第二章/嘆きの独唱 5
ホームルームが終わると同時、祥平は机に引っ掛けた鞄を持ち上げて席を立った。保健室へ行くつもりだった。
昼休みに消えた月は午後の授業すべてを休んだ。それが何を意味するのか思い至らないほど祥平は愚かではない。彼女は間違いなく、朝の事案に類する何かを受けたのだ。それが何であるかなど問題ではない。必要なのは、状況を知ってなお味方だと言う者がいることを伝えることだ。
鞄を肩に引っさげて足を踏み出したとき、志乃に呼び止められた。相変わらず彼女と会話することに恐怖を覚える祥平は、「なに?」とぶっきらぼうに聞いた。彼女に対しぞんざいな態度をすることに罪悪感は沸く。だが、無理やり遠ざけることも会わないことも選ぶことのできないこの弱い心を持ってしまったいま、残された対応はこれしかなかった。
「月のところに行くの?」
祥平の態度から何かを敏感に感じ取ったのだろう。志乃が控えめに言った。
「ああ。……悪いな。少し虫の居所が悪いんだ。気にしないでくれ」
結局、祥平は言い訳染みた言葉を後ろにつけてしまった。彼は、志乃の微笑する表情以外を見たくはなかった。
志乃が表情を和らげた。
「そっか。私もあとで行くから」
「分かった」
志乃に背を向けて教室を出る。部活へと向かう生徒たちの波の間を縫い、時間を掛けて校舎一階の最奥部にある保健室の前に辿り着いた。周りの喧騒から切り離されたひっそりとした場所だった。軽くノックをして保健室に入ると、薬品の独特の匂いが鼻腔を無遠慮に突いた。白々しいほど純白の室内に、資料に目を落とした保険の教師が簡素な椅子に座っていた。保険教師が赤い眼鏡のレンズ越しに祥平に視線を移した。
「どうしたの、どこか悪い?」
やる気の感じられない保険教師の声に、祥平は首を振って答えた。
「中にいるはずの生徒の迎えです」
「そう、丁度良かった」
よっこらせと腰を上げた保険教師が資料で肩を叩いて祥平に近づいた。
「実はこれから職員会議でね。ひとり眠る生徒を置いていけないからどうしようかと思ってたところなんだ。キミ、彼女が起きるまで傍にいてあげてくれないかな?」
「いいですけど」
「そう、じゃあ頼んだよ。出るときは鍵はかけなくていいよ。別に盗まれて困るものはないから」
ひらひらと手を振った保険教師が保健室を出て行く。教師が閉じた扉の音が保健室に鈍く響いた。
見渡す限りベッドはなかったが、すぐ近くに高さのない薄い壁のようなものがあった。汚れひとつない白い間仕切りには、窓から差し込む光影を作っていた。ベッドは間仕切りの奥にあるのだろう。靴底を鳴らして間仕切りの前まで歩いて止まる。月の寝顔には興味があったが、中を覗くのは躊躇われた。
月が起きるまで待つことにして、先ほどまで保険教師が座っていた席に腰を落とした。保険室をぐるりと見渡すが、退屈を凌げるようなものは何もなかった。グラウンドから部活動に精を出す生徒達の声が届く。
思い返せば、この町に来てからというもの、ひとりで静かな時間を過ごしたこと殆どと言っていいほどはなかった。平日は学校に通い、家に帰れば前世がいる。当たり前なのか異常なのかはさておき、少なくとも、孤独を感じることはそう多くはなかった。
死に逝くまでの僅かな光の中にいるのかもしれない。悩むことは多々あるが、それでも、悩めるだけの余裕はかろうじて残っている。
とりとめもないことを考えていたら、背後でもぞもぞと動く気配があった。
「……だれかいるの?」
「俺だよ」
月が息を呑んだ。
「どうしているの?」
「心配だったからだよ。他に理由がいるか?」
「そう」くすくすと月の笑い声が聞こえた。「優しいのね。顔に似合わないけど」
「ほっとけ。それより、そっちに行っていいか? 一枚壁を挟んで話す趣味はないんだ」
「ちょっと待って」
少しの間があり、月がどうぞと言った。祥平は間仕切りを超えて中に入る。彼女は上半身を起こしていた。
「顔色はよくないな。大丈夫か?」
月の表情が曇った。顔を両手で覆って彼女が俯く。
「あまり……優しくしないで。弱いのよ、そういうの」
普段は艶のある月の黒髪が、いまは彼女の精神に呼応したようにくすんで見えた。知らず、祥平は腕を伸ばしていた。無防備な彼女の頭に手をぽんと乗せ、綺麗な髪が乱れないようにそっと撫でる。彼女が、顔を隠していた手を下ろして彼を上目遣いに見た。
濁った月の瞳に光が射していた。
