表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/24

序章/前世の報酬(前)

 朝倉祥平あさくらしょうへいが過ちを犯したのは、中学二年生の冬のことだ。

 祥平には同い年の幼馴染がいた。彼女、紗枝倉志乃さえくらしのは、天使のように可愛い少女で、祥平にとっても自慢の幼馴染だった。

 志乃は、小さい頃から母親との折り合いが悪かった。ある日突然、彼女の母親は家事をろくに行わなくなった。それだけではない、わが子がまるで空気にでもなったかのように、居ないものとして振る舞いはじめた。唯一の身内に存在を拒絶された少女は、生きることに疲れていた。幼馴染は、次第に子供らしい笑顔を見せることがなくなった。

 祥平は、志乃の幼馴染だった。彼女のことが誰よりも好きだった。彼にできることは、彼女を楽しませることだけだから、いつか心からの笑顔を見せてくれると信じて、楽しいことを一緒にし続けると誓った。

 運命の場所は、いずれ二人が通うことになる神白高校の屋上だった。

 その日は、十二月の雨が降っていた。空はかろうじて曇天が見える程度で、すべてを吸い込むように真っ暗だった。吹き付けた北風が裸になった木々を揺らし、窓を何度も殴りつける轟音は、水が染み込むように心に恐怖を刻み込んでいった。

 祥平は、幼馴染の手を握りながら、月光だけが照らす廊下を歩いていた。震える手で握り返してくる志乃は、ぴったりと彼に寄り添っていた。

「勝手に入って本当に大丈夫かな」

 夜の学校が怖いのだろう、志乃は周囲には一切見向きもせず、隣を歩く祥平の顔だけを見つめながら何度も何度も心配そうに聞いてくる。そのたび、祥平は「大丈夫だ」と、含みを持たせた笑みと共に答えて彼女を安心させた。

 祥平は、志乃に本当の目的を教えていない。目当てのものが本当に存在するのか、彼にも疑わしかったし、何より彼女を驚かせたかったからだ。

 歩くたびに廊下が靴底を鳴らし、不気味な音を校内に響かせる。二人しかいないはずなのに、足音がひとつ余計に聞こえた気がして、途中で何度も振り返る。

 暗闇が支配した夜の学校は、子供たちにとってはよからぬものを想像させる、非現実的な空間だ。だから祥平は怖い反面、内心は嬉しくてしょうがない。夜の学校なら、彼だけでは作ることのできない極上の娯楽があるかもしれないと思ったからだ。

 これで噂に聞いた“アレ”が本当に出て来てくれれば、志乃にとってもきっと忘れられない思い出になると、祥平は確信していた。

 何度か廊下を曲がり、階段を上って屋上の扉を開けた。湿り気の含んだ大気が勢いよく二人に降り注いだ。冷気がダッフルコートの中にまで侵入し、身体がぶるぶると震える。祥平の手を握り締める志乃の力が、ぎゅっと強くなった。

 雨はまだ止んでいなかった。さっきまで吹き荒んでいた風は、今は辺りをざわめかせる程度に落ち着いていた。

 透明なビニル傘を開き、志乃を連れ立って屋上に入る。

 コンクリートが打ちっぱなしの床は、あちこちに水溜りができていた。敷地内に設置されたライトの明かりが、周囲を真下から照らしている。注意深く周囲を見渡す傍ら、腕時計で時刻を確認する。

 午前○時。噂の通りなら、そろそろアレが出てくる頃合だった。はやる気持ちを落ち着けてアレの到来を待つ。幼馴染の少女は、不安げに祥平を見上げていた。視線に気づいた祥平は、「もう少しですごいのが見れるぞ」と言って、志乃の頭をそっと握り返した。

 それから五分が経ち、十分が過ぎた。

 吐いた息が白く煙る。夜と寒さが深まっていく。真夜中の雨には、みぞれが混じりだしていた。凍てついた外気に晒された顔が痛い。退屈そうにしていた志乃が、すんっと鼻をすすった。

「何が起こるの?」

 玉のように白い肌を真っ赤にした幼馴染が祥平を見上げた。濡れた彼女の黒髪は、それでもたゆたう空気にふわふわとなびいている。

「えっと……なんだろう、な」

 夜も更けた時間に付き合ってくれている幼馴染に申し訳なくなって、曖昧に笑うしかなかった。

 祥平は、「すごいものを見せてやる」と言って志乃を連れ出した。彼女にとって、紗枝倉家は苦痛の塊でしかない。きっと沈黙だけが支配する場所で暮らす彼女に、少しでも楽しんでもらいたかった。人生はもっと驚きに満ちているのだと伝えたかった。

