情は相変わらずの微笑だった。

「ほらね、朝倉くんが私を好きだなんて、そんなことはあり得ない」

「そんなことの確認のために、こんなことするなよ」

「必要なことだよ。少なくとも、私にとってはね」

 志乃の言葉の意味が分からない。彼女と再会してから何度感じたであろうこの感覚を、祥平はいま改めて感じずにはいられない。ビスクドールのような人形めいた美貌で不気味に微笑む彼女は、何を考えているのだろう。

 ころころと志乃が笑う。

「ねえ、月はいい子だよ。私なんかよりずっと。でもきっと、また泣いてしまう。できればもう、あの子をひとりで泣かせたくないの」

「だから付き合えっていうのか?」

「言ったでしょ、強制はしないって。だからこれは単なる願い。ううん、祈りかな」

 志乃が胸の前で神へ祈りを捧ぐように手を組む。天から光芒が差したように彼女が眩しく見えた。

「幸せになるのが怖いの?」

 唐突に触れられたくない深部へと切り込まれて、祥平は息が洩れた。こめかみが痙攣して視界が揺ぐ。

「なに?」

「そんな風に見えたから。気に障ったのなら謝るよ」

「別にそんなんじゃない」

 呟いた言葉が心臓に杭を打つ。志乃と話していると隠してきた宝物を暴かれている気分になる。

 昔から志乃はものを見つけるのが上手だった。それが無くしものであれ、秘めた気持ちであれ、彼女の前ではすべてが白日の下に晒される。まるで、心を読んでいるかのように。

 でもね、と志乃が告げる。

「欲しいものはちゃんと掴んでおかないと、いつか目の前からなくなっちゃうよ」

 志乃の言葉は、いつだって本当に、本当に確信を突いている。だから、祥平は心が痛くてたまらない。それでも、彼はこれをただ頷き肯定することだけはできない。この献身だけは貫き通さなければならないのだ。

「もう掴めるものはどこにもないよ。ぜんぶ、遠くにいっちまった」

「誰だって掴めるものは残ってるよ。朝倉くんにも、私にだってまだ」

 志乃が泣きそうになりながら言う。彼女の表情にどれだけの想いが込められているのか祥平には分からない。

「私ね、お父さんと暮らすことになるかもしれない」

 祥平は目を剥く。

「実は私の両親、小さい頃に離婚してるの。お母さんに引き取られたんだけど色々あって、いまはひとり。それを知ったお父さんが一緒に暮らさないかって言ってくれてるの」

 祈りを解いた志乃が笑む。それは、祥平が取り戻したかったものとは程遠い、アルカイックスマイルだった。

「なくなったものでも取り戻せるから。私はね、いますぐ死んでもいい。幸せだよ」

 違う。違うんだ。祥平は言いたくてたまらない。

 お前の幸せはいまじゃなくて、この先に続く未来にあるんだと。

 謙虚な志乃は、幸せの片鱗が見えただけで満足してしまう。祥平が思う彼女の幸せは、その奥にあるというのに。

「死んでもいいなんて言うなよ」

 結局、祥平はありきたりなことしか言うことができない。志乃は彼の言葉を押し流すように笑むだけだった。

「朝倉くんには、きっと月が必要だから」

 最後に念を押すように志乃が言って、屋上から出ていった。取り残された祥平は、その場で地面を蹴りつける。何もかもが最悪な方向に回り始めている。そんな気がしてならない。

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