少し、いや、大分照れくさかった。そっぽを向いて祥平は頬をかく。
「悪いな、俺は意外と情に厚いんだよ」
青白かった月の頬に朱が差し、瞳が潤んでいた。祥平は彼女の頭をぽんぽんと軽く叩く。久しぶりにやるから加減が分からなかった。
「言いたくないならいいさ。誰だってそういうことのひとつやふたつは抱えてるもんだしな」
過去に戻ったようだと、祥平は思った。小さい頃、彼は決して泣こうとしない志乃が表情を暗くするたびに頭を撫でることが習慣だった。小さな幸せを手の平で感じることが愛おしくて、祥平は志乃に触れることが好きだった。
三年は長すぎた。
月がおずおずと祥平の手に触れた。人の温もりが心底欲しいように、彼女は彼の手に触れた途端両手で力強く掴んだ。
「ねえ、あなたはどうしてこんな私に良くしてくれるの?」
目じりに涙を蓄えた月が震える声で問う。考えるまでもなく、答えは自然に生まれた。
「冬川の歌が好きなんだ」
月が顔をくしゃくしゃにして笑った。いまの答えは、たぶん、彼女の求めるものではなかった。
「そう、そっか。歌……か」
そのとき、保健室の教室に戸を叩く音がなった。握っていた祥平の手を月が離した。扉を開く音と共に足音がこつこつと響く。間仕切りから顔を出したのは志乃だった。
「月、大丈夫?」
「ええ、心配かけたみたいね。ごめんなさい」
月が曖昧に笑った。志乃は気にした風でもなく柔らかく微笑む。
「そっか、良かった。今日はちょっと用事があるから先に帰るね。ごめんね」
志乃はそれだけを伝えて間仕切りの中から出ると、足を止めた。
「そうだ、今日は数学で宿題が出てたよ。いまやってる単元の章の問題をノート一ページ分」
「分かったわ、ありがとう」
「いいよ、じゃあ行くね」
志乃が保健室からいなくなると、沈黙が二人の間に降りる。月がいそいそと鞄を開いてげんなりした。また何かあったのかと祥平は身構えるが、今度は違うようだった。
「数学の教科書を忘れたわ。いつも机の中に置きっ放しだから」
「毎日持って帰れよ」
「重いでしょ?」
普遍の真理を告げるように、月があっけらかんと答えた。祥平には理解できなかった。
「まあ、今日くらいはいいだろ。明日先生に事情を説明すればいい」
「それは駄目よ。ズル休みしたようなものだもの」
月の台詞の中に気になること含まれていたが、あえて追求するのを辞める。わざわざ指摘することでもないだろう、体調が悪いのではなかったのか、など。
鞄を持った月がベッドを降りた。
「私は一度教室に戻るわ」
「なら付き添うよ」
「そう、ありがとう」
祥平は月を連れて保健室から教室へ向かう。大分時間が経っていたのか、校舎の中にはひと気がなかった。朱色に染まる階段を昇り二階に上がって教室に入る。月が席に教科書を取りに戻る間、祥平はドアのサッシに背を預けて彼女の後ろ姿を眺めていた。夕日に照らされた彼女は、匂い立つように艶やかだった。
月の表情に影が走った。一歩二歩と彼女の身体が下がり、後ろの席をがたりと鳴らす。
「どうした」
駆け寄ろうとする祥平を月が制する。
「来ないで」
その声に含まれた切実さが、また何かあったのだと祥平に訴えかけた。
「もう隠すなよ。今更だろ」
これ以上怯えさせないよう精一杯柔らかい声を出して月に近づく。彼女はわなわなと身体を震わせて、彼と机の間で視線を彷徨わせていた。
月の傍まで寄って彼女の机の中を覗くと、小綺麗な封筒が入っていた。それをつまみ上げて目の前にかざす。何の変哲もない、ただの手紙だった。もしかしたら彼女に惚れた男からの手紙かもしれない。ひとしきり眺めるが、変なところはひとつも見つからなかった。
警戒して損したなと思いながら祥平は月を見やる。彼女が小動物のように身体をびくびくとさせて視線を逸らした。その反応がおかしくて彼は笑う。
「ラブレターだぞ。そう警戒してやるな。いまどき古風だけど、なかなか……」
「違う」祥平の言葉を月が遮る。「そんないいものじゃ、ないから」
これではこの手紙を出した男も浮かばれない。時期が悪かったな、と祥平は内心で誰ともしれない男に合掌する。
「まあ一先ず受け取ってやりな。俺が持っててもしょうがないしな」
祥平は手紙を差し出す。月は受け取ろうとも見ようともしなかった。彼は首を捻る。彼女がこれにそこまで拒絶を示す理由が浮かばない。
どうした、と声を掛けようとして脳裏に志乃の言葉が巡る。
俺か?