 祥平が今日ここに来たのは、ある噂を友人伝いに聞いたからだ。真夜中〇時に、神白高校の屋上で幽霊が出るという、あまりにつまらない噂だ。だが、祥平は幽霊を見たことがなかった。本当に足がないのだろうか、身体は透けているのだろうか、白装束を着ているのだろうか。想像するとわくわくした。幽霊を志乃に見せたらきっと驚いてくれるんじゃないか、という素晴らしい考えが浮かんだ。

 しかし、結果は幽霊なんて出てこなかった。志乃がどんな反応をしてくれるかと楽しみにしていたのに、期待を手酷く裏切られた。

「ごめん志乃、ちょっと今日は失敗だ」

 幼馴染に向き直る。志乃が寒さで潤ませた瞳を向けた。無駄足を踏ませたことを責められているようで、途端に、幽霊を見るためだけにこんな場所まで彼女を連れてきたことが恥ずかしくなった。

 そのとき、志乃が微笑んだ。いつしか破顔することがなくなった少女が、それでも楽しさや喜びを表現するときに作る、アルカイックスマイルだ。

「私は知ってるから」

 少女は、繋いだままの手を大人になりつつある胸の前に添えた。屋上の縁の向こうから立ち上る照明が、彼女の後光だと言わんばかりに宵闇に映える。志乃は天使のように儚い微笑をたたえて、つまらない失敗を犯した祥平を優しく労わる。

「祥平は私を楽しい気持ちにしようと一生懸命だって、私はちゃんと知ってるから」

 心の深い部分をくすぐられているようで落ち着かなかった。幼馴染の優しい視線が恥ずかしくて、頭をかきながら目を逸らす。

「別にそんなわけじゃない。ただの気まぐれだよ」

 まだ子どもの彼はつまらない嘘しか言葉にできない。

「そっか」

 祥平の言葉を全然信じていない口調で言った志乃は、女を帯びた身体を彼に預けた。互いに信頼しきったこの距離感は、氷点下をまわりそうな極寒の場所なのにほっとする。コート越しに伝わる幼馴染の温もりが心地よかった。


 ――楽しそうですね。


 ひとときの幸せが崩れる音がした。

 背筋に冷たい手を這わせたような怖気がして、祥平は振り返った。

 二人から五メートルほど離れた場所、この世のものではない光が闇の中にぽっかりと穴を開けていた。魂に色をつけて輝かせたらこんな色であろうと思わせる、青白い光。見つめているだけで頭がおかしくなってしまいそうな歪んだ光がそこにあった。

 青白い光の中に、人影があった。

 少女だった。

 高校生半ばくらいの背格好で、神白高校指定の白いセーラー服を着た、どこにでもいそうな平凡な少女。身体は病弱なまでに細く儚げで、薄っすらと背後が透けていた。

 だが、彼女の表情はあまりにも虚ろだった。宙を見ているのか、どこか遠くを見通しているのか分からない黒く濁った瞳。憎悪しか吐き出しそうにない、病的なまでに赤みを失った青い唇。ぼさぼさの長い黒髪が風になびく様は、まるで蛇がのたうつかのよう。

 祥平の身体は、恐怖に凍りついて動かなくなった。いま、目の前にいるのは、彼が焦がれた幽霊そのものだ。なのに、この禍々しさは何なのだろう。誰かに「この少女はお前の死だ」と言われても納得しそうな、不気味な気配がひたひたと這い出していた。

「しょうへい……」

 志乃の小さな悲鳴を、しもやけになりそうな耳が拾った。小さく震える幼馴染の手を、大丈夫だと伝えるために強く握り返した。

 志乃の視界から幽霊を隠すために、一歩足を前に踏み出した。

「おまえは、何だ?」

 ぐっと歯を食いしばって幽霊に対峙する。怖くてたまらないし、緊張で喉がからからだ。傘を放り出していますぐ逃げ出したい。そうするべきだと本能でも分かっているのに、幼馴染の前では格好悪いところを見せるわけにはいかないから、祥平は幽霊の前に立ち続ける。

