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第二章/嘆きの独唱 6

 家族のいない冬川家に泊まるということは、ひとつ屋根の下でふたりきりになるということだ。状況が切迫しているだけに仕方なかったが、祥平の精神は色々な意味で限界を超えていた。生きている中で幾度押されたであろう駄目男の烙印を、今日ほど強く感じる日はない。

 十畳ほどのリビングにあるソファーに祥平は身体を投げ出していた。人様の家で何をやっているのかと思うのだが、下手にかしこまっていると余計に緊張して自分が何をするのか分からない。ただでさえ彼の耳には浴場から聞こえる音が届いて、居てもたってもいられない。男だからしょうがないと言い訳してみても、結局よこしまな思いには変わりがないから始末が悪かった。

 なにか別のことを考えようと思考を無理やり外す。急に七海のことが心配になった。彼女には今日帰らないことを連絡していない。あの幽霊のことだから、もしかしたら今ごろ町中を探し回っているかもしれない。年頃の女性の家で二人きりなのに、考えることは幽霊かと笑った。

 浴室から月が出る音がした。しばらくしてリビングの扉が開き、寝巻き姿の彼女が中に入ってきた。湯気の冷め切らない彼女の姿を直視しそうになって、祥平は慌てて目を逸らす。

「ごめんなさい、先に入らしてもらって。次、入っていいから」

 月のしおらしい声が、全身をくすぐる。シャンプーの甘い匂いが仄かに鼻孔を突き、むずがくなった。早く普段の彼女に戻ってもらいたいのに、無理だと分かっているから、祥平は呻き声しか返せない。

 リビングに生まれた沈黙が耳に痛い。さっさと浴室を借りれば良いのに、立ち上がったら何かを間違う気がして動けなかった。

「いいよ、入って」

「ああ」

 意を決して立ち上がる。鎌首をあげそうになる欲望を殺して、祥平は洗面所に向かった。洗面所の置き場には彼のために用意された客用の寝巻きが置かれていた。

 制服を脱ぎ、浴室に入って恐る恐る湯船に浸かる。程よい熱のお湯が全身に染み渡り、ようやく一息つくことができた。

 これからどうするべきか考え始めたそのとき、洗面所の扉が開く音が聞こえた。曇りガラスに月のシルエットが映し出される。湯船に入っているはずなのに、身体が凍りついた。

「湯加減はどう?」

「あ、ああ、丁度いい」

 湯加減など分からない。

「そう、よかった。あとで……話があるの。いいかしら?」

「分かった」

「ありがとう、朝倉くん」

 月が洗面所から出て行く足音を聞いて、祥平は長い息を吐き出した。何度か顔にお湯を掛けて、理性が正常稼働していることを確認する。それでもリラックスなど到底できそうにないから、そそくさと身体を洗って浴室を出た。人様の家でくつろげるほど、祥平の肝っ玉は大きくなかった。

 借り物の寝巻きに袖を通してリビングに戻ると、ソファに座って俯いていた月が顔を上げた。彼女に風呂の礼を言って、少し離れた場所に腰を下ろす。理性が保てる限界の距離だ。「飲み物を持ってくるから」と言って、彼女が台所へ向かった。彼女の動作がぎこちなく見えて、彼まで緊張してしまいそうだった。

 飲み物を持って戻ってきた月が、祥平が築いた予防線を壊してすぐ隣に座った。なぜか逃げ道を塞がれているような気がしてならない。礼を言って冷えた緑茶を受け取り、口をつける。懐かしい故郷の味が、少しも感じられなかった。

「話をしてもいい?」

 か細い声で言って、月が祥平を見据えた。彼は頷く。

「なにから話せば良いのかしらね。今日のことも、昔のことも。色々と聞いて欲しいことがあるの」

 恥ずかしそうに月がはにかむ。表情はまだぎこちなかった。

「あの手紙はあなたが来てから届くようになったの。殆ど場所は学校の下駄箱。最初は、まあね、一方的なラブレターなんだって思ってた。しかも印刷されたものだし、別に気にしなかった。でも次第に内容が酷くなっていって」

 月が俯き笑い声をあげる。胸が締め付けられるような声だ。彼女の瞳が悲哀に揺れた。豊かな黒髪を心細そうに手繰る。

 月をどのように扱えばいいのか、祥平には想像も付かない。愚かを通り越して滑稽だった。両手で顔を覆いそうになって、寸前で手を下ろした。一番苦しいのは彼女なのだから、これ以上不安を強いるような真似をするわけにはいかない。