さすがに自意識過剰だと感じてそれを消した。所詮志乃の戯言だ。変に勘ぐるのは月に悪いだろう。
祥平を見上げた月が、恐る恐るといった形容がぴったりの動作でようやく手紙を受け取る。だが、細い指が手紙をつまんだ瞬間、彼女の瞳孔が開いて手紙がひらりと床に落ちた。
「落とすなよ。一応はひとりの人間の想いが詰まってるんだ。あまりぞんざいにしてやるな」
そのとき、月が悲痛の声を漏らした。
「やめてよ」
「ん? なにをだ」
「何も知らないくせに。分かったようなことを言わないで」
何も知らないくせに、か。
「ならその何かを言ってくれ」
落ちた手紙を祥平は拾う。
本当は恋文などではないこの手紙は一体何なのか。朝に見た、あの悪意あるものと同じだろうか。違うと思った。月はあれを見ても、内心は定かではないが表面上は笑っていたのだ。だからこれは別の何かだ。恐らく、昼休みに鞄の中に入っていたであろうものと同質の何か。
「冬川、言わなきゃ何も伝わらないぞ」
どの口がそんなことを言うのか。
月は俯いて無言を貫く。祥平は長息した。
言わなければ確かに何も伝わらないが、言っても伝わらないことはある。言葉は便利だが、手で作った器で水を掬うように、大事な部分はぼろぼろと零れていく。
「なら中を見るぞ。いいな?」
「え……?」
返事も待たずに祥平は手紙の封を開く。一体何が出てくるのか、鬼か、それとも蛇か。唾を飲み込み、丁寧に畳まれた便箋を取り出そうとしたとき、月が声を上げた。
「やめて、お願いだから」
「ならこいつは何だ?」
月の視線が上下左右に大きく揺れる。
「ラブレター、そう、ラブレターよ。だから返して」
月が手紙に手を伸ばす。祥平はそれを遮って、手紙を背中に隠した。
「いやだ。なんだか気に食わないから見る」
「子どもみたいなこと言わないで、お願いよ」
「子どもで結構。生憎ラブレターなんて貰ったことがないし書いたこともない。今後の参考にする」
酷い言い分だと祥平は思ったが、もう後に引けなかった。目を大きく開いた月が、傍から見ても可哀想なほど顔を青白くさせて狼狽していた。彼は、陽炎のように漂う罪悪感に締め付けられそうだった。
月を背にして便箋を取り出し開く。
「やめて! やめてったら! ねえ、お願いだから読まないで!」
泣き声の月に背中を何度も叩かれる。無視して祥平は便箋に目を通した。
綺麗な字だった。いや、パソコンで作って印刷したのだろうか、やけに整った機械的な文字がつらつらと書かれていた。
「朝倉くん……! もう、なんでよ。いじわるしないで……」
文章を軽く読む。便箋一枚をまるごと使ったそれは、まごうことなく恋文だった。手紙は「愛する冬川月さま」という文言から始まっていた。
吐き気がした。
――愛する冬川月様
あなたのことをいつも見ています。
あなたはいつ見ても美しい。趣味も可愛らしいですね。スノードームが好きだなんて、なかなか珍しいです。お気に入りは、机に飾っている教会のスノードームかな?