 生の果てに立つ亡霊が、顔を歪めて笑った。一度死を乗り越えたものしか持ち得ない、凄絶な笑みだった。

「わたしは、あなた方の前世です」

 亡霊は不気味な笑みを顔面に貼りつけたまま、到底信じられないことを言い切った。

「あなた方に真実を伝えるために、こうしてここで待っていました」

 雨を降らす天を仰いだ亡霊の言葉が、不安を詰め込んだ箱に思えた。

 すべてを知る全知の存在だとでもいうように、亡霊が両手を大きく広げて二人の未来を予言する。

「あなた方は三年後の今日、十七歳の十二月二十五日に死にます」

「は?」

 祥平の頭は、話についてゆけなかった。

 遠くない未来を見通す亡霊の濁った目が、事実を吐き出すたびに浄化されるかのように、透明さを増していく。

「受け入れられないのは分かります。だから――」

 祥平の頭が、何か得体の知れないものに捕まれた。

 瞬間、祥平の世界が反転した。

 ――すべてをお見せしましょう。

 一瞬にして現実から漆黒の世界にさらわれ、少女の声が脳髄に直接刻むように反響する。直後、先の見えない無限の奈落に足元から突き落とされた。

 悲しみや苦しみ、恐怖に憎悪、あらゆる負の感情をかき集めたような黒い世界が、目の前に広がった。炎に身を引き裂かれる痛みにも似た慟哭が、世界にあるのは生ではなく、死だけに満ちているとでものたまうように、世界のありとあらゆる場所から祥平を追いたてる。魂を通じて直接記憶に触れられ、前世が体験し感じたこの世の地獄を追体験させられる。嫌だ嫌だ。死にたい死にたい。生きたくない。痛いよ痛いよ。虐めないで無視しないで一人は辛いよ寂しいのは痛いよ助けて私を助けて誰か誰か誰か助けて助けて助けて――

 身体を炉にくべ燃やし、真っ赤に爛れたぐちゅぐちゅの傷口をヤスリで永遠と削りとられ、一瞬にして傷が癒えてまた炉にくべられ燃やされる。これを何度も何度も、悠久のときをかけてじっくりと、精神がすり潰され狂うまで繰り返される。人間が体験し得る絶望の更に底の惨さを刻み付けられる。齢十七の少女が抱えた心の闇が、祥平をがんじがらめにして出口の見えぬ闇の迷宮に落としていく。

 こんなのは嫌だ。生きるのは嫌だ。死んでこんな地獄から抜け出したい――

「お分かりになりましたか? こうしてあなた方は三年後、逃れようなく死ぬのです」

 亡霊の声につられて意識が一気に浮上した。叫喚地獄から生還した祥平は、水溜りの上に倒れていた。涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔を、ダッフルコートの袖で拭いて立ち上がる。

「なんだよいまの。なんなんだよ!」

 目に見えない恐怖に取り付かれた祥平は、律儀に持っていた傘にしがみつく。がくがくと何かがぶつかる音が頭の中で聞こえた。奥歯が震える音だった。

「あれが、わたしが体験した死です。そして、あなた方の死です」

 水蒸気さえ消えうせる灼熱の中で、祥平は前世の記憶を垣間見た。

 白い病室、白いベッド、十年間横たわる蒼白の少女。やっとの思いで長い闘病生活に終止符を打ち、飛び込んだ高校。待っていたのは剥き出しの人間関係。無条件で生きる喜びを教えてくれる人はいない。十年ぶりに社会に復帰した少女に社交性などなく、始まる悪意なき虐め。順応する術も経験もなく、虐めに虐め抜かれ、徹底的に身体と精神をなぶられ、この世に深い絶望を抱いて少女は屋上から身を投げる。黒い感情は刃となって魂を刻み、二人の子をこの地に宿す。

