第三章/月明かり 1
理性の水で消火するには、恋の焔は少し強すぎる。
冬川月は、自分がとてもわがままで感情に振り回される人間だと理解していた。
家族三人で食事を取った後、電気を消した自室のベッドに寝そべりながら、窓の向こうに浮かぶ、自らの名の元になった本物の月を眺めていた。
音のない、静かな夜だった。
彼女は、夜に浮かぶ月が好きだった。太陽のようにぎらぎらとした熱の篭った自己主張をせず、夜道をぼんやりと照らす月が、彼女には優しく思え、好ましかった。そう在りたかった。
寝返りを打ち、頬にかかった髪を払う。窓から差し込む月光に少し目を細らせて、月はひとりの少年を思い浮かべる。
朝倉祥平。
世の中を斜に構えるような瞳と、世界の裏側を歩いているように感じる、影のある雰囲気を持った、少し特徴的な少年だった。
彼が転校してきてから、月の生活は一変した。気分をどす黒くするような嫌なことはあったが、同時に飴玉を口に放り込まれたような、ぽっとした甘さが心に灯った。
――ああ、好きだ。私は彼が好き。
きっともう恋などすることはないと、する資格はないと感じていた彼女に落ちたのは、誰しもが一度は生み出す恋の種だ。それがいつか大輪の華を咲かせ、理性では消すことができない炎へ成長することは分かっていた。
冬川月は、とてもわがままだ。
だから理性的に生きなければならない。
それが、冬川月が胸に打ったひとつの杭だ。
もう一度寝返りを打ち、仰向けになって窓の外を見上げる。悠久に広がる暗闇に穴を開けた月が、絹よりも柔らかく脆い光を投げ掛けている。腕を伸ばして窓を開けると、冬の冷たい風が身体を厳しく撫でた。
朝倉祥平が月に求めていたのは、そう、歌だ。誰よりも勝っていると自負でき、唯一自分の中で好きだと胸を張っているそれを、彼は好きだと言った。彼に想いを寄せる理由は、それだけで十分だった。
だが、朝倉祥平は、冬川月を女として見ようとしない。苦痛だった。その感情こそがわがままなのだと、月は理解していた。理解していてなお苦しかった。
彼が見ているのは、冬川月でなく紗枝倉志乃だった。
「別にいいわ。私に恋なんて、似合わない」
強がって出した声は、蚊の鳴くような細い声だった。
投げ出された携帯電話が着信音を鳴らした。這うようにして携帯電話を掴んで開くと、志乃からの電話だった。着信キーを押して耳に押し当てると、思わず微笑んでしまいそうにくすぐったい声が月の耳を触る。
「月、いま時間ある?」
「ええ、ベッドに寝転んで月を見上げてるくらいには暇ね」
くすくすと志乃が笑う。
「それじゃあ、少しお話しよう」
「いいわよ。話題は何がいいかしら。今度の聖夜祭の曲目について? 志乃が好きそうなお店の話がいいかしら。それとも、いつも暗い顔をしている男の子の話?」
「どれも魅力的だね。そうだね、じゃあ、恋の話をしよう」
志乃にしては珍しい話題の選択だった。彼女は、あまり進んで恋の話をしようとしない。
「あら、もしかして好きな人でもできた? ならお姉さんに教えなさいな。残念な経験なら豊富だから、ある程度導いてあげられるわよ?」
「違うよ。私の話じゃなくて、月の話をしよう」
「残念だけど、好きな人はいないわよ」
息をするように、月は嘘をつく。実らない恋ほどつらいものはない。ならば忘れてしまうことが、心の一番の特効薬だと月は思う。
「月、私が嘘が嫌いなの、知ってるよね?」
平坦な口調で志乃が言う。感情が凪いだ彼女の声は、いつ聞いてもそら恐ろしいものを感じる。志乃は、明らかに嘘と分かる言葉を聞くと怒るのだ。
少し慌てて次の言葉を捜している月に、志乃が言葉を重ねる。その声はもう笑っていた。
「少し意地悪なこと言っちゃったね。ごめん。でも好きな人はいるんだよね?」
「あ、うん」
思わず月は頷く。志乃を怒らせると怖いことを月は経験則で知っていた。志乃は滅多に怒ることはないが、人としての不義を働くと表情や声、雰囲気といったものを無にして静かに激昂する。氷の怒りにも似たそれは、常に自罰的な傾向にある月には少し耐え難い。
「嬉しいな。月は恋をしないように思えたから、こうして恋の話ができるのはとても素敵なことだと思うの。月が想いを寄せるのは一体だれなんだろう? どんな素敵な人なんだろう?」
