第三章/月明かり 3
夜になると騒がしかった部屋に静寂が宿った。あのまま、月と共にケーキを買って戻った祥平を、志乃は料理を作って渉とふたりで待っていた。談笑しつつ食事を平らげ、メールの内容にお互い踏み込むことなく解散になった。
明日の約束を交わした月を駅まで送りとどけた祥平は、部屋に戻ると同時にベッドに潜り込んだ。悶々とした気持ちをどこに仕舞えば良いか分からず、熱にうなされるように湿っぽい吐息が出る。
「明日はデートですか」
いつの間に戻っていたか、ベッドの脇に七海がぷかぷかと浮いていた。寝返りを打って七海を見ると、これ以上ない喜びを見たように微笑んでいた。
「志乃は何を考えてるんだ。あいつの考えが全然分からない」
「冬川月さんでしたっけ、彼女と朝倉さんの仲を取り持とうとしているのでは?」
「余計なお世話だ」
記憶の無いはずの志乃にまで、生きろと迫られているようで気が滅入った。
「何にせよ、受けてしまったのだから今さら何を言っても始まりません」
床に降り立った七海がベッドに腰を下ろす。部屋の電気を点けたままだから、身体が透けた七海は殆ど透明のように澄んでいた。
「少し疲れましたか?」
「疲れるよ。感情があっち行ったりこっち行ったりすれば息切れもする」
仰向けになって天井を見上げた祥平の顔を、七海の瞳が覗き込む。
「つまり、悪い気はしなかったと。そういうことですね」
「まあな。俺も男だ。綺麗どころに誘われれば多少は嬉しい」
「ごまかさないんですね。朝倉さん位の年頃だと、こうした話題は恥ずかしいって避けそうですが」
「お前相手にごまかしてもしょうがないだろ」
冬川月は美人だ。そんな彼女に露骨な好意を向けられて嫌な男はそうそう存在しない。祥平も男の端くれであるから、気分としてはそう悪くはない。もちろん、他のすべてを棚にあげた場合の話だ。
だから祥平の気が滅入っているのは、“志乃のために自分の幸せを追求せずとしているところに、志乃が介入したことで幸せを容認しようとした今の自分に対してだ”。
今からでも遅くはない。月との約束は断るべきだと思った。決意の砦が土台から崩れはじめ、もはや砂上の楼閣となりかけた以上、己を律せねばならなかった。
中途半端に被った布団を蹴り上げて、テーブルに置いた携帯電話を掴む。電話帳から月の連絡先を開いたところで、インターホンが鳴った。あまりにも絶妙なタイミングだったから、携帯電話を持ったまま祥平はしばし固まる。
間隔を置いて、再度インターホンが押される。
「出たらいかがですか?」
「分かってるよ」
今日は来客が多い日だと辟易する。携帯電話を乱暴にポケットに突っ込んで玄関を開くと、そこにはアルカイックに微笑む少女が立っていた。
「少しいい?」
肩を上下させながら志乃が言う。祥平はどう言葉を繋いで良いか分からず、黙ったまま志乃を中へ通した。七海はもういなかった。玄関へ出向いている間に外へ出てしまったのだろう。
志乃は手近な場所に行儀良く座ると、お茶を用意しようとする祥平を呼び止めた。
「すぐ帰るから、気にしないで」
ヤカンに伸ばした手を止めて、祥平は志乃の前に腰を下ろす。
「どうした?」
「話したいこと、あったから」
歯切れの悪い口調で志乃が言った。大方月のことだろうと見当をつけていたから、祥平は落ち着いて彼女に対することができた。
志乃が一度視線を外し、少しの間があって祥平を見つめた。部屋を漂う空気の色が変わり、質量を持ったように重くなる。彼女が、こくん、と喉を鳴らした。
「朝倉くん、私たち、会ったことある?」
頭の中が真っ白になった。
最近夢を見るの。志乃はそう続ける。
「小さい頃、私が朝倉くんに似た男の子といつも一緒にいる夢。色んなことがあったけど、その子はいつも私を助けてくれて、でも私はその子のために何もできなくて……。いつか必ず、その子にありがとうを言いたかった」
志乃が頬を染めて笑う。祥平は足元が崩れる思いだった。