 報われぬ少女の十七年間の記憶と結末は、どうしようもなく二人を殺すのだと、魂を通じて直接頭に語りかけてきたのだ。

「ふざけるなよ。そんなのおまえの、前世の罪だろ。俺たちを勝手に巻き込んで、死ぬなんて宣言するなよ」

「因果応報という言葉を知っていますか? 良い行いには幸福が、悪い行いには報いが訪れるのです」

「おまえのあの感情のせいで、俺たちが死ぬって言いたいのか?」

 腹の底がむかついた。前世で自殺という罪を犯したから、志乃の苦しみがあると言われているようだ。

「わたしがこの世に絶望して死に、憎悪でもって魂を引き裂いた罪は、すべてあなた方に跳ね返るのです」

 前世の死を体験した祥平にとって、あまりに理不尽のことのように思えてならない。だが、はたと気づく。亡霊は自分たちの前世なのだ。彼女が宿した闇は、当然自分たちにも受け継がれる。彼女と自分たちは同じ線で結ばれていて、いまより後ろにある場所で罪を犯せば、いまより先の場所で罰があってもおかしくない。それが、因果応報というのなら。

「あれだけ苦しんで嘆いて泣いて、志乃だって辛い思いばかりしてるのに、それでも足りないっていうのか?」

 亡霊は答えなかった。きっと、答えなどないのだろう。

「もともとひとつだった魂がふたつになることは、本来ありえないことです。だから、あなた方の存在はとても不安定なんですよ」

 壮絶な生涯を送った亡霊が、これがルールなのだと言っていた。

 ようやく、まだ夢物語だと思っていたことが、本当のように思えてきた。いきなり湧き出した死の泉が、足元から彼を誘っていた。実感なんて到底もてないのに、死ぬことだけが確かな現実となって舞い降りる。

「俺たちは、死ぬのか?」

「はい、間違いなく」

 寒かった。腹の奥が凍えてしょうがなかった。雨は雪になっていた。幼馴染の体温が恋しかった。

「志乃」

 すぐそばに居たはずの幼馴染がいなかった。焦燥で体中の毛穴が開いて、嫌な汗が出てきた。どうして奇妙な体験から目が覚めてすぐ確認しなかったのかと、自分の迂闊さにいら立った。辺りに目を走らせると、すぐに見つかった。少女は片手を投げ出した状態でうつ伏せに倒れていた。

 頭が真っ白になった。

 ビニル傘を投げ捨て、慌てて志乃に駆け寄り華奢な上半身を抱き上げる。何度か名前を呼ぶが、固く閉じた目蓋は石のように動かない。

「おい。ぉおい! 志乃。起きろよ志乃!」

 幾度身体を乱暴にゆすっても志乃は目を覚まさない。祥平にとって、身を焦がされる悪夢より幼馴染が目を覚まさない現実の方が地獄だ。

「起きろよ! 目を覚ませよ志乃!」

 出したことのない大声で志乃の名を叫ぶ。彼女の身体が死人のように冷たくなっていく気がした。どうしようもなく何もかもが嫌になって、彼女の名を絶叫する。

 三年後も今日も、幼馴染がいなくなるのだけは耐えられない。

「ん、あ……」

 志乃の声がした。

 ぎょっ、と彼女が目を見開く。幼馴染の黒い瞳には、祥平の顔など映っていなかった。虚ろを見つめる彼女の目に、玉の涙が浮かんだ。

「い――や」

「志乃?」

 目が飛び出るのではないかと、心配になるほど少女が限界まで目蓋を開く。瑞々しい桜色の唇から、唾液が糸を引いて零れ落ちた。

 ううううううああああああああいいいいやああああああああああああああ――――。

 祥平に届いたのは、生き血を絞るような志乃の絶叫だった。人間が人間でいるために必要な大事な何かが壊れたような少女の慟哭が、屋上に激しく響く。

「いやだあ、もう嫌だよぉ……! 生きてたくないよぉ」

 目に見えぬ何かと戦うように、志乃が四肢をばたつかせる。線の細い身体のどこにそんな力があるのか、祥平の手を無理やり引き剥がして床の上でのたうちまわる。頬を叩かれ、腹を殴られながらも必死で幼馴染にしがみつく。いま、彼女を一人にしてしまったらすべてが終わってしまう気がした。

「しい、しいっ! どうしたんだよ。どうしちまったんだよッ!」

 いつからか恥ずかしくて呼ばなくなった、幼い頃のあだ名で彼女を呼ぶ。幼馴染は祥平に見向きもせず、仮想敵から逃れようと暴れ狂う。宝石のように澄んだ輝きを持っていた瞳が、いまや亡霊と同じ地獄の底をかき混ぜた混沌色に染まっていた。