初めて飴玉を口の中に転がした子どものように、志乃が無邪気な喜びを声で表現する。
「あの、その……志乃。この話題は終わりにしましょう?」
「どうして? 女の子はいつだって恋の話をするものだよ。誰かを想っているのなら、殊更に」
月はその恋を消そうとしているのだ。そんなときに、直球で話を振られたらさすがにきついものがある。
「あのね、朝倉くんは別に私のこと見てないのよ。だからいいの。別に私も恋をしたいわけでもないし。諦めがつくわ」
言って、しまったと思った。受話器から、硝子の鈴を転がすような、心地の良い息遣いが月へ届く。心が浮き足立つような微笑ましい声で、志乃が言った。
「そっか、月が好きなのは朝倉くんなんだ」
一番知られてはいけない人に知られてしまった気がした。だがもう遅かった。口にした言葉は戻らないから、志乃はこんなにも楽しそうだ。
「それで、告白はどうしよう? いつかするの?」
「しないわよ。人の話を聞きなさいって。さっきも言ったでしょう? あの人は私を見てないって」
月は短いため息をする。自分で言って、心に鋭い針が刺さった。
「そうかな? 私には月を見ない男の子なんていないと思うんだけれど」
「じゃあ朝倉くんは、そんな奇特な人なのよ。少なくとも、彼は私を好きではないわ」
正確には、朝倉祥平はきっと、何かと戦い傷つき、そして逃避した末に月に辿り着いた。月はそう感じていた。それはとても素晴らしいことだ。素敵なことだ。誰かの心の傷を癒せるだけの何かを持ち合わせることができるのは、かつての自分にはできなかったことだ。
寄りかかろうとする人に、恋さえ抱いていなければ。
――月、と志乃が囁くようにして呼ぶ。何かを諭すような口調だった。
「恋は苦しいものだよ。叶えばきっと甘くて心の底から嬉しいって叫びたくなるようなものかもしれないけれど、片思いをしている間はきっと切ない。その人の一番になりたいのなら、つらいことを乗り越えて努力し続けないといけないんだよ」
誰だって痛みを覚えることは嫌だから、なるべくそれを避けようとする。だが、逃げ続けてばかりでは本当に欲しいものは手に入らないから、痛みを堪えて手を伸ばす。
志乃が言いたいことは、そういうことだ。
だが、月にとってそれは欲望だ。欲望とはわがままだ。わがままとは、悪だ。昔の自分に戻るための毒林檎を掴むことなどできない。
「私はそんな風にできない。やっちゃいけないの。だからいいの」
冬川月は、本当は欲しいものを手に入れるためならば、どんな汚い手段も躊躇なくできる薄汚れた人間だ。月はそう思っている。
志乃が悲しげに落とした声を出す。
「ほんの少し積極的になって足を踏み出す。それのどこがいけないの?」
志乃は月のことを好いてくれているから、自虐を続ける月のことを心配しているのだ。それが分かる月は、何も言い返せない。
「月、程度はあるけど、人は皆わがままだよ。月だけじゃない、私もそう。自分が一番大事なんだから、欲を持つことは当たり前だよ。それを無くしたら人じゃない。一個の人格から切り離された“正しい法則”が勝手に歩いているようなものだよ」
途端に志乃の言葉の意味が捉えられなくなる。志乃は時々、高校生では理解できないような難しい言葉を紡ぐ。
「それはどういう……?」
「人は少しだけわがままになって良いって話だよ。正しいだけで生きたら、その人はもう人じゃないって話」
くすくすと笑って、志乃が月へ告げる。
「月、その恋を認めていいんだよ。汚い部分もあるかもしれないけれど、人を好きになることは、それだけできっととても綺麗なことなんだよ。だからその想いを大切にしていいし、想いを抱いた自分を好きになっていいんだよ」
志乃の言葉は、砂糖菓子のように甘く優しい。耳に入れればそれだけで幸せになってしまうような言葉ばかりを選んで口にするから、彼女に諭されればそれはもう絶対的に正しいものだと思えてしまう。
紗枝倉志乃は、きっと間違えない。志乃こそが理想な人物像なのだと信じてやまない月は、彼女の言葉に違うことができない。それでも、足を踏み出すことを躊躇してしまうのは、未だ贖罪を果たせていないからだ。
