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第二章/嘆きの独唱 7

 朝日に導かれるように起きた祥平は、身体が重いことに気がついた。あれから、どちらともなくソファーで寝てしまったのだと思い出す。ちゃんとした場所で寝なかったことを後悔しながら隣を見ると、月が肩に頭を乗せて寝入っていた。あどけない表情で眠る彼女にしばし見惚れる。

「なあ、もしずっとこうしていたら、俺は、幸せになれるのかな」

 呟いた言葉が心臓を握りつぶすように強く、強く締め付ける。

 ほんのりと赤い月の頬に手を這わせた。滑らかな感触が手の平に広がる。

 十年以上元気に動いていた家電製品が突如異音を吐き出し壊れるように、祥平の心にもガタがきていた。月に対する共感が、彼の疲労を加速させたのだ。

「冬川は、俺を忘れたりするのか?」

 志乃の記憶喪失は想像以上に祥平の心を蝕んでいる。彼女に忘れられたとき、祥平は一度死んだ。彼女がすべてだった彼にとって、彼女の中にある自分の記憶は一個の人生だった。それが消えたとき、消してしまったあのとき、祥平は確かに死んだのだ。

「苗字で呼ばれるのは嫌だ。他人行儀は嫌だ。話したら駄目なんて、嫌だ。避けるのだって本当は嫌で嫌で堪らない。堪らないんだよもう」

 本音がぼろぼろと出てくる。一度話してしまうと、堰を失ったように次々とまろび出てくる。

 月が身じろぎして祥平に抱きついた。生暖かい吐息が首筋を薄く触り、女の柔らかさが身体の前面に広がる。祥平は奥歯を震わせた。

 祥平は月の身体にしがみつく。喉の奥から熱いものが込み上げてくる。飲み込もうとして、でもできなくて、唇を噛んだ。

 幸せになりたかった。

 死にたくなかった。

 生きたかった。

 決して出てはならない本音が身体が真っ二つに引き裂いた。

 ――自分は一体、何を救おうとしていたのだろう。

 腕を回して月の身体を抱きしめる。彼女が腕の中で鳴いた。体温が欲しくて抱く手にもっと力を込める。彼女が苦しそうにうごめく。

 息が落ちた。

 重い、重い息だった。

「……朝倉くん、泣いているの?」

 起きた月がくぐもった声で問う。ぴくりと、祥平は身体を震わせた。

「涙は、もう嗄らしたよ」

 身体を離してソファーに祥平は座り直す。間を開けて月が身体を起こした。熱のある月の視線が祥平へと注がれる。

「朝――」

「学校へ行こう」

 月に何も言わせないように、祥平は事務的に言う。

「支度して学校へ行こう。大丈夫、今日は何もないさ」

 これ以上弱音が出ないよう感情に蓋をする。

 幸せを追求すれば志乃は死ぬ。だからいまの台詞は無かったことにしなければならない。

 心を凍てつかせることは容易ではない。血が通っているから熱で溶けてしまうのだ。それでも、祥平は心を無理やり氷らせる。

 歪む顔面に無表情の仮面を被って立ち上がる。

「朝倉くん?」

 月が縋るように祥平を見上げた。

「冬川、いまは自分の事だけ考えてればいいんだ」

 月に無理やり支度をさせ、自分自身も着替えた祥平は冬川家を出た。学生やサラリーマンに混じって電車に乗り、地元の駅で降りる。途中、彼女に断り家に戻って新しい服に袖を通す。七海はいなかった。

 家を出て学校に着き、祥平は月と共に恐る恐る彼女の下駄箱の蓋を開ける。中には上履き以外に何も入っていなかった。

「珍しいこともあるものね。毎日入っていたのに、飽きたのかしらね」

 月は笑って言った。

 それから一日、まるで昨日の出来事が嘘だったかのように、月の周りは平和そのものだった。硬かった彼女の表情も普段のそれに戻り、放課後になる頃には勝気な彼女に戻っていた。