「死にたい死にたい、死にたいよぉ! 痛いのは嫌だよ寂しいのは辛いよ助けて、助けてよ祥ちゃん!」

 志乃の言葉の意味を理解したとき、愕然として力が抜けた。緩んだ拘束を解いた少女が、糸の絡まった人形みたいに四肢をもつれさせながら倒れた。

 夢であってほしかった。決して弱音を吐かない幼馴染が、死にたいと嘆く現実を嘘だと思いたかった。

 ――かつて可憐な花のような笑顔を見せた少女は、ある日を境に笑わなくなった。両親の離婚とそれに伴う母親の虐待。彼女は僅か小学六年のとき、独りになった。日々憔悴していく彼女を見続けた祥平は、彼女に何もしてやることのできない無力感に嘆き、憤り、彼女を救ってくれる奇蹟を願い続けた。

 どうか神様、志乃を救って下さい。

 どうか神様。

 神様、お願いだから志乃を救ってくれ、俺のぜんぶを持っていっていいから志乃だけは、志乃だけは頼むから!

 どうして救ってくれない、なぜ聞き入れてくれない、お前ははそこまで志乃が嫌いか――!

 幼く力も知恵もない祥平は、存在するのかも分からない存在に縋るほかなかった。そして願うだけだった彼は中学に上がり、起きることのない奇跡に頼ることをやめた。考えに考え、知恵を絞れるだけ絞り、その残りカスさえも酷使して志乃を笑わすことにすべてを費やしたのだ。

 煉獄のような孤独と苦しみを与えられ続けていた志乃は、それでも祥平の意図を読み取ってなんとか笑おうと頑張ってくれていた。涙の代わりに口元を緩め、泣き言の代わりに眉を下げて頬を吊り上げた。

「ああああっ、やだやだぁ! 助けてえ、助けてよぉ祥ちゃぁん」

 そんな彼女が、白いコートを汚しながら地面を這う。届かない救いに手を伸ばしながら、泥沼から引き上げてくれる人を懸命に探していた。

 苦しみの海で溺れている少女が、これ以上の深みに落ちるのを良しとする世界は、絶対に間違っている。

 かろうじて祥平を支えていた糸が、理不尽に対する怒りでいま、ぷつりと焼ききれた。

「うわああああああああ!!」

 怒りと失望でぐちゃぐちゃになった頭で吼えて、幼馴染の身体を上から組み伏せた。暴れる彼女の身体を泣きながら押さえつける。彼女の額に思い切り鼻面を叩かれた。泥まみれになった彼女のコートに、雪と一緒に鼻血が落ちる。痛みは感じなかった。頭突きされた鼻なんかより、心が痛くてたまらなかった。

「だれか。だれか、しいを助けてくれ。助けてくれよ!」

 助けてくれる誰かなどいるわけがないのに、祥平は声を振り絞る。

 ふいに、小学生のときの遊び場だった、街の外れにある無人の教会を思い出した。祭壇の前に立った幼馴染は、いつも神さまが本当にいるのかと祥平に問うた。彼は、彼女に祈るべき救いがあれば良いと思って、神さまはきっといる、と願うように返した。

 すべてまやかしだと思った。祈るべき神など、この世界にはきっといない。幼馴染を苦しめ苛ませる世界に神など存在しない。愛されるべき少女の救いを求める手を、神は手酷く振り払ったのだ。彼女に残酷な死を与えるものを悪魔といわず、なんと呼ぶ?

「消しなさい」

 そのとき、ねっとりとした青が、静かに語りかけてきた。何もできない祥平の手を取ったのは、神さまではなく、前世だとのたまう幽霊だった。

「彼女の記憶を消しなさい」

 すべてを知っているとでもいうように、青い亡霊がやさしく語りかけてくる。

「あなたはそれができるのでしょう?」

 そんなことできるわけがない、と言いかけて、ようやく祥平は思い出す。

 いつからだろう、急に自転車が乗れたときの感覚と同じように、いつの間にか彼の身体には人の記憶を消す力が宿った。これがどういう力なのかも理解していなかった小さい頃の彼は、力を使ってよく悪さをした。おこずかいをもらったあとで親の記憶を消し、またおこずかいをもらった。彼の万引きを見つけた店員に使って、万引きをなかったことにした。何度も何度も力を使い、乱用し、いつしか善悪が分からなくなり始めた彼の強行を止めたのは、誰でもない、幼馴染だった。