「自分でもどうして忘れてるのか分からないけれど、その子のことが今更になって夢に出てくるのは、きっと意味があることだと思うから。ねえ、朝倉くん。私たちは、本当はずっと昔に出会っていたの?」
「この前の教会が初対面だ」
反射的に祥平は答える。
志乃は、記憶を取り戻そうとしている。だが、それは完全ではない。あとたった一ヶ月程度を凌げばすべては終わる。だからいまは否定することが正解のはずだった。
それなのに、なぜ心が砕けそうに痛いのだろう。
志乃の表情が陰る。よく見れば普段は素顔をさらしたままなことが多い彼女の目もとは、うっすらと化粧が施されてた。さっきまでは化粧などしていなかったはずだった。
「そっか。ごめんね、変なこと話して」
祥平は何も答えず首を振る。息をすることが辛かった。一度口を開いてしまえば、何を言い出すか分からなかった。
立ち上がろうとした志乃の身体がよろめいた。祥平の目に映った彼女の瞳は、現実ではないどこか別の世界を眺めているように虚ろだった。
「大丈夫か?」
祥平が手を差し出すと、志乃は曖昧に笑ってその手を取った。彼女の身体が石のように強張る。記憶の中では暖かかった彼女の手の平は、血が通っている人間のものとは思えぬ程冷たかった。
「最近、あまり身体の調子がよくないの。歳かな……」
「十代が何言ってやがる。きっと風邪だよ。明日はゆっくり休みな」
志乃の手を持って祥平は引っ張り上げる。
祥平は、目を逸らすことができなかった。見ているだけで抱きしめたくなる愛らしい彼女は、すぐそこまで迫った人生の行き止まりを知らない。彼が彼女の記憶を取り上げ、決して返そうとしないからだ。
これが祥平の罪だった。それでも、志乃を生かすことができるのなら、彼は罪を抱いて地獄に落ちる。たとえ、死の影の谷を歩む姿を誰も見てくれなくとも、これだけは変わらない。
志乃が俯いたまま何かを呟いていた。あまりにも小さい声だったから、何を言っているのか聞き取れない。前髪から覗く彼女の顔は冷水を被ったように蒼白になっていた。
「おい、大丈夫か?」
「そういう、つもりじゃなかったんだよ」
ひしゃがれた声で志乃が答える。緩慢な動きで彼女が手を離した。おぼつかない足取りで祥平を通り過ぎる。
「ごめんね、いつだってうまくいかないね」
「紗枝倉?」
「大丈夫だよ、大丈夫。大丈夫だから」
志乃の言葉の意味が分からない。輪郭すら曖昧な彼女の呟きが、どうしてか祥平の心を強く打った。
背を向けた志乃が壁に寄りかかる。彼女は本当につらそうだった。
「断ろうとしてたでしょ。でもダメ。明日、必ず行って。お願いだよ」
志乃の声には嗚咽にも似た切実さがあった。
「分かったよ、分かったから。本当に大丈夫なのか? 家まで送るよ」
「私の心配はしなくていいんだよ。月のことだけ考えていればいいから」
「心配くらいさせろよ」
「大丈夫、湊を呼ぶから」
志乃へと伸ばしかけた手が止まる。彼女には心を揺さぶられてばかりだから、荒れ狂う大海原で転覆寸前の船に乗っているような気分になる。彼女の言葉はいつだって難解で、そのくせ本質をよく捉えている。だから祥平はこのとき、彼女の言葉に表層とは異なる意味があるのだと思った。
「彼、今日は暇してるらしいから。だから、朝倉くんは心配しなくていいよ」
頭から血の気が引いた。三年間抱き続けてきたものがひっくり返ったようだった。
「大丈夫だよ。私のことより、月のことをお願い」
じゃあね。別れの挨拶を告げて志乃が部屋を出て行く。扉の閉まる音が彼女との壁のようだと思った。祥平は、動力の切れた人形のように立ち尽くす。
ただひとつ、志乃にとって朝倉祥平はもう必要ないのだという現実と共に。
◇◆◇
翌日、温暖なこの地方では考えられないほど凍てついた大気が支配していた。息を吐けばすぐさま煙が尾を引き、外気に晒した手は冷たさが限界を超えて痛いほどだ。