「ねえ、志乃。本当にいいのかしら。ずっと考えてきたの。私が私の幸せを追求しようとするのは、本当にいいことなのかって。あれだけ人のことを踏みにじっておきながら、誰かを好きになることが正解なんて、そんなのはおかしいわ」
「うん、そうだね。いまもまだ月がそう在り続けるのなら、私はたぶん止めているよ。あなたは最低だって、そう言ってあげる。でもね、いまの月は違うでしょ。だったら、そんなたらればの話をしてもしょうがないよ」
月は首を振る。
「そういうことじゃないのよ。私はまだ私の償いをしていない。それなのに好きな人ができたからって幸せの追求をすることが正しいなんて、信じられないのよ」
「ごめんね。当時の月を私は話でしか知らないから、あなたの苦悩も相手の苦しみも本当の意味では理解できない。それでも、私にとっての月はいまの月だから、いまの月に幸せになってほしいんだよ。それじゃだめ?」
「その言い方は、卑怯よ」
志乃が苦笑する。駄々を捏ねる子どもへ向ける、母親の苦笑だ。
「そうだね。でもそれが私の本心だよ。親友には幸せになってほしいな」
月の理想の権化である志乃に言われると、もう何も言えなかった。誰かに自分の幸せを願われることが、こんなにも嬉しいことだとは知らなかったのだ。
自然と想いが言の葉となって、唇から漏れ出る。
「志乃、私はね、彼が好き」
「うん、そっか」
「彼に振り向いてもらえないことがつらいの」
「片思いは苦しいよね」
「きっと、彼は私を女として見てくれてないわ」
「大丈夫だよ。月はこんなにも素敵な女の子だから。ちゃんと真っ直ぐに思いと伝えれば、きっと朝倉くんは応えてくれるよ」
違う。
月は心の中で呟く。
朝倉祥平は、あの人は……志乃、あなたのことが好きなのよ。
「明日、私がふたりにしてあげるから。そのときにデートに誘ってみたらどう?」
「上手くいくと思う?」
大丈夫、と志乃は力強く言った。
「大丈夫。上手くいくよ。もし自分の魅力を信じられないのなら、私を信じて。必ず上手くいく」
◇◆◇
祥平がまだ小さかった頃、目に映る世界はもっと色彩が豊かだった。それは、楽しかった日常であり、ありもしない希望の片鱗であったり、未来の自分への憧れであり、隣にいた志乃の存在だった。すべてがするりと翻ったあの日から、祥平の瞳に映る世界は白と黒だけで描写され、より一層辛辣になった。
「頭が痛いな」
呟いた祥平は右手でそっと額に触れる。この頃、金槌で殴られたように頭が酷く痛かった。もう限界だという声が聞こえてくるように、いつしか全身から倦怠感が生まれていた。
七海はただ一言、「魂が限界に近づいているから」とだけ言っていた。まさにファンタジーだ。
ふらふらとベッドから降りた祥平は、カーテンの隙間から漏れ入る昼の日差しを浴びながらカレンダーを見やる。今日の日付には、赤いペンで単調な丸が描かれていた。
今日は、志乃と渉、そして月と遊ぶ約束をさせられていた日だ。
祥平は、十二月二十五日に死ぬ。この決意は何よりも守らなければならない“献身”だ。平々凡々な日常に身をやつせば弱い自分は必ず破ると分かっているから、祥平は今日という日が来なければいいと心底思っていた。だが、月日と言うものは無常なもので、誰の上にも平等に巡るのだ。
「あと少しですよ。ちゃんと身だしなみを整えて下さい」
何もない部屋の中に唐突に現れたのは、青白い光を蓄えた、半透明な少女だ。祥平の前世である七海は、部屋の宙を滑ると祥平の腕を取って無理やり立ち上がらせる。健康的な色をした唇には笑みが滲んでいた。
七海は、祥平が普通の生活を送ることを望んでいるから、高校生らしい“遊び”をすることで、彼が自発的に生きようとするのではないかと希望を抱いているのだ。
「分かったって。あんまり急がせるな。こう見えても朝は弱いんだ」
「知ってます。それにもうお昼の時間ですよ。まったく、朝倉さんはお寝坊さんですね」
まるで自分はお前の母親だと言わんばかりの台詞に、祥平はもう苦笑するしかない。