 志乃は祥平の頬をはたき、彼がどれだけいままで酷いことをしてきたのかを語った。折角もらった力を悪いことに使ってはいけないと、優しく彼に諭した。

 だから祥平は、こんな力はもう使わないと誓った。もし次に使うときは、良いことのために使おうと思ったのだ。

「これは良いことなのか? これだったら、志乃は許してくれるのか? なあ、しいの記憶を消せば、いまを助けることができるのか?」

 涙がとめどなく溢れてくる。視界が滲んで、組み伏した志乃が亡霊のようにかすんで見えた。

 わめき散らす幼馴染に腹を蹴られた。意識が飛びそうになって、歯を食いしばって苦痛を堪える。

「俺でも、しいを助けられるんだよな。もう、無力じゃないんだよな。しいにずっと笑ってもらえる時間を、俺なら作れるんだよな」

 今日一日の記憶を消せば、彼女はいつもの紗枝倉志乃を取り戻す。たった三年間、答えを先延ばしにするだけだ。先のことは棚にあげた。彼は、いまをもがく志乃を救いたかった。

「うああああああああ――」

 

 祥平は、志乃の記憶を消した。何かを決定的に間違う予感がした。

 

 志乃の動きが止まった。動力が切れたように、押さえつけた彼の腕の下で彼女の力が抜ける。苦悶に歪んだ表情は姿を消し、すやすやと安らかな寝息を立て始めた。

 志乃の上半身を抱き上げて、辺りに目をやる。幽霊が姿を消していた。覚めない悪夢がようやく終わったはずなのに、違和感が拭えなかった。

「志乃? 志乃! 頼むから……頼むから、起きてくれ」

 幼馴染の身体をゆする。

 志乃の唇から可愛らしい吐息がもれて、ゆっくりと目を開いた。泥まみれになった身体を抱きしめながら、寝ぼけ眼で周囲を見渡す。

「……なんだろう、すごく寒い。あれ、私、どうしてこんなところにいるの?」

 志乃の声を聞いた祥平は、安堵のあまり腰が砕けそうになった。再び零れそうになる涙を手の甲で拭って、ようやく目覚めた幼馴染を見下ろす。

「よかった、起きた。志乃が起きた」

 そこで、彼女はようやく祥平の存在が気づいたように、すぅっと視線を上げた。そして、奇妙なものでも見るような目つきで、彼に怪訝の眼差しを向けた。

 ――……あなた、だれ?

 祥平の選択した答えは、難問となって彼自身に跳ね返る。志乃が持つべき負の感情を奪った彼の因果が、応報となって彼の喉元に刃を突き付けたのだ。

「は――ははは。なあ、これが俺の選択した罰なのか?」

 答えてくれるはずの名も知らぬ幽霊は、もうここにはいない。


 ◇◆◇


 終わりの日まで、残り約二ヶ月。

 朝倉祥平は、責め苦のような三年近い時をすごしていま、神白高校の屋上にひとり立っていた。

 十月も終わりに差しかかり、街は秋の様相を深めていた。比較的温暖なこの地であっても、真夜中の風が足元からするりと入り込み、少し寒い。ライトに照らされた街路樹の色がわずかに黄色を帯びていた。

 三年の時を経ても故郷はあまり変わっていなかった。たぶん、自分が変わり過ぎてしまったのだろうと、祥平は孤独に思う。

 金網のフェンスに背中を預けて空を仰いだ。何気なく触れた己の髪は、水分が抜けてパサついていた。高校二年にして白髪染めをしなければならなくなった自分の心の弱さを笑った。

 あれから、志乃の記憶を消してすぐ、祥平は両親の都合で街を離れた。志乃の記憶を奪ったまま、いつの日か必ず救うと心に決めて、幼馴染から他人となった彼女と道を違えた。

 終わらない悪夢の中で生き続けることは、想像していたよりもずっと過酷だ。一ヶ月で孤独に襲われ、半年で死の恐怖に怯えた。一年で無気力になり、髪が真っ白になった。残りの二年は、水泡のように浮かんでは消える彼女との思い出にすがり、彼女と同じ学校に編入するため、すべてを勉強で塗りつぶした。