是非今度プレゼントさせて下さい――
「なんだ、これは……」
短い内容なのに、他人には分かりえない事実が書かれている
背後で物音がした。振り返ると、月が床に膝を落としてしゃがみこんでいた。大きく開いた目には大粒の涙が溜まっている。祥平と目があった途端、彼女が子どものようにわんわんと泣き出した。
みっつか。
祥平は遠のきそうになる意識を掴むと、月と同じ目線まで身体を落として彼女の頭を抱いた。
「ごめん。ごめんな。ぜんぜん、気づかなかった」
月の涙が祥平の学生服に染込む。彼女の嗚咽が耳朶を叩いて身体の芯を無様に震わせる。
「わた、わたし、どうすれば――どうすればいいかもう分からなくて。朝倉くん、ごめん、ごめんなさい」
これは、きついな。
月は、多くのものを抱え込んでいた。合唱部の不和に明らかないじめ。そして、この手紙だ。
中身は間違いなく、誰が読もうと月への想いが綴られた恋文だった。ただ、あまりにも想いが強すぎた。こういうのを何と言っただろうか。
――こう見えても結構警戒してるの。放課後の教室で二人きり、なんてね。
ああ、
――ストーカーとか怖いじゃない?
そういうことだったのか。
月と交わした何気ない会話の中にヒントはあった。彼女は、本人も知らぬ内に助けを求めていたのだろう。傍にいた間抜けが気づかないばっかりに、いまのいままでひとりで耐えてきたのだ。
しかし、分かったところで何をどうすればいい。
情けなく悩み込む祥平の腕の中で、月は火がついたように泣きじゃくっている。普段の勝気な雰囲気は姿を消して、捕食者を前にした仔リスのような危うさがいまの彼女にはあった。張り詰めた糸が切れればこうなるのだと、改めて眼前に突きつけられているようだった。
月が祥平の制服を掴んだまま、強張らせた表情を離す。涙はまだ流れたままだった。彼女を見つめていると、彼まで叫び出しそうになった。
「ひとまず帰ろう。今日は家まで送るよ」
「……うん」
赤ん坊のように制服を握る月が、蚊の羽音よりも小さい声で答えた。
◇◆◇
尋常ではない震え方をする月の身体を支えながら、祥平は学校を出た。普段なら分かれるはずの駅前で再び泣きそうになる彼女をあやして、二人で駅の木造校舎に入る。電車を待つ間、彼女は終止おびえながら後ろを振り返えっていた。見ていられなくなって、たまらず彼女の頭を抱いた。周囲の人間に奇異の視線を向けられるが、触れてくれるなと逆に睨みつけた。
隣の駅で電車を降りて月の家に向かう。足元のおぼつかない彼女は何度も足を躓かせた。そのたびに抱きとめて、嗚咽を零す彼女の背をさすった。出口の無い迷路に迷い込んだのかと思った。
祥平の精神が焼ききれる寸前、ようやく月の家の前に辿り着く。彼女は制服を握り締めたまま離そうとしなかった。
「着いたぞ」
「……いや」
駄々っ子のように月が言う。
「家に帰れば両親がいるだろ。明日ひとりが恐いなら俺が向かえに来たっていい。だから今日は帰ってゆっくり休むんだ」
見下ろす祥平の心を締め付ける表情で、月が縋りつく。
「いないの」
「え?」
「お母さんもお父さんも、旅行に行ったの。姉さんは一人暮らししてて家には誰もいないの」
間が悪すぎた。どうしてこんなときに家を開けるのだと、月の両親に対して理不尽な怒りすら産まれた。こんな状態の彼女をひとりにはしておけない。
突然降って沸いた最悪の中で、回らない頭を懸命に働かせる。
「紗枝倉と渉を呼ぼう。あいつらだって、こんな状況の冬川を放っておけるはずがないだろ」
二人の名を出すと、月が目を剥いて小さな叫び声を上げた。
「だめ。お願い、それはやめて。あの二人にこれ以上迷惑なんかかけられない……!」
携帯電話を取り出そうとした手を掴まれる。必死の形相で月に止められた腕から力が抜けた。壊れた彼女の心にナイフを入れるなど、祥平にはできなかった。
もう、どうしたらいいか分からなかった。いつだって肝心なときにこの頭は役に立たない。
「分かった。分かったよ……俺が泊まる」
「ごめんなさい」
月がまた、涙を顎に滴らせる。
「誰だってこんなの恐いに決まってる」
見上げると夕日が血を垂らしたように空を紅く染め上げていた。毎年八月になると、この田舎町の夜空には日本でも有数の花が咲く。小さい頃は両親に連れられて、ひとりで電車に乗られるようになると志乃と渉の三人で、纏わりつくように暑かった夜の町を何万人の観客と共にこの町を歩いた。
どうしてこんなことをいま思い出すのか。死ぬのが怖くなったのだろうか。それとも、自分に縋りつく月の姿に、いまの己の境遇を重ねているのだろうか。