 帰りのホームルームが終わると、月は鞄を持って祥平の傍まで寄って来た。どこか恥ずかしそうに赤面して俯きながら、彼女はそわそわとしつつも、彼を上目遣いに見た。

「今日は、聴いていってくれるの?」

 当たり前だ、と紡ぎそうになる唇を祥平は無理やり噛んで止めた。いい加減、頃合だった。

「冬川、少しだけ、付き合ってくれないか?」

「いいけど、どうしたの?」

「そろそろ、決着をつけよう」

 祥平の言葉に、月が不安を忍ばせた表情を返した。

 祥平が月に近づいたのは、自分の闇を晴らしてくれそうな歌があったからだ。歌さえあれば、死ぬまでの時間を生きていけるのだと感じたからだ。だが、それももう終わりにしなければならない。ひとりで死ぬまで立って歩かなければならない。丁度いい機会だった。

 志乃に頼まれたのだ。月を合唱部へ戻して欲しいと。ならば、それをひとつの区切りとしてもいいはずだった。

「合唱部へ行こう」

 世界が凍った気がした。生徒達がまだ残る教室に響く喧騒が、そのとき、姿を消した。

「どうして、そうなるの?」

 月の声には怯えが潜んでいた。彼女は潜在的に人を怖れ、何より自分の性格に恐怖している。彼女は、自身が誰かを傷つけてしまうことが嫌なのだ。それができてしまうほど残酷であるのだと思い込んでいる。優しい人になりたいと心底願うほどに。

「合唱部に戻るんだ、冬川。もうひとりで歌わなくてもいいだろ」

「いやよ。また惨めな思いをしろっていうの?」

 憂いの瞳で月が祥平を見つめる。見ているだけで甘やかしたくなる視線だった。

 ひとり、またひとりと教室からクラスメートが出て行く。

「なあ、人間関係が上手くいかないなんて、何も冬川に限った話じゃない。俺だって上手い方じゃない。だけどひとりは嫌だから、誰かと手を取り合っていかなきゃ生きていけないから繋がろうって思うんだ。でも冬川、手を伸ばさなきゃ永遠にこのままだぞ? それでもいいのか?」

 月の視線が左右に揺れる。

「このまま、ひとりで歌い続けるのか?」

 月が俯く。白い手がぎりぎりと音を立てて鞄を握る。

「朝倉くんが聴いてくれるなら、私はそれでいい。それでいいの」

「独り占めできるのは嬉しいが、それはよくない。なあ、折角受け入れてくれる場所があるんだ。もう向こうにも話してある。歓迎してくれるって言ってくれてる」

「嘘よ」

「嘘じゃない。本当だ。合唱部の部長はそこまで悪い奴じゃない。そこで何かあれば力になってくれる奴だ。それでも辛いようなら俺がまた飛んでく」

 でも、と月が声を細くする。祥平は続きを言わせるつもりはなかった。

「冬川、変わりたいんだろう?」

 はっとしたように月が顔を上げた。

「優しくなりたいんだろう? もう昔みたいになりたくないんだろう? なら、変わるならいまじゃないか?」

 否定だけを吐き出していた月の唇が形を変えた。笑おうとして上手くいかなかったのか、彼女の唇は不恰好に歪んでいた。それでも、祥平にはそれが美しく見えた。彼には決してできない、新しい自分に変わろうとする必死な姿だった。

「……うん」

 月が笑う。祥平は初めて彼女の本当の笑みを見た。


 ◇◆◇


 約束していた通り、部活へ戻った月を合唱部は暖かく迎えてくれた。まるで転校生が初日に質問攻めを食らうように、部員から話しかけられる彼女の姿を見ながら、祥平はようやく仕事をひとつ終えたのだと安堵の息を漏らした。

 やるべきことを終えてしまうと、途端に、すぐ先に見える死を実感せざるを得なくなるから少し心が痛んだ。だが、月の戸惑った表情の中に明るい感情が含まれていたから、最後に人を救えたのだと嬉しくなった。