「警察へ届ける――っていってもろくに動いてくれそうにないな」

「たぶん。できれば、両親にも知られたくないの。昔のことで随分と心配をかけたから」

 祥平が理解できない部分がそこだった。普通の女の子なら、高校生の手に余ることを一番に相談する相手が両親だと思ったからだ。なにより、志乃や渉に話したがらない理由も想像できない。一ヶ月にも満たない付き合いでしかない祥平は、冬川月が一番に助けを求める相手には心許ない存在のはずなのだ。

 昔の話よ、と祥平の疑問を解消するように月が話を切り出した。彼女が髪を手放し片腕を抱きしめる。

「私がまだ中学生だった頃、なかなか酷い性格だったの」

 いまも大して変わらないかもしれないけれどね、と月が悪戯っぽく付け加えた。

「小さい頃から自分の容姿には人一倍自信を持っていてね。こう言ってはあれだけれど、歌だって人以上に上手に歌えたし、女としては自分が一番だって思ってたの。馬鹿馬鹿しい話だけれどね」

 昔の過ちを月が話し続ける。

「最初はよかった。ただ人より優越感を持っていただけだから。でも次第にそれが態度に現われて、みんなが自分より駄目な人間だと思い込むようになったの。そんな風になった人間って酷いものでね、気に入らない相手を見つける度に、虐めをするようになるのよ。一体何人を泣かせたのか分からないほどに」

 言葉を切って、月が天井を仰いだ。彼女の顔に悲痛が浮かぶ。からん、とグラスの氷が音を立てて割れた。

「あれは中学三年のときだった。クラス替えと同時に、いつものようにクラスのリーダー的存在になったと勘違いをしていた私は、ある一人のクラスメートを虐めることにしたの。一体何が気に入らなかったのか、いまとなっては分からないのだけれど、当時の私にとっては鼻についたんでしょうね。虐めが始まって三ヶ月くらい経ってかな、そのクラスメートが学校に来なくなった。登校拒否をするようになったの」

 涙が月の頬を伝う。ぽたぽたと落ちる後悔が染みた雫が、彼女の膝に消せないシミを作った。

「たぶんそのとき、みんなこれが異常だってことに気がついたのね。いつの間にか標的が私になって、自分が今まで仕出かしてきたことを体験することになったの。ほんとに、どれだけ自分が醜かったのか思い知らされた。当たり前だけど、私には友人なんて呼べる人はひとりもいなかった。私が持っていたのは、薄汚れたこの性格だけ。その頃ちょうどね、両親の都合で新居を構えることになっていたから、無理をいって離れた場所に家を建てることにしてもらったの。せめて高校からは、優しい人になろうって思った」

 恥じ入るように月が膝を抱えて丸くなった。普段は背の高さと雰囲気が合わさって大きく見えた彼女の姿が、いまや、ひ弱な子犬だ。

「だからといって、そうそう上手くいくわけがないのよ。結局合唱部とは上手くいかなかったし、ちゃんとした付き合い方を知らないから、友達なんてろくに出来やしない。そんなときに話しかけてくれたのが志乃と渡会くん。渡会くんにはいつも馬鹿みたいに振り回されて、志乃には本当の優しさを教えられた。いつだったか、いまの朝倉くんみたいに二人に話して、志乃にこう言われたの。駄目だった自分を直そうと頑張っているなら、引け目に感じる必要はないって。救われたと思った。私にとってはあの二人は恩人で、初めての友達なの」

 二人の行動が想像できて祥平は口元に笑みを作った。月に出会うことになったのも、渉がきっかけだ。きっと自慢したかったのだろう。先約を忘れていたのはらしいといえばらしいが。

 月の話を聞いて、良い悪いはさて置き誰にも相談できなかった理由が分かった。

「幻滅した?」

 不安そうに月が見つめてくる。祥平は無言で首を振った。

 祥平も身勝手に志乃の記憶を消している。あのときの行為が完全に間違っているとは思えないが、他に方法があったかもしれないと今でも考えることはある。だから、幻滅できるわけがなかった。

