第三章/月明かり 2
祥平はいま、幸福の真っ只中にいる。三年間の絶望の季節を終え、こうして頭上に下りた季節は、死の間際に見せつけられる走馬灯のような華やかさがあった。
だから、宝石を散りばめた幸福ひとつひとつの眩さに目をくらませて、それでも屈服しないように祥平は目を細める。光ひとつ受け止めてしまえば焦げ付き砕ける心は、太陽の下を歩けない吸血鬼のように脆弱だ。
孤独を抱えながら七海とふたり暮らしてきた部屋の中は、三人が訪れたことで空気が一変していた。どこもかしこも孤独の欠片が隠れる隙がないほど騒がしく、はつらつとした希望が溢れてたまらない。
「だから、いいか女ども。男はナンパすることこそが存在意義であり、ナンパに成功するか否かの境界で、良い男と残念な男に分かれるんだ」
季節はもう冬だ。空っ風が窓を震わせ、枯れ枝からもぎ取った枯葉が宙を舞い、忍び込む外気は凍えるほど冷たい。だが、室内は暑苦しい空気に包まれていた。渉が馬鹿だからだ。
冬よりもなお寒い女ふたりの視線が渉に集中する。
「なら渉は残念な方の男の子だね」
「男ってどうしてこう残念な生物なのかしら。特に渡会くん」
少女たちは、それぞれが氷水も真っ青な極寒の言葉を弾丸にして渉へ打ち込む。傍から見ても哀れになるくらい、渉が急激に落ち込み始める。部屋の隅で成り行きを見守っていた祥平へ、渉が物乞いの視線を注いだ。
「祥平、何か言ってやってくれ。俺は間違ってないよな?」
「お前と一緒にするな」
そりゃねえよ、と渉が世の非情を嘆くように天井を仰いだ。
ことの発端は、渉が唐突に言い始めた“男というものは”という下らない議題だ。祥平には検討もつかないが、渉にとって男とはナンパをすることが存在意義なのだという結論に達したようだった。その返答が、少女ふたりによる氷の魔弾だ。さすがに庇う余地のない馬鹿さ加減だった。
「まあ、渉の妄言はどうでもいいとして。そろそろ台所借りようかな」
渉の議論を微塵の躊躇なく袈裟斬りにした志乃が立ち上がる。普段は優しい志乃だが、認識している唯一の幼馴染に対しては容赦がない。
「色々調理器具も借りたいんだけど、いいかな?」
「ああ、好きに使ってくれ。何か手伝うか?」
「いいよ。そこで座っていて。できれば渉が粗相しないように見張ってくれるとありがたいかな」
渉が非難の声を上げるが、志乃は微笑ながら無視して荷物を持って台所へ立つ。トートバッグから食材を出しながら、志乃が唐突に声を出した。
「あ、やっぱりお茶請け的なものを買ってきてもらえると助かるな。食後用にね。月、朝倉くんと一緒に行ってきてくれる?」
月が勢いよく顔を上げた。見事な脚線美を包む黒いタイツの上で、両の拳が握られる。上着を脱いだ薄着姿の月は、渉が作り出した変に暑い空気に当てられたのか、頬が上気していた。
部屋に来てすぐ、渉は「あのすらっとした脚を隠すのは男に対しての冒涜だ」と祥平に耳打ちした。死ねばいいと返したが、祥平も同じ気持ちだった。思わず頭を抱えたくなった。誰かと同じ時間を共にすると、思考や感情が引きずられる。それは良いことも悪いこともあるが、いまの祥平には悪影響しか及ぼさない。
短く息を吐いて祥平は立ち上がる。この場にいると頭の悪さが極まるようだ。
「とりあえず行ってくるよ」
「私も行く」
ぴったりと寄り添うように月が祥平の隣につく。志乃はまな板を洗いながら微笑んでいた。
外はもう日が傾いていた。三人と話しているだけでかなりの時間が経っていたのだ。楽しい時間が過ぎ去るのは早い。祥平は幸福だと思えてしまいそうで怖かった。
「どこに行くの? ここら辺はあまり来ないから、私あまり知らないの」
月の声は、不自然に固まっていて、どこか緊張したようでもあった。
「そうだな。近くにコンビニと、ちょっと歩いたところにスーパーが二件ある。足があればケーキ屋も近いけど、歩くと遠いな」
「ケーキ!」
月が突然目を輝かせる。女性は甘い物が好きだとよく聞くが、この反応は予想以上だ。