 月を遠巻きに眺めながら、もう帰るかと呟いて祥平は彼女に背を向けたところで腕を掴まれた。合唱部の部長、織部泉だった。

「功労者がもう帰るのかな?」

「元々俺は部外者だ。やることをやったらただの邪魔者だろ」

「そんなことないんだけどなあ」泉が屈託なく笑うと、急に声を潜めて祥平に耳打ちする。「昨日の件、気になる話を聞いたよ。あの子の下駄箱の前で、女子生徒が周囲を気にしながら立っていたらしいよ。何か手紙みたいなのを持ってたって。その子が犯人なんじゃない?」

 祥平は眉をひそめた。

「姿格好は?」

「背は高くもなく低くもなく。髪は染めてなくて、セミロングだったかな。顔は見えなかったって」

 心当たりを探るが、生憎転校したばかりの祥平には該当する人物はいなかった。渉あたりに探らせる必要があるだろう。

「泉、それが誰かは分かるか?」

「ごめん。さすがにこれだけだとね」

 泉が肩をすくめた。

「いいさ。あとは俺で探す。部活でのことは頼んだよ」

「うん、頼まれました」

 泉が爽やかな笑顔で笑った。向日葵のような女の子だな、と祥平は思った。

「あ、そうそう。祥平くん、あの子とはもう付き合ってるの?」

 笑みをいやらしいものに変えた泉が言った。

「俺が、誰と?」

「いやだなあ。冬川月に決まってるじゃん。で、どうなの? こっちとしても前のことがあったから部員に色々聞かれちゃってさあ。あ、安心してよね。ちゃーんとあれは私の嘘だったって言っておいたから、祥平くんが悪者にならないようにしといたよ。えっへん」

 にたにたと言った泉の言葉の中には、ひっかかることがあった。

「いや、待て。なんだそれは。どういうことだ?」

「やだなあ。柏木くんが言ってたんだよ。あの二人は付き合ってるって。あれ、好き合ってる、だったかな? まあ、どっちも似たようなものだよね」

 柏木湊? あいつがなぜそんなでたらめなことを言いふらす?

 額を押さえた祥平を尻目に、泉は楽しそうに先を続ける。

「で、やっぱり本当なの? 聞くところによれば、昨日はひとつ屋根の下で過ごしたとかなんとか。清い付き合いしなきゃだめだぞー」

 ぞっとした。どうしてそこまで知られている? 昨日のことは誰にも言っていないにも関わらず、なぜばれた?

 あの腹の底に何かを渦巻かせたような男を祥平は思い出す。湊の目的が見えない。あの男は一体何を考えている?

 俺が邪魔なのか? なぜ? 志乃とただならぬ関係があるように思われたからか?

「それも、柏木から聞いたのか?」

「たはは、ばれちゃったか。って、え? ホントなの?」

 見つけてはいけない何かを見つけてしまった気がした。一気に頭へ血が昇る。落ち着けと意識的に冷静さを取り戻す。泉の両肩を掴んだ。

「八割誤解の二割本当だ。柏木はいまどこにいる?」

 剣幕に押された泉が祥平から視線を外した。

「え、っと。今日はヘルプの日じゃないから、たぶん家に帰ってると思うけど?」

「家の場所は? どこに住んでる? いや、連絡先を教えてくれ」

 ただならぬ雰囲気を察したか、泉は思いのほか素直に湊の連絡先を教えてくれた。礼を言って合唱部から離れる寸前、彼女が「二割ってどの部分なのさ」と追いすがってきたが無視した。廊下を走りながら湊の携帯電話に電話を掛けようとして、祥平は足を止める。