目覚まし時計に導かれ、珍しく早起きをした祥平は、七海に焚き付けられる形で身だしなみを整え、約束の二十分前に駅校舎前の広場に立っていた。
風が吹けば芯まで冷える身体を少しだけ縮こまらせる。日曜日だというのに、木造の駅校舎は休むことを知らないのか、大量の人を飲み込み、そして吐き出していた。中には寒さを理由に寄り添い合う恋人同士の姿がいくらか見受けられて、祥平は呆然とその姿を眺めていた。
そんな風に十分ほど極寒の中を立ち尽くしていると、背後の気配を感じた。振り返ると、長髪長身の月が立っていた。朱に染まる頬をマフラーに埋めた月が、見るも愛らしくなる恥ずかしげな笑顔で祥平に声を掛けた。
「ごめんなさい、待った?」
「ああ、かなり待った。お陰ですごい寒い」
祥平の反射的な返しに、月は一瞬真顔になると、マフラーを下げてこれ見よがしにため息する。
「あのね、確かに私が無理強いする形で呼び出したし、文句を言う筋はないんだけれど。すこしは言葉をオブラートに包んで欲しいわ。これはさすがに我侭じゃないわよね」
言われて祥平は頬をかいた。要するにあれなのだろう、「待った?」「いや、いま来たところ」というやり取りを彼女はやりたいのだろう。
どういう経緯があってここに来ようが、確かに今日はデートだったと祥平は思い出す。ならば女性をたてるのは男としての勤めかと、諦めにも似た気持ちが浮かんだ。
祥平は、わざとらしくひとつ咳払い。今まで使ったことがない表情筋を総動員して、無理やり笑みを作った。
「いや、今来たところだ」
「今さら言っても遅いわよ」
完全に呆れ果てた表情の月につっ込まれる。何が悪いのか祥平には皆目検討もつかなかった。
月が再びため息する。長いため息だ。
「私だけ緊張して馬鹿みたい。昨日は全然眠れなかったのに、朝倉くんはそうでもなさそうだし」
後半になるにつれ、月の声質にいじけ染みたものが篭められていく。
「どこに行こう、どうしようって思って、どうすれば楽しんでくれるんだろう、どんなことなら喜んでくれるのかなって、ずっとずっとずーっと考えてたのに。私ひとり空回りしてるみたい。ふんっだ」
最後は殆ど愚痴口調になっていた。ここにきて、祥平もさすがに態度がまずかったことに思い至る。何はともあれ、月は祥平を元気付けようとしてくれているのだ。この想いを憮然とした態度で受けられれば愚痴のひとつも出ようというものだ。
「悪い、悪かった。なんていうか、こういった形で女性とふたりきり、っていうのはあまり体験してこなかったんだ。正直どういう態度でいればいいか、俺も分からないんだよ」
「昔は女遊びしてたって言ってた」
そんなことも言ったな、と余計なことを伝えた昔の自分を張り倒したくなった。
「それは誤解だ。遊んでたわけじゃない。付き合ってただけだ。しかも最終的には全部ふられた」
言っていて何が誤解なのか分からなくなっていた。言葉を重ねれば重ねるほど、不実さが浮き彫りになっていく。本当に何をやっているんだろうか思った。
たぶん、かなり、逼迫した様子で困った表情をしていたのだろう。表情ひとつ見落とさない勢いで祥平へ視線を注いでいた月が、突然噴き出した。
「ご、ごめんなさい。あまりにもあなたが必死だから、可笑しくて」
言うも束の間、月が腹を押さえて声を上げて笑い始める。
「全部、ふられたって、そんなこと言わなくても」
ひそかに痛い記憶であったそれをそこまで笑われると、祥平としては痛快なものがあった。
「そ、それで、なんて言ってふられたの? 言える範囲でいいから、聞かせてもらいたいのだけど」
あー、と祥平は間延びした声を出す。ここまで来れば恥も外聞もなかった。
「朝倉くんは私のことなんか見てない、とかだな。言葉は違っても、結局はみんな同じ感じだったよ。あれは結構堪えた」
「それはすごい的を射てるじゃない」
「そうか?」
「そうよ」