「遠いけど、行くか?」
「ええ、遠いくらいがちょうどいいから」
目を伏せて月が近づく。友人の同士ではあり得ない、恋人の距離感だ。シャンプーの香りさえ漂いそうな位置に月の頭があるから、祥平は仰け反りそうになった。
理性が変になりそうで、祥平はさり気なく距離を取って歩き出す。月は距離感はそのままに並ぶ。
しばらく互いに無言で歩いていると、月が小さく口を開いた。
「ありがとう」
するりと耳に馴染む声で、月が続ける。
「支えてくれてありがとう。合唱部に連れ戻してくれてありがとう。助けてくれてありがとう」
数珠で繋いだように感謝の言葉を告げられて、祥平は口許を緩める。死の旅路の中にあっても、誰かに感謝されるのは嬉しかった。
「ああ、どういたしまして」
月が忍び笑いを零す。歌うようだった。
「私は一体何ができるのかしら。たくさんのありがとうを言っても、感謝の気持ちが伝わるように思えないの」
「そのまま合唱部に通えばいいよ。別に何かしてくれなくても、それでいい」
月の歌はもう聴けない。あの歌は天使のように希望を振り撒くから、祥平はもう聴いてはいけなかった。だから祥平にとって、月が平和な日常を過ごすことが何よりの感謝の証だ。
「見返りを求めないなんて、格好いいのね」
「そんな大層なものじゃないさ」
月が祥平の前に出て振り返る。ふたりの足が止まった。
強い風が吹く。揺れる電線が、澄んだ大気に甲高い音を響かせる。
「志乃がいるから?」
心臓が止まりそうだった。反射的に開きそうになった口を閉じる。月は穏やかな笑みを湛えながらも、どこか表情が硬かった。
「紗枝倉は関係ないよ。大体なんでそこであいつが出てくる」
「志乃とは幼馴染なんでしょう?」
今度こそ声を失った。石像になった祥平を見つめながら、月が嘆息した。
「どうしてって顔してるけど、分かるわよ」
ずっと見ていたから、と恥ずかしそうに月が告げた。
迂闊だった。志乃ばかりに注意を向けていたから、こんな当たり前のことに頭が回らなかった。
祥平も志乃も渉とは幼馴染同士であるのに、二人が知り合いではなく初対面同士であったなど普通に考えてあり得ない。
「何か言って。誰にも言わないから」
月がもう泣きそうになりながらも続ける。
「あなたが辛そうにしてるとき、いつも視線の先には志乃がいた。何かあるって思った。考えたら当たり前だものね。同じ幼馴染を持つふたりが知り合いじゃないなんて……ねえ、私には言って。助けてくれたあなたが、私に何も相談してくれないのは、少し寂しいの」
そうか、辛そうだったのかと、鈍い納得が落ちた。自分の顔など客観視できないから、そんなところから気づかれていたなど考えもしなかった。
祥平は空を仰ぐ。月に志乃との関係を聞かれるのはこれで何度目だろうか。彼女はもう気づいている。ならば、もう潮時だった。
「志乃とは、幼馴染だよ」
言葉にすると、今まで背中にのし掛かっていた重りがなくなったようだった。志乃を重荷に感じていたのかと、自己嫌悪に吹き飛ばされそうだ。
「そう、なの。でもどうして? あなた達の態度、あれじゃあまるで本当に初対面みたい」
「記憶がないんだ」
月が当惑する。無理もなかった。
「あいつは、俺の記憶だけを“亡くした”んだ」
三年前、祥平は志乃からあの日の記憶を消すため手をかけた。だが、消してしまったのは朝倉祥平という存在であり、決して他人が触れてはいけない不可侵の領域だ。あのとき、祥平は志乃の一部を“殺した”。消したのではなく殺したのだ。
掠れた息が落ちる。喉が震えていた。三年前の己の咎を話すのは、やはり苦痛だった。
「それがいま言える全部だ。だから、あいつにとって俺は、三ヶ月前に知り合ったただの他人だ」
月の瞳の光が揺れた。彼女の顔が驚愕から疑問に変わり、少しの逡巡の後、眉を歪めて俯いた。
「それは、悲劇よ」