 廊下の先に、ひとりの少年が髪の毛を弄りながら立っていた。

 湊だった。

 祥平の存在に気づいた湊が、白々しい笑みを口元に作って片手をあげた。

「やあ、朝倉。もう済んだのかい?」

 いますぐにでも殴ってしまいたい衝動を飲み込み、祥平は努めて冷静に返す。

「ああ、冬川は合唱部に戻ったよ」

「そうか。良かった。君にはちゃんとお礼を言わないといけないね。ありがとう」

 湊が頭を下げる。その様はいまどき珍しく礼儀正しい少年そのもので、泉に嘘を教えた人物とはとても思えなかった。

「やりたくてやったことだ。お前に礼を言われる必要はない」

「やりたくて、ね」

 湊の指先が、女のように赤い唇を艶かしくなぞる。

「それは重畳」

「柏木、聞きたいことがある」

「うん? 構わないよ。君が何と言おうと、ボクが君に感謝をしているのは確かだからね。答えられる範囲ならなんでも答えるよ」

 芝居がかった口調で湊が言う。それが余計に腹立たしかった。激情を押さえ込むように、祥平は両の手を握る。

 目ざとくそれを見ていた湊が、柔らかく微笑みながら促す。

「どうぞ?」

「泉、あの部長に何を吹き込んだ」

「吹き込んだ? 一体全体何のことだい?」

「言い方が悪かったな。俺と冬川が付き合っているなんて嘘をどうして言った?」

 ああ、と湊が唇を歪める。半月状に開かれた唇で笑みを象る。

「もしかして気に障ったかな? ごめんごめん。あれはボクの客観的な視点で話しただけだよ。まるであのふたりは付き合っているようだね、と。だから他意はない。ほんの世間話みたいなものだよ」

「泉はまるで断定口調で言っていたぞ」

「口伝なんてものは得てしてそんなものだよ。噂に尾ひれがつくように、人から人へ伝えられる話は、その間に意味が変わってしまうんだよ」

「それで納得しろと?」

「怖いなあ。何もそんなに怒ることないじゃないか。ちょっとした噂話程度、聞き流してくれてもいいだろう?」

 湊が大仰に肩をすくめる。詰問している祥平が大人気ないとでもいうようだった。

 だが、それでも祥平はこの噂を看過できない。十二月二十五日に祥平は死ぬ以上、恋愛などしている場合ではない。もし冬川月が、何かのきっかけで噂から本気になってしまったら、祥平は責任など取れないのだ。