 紗枝倉志乃を失った朝倉祥平は、あまりにも脆かった。

「久しぶりですね。そろそろ三年になりますか」

 屋上の真ん中に、青白い光が浮いていた。

 初めて見たときよりも幾らか人間味を帯びた少女は、恭しい仕草で腰を折った。かつて、彼とその幼馴染の関係を破壊する原因を作った少女が、ぎこちない笑顔を作って、彼の傍まで宙を滑るように近づいた。

「お加減はいかがですか?」

「最低だよ。お前の顔を見てると、嫌でも色々思い出す。できることなら二度とその面を拝みたくなかった」

 人生を変えた少女が、いまこの場で笑っていることが腹立たしかった。本当は、この女に会いたくなどなかった。だが、祥平は腹に渦巻く憎悪を無理やり振り払って彼女に会いに来た。志乃の命を救う可能性の有無を知りたかったからだ。

「あのときは、わたし……」

 祥平の暗い態度に気圧されたのだろう幽霊が、細切れの言葉を出す。三年前の言い訳など聞くつもりのない彼は、彼女の無用な言葉を切り捨てた。

「前置きはいい。要件はただひとつだ。紗枝倉志乃を救う方法を教えろ」

「救う方法?」

 彼女が困った表情でオウム返しをする。

 怒りのあまり両手がわなないた。こんな浅慮な前世に何もかも奪われたのかと思うと、腸が煮えくり返るのを通り過ぎて内臓が引き裂かれそうだ。

 奥歯をぐっと噛んで、いまにも爆発しそうな感情をギリギリのところで鎮める。

「お前が言ってただろ。ひとつの魂がふたつに分かれた結果、俺と志乃が生まれたって。もとがひとつの魂がふたつに分かれたから、俺たちの存在は不安定だって」

「ええ、……はい」

「だったら、俺が命をくれてやれば、あいつは生きられるんじゃないか? ふたつがダメなら、ひとつなら大丈夫だってことだろう?」

 いまから約二ヶ月後、ふたりはその生涯を終える。互いに半分の魂という不安定のものを抱えているがゆえ、死の運命からは逃れられない。ならば、半分が駄目だというのなら、ひとつに戻せば生きられるのではないかと、祥平は考えたのだ。魂のやり取りなど、彼の理解の範疇を超えている。だが、これしか方法はないと思ったのだ。

 どうせ死ぬのなら、志乃を救ってから死にたい。

「なあ、それができるのか教えろよ。俺たちの前世だって言うなら、少しはためになるようなことを教えてくれよ」

 祥平は幽霊にすがった。命を奪うに等しい暴挙に踏み切った憎むべき相手に、彼は懇願と共に頭を下げた。

「たのむから、教えてくれ」

 朝倉祥平は無力だ。ひとりでは幼馴染を救う術を持たない。だが、彼の前世である幽霊ならば、幼馴染を救う術を持っているかもしれない。

「どうか頭を上げてください」

 頭を上げると、幽霊が地面に降りていた。悔恨に瞳を潤ませながらも、決して泣くまいと無理やり笑顔を作る幽霊が、志乃の姿と重なって見えた。

「あれからずっと、後悔の日々を過ごしてきました。なぜああも無残な形であなた方に真実を語ってしまったのかと」

 彼女は祥平にとっての加害者であり、人の世の被害者だった。魂を狂わすほどの憎悪を宿すに至った彼女の人生は、どれほど過酷の道だったか。一端だけを経験した祥平には、彼女の絶望の一面しか分からない。

 しかし、少しだけ大人になった彼ならば、彼女があの暴挙に至った原因に想像がつく。十年もの間、白い病室でひとり過ごした彼女は、人と上手く接する術を知らなかったのだ。辛いことを伝える方法が分からず、あのように一方的に訴えることしかできなかった。そんな彼女を一方的に責めることは、かつて彼女を殺した人間と同じ側に立つということだ。

 祥平は逆恨みだと分かっていた。前世の彼女は、伝える方法こそ間違えたが、伝えるべき大事な情報を確かに教えてくれたのだ。

「何を言っても、すべては言い訳になってしまいます。分かっているんです。安易に選んだ選択は、形を変えて何度も問い直されるのですから」

 耳の痛い言葉だった。彼もまた、安易に志乃の記憶を消してしまった罪悪感に囚われたままなのだ。例えどれだけ思い出したくない記憶でも、自分が歩いた道だ。なかったことにできないし、してはいけない。志乃が未来を絶望する権利を奪う資格を、彼は持っていないのだ。

