梔子の夢
家に帰った砂名は両親にしこたま怒られた。
一平は砂名を両親に引き渡すと家に上がらずに直ぐに帰ってしまった。
きっと気を利かせたのだろう。
「本当に、心配したんだから…! 砂名まで明砂みたいに死んでしまったら、お母さん生きていけないわ」
発作が出なかった事が不思議なくらい、母である籐子は砂名を抱き締めて泣いていた。
そんな籐子の肩を右手で抱き寄せながら、父である彰は砂名の手を左手で握り締め、真っ直ぐに砂名の目を見詰めながら搾り出すように言う。
「頼むから、お前までお父さん達の傍からいなくなってしまわないでくれ…」
そんな両親の悲しみを垣間見てしまった砂名は俯きながらぽつりと呟いた。
「ごめんなさい…」
「とにかく、温かい物でも飲みましょう? すっかり冷えてしまっているじゃないの」
そう言われて居間に連れて行かれると、床の間に明砂の中陰壇が置かれているのが目に映った。
真新しい白木の位牌が目に痛い。
満面の笑顔の黒いリボンが掛けられた遺影は…去年、一緒にバーベキューをした時の写真だろう。
隣に砂名が写っていたはずだ。
──本当に、明砂ちゃんが死んでいる事になってる…。
ぽろり、と乾きかけていた涙が砂名の目から零れ落ちた。
寂しかった。
悲しかった。
一番身近で、愛しい存在の喪失が、痛かった。
「砂名…」
「…大丈夫じゃないけど、大丈夫だよ…少なくても、明砂ちゃんの後を追ったりはしないから、安心して?」
視線は中陰壇に向けたまま、砂名は椅子に座ってそう言う。
それから、親子三人で色々な話をした。
沢山のことがあって疲れ果てた砂名は食事もお風呂も満足に取らずに自室へと戻り、そういえば、と鞄を開けた。
その瞬間、ふわりと甘い、甘い、梔子の花の香りが鞄の中から漂ってくる。
そして、珀影からの贈り物であるその梔子の枝を取り出した。
あまり丁寧に扱っていないはずなのにその枝にはしっかりと真っ白で可憐な花が付いている。
「えっと、花瓶に水を入れて来なきゃ」
再び下に下りようと扉に足を向けた砂名に、声が掛かる。
『そのままで良いよ。そのまま、枕元に置いて今日はお休み』
突然聞こえた珀影の声にびっくりしたが、砂名は悲鳴をぐっと堪えてきょろきょろと辺りを見回しながら首を傾げる。
「でも、枯れてしまいますよ?」
『それで良いんだよ。完全に枯れるまで枕元に置いておくと良い。枯れたら、荼毘に付すんだ』
「どういう事ですか?」
『ま、その内分かるよ』
脳裏に、真白い青年が微笑んでいる姿が思い浮かんだ。
それに困惑しつつ、砂名はそっと枕元に梔子の枝を置き、着替えようと服のボタンに手を掛け─。
「…珀影様?」
『なんだい?』
珀影の返事が聞こえた。
砂名は顔を引き攣らせる。
──ま・さ・か…?
「…着替えようとしているんですけど…」
『そのようだね』
「ちょっとどこかに行っていてくれません?」
『君の身体を宿主にしているからそれは無理。…意識は切る事が出来るから、さっきの湯浴みの時も見ていないし、着替えも見たりしないよ? ちゃんと約束する』
脳裏ににこにこにっこりしている真白い青年の笑顔が浮かぶ。
──なんとなく白々しく感じるのは気のせいだろうか…?
疑いの眼差しをどこに向けて良いのか分からなかったが、とりあえず机の上に置いてある鏡越しに自分に疑いの眼差しを向けてみる。
珀影は反応しなかった。
「…珀影様」
へんじがない、ただのしかばねのようだ。
──なんか違う気がする。
砂名はため息を吐いてパジャマに着替え、布団に潜り込む。
「おやすみなさい、珀影様」
『………おやすみ、砂名。良い夢を』
見ていないと示すかのようなしっかりとした間と優しい声音に、砂名はほぅ…と息を吐き出した。
彼は幽霊みたいなものだし、と半分諦め、目を閉じる。
目を閉じると、梔子の甘い、甘い、香りが先ほどまでとは比べようもないほどはっきりと感じられた。
──梔子の花言葉って、なんだっけ…?
夢の中に入り込む瞬間、砂名はそう考えていた。
目を開くと、そこは山の中の草原だった。
遠くの下の方に町が霞んで見える。
柔らかな風が頬を撫で、草花を揺らして通り過ぎて行く。
遠くに白い花を付けた木が立っていた。
砂名は何となく、その木に向かって歩いて行く。
近づくにつれ甘い、甘い香りが鼻腔をくすぐり、その木の根元に着物を着た白い髪の青年が立っているのが分かった。
そして、珀影の影に隠れて見えないがその隣にも誰かがいるようだ。
──あの白い人は、多分珀影様よね…? だけど、その隣の人は誰だろう…?