ひとしきり笑って、月が顔を上げた。表情はもう普段のものに戻っていた。彼女は、星の海に漂う本物の月のようにころころと表情が変わる。生きているのだから当たり前なのだが、それでも祥平にはそれが眩しく思えた。本当の意味で心の底から笑ったのがいつであったか、祥平は思い出すことができないのだ。
祥平の腕を取った月が、恋人のようにそのまま自分の腕を絡ませて引っ付いた。反射的に振りほどこうとするが、ここが自分の居場所だと言わんばかりに月は離れない。
「さあ、行きましょう。折角のデートだもの、恋人らしくいきましょう」
「俺と冬川、友達だよな?」
「ええ、友達だけどいまはデートよ。だから今だけは恋人同士ね」
「理屈がよく分からないんだが」
「女に理屈を求めても無駄よ。早く行きましょう」
引っ張られる形で祥平は駅の校舎へ入った。過去、いまとは逆に月を抱きかかえるようにこの駅に入ったことはあったが、あのときとは状況が全然違うせいで、いまは恥ずかしくてたまらない。周囲の人の視線すべてが自分たちに集まっているように感じて、自然と顔が熱くなった。
ふたり並んで切符を買って、改札を抜けてホームへ向かう。その間も月が腕を抱いてくっついている。もうやめてくれと月を見れば、彼女も頬を赤らめ視線を彷徨わせていた。もうどうでも良くなって、祥平は電車が来るまで離れようとしない月をそのままにしておくことにした。
さすがに電車の中でまで腕を組むことは恥ずかしかったのか、腕を放した月は祥平の隣に腰を下ろし、行儀よくスカートの上に両手を置いた。
車掌の案内と共に電信音が鳴り、電車の扉が閉まる。景色が横に流れ出すと同時、月が口を開いた。
「やっぱり恥ずかしいわね」
「ならやるなよ」
「一度でいいからやってみたかったのよ。でも駄目ね。私には少し難易度が高いかも」
「意外と堂に入っているように思えたけどな」
月が曖昧に笑った。
「そうね。そうかも」
月の言葉が正しければ、昔の彼女は男をとっかえひっかえしていた。こうした行動を取ったことも、一度や二度ではないのだろう。少しだけ、胸の奥に疼きが走った。
目的地に着くと、今度は手を引かれて祥平は電車を降りた。地元の駅よりも数段多い人を吐き出したこの場所は、ここ数年で大都市へと発展した街だった。祥平の記憶では、昔は田舎の中の都市というイメージだったが、長い間足を運ばない内に様相は変わっていた。
月に連れられ迷宮のような駅を抜け出すと、そこはもう都会といってもよかった。背の高い建物が立ち並び、広い道路の中を車が大都会に引けを取らないほど大量に走っている。月に聞けば、この街は地下がすごいのだと言う。本当に、驚愕するほどの発展を遂げた街だった。
それから、祥平は月に引っ張られるまま、色々なところへ出向いた。最初はデパートの服飾売り場で、飽きるほどウィンドウショッピングをした。月は何度も服を持ってきては祥平の前にかざし、どれが似合うかと聞いてきた。正直、彼女はセンスがいいのか選ぶ服すべてが似合っていたからその通りに言うと、彼女は決まってつまらなそうにしつつも嬉しそうだった。
デパートを出ると地下に入り、こ洒落たレストランに入って食事をした。その後、嫌がる祥平を月は無理やりカラオケに連れていき、失礼なほどに笑い転げた。
昼が過ぎ、空が藍色に染まり始めていた。お互いくたくたになりながらも電車に乗り、地元の駅に着いた頃にはもう夜だった。冬独特の乾いた空気が夜空を綺麗に透き通らせ、都会では見られない星々を散らしていた。
駅を出てすぐのロータリーで、月が瞳を震わせた。
「もう少し、付き合って欲しいの。話があるから」
月に導かれて、祥平は南口から歩いて十五分ほどの高台にある公園に辿り着いた。この公園は、昼間はすぐ傍にある工場から機械音が絶え間なく轟く騒がしい場所だが、夜が濃くなると途端に静寂が漂う寂しい場所になる。
公園の広場の三分の一ほどを影にする大樹を囲むベンチまで来ると、月がもじもじと両手を胸の前で組む。様子がおかしかった。