七海に引っ張られるまま祥平は部屋を出て洗面所へ入る。途中目に入った目覚まし時計の針は、もう十二時を指していた。まだ十一時頃だと思っていた祥平は、慌てて身支度をする。三人が来るまであまり時間がなかった。
七海にあれこれ文句を言われながら決めた服に袖を通し終えたとき、部屋のインターホンが鳴った。まだ三人が来るには早い時刻だ。
「少し早いな」
ふふ、と七海が嬉しそうに笑う。
「いいではありませんか。では私は外に出ていますから、今日という日を楽しんでください。では」
七海が閉じられた窓をすり抜けて外へ出て行く。
最近の七海は、雲を見上げることに飽きたのか、祥平の知らぬ間に時折学校まで赴いているのだという。それにはいかばかりの決意があったのか知る由もないが、それでも彼女は学校に来ては、祥平の学校生活を眺めているようだった。
七海はたぶん、そのとき過去を乗り越えた。同じところを犬のようにぐるぐると回る祥平には、とてもできない芸当だ。
もう一度、インターホンが来客を告げる。さすがに冬のど真ん中で友人を待たせ続けるわけにもいかず、祥平は玄関へ向かって鍵を外して扉を開く。
この地方は冬になると北西風が強くなり、身震いするようなからっ風が町の中を吹き荒ぶ。部屋の暖房でぬくぬくとした身体は、外から吹き抜けたからっ風によって一瞬で凍てついた。対する来客は、春を思い起こさせるように暖かな微笑を湛えているから、ちぐはぐとした奇妙な気分になった。
「こんにちは。なんだか外にいる私より朝倉くんの方が寒そうだね」
白い私服に身を包んだ志乃が、可笑しそうに笑っていた。手には不自然に大きく膨らんだトートバッグがあった。彼女の私服姿など実に三年ぶりに見る祥平は、本来は一番に警戒しなければならない相手にも関わらず、しげしげと見つめてしまう。
可愛くなったな、と祥平は思う。本当に、彼女は可愛く、美しく成長した。三年の成果がいまの彼女を生み出したのなら、報われるものだった。
「えっと、中入っていい?」
自分を見つめる祥平の視線に何かを敏感に感じたか、少し照れた装いを見せた志乃がおずおずと言った。祥平は、まだ彼女を見たい内心を抑えて部屋の中へ迎える。
「随分早いな。どうした?」
「うん、ちょっとね」
志乃が曖昧に笑って言った。廊下と部屋を隔てる扉を開けたとき、背後にいた志乃が息を呑んだように感じた。
気にせず志乃を部屋に入れて、祥平は狭い台所でお茶を用意する。東京から越してくるときにくすねた玉露を使うのもいいだろうと戸棚を漁った。水を入れたヤカンをコンロに置きながら、祥平は視線を部屋の中へと滑り込ませる。志乃はトートバッグを小脇に置いて上品に座ると、何かを感じ取るように瞑目した。
「一人暮らしは大変?」
瞼を開けた志乃が、ゆっくりと祥平に視線を移した。祥平はヤカンに火をかけて答える。
「まあな。いままで親にやってもらったこと全部をやらなきゃならないんだ。そりゃ大変だよ」
「そっか。そうだよね。両親に感謝だね」
志乃の言葉が室内に重く反響する。
志乃も一人暮らしをしている。だが、その背景は祥平とは違ってもっと深刻なものだ。彼にとっては苦労な家事も、いまの彼女にはきっと片手間でしかない。彼女はずっと前から、ひとりで家事を切り盛りしていたのだから。
志乃が膝の上に両手を置いて、佇まいを正した。
「朝倉くん、ありがとう」
「いきなりだな。なにか礼を言われることしたっけか?」
「うん、もうずっと前になるけど、朝倉くんに月のことお願いしたことあったよね。いまのはそのお礼。ありがとう、月を助けてくれて」
志乃が綺麗に頭を下げる。
「気にするな。合唱部の件は、別に俺じゃなくても何とかなっただろうし。単にタイミングがよかっただけだ」
あれから、月は毎日合唱部へ足を運んでいる。彼女は、毎日が楽しいのだと言っていた。いじめの手紙やストーカー騒ぎも急に収まり、彼女の追い詰める要素はなくなった。
「それでも、月を合唱部へ戻してくれたのは朝倉くんだから」
玉露の葉を急須へ入れる。
「そう思うなら難題を押し付けるのはもうやめてくれ。これでも一高校生だから、やれることなんて限られてる」
「ふふ、ごめんね」
ヤカンが甲高い音を立てて水蒸気を注ぎ口から噴射した。コンロの火を止めて沸騰したお湯を湯飲みとポッドに注ぐ。湯飲みから立ち上る湯気が、換気扇の中に吸い込まれていった。