「困るんだよ、そういう噂を流されるのは」

「そうかい? 冬川は結構な美人さんだし、性格もまあ、いまは悪くはない。欠点はあるけどね。でもそこが冬川の愛嬌みたいなものだし、男からすれば可愛いものだろう?」

「やけに冬川に詳しいな」

「こう見えても、合唱部のあれこれがある前は仲が良かったからね。それなりに会話は重ねているよ」

 あからさまな怒気を向けられていても、湊は飄々としていた。まるで風に揺らめく柳と会話をしているようだった。

「分かった、もういい。納得はしないがいまは納得してやる」

「それは良かった。できれば今後とも冬川とは仲良くしてもらいたいものだよ」

「まだある。冬川の家に俺が泊まった、そんな噂を流したのもお前だろう?」

 湊のまぶたが揺れる。運動場から届く生徒たちの掛け声がうるさい。

「それは初耳だ。朝倉、こういってはなんだけれど、一応ボクらは高校生だ。もう少し順序立てた交際というものをしたらどうだい?」

「噂と言ったろうが」

「でも嘘じゃないんだろう?」

 祥平は答えられない。確かに事実だからだ。

「まあいいさ。あまり詮索するのも野暮だろうから、言及はしないよ」

 湊が祥平の肩に手を置く。真意の読めない瞳が、祥平を真正面から見つめる。

「何事も考えすぎは良い方向へ導かない。頭を空っぽにして生活してみたらどうだい?」

「なんだって?」

「言った通りのことさ。どうにも君は思慮深過ぎるところがあるからね。いや、君だけじゃないかな?」

 歩き出した湊が祥平とすれ違い、足を止める。振り返った祥平を前に、湊がぼんやりとした輪郭の無い表情を浮かべていた。

「ボクはボクで、ボクにできる精一杯をやるよ。だからそうだね、君にはこの言葉を送ろうか」

 湊の口が半弧を描く。

「家族は大切にした方が良いよ? その歳でひとりは、さすがに堪えるだろう?」

 じゃあね、と湊はひらひらと手を振って踵を返す。湊の後姿が見えなくなるまで、祥平はその場を動くことができない。

 湊の姿が消えて、祥平はようやく思い出したように息を吸った。全身が痙攣したように震えていた。

「なんで、あいつ……まさか、俺のこと、知ってるのか?」

 湊の言葉が頭の中で回る。祥平は、心に決意の楔を打ち立てるために、両親の記憶を消した。それが最善だと思ったからだ。湊の言葉がそれを指しているとでもいうのだろうか。

 恐ろしかった。初めて得体の知れないものを見つけてしまった気がした。

「帰るか」

 呟いて祥平は、のそのそと歩き出す。疲れていたから、もう何も考えたくはなかった。元々今日は寄り道せず早めに帰宅するつもりだったのだ。一日家を空けて翌日も帰りが遅いなんてことになれば、七海が心労で死んでしまうかもしれない。まあ、元々死んでいるのだから取り越し苦労であろうが。

 祥平が自室に戻ると、テーブルの前に七海が浮いていた。彼女が瞳が彼の姿を見つけると、顔を歪めて飛び込んできた。幽霊のくせに重量のある身体に抱きしめられ、祥平は呻きながらその場で尻餅をついた。

 七海がしゃくりあげる。

「心配しました。本当に、本当に死んでしまったのかと心配しました」

 祥平は青い燐光に目を瞬かせた。

「おい、勝手に人を殺すなよ。まだ十二月二十五日まで死ねないんだ。それまでは生きるさ」

 祥平は七海の背をそっと撫でる。ひんやりとした、生のない感触が手の平に広がる。彼女が身体を離して彼を見つめた。

「生きてください」

「何言ってるんだ。いまも生きてるじゃないか」

 七海が首を振る。祥平は頬を引きつらせた。彼女が言わんとしていることに思い至ってしまった。

「朝倉さん、私は言いましたよね。あなたは生きられると」

「知らない、聞いてない。そんな選択肢……ない」

 祥平は耳を塞ぐ。

 無理に凍てつかせた心は、いまや極寒の地のように乾いている。そうであるはずだった。そこに潤いを齎す七海の声を聞くことなど、許容できない。

「もう自分を犠牲にするのはやめましょう」

「無理だ」

「本音を教えてください。生きたいのでしょう? いまが辛くて堪らないのでしょう?」

 図星ばかりを突き刺される。触れられたくないから大事にしまっていた急所は、いまや赤く爛れて膿んでいる。それを白日の下に曝されれば痛いのは当たり前だ。

 七海が祥平の顔を覗く。

「生きてください。それがあなたの本当の望みのはずです」

 我慢の限界だった。

「うるさいんだよ! だれのせいでこうなったと思ってるんだ! いまさら生きろ? ふざけるな! 生きたくても生きられないんだよ!」

 祥平にとって生を望むことは、志乃を殺すことを心が肯定しているということだ。それだけはあってはならない。彼は、心から志乃が生きることを望んでいるはずなのだから。

「それでも、生きて下さい」

「俺が生きていいはずがない。俺がそんなこと望んだら、あいつが死んだぞ!」

「あの子は三年もの間、あなたを忘れて生きてきたんですよ? それでも助けたいと望みますか? 自分を殺してまで?」

 頭では分かっていても、金槌で殴られたみたいに頭が真っ白になった。

 紗枝倉志乃は、三年前のあの日まで、地獄の中にいた。対する彼は、平穏な毎日を過ごしていた。あの日を境に立場は逆転し、彼はどん底に突き落とされ、彼女は記憶をなくしながらも平和な日常に手をかけた。

 なにひとつ間違ってはいない。祥平が望んだことだった。

 この先、祥平は地獄の更に奥へと落ち、志乃は彼の犠牲すら知らず未来へ歩んでゆく。それが最上のはず、だった。

 祥平の思い込みを七海が華奢な腕でこじ開けていく。

「分かっていますか? あの子は、三年前までの紗枝倉志乃とは別人なんですよ? 幼馴染の彼女ではなく、数週間程度の付き合いしかないただの友人です。友人にあなたは命を賭けますか? 本当に?」