 もちろん、これは加害者の身勝手な考えだ。

「俺だって昔にやらかしたことは片手じゃ数えきれない。その度に立ち止まってられないから、なんとかいままでこうして生きてきた」

 そして、十二月二十五日に死ぬ。

 突然、祥平は泣きたい衝動に駆られた。泣いて喚き散らして、心の中が空っぽになるまで溜まり続けた感情を吐き出したくなった。

「ありがとう、朝倉くん」

 泣き顔のまま月が祥平に身体を預ける。祥平の心臓が不自然に飛び跳ねた。大人びた女の色香が脳髄を痺れさせた。

「あなたと出会えてよかった」

 飾らない月の言葉が祥平の弱い部分を優しく突く。生きていてよかったと思えてしまったから、死にたくないと願ってしまいそうだった。彼女の傍にいると決意が鈍る。彷徨う感情が何を指し示しているのか、恐ろしくて見ることができなかった。

 月の手が祥平に重ねられる。手の甲から彼女の震えが伝わった。

 まだなにも解決していない。考えるべきは、月の問題の解決法だ。だから罪悪感は意識の外へ追い出した。

 あのときも、問題を先送りにして地獄をみた。この選択は間違いだ。だが、祥平はまだ十六の若造だ。これ以上は抱えきれない。許容量は遥か昔に超えていた。

 祥平の背後には限界が近づいていた。自覚していてなお、彼は剃刀の上を歩くような極限状態から逃げることができない。

 冬川月の体温が、手の甲越しに無慈悲に広がる。


 ◇◆◇


 夢の中でする彼女との会話は、透明なグラスに注いだ水よりも身体に染み渡る。小さい頃の思い出は、すべてを捨てた祥平にとってはたったひとつだけ存在する、失うことのない宝物だ。

「雨は楽しいと思う? それとも悲しいと思う?」

 朝倉家のリビングで二人で遊んでいたとき、ふと窓の外を見上げて志乃は言った。

しとしと降る雨の日のことだ。折り紙で鶴を作る手を止めて、祥平は考えてみた。

「悲しいな」

志乃は膨らませた紙風船を手の中で転がしていた。

「雨の日は外で遊べないから、ちょっと残念だ」

紙風船をテーブルの上に置いて、志乃が頷いた。

「わたしは、楽しいことだと思うよ」

「どうして?」

 祥平は問う。今日はどんな感情を教えてくれるのだろう。少し、ワクワクした。志乃が、湿った空気を瑞々しくするような、水のように澄んだ声で語った。

「毎日が晴れだと。楽しくないと思うの。ずっと同んなじ遊びをしてると飽きちゃうみたいに、大好きな食べ物を食べてばかりいると嫌いになっちゃうみたいに。ずっと晴れだと、太陽に飽きちゃうと思うの」

 確かにそうだ、と祥平は思った。毎日サッカーをしたり野球をするのは楽しいけど、たまに他のことがしたくなる。

「だからね、天気は晴れだったり曇りだったり、雨だったり、色々あるから楽しいんだよ。季節も同じ。春に夏に秋に冬、ひとつじゃないから楽しいの」

 語り終えて、志乃は白い皿からポッキーを摘まんで口にする。今日は、優しくなれるお菓子だった。

 祥平ものんびりとポッキーを食べる。今日は、優しくなろうと思った。

「しいは、どの季節が好き?」

うーん、と志乃が考える。祥平がポッキーを食べ終えたとき、彼女がようやく口を開いた。彼女の手には、まだ半分だけ残ったポッキーがあった。

「冬と春の間かな」

 意外な答えが返ってきた。彼女なら、全部好きだ、と答える気がしたのに。

「どうして?」

 ふふっと志乃が笑った。まるで、笑うことしか知らないような笑みだった。

「春はね、命が生まれる季節なの。だけど、冬は命が終わる季節。終わりと始まりの間が私は好きなの」

 残りの半分を平らげて、志乃が言った。祥平には、彼女の言葉の意味が分からなかった。

「終わりと始まりの間は楽しい?」

「どうだろう」

 志乃は首を傾げる。ややあって、うん、と小さく頷く。

「終わりは少し寂しいけど、何かが始まる予兆なんだよ。だから楽しいの。何かが始まるときって、なんだかワクワクしない?」

 そうだなあ、と祥平は考える。遊びを始めるときは、確かに楽しい。なにをしようか、どう遊ぼうか。考えるだけでワクワクする。

「うん、楽しいな」

「そうでしょ?」

 志乃がどうぞ、と言ってポッキーが乗った皿を差し出す。促されるまま一本摘まんで、口に含む。さっきよりも、ほんの少しだけ甘みが増した気がした。たぶん、これが優しさの味なのだと思う。

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