「すみません、話が飛んでしまいましたね」

 幽霊は、目頭に滲んだ涙を拭った。あまりにも人間らしい仕草に、幽霊でも泣くんだなと、祥平は頭の隅で場違いなことを考えた。

 秋風に儚く揺れる少女が、短く息を吸った。

「紗枝倉志乃は救えます」

 脊髄に高圧電流を流されたような、鋭い衝撃が祥平の全身に走った。

「本当か!?」

 前世が弱々しく頷く。

「先ほど、朝倉さんがおっしゃった通りです。ふたつで不安定ならば、ひとつにすれば安定する。朝倉さん、あなたが命を譲り渡せば、紗枝倉志乃を救うことができます」

 それは即ち、一方の命を捧げればもう一方を救うことができるということだ。彼にとっては願ってもない条件だった。

 興奮で心臓が高鳴る祥平に対し、幽霊の目は冷ややかだ。

「覚悟はありますか?」

「覚悟?」

 前世の質問の意味が分からず祥平は問いを返す。

「あの子のために死ぬ覚悟はありますか?」

「あるに決まってる。生きるべきはあいつだ」

 祥平は自信を持って答えた。

 三年前まで、祥平は平凡ながらも幸せだった。だから今度は志乃に幸せになってもらいたかった。母に虐待され、前世に死の運命を告げられ、祥平に記憶を消されたまま死ぬなどあってはならないと思った。そう思い込んだ。

 前世が落胆したように首を振る。

「なら死になさい。今年の十二月二十五日の午前〇時に、私が死んだあの場所で死になさい。そうすれば、彼女だけは助かります」

 喜びに沸く表層とは逆に、心の中に吐き気にも似た気持ち悪さが生まれた。

「ああ、死ねばいいんだな」

 返した言葉は、内容とは似ても似つかないほど軽かった。

 息をして、吐く。死ぬときにはきっと、この息もあのときのように白くなるのだろう。そして二度と呼吸することすら適わくなる。考えれば考えるほど恐怖の泥沼に足を引きずられ動けなくなりそうだった。だから考えることを放棄した。

「助かったよ。これであいつだけは、守ることができる」

 祥平は幽霊に笑みを作って背を向けた。薄暗い興奮にのぼせる彼の背中に、心の内を見透かす視線が突き刺さる。耐え切れず足を踏み出したとき、手の平に氷の感触が広がった。

 視線を落とすと青白い手があった。驚くべきことに、この世の条理を打ち破って幽霊が祥平の手を握ったのだ。

「なんのつもりだ」

 手を繋がれ背を向けたまま、祥平は吐き捨てるように言った。興奮が消えた彼には、もう嫌悪感しか残っていなかった。

 幽霊は何も答えなかった。

 祥平は乱暴に幽霊の手を振り払う。この場を去ろうとした彼の背中に、今度は人肌の温もりが触れた。死んだはずの少女の吐息が、背中越しに伝わってきた。

「私があなたのそばにいます」

 世界が一瞬、静謐に沈んだ。

 何よりも欲しかった言葉が、祥平の身体をきつく縛る。込み上げる何かから必死に耐えるように、奥歯を強く噛んだ。

 やがて、秋の夜のしじまに、少女の言葉が波紋を投じた。

「せめて私が、あなたが死ぬまでの救いになりましょう」

 恐る恐る振り向くと、アルカイックに微笑んだ前世が祥平をじっと見つめながら涙を流していた。

「だから私も、救って下さい」

 泣きたくなるようなひと時の平和の中、前世への理解が祥平の中にすとんと入り込んだ。

 七海はひとりぼっちだった。人に見放され、極楽浄土にすら存在を拒絶された。彼女は、死してなお人との繋がりを欲しっていたのだ。救いを求める彼女の手を振り払うなど、彼にはできなかった。幼馴染から朝倉祥平の記憶をも奪ってしまった彼もまた、孤独の道を歩いていたのだから。

 あまりに硬い実感が、きっと何者にも交わることのない彼の人生と、前世の彼女とを繋ぐ糸になった。

「なあ、名前を教えてくれないか」

 祥平は、名も知らぬ前世に尋ねた。

 前世の幽霊は、滂沱と流す涙を何度も拭いながら、静かに名前を紡ぐ。

「わたしの名前は――白柳七海しらやなぎななみです」

 鈴を転がすような、心地のよい声で。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