「あの、私、暖かい飲み物買ってくるわ」
「え? あ、おい」
祥平が呼ぶ声も聞こえぬように、月が小走りで公園を横断する。阿呆のように、月の姿が見えなくなるまで手を伸ばした姿勢で立っていた祥平は、風の一撫でで急に寒くなって、身体を丸めるようにしてベンチに腰を落とした。
長い息をつく。吐いた息が白くなり、尾を引いて宙を伸びていく。
祥平も鈍くはない。だから、月が何を話そうとしているか気づいていた。だが、一体なんと答えればいいのか、心の中を探っても答えが見つからない。三年間を支えてくれた志乃を失い、迷宮に迷ってしまったようにぐるぐると同じ場所を回っている。自暴自棄になって月に逃げてしまおうと考えが巡るのに、それでも志乃の未来は何よりも尊いから決められない。時間が経つほど朝倉祥平の愚かさが極まっていく。
公園の入り口に月の姿が見えた。高校生にはとても見えない大人びた彼女は、本当に自動販売機にまで行ってきたか、両手に缶を抱えていた。見ているのが焦れったくなるほど彼女がゆっくりと歩いてくる。
今日一日のデートは、つまらなかったと言えば嘘になる。楽しかった。だから真綿で首を締められるように、徐々に心が追い詰められていった。情緒が不安定な精神は、朝から風見鶏のように回り指針を示してはくれない。
寒さか全く別のせいか、顔を真っ赤にした月が隣に座り缶を差し出した。コーヒーだった。祥平はそれを受け取り、霜焼け寸前の手の中で転がした。彼女は缶を両手で包んでじっと俯く。
こういうとき、話を促すべきか待つべきなのか、どれが正解のかを祥平は知らない。だから彼は缶を弄びながら、足下から迫るじわじわとした緊張感に耐えることしかできない。
頬を赤らめた月が祥平の方にもたれかかった。柔らかい感触が腕に触れ、同時に、女の柔らかさを初めて知った男のように、全身が緊張に慄いた。
すぐ傍にある月の柔らかい吐息が頬を優しく撫で、仄かに甘い匂いが鼻をくすぐる。一滴も酒を飲んでいないのに、艶やかな色気に酔ってしまいそうだった。考えていたことがすべて吹き飛ぶ。
全身凶器の女だ、と祥平は思った。
冬川月は、容姿で男の視線を釘付けにし、声で惑わし、仕草で骨抜きにする。彼女の姿を見、声を聴き、その一端でも触れてしまえば狂わずにはいられない。
祥平は、いますぐに彼女を腕の中に仕舞うことができればどれだけ幸せだろう、という心の内から突如溢れた凶暴な劣情を抑えることに必死だった。
月が顔を近づける。彼女の顔は、紅に染まる紅葉の葉よりも美しい。憂いを湛えた瞳が街灯に照らされ、万華鏡のように鮮やかな色彩をみせる。
理性の防波堤が、月が作る魅力の波によって音を立てて削られていた。これがなくなったら、一体どうなってしまうのだろう、と祥平は恐れた。一切合財を投げ打ち、彼女に飲み込まれる自分の姿を想像し、急に空恐ろしくなった。だがいっそ、その海に溺れてしまえるのなら、どれだけの快楽を得られるだろうか。
恐ろしい、でもいっそ――
理性と欲望がせめぎ合う。
しかし、月はそんな胸中など嘲笑う一言を謳った。
「好き」
心臓が爆発する音を聴いた。血管にドロドロに解けた鉄を流し込まれたのかと思うほど、全身が狂った熱になぶられ、犯される。守るべき理性が、薄氷一枚奥にある欲望に破壊されそうだった。
冬川月を手に入れたくなった。
答えられない祥平に、月のぎこちない微笑が降る。
「朝倉くん」
月がゆっくりと目蓋を閉じる。顎を上げ、まつ毛の一本一本まで数えられる距離まで近づいた。紅色の濡れた唇から零れる、甘い吐息。
「好きよ」
頭が壊れた。
無意識に手が伸びる。
すべてがどうでもよかった。どうせ死ぬのなら、我慢する必要などないと思った。孤独の闇に落ちるくらいなら、せめて一瞬でも人並みの幸福を味わいたかった。それくらいの光は望んでもいいと思った。
――ああ、俺は誰かと幸せになりたかったのか。