「朝倉くんは、月のことをどう思ってるの?」
「どうって、何がだ」
「好き?」
祥平は温まった湯飲みの中のお湯を捨て、今度はポッドからお湯を注ぎ入れた。手が震えていた。
「嫌いじゃないな。どちらかと言えば好きだな、人として」
湯飲みのお湯を急須に入れる。玉露独特の覆い香が、仄かに鼻孔を触る。
祥平は志乃に振り向く。彼女は静かに祥平を見つめていた。まるで、すべてを見通しているかのような、澄んだ瞳で。
「そういう意味で言ったんじゃないんだけどね」
心を透かされているような気になって、祥平は視線を逃がす。葉の開いた玉露が、濃厚な香りを部屋に充満させていた。良い時間になって、温もりが灯った湯飲みに少しずつ、交互に玉露を注ぐ。最後の一滴まで搾り取ってから急須を脇に置いた。湯飲みをお盆に乗せて志乃の下に戻る。
「男と女って意味なら、期待するな。そんなこと考えるほど俺も余裕ないんだ」
湯飲みを志乃の前に置く。手を離す寸前、指先が彼女の指と触れ合った。彼女の瞳が開き、口元に笑みが浮かんだ。
「玉露なんて何年ぶりかな。小学生のときにやった、お茶の入れ方教室以来かも」
懐かしいな、と祥平は言葉に出さずに思い返す。
小学生の頃、県の名産品であるお茶をおいしく飲むために、お茶の入れ方教室が毎年催されていた。小学五年生のときに参加した教室では、いまになっても目にする機会のないような様々な種類のお茶を飲んだのだ。もっともその頃はお茶になど大して興味はなく、お茶請けとして出された和菓子の方ばかりに気を取られていた。最後に残ったモナカを渉と取り合ったのは懐かしい思い出だ。
「よく玉露って分かったな。普通はすぐに分からないぞ」
「うん、ちょっとね」
志乃が言葉を濁して曖昧に笑った。
息を合わせたわけでもないのに、二人は同時にお茶をすすった。芳醇な味わいが舌から喉に転がり落ちて、身体の奥から深いため息が出た。
「あの頃とは違った味がする。お茶っておいしかったんだね。でも、良かったの? 玉露って確か高かったと思うけど」
「実家からパクってきたものだから、別に問題ないよ」
「朝倉くんは悪い子だね」
「言ってろ」
二人の間に和やかな雰囲気が生まれた。ようやく奇妙な緊張がなくなって、祥平は肩の力を抜いた。まさかこんな風に彼女とまた会話ができると思わなかったから、時間が巻き戻ったような気がして胸の奥が暖かくなった。この幸せが、少しでも長く続いてほしかった。
「それで、その荷物は何だ? やけに色々入ってそうだけど」
「ああ、これ?」
志乃が目を丸くして、小脇の置かれたトートバッグに手を置いた。
「ただの食材。一人暮らしで色々難儀しているだろうって思って」
「料理してくれるのか? そりゃありがたい」
「今日は特別だよ。本当なら高いんだからね」
含み笑いを浮かべて志乃が言う。
正直に言って、志乃の申し出はありがたかった。一人暮らしを始めてからというものの、祥平はろくな食事を摂っていないのだ。だからだろうか、以前渉が言っていたことが妙に引っかかった。
「料理教室、してるんだって?」
志乃の表情が固まったように見えた。次の瞬間には、ほくほくとした暖かい微笑みを湛えていた。
「渉から聞いたの? うん、まあ、してるかな」
「柏木湊、だっけ。仲良いんだな」
変に責めるような口調になってしまっていた。下手に先を続ければ、折角まともなになったこの空気を壊してしまいそうだから、祥平は咳払いをして慎重に口を回す。
「そりゃさぞかし柏木の奴も苦労してそうだ。何せ紗枝倉さまの料理はお高いからな」
「あ、酷い。その言い方はないなあ。そんなこと言うと作ってあげないよ」
「悪いな。俺のとりえは口が悪いことくらいなんだ」
「それ、長所じゃなくて短所だよね」
ふいに、インターホンの音が新たな来訪者を告げた。助かったと思った祥平は、湯飲みを置いて立ち上がる。
子どもの頃、世界はもっと色彩が豊かだった。隣に志乃がいたからだ。そして、いまはこうしてテーブルを挟んで話している。
だというのに、なぜ。
なぜ、志乃とふたりになることが、いまは怖くてたまらないのだろう。