なじられているようで心が痛かった。それでもこれが朝倉祥平が犯した罪だから、納得しなければならない。他人から“何か”を奪うことが悪というのなら、朝倉祥平が行ったことは、誰がどう見ても悪のそれなのだ。
「そうだな。記憶を無くすのは誰だって嫌だ」
「違うわよ!」
月が声を荒げる。顔を上げた彼女の両の目から、涙が流れていた。
祥平は再び声を失う。
「あなたのことよ。あなたのことを言ったの。好きだったんでしょう? 誰よりも大切だったんでしょう? ずっとずっと、一緒にいたかったんでしょう?」
知らず、両の拳を握っていた。
痛かった。つらくて苦しかった。迫る死が怖くて、同じ想いを共有してくれる志乃がいなくなって寂しくて、本当はもうのたうちまわって泣きじゃくりたかった。
でもできないのだ。祥平がそうなれば志乃が死ぬ。だからしゃんと胸を張って前を見て、死へ向かって歩き続けなければならない。
それが祥平が貫き続けなければならない献身だ。
「さあな。昔の話だ。もう忘れたよ」
なんでもない風を装って、祥平は笑ってみせた。口端だけを吊り上げた、皮肉交じりの笑みだ。
「だから冬川、このことは黙っていてくれ。もちろん、志乃にも」
「でも……」
「頼むよ」
目を見開いた月は、しばらく呆然として、やがて上着の袖で目元を拭うと祥平を真っ直ぐと見つめた。
「あなたがそういうのなら、もう何も言わない。私は、あなたにしてもらったことを忘れないから」
真っ直ぐな信頼が祥平の深い部分に刺さった。喉が引きつるような思いがした。さっきまでは嬉しかった言葉が、いまは自分の醜さを見せ付けられているようで居心地が悪い。
月を助けたのは、突き詰めれば自分のためだ。彼女の歌が、暗がりを歩いていた祥平の前をあまりにも眩しく照らすから、手を伸ばさずにはいられなかった。
そして、志乃に頼まれたからだ。
蓋を開ければ、朝倉祥平はこんなにも醜い。この二ヶ月で何度も思い知らされたことだった。
「ねえ、明日付き合ってほしいの」
それは、掴んだら何かが終わる蜘蛛の糸だ。
「私にあなたの時間を貸して」
「それは……」
口ごもる祥平の言葉を続けるように、月がきっぱりと告げる。
「デートよ。少し、息抜きしましょう? 疲れてるのよ、朝倉くん。志乃といると辛いんでしょう?」
返す言葉がなかった。心の泉をさらえば見つかるのは志乃と接することに対する恐怖と痛みだ。月の指摘は確かに真実を貫いている。
「ううん、ごめんなさい。それは建前ね」
月が視線を一度川へと流し、祥平へと戻す。
「改めて言うわね。朝倉くん、私とデートして」
時間がない。そう言って断るのは簡単だ。だが、そうするだけの気力がいまの祥平にはなかった。誰かと一日を共にする平穏を思い出してしまったからだ。一度体験すると抜け出せなくなる麻薬の呪いと同じで、死に触れ続けた祥平には平穏な日常は劇薬だった。本来の目的を見失わせるほどに。
上目遣いで月が祥平を見上げる。
「お願い」
首肯しそうになって奥歯を噛む。何がしたいんだと、指針を失いそうになる心を叱咤した。
電信音が鳴る。上着のポケットに仕舞った携帯電話だった。月が視線で「どうぞ」と促す。開いて画面を見ると、あり得ない人からのメールだった。
――月の願いを聞いてあげて。
志乃だった。
祥平は呆然とした。
胃液が沸騰したように顔がかっと熱くなった。唖然としたまま画面を眺め、携帯電話を額に押し当てる。
――きっとあなたではない誰かと一緒に。
七海の言葉が蘇る。鮮烈だった彼女の言葉が祥平の心をがんじがらめにする。
「朝倉くん? どうしたの?」
月の言葉が祥平を思考の渦から引き戻す。だらりと手を下げてそのまま上着のポケットに突っ込む。同時に項垂れた顔をゆっくりと上げて、長い息を吐いた。
「分かった。明日、付き合うよ」
運命に殉じる祥平は、志乃の頼みを断ることができない。心底腐っていると思った。
朝倉祥平は、最初から選択を間違えていたのだ。彼は、この町に戻ってくるべきではなかった。
朝倉祥平は、紗枝倉志乃に自分を見て欲しかったのだ。