いままで理解しきれなかった己の願望に気づくと、あとは欲望の坂を転がり落ちるだけだった。
指先が月の髪に触れる。濃厚な女の匂いに脳が痺れた。
月の指が宙を這う。探り出すように動いた指が、一瞬だけ躊躇して、祥平の指に絡みつく。互いの胸の前で組まれた指が、二人の距離を更に縮める。
二人の距離はいま、世界にある何ものよりも近かった。心さえ交わりそうな距離。それは、かつてあった志乃との距離感。
祥平は喉の奥で喘いだ。何かが足りない、そんな気がした。
吐息と吐息が、匂いと匂いが、心と心が交じり合う。あとは少し前に踏み出すだけだ。わずか一センチ。それだけの距離を祥平は――
「朝倉くん?」
踏み出せなかった。
動揺が伝わったのか、月の体がぴくんと身じろいだ。目を見開き、怯えのはらんだ細い声で月が鳴く。
祥平は目蓋を閉じ、視界を闇に染める。黒一色の中で浮かんだのは、幼馴染の顔だった。すべてを優しく包むアルカイックスマイルが、祥平の欲を鎮める。
目蓋を開く。眼前にいるのは志乃ではない。恐怖に塗りつぶされながらもなお玲瓏さを持つ、月の表情があった。
ゆっくりと首を振り、指を離した。月の指が名残惜しそうに宙を掴む。彼女の体温が消えた途端、己の馬鹿さ加減を呪いたくなった。
「どうして」
月の言葉が胸を抉った。
何を言っていいのか、何を言えばいいのか分からず、ただ彼女の視線が痛くて、逃げるように薄暗い公園のベンチから空を見上げた。闇の向こうには、決して届かない星が瞬いていた。
「俺は、冬川の想いには応えられない」
言葉は、考えとは裏腹に滑るようにでた。
月を見る。視線は相変わらず痛かったが、言わなければならなかった。
「冬川のことは好きだ。でもそれは、恋愛感情じゃないんだ」
醜い良い訳だ。そう考えるのなら、間違っても触れるべきではなかった。期待させるような真似をしてはならなかった。どんな言葉を尽くそうと、彼女を傷つけることに変わりない。それでも、言い訳を並べるしかなかった。
「冬川のことは、友達にしかみれない。だから、ごめん」
嘘だ。
月の表情が悲しみに歪む。
「冬川とは付き合えない」
無慈悲な言葉を語り終えると、七色に輝く月の瞳が色を失った。やがて、背筋を凍えさせるには十分過ぎる嗚咽が耳に届いた。
月を見続けることが出来ず、呆然と虚空とにらむ。押し殺すように吐き出される泣き声でも、彼女の声は人を魅了して止まない。隅々まで美しい彼女を悲しませる自分を殺したくなった。
「……志乃、なの?」
震える問いに、祥平は返すべき言葉を持たない。
「朝倉くんは、志乃のことが……」
「違う、紗枝倉は……違うんだ」
言葉がつまる。志乃の名を苗字で呼ぶことが、いまになってもまだ辛い。身体が拒絶する。
短く息を吸う。
「俺には、やらなきゃならないことがあるんだ」
苦し紛れの言い訳は、ありきたりな言葉だった。男の下らない格好付けで、ただの欺瞞だ。
「もういい。分かったから」
くぐもった声で月が言って立ち上がる。
「ごめんなさい、泣いちゃって。こういうの、実は慣れてないの」
悲しみの筋が残る頬を吊り上げて、恥ずかしそうに月が笑った。痛々しい笑みだった。
「今日は付き合ってくれてありがとう。楽しかった」
トートバッグを肩に引っさげて月が踵を返す。背を向けた彼女に投げるべき言葉が見つからない。
「またね、朝倉くん」
冬の澄み切った空気は、月の言葉を残酷に響かせた。さながら処刑宣告だった。期待を抱かせながら想いを踏みにじった彼を断罪する、死神の鎌だ。
祥平は甘んじてそれを受け入れる。釈明の言葉すら返さない。欺瞞はもうこりごりだった。
「また学校でな、冬川」
呟いた言葉は、遠ざかった月には届かない。
ふいに、孤独感が足元に忍び寄る気配がした。それは三年前、志乃の記憶を消したときにも感じた、慣れ親しんだ恐怖だった。
凍てついた北風が吹く。季節に残さず刈り取られた枯れ木が、寂しげに体躯を揺らした。いまはまだ、静寂が耳に痛かった。