 息が震えた。心に生えた氷山に亀裂が生まれる。

「愛情は抱かれない。感謝もされない。影に隠れたまま彼女を救い、彼女の記憶に残ることなく一生を終える。ただひとりで二人分の絶望を背負った少年の苦悩さえ知らず、彼女はそのまま生きていく。絶望ではなく希望を持って、きっとあなたではない誰かと一緒に」

 七海が祥平に覆いかぶさる。耳元でそっと悪魔の声を囁いた。

「耐えられますか?」

 怒りで頭が沸騰した。勝手に身体が動く。七海の身体を押し退け、振り向きざまに彼女の頬へ平手を打つ。乾いた音が鳴る。癪に障って返し手でもう一回はたいた。祥平の暴力に頬を左右に揺らした七海は、無表情に彼を見つめて、肩をすくめた。祥平は息を荒くする。頭に上った血が振り切れる。彼女の制服を掴んで床に押し付け馬乗りになった。

 この女の所為で人生はもう滅茶苦茶だ。あの頃に戻りたい。志乃と元の関係に戻りたい。こいつさえいなければ。こんな、こんな奴なんていなくなればいい志乃だって俺のこと忘れて平然と生きて平気な顔して俺に話しかけるなよなんでだよ志乃はなんで俺がどれだけ苦しんだと思って、でも志乃に生きて欲しい俺はもう諦めた死んでもいいでもこいつはこいつだけは前世だけは許せない――

 満身の力を込めて握った拳を振り上げ下ろした瞬間、七海の無表情の口元が笑みを作った。寸前で祥平の腕が止まる。

 無音。

「構いません。好きなだけ殴ってください」

 七海が静かに言った。彼女の鼻先で祥平の拳は揺れたまま、先に進まない。

「気が済むまで好きにしてください」

「な、んで……」

 そこで、ようやく七海は表情を元に戻した。震える祥平の拳を前世がひんやりと冷たい両手で包み込む。

「これでも、私は本当にあなた方には申し訳ないことをしたと思っているんです。私ができることなんて、あなた方の怒りを受け止めることだけですから」

 全身の力が抜けて、祥平は馬乗りの態勢のまま腰を折り、七海の首筋に額を落とした。

 ここまで自分が腐っているとは思わなかった。七海だって苦しかったはずだ。生前に散々な目にあったばかりか、後世にまで惨い仕打ちをしなければならなかったのだから。彼女の心労は、いったいどれだけのものだったろう。

 祥平は視界が狭すぎて何も知らない、気づけない。

「ごめん、ごめんな……俺、なにやってるんだろうな」

「人の心配してるほど余裕はないのでしょう? あなたが気づいていないだけで、あなたは優しい。そんなに自分を卑下しないで下さい」

 七海の両手が、力なく解かれた拳から彼の頭へと伸ばされる。

「生きましょう、ね? このままでは、あなたが潰れてしまいます」

 七海が上半身を起こす。しばらくの間ふたりは見つめ合った。

 もう夜になっていた。明かりのない部屋の中に、窓から月明かりがふたりを照らす。

「七海、俺は死ぬ」

「はい」

「ずっと前から、あいつを救うって決めてたんだ。自分の死が見えたくらいで覆せるほど俺の決意は安くない」

「はい、分かっています」

 七海が小さく頷く。

 祥平は、溶けて流れだした心を必死にかき集めて、言った。

「ごめんな。俺は弱くて何もできないから、これくらいしなきゃ志乃を助けられないんだ。だから、もう生きろなんて言わないでくれ。頼むよ……七海」

 七海が空けた窓から、風が舞い込んでくる。それは、冬の到来を予感させる、凍えるように乾いた風だった。

 七海の瞳から涙が一筋流れた。

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