ゆっくりと近づいて行く砂名に、二人が気が付いたように顔を向けた。
どうやら珀影の隣にいた人は着物を着た女性のようだ。
その顔は、砂名によく似ている。
砂名によく似た女性が優しく微笑んで手招いた。
傍に近付くと、女性は微笑んだまま砂名の頬に手を添えられる。
「えっと…?」
「貴女が砂名、ね。わたしの遠い遠い子供」
「え…?」
「砂名、彼女は藤という。…君達の遠いご先祖に当たる女性だ」
珀影の言葉に、砂名は目を丸くして彼女を見る。
身長も体格も、その面立ちも、瓜二つ。
確かに、自分は目の前の女性と同じ血を分けているだろう事が分かった。
だけど…。
「…何故、遠い遠いご先祖様が珀影様と一緒にいるんですか?」
「それは同じ時代に生きていたからよ。…わたしのせいで、珀影様は命を落とされた。だけど、貴女のお兄様のお陰で再び出会う事が出来たの。ありがとう」
その言葉に、砂名は首を傾げる。
「明砂ちゃんが、何をしたの?」
「…明砂が藤をわたしの前に連れて来てくれたんだよ」
その含みに気付かず、砂名は首を傾げたまま二人を見比べる。
二人は、幸せそうに微笑んでいた。
砂名もつられて微笑み、周りを見回す。
「所で、ここはどこ?」
「現ではないから特定は出来ないが…玄武の滝がある山の過去と思ってくれていて良いよ」
「過去?」
「そう、過去。…もしくは『夢境』と思っておいで」
「むきょう?」
意味が分からず首を傾げた砂名に、藤が微笑みを深くして答えた。
「夢の中の世界、という意味よ」
「夢…これが? 風も感じるし、匂いも分かるけど…」
困惑しながら言う砂名に、珀影は苦笑する。
「詳しく説明してもきっと理解出来ないだろうから、深く考えないように」
なんとなく馬鹿にされた気分だ。
無意識で唇を尖らせた砂名の顔を見て、藤がコロコロと鈴を転がしたかのように笑う。
「珀影様は不思議な力をお持ちなのだから、深く考えても常人には理解出来ないわ。わたしもさっぱりですもの。…でもね、珀影様は誰よりも信用出来るお方よ」
その態度と口調で、藤が珀影の事が好きなのだと分かった。
そして、珀影も藤の事が好きなのだろう。
「そう…。じゃあ、ちょっと聞きますけど…藤さんは私の遠いお祖母ちゃんだっていうのは分かったけど、珀影様がお祖父ちゃん?」
「違う。わたしは狼臥を封じた後、死んだ」
「…わたしは珀影様が亡くなられた後、意に沿わぬ相手に無理矢理嫁がされ、子を一人生んだ後に自害致しました。…子を残したのは、この山を守護させるため。…一時でも好いてもいない殿方に身を任せなければならなかったあの苦痛は永遠に忘れられませぬ…」
ざわり
なんとなく不穏な空気に変わったような気がする。
しかし、それを口にする前に珀影は藤の肩に触れた。
「落ち着いて、藤。─君が彼女達をわたしに残してくれたからこそ、わたし達は後顧の憂いもなく再びまみえる事が出来たのだから…」
「珀影様…こんなわたしを許して下さるの?」
「勿論だとも。君にまた会えて嬉しいよ」
藤から不穏な空気が消え、穏やかな物へと変化する。
あからさまにホッとした様子でいる珀影の様子に、砂名は気が付いた。
──もしかして、藤さんって悪霊化する寸前とか、してたとか、その類?
そう考えた時、珀影と目が合った。
そして頷かれる。
何故こちらが考えている事が分かったのかは、一先ず置いておこう。
そんな事よりも何故、夢の中の世界に引き摺り込まれ、悪霊化していたのか寸前か分からない祖先の女性の霊と会わねばならなかったのか。
それが知りたい。
いや、寧ろ兄を失ったばかりなのだから何も考えずに眠りたいと思った。
「…珀影様、そろそろ本題に入っても良いですか?」
「ん? ああ…そうだね。君を夢の世界に連れて来たのは、藤と兄君に会わせよう思ったからだよ」
「え…明砂ちゃんに会えるんですか?!」
驚きに目を瞠る砂名に、珀影は柔らかく微笑みを浮かべて頷いた。
「明砂」
珀影の声に目の前にいた藤の姿が霞み、歪む。
そして僅かな間に、同じ顔をした少年へと変化したのだ。
「砂名…」
「…めい、さ…ちゃん…? 本当に明砂ちゃんなの?」
驚きと、嬉しさ、そして不安と悲しみが入り混じったかのような微妙な表情を浮かべている砂名を、藤の姿から明砂の姿になった存在は微かに苦笑する。
「そうだよ。…傍にいられなくなって、ごめんな…」
そういって、明砂は砂名を強く強く抱き締めた。
砂名もしっかりと抱き締め返して、泣きながら首を横に振る。
「ううん、ううん、謝らないで? 溺れた子供を助けたんでしょ? 明砂ちゃんが死んじゃって悲しくて、辛いけど…明砂ちゃんらしいよ…」
ボロボロと涙が溢れて止まらない。
抱き付いたまま明砂を見上げると、彼もまた目を赤くして泣いていた。
「俺、死ぬつもりなんてなかった。あの子を助けたら、直ぐに帰る気だったのに…一平だって俺を助けられなかったって悔やんでるし…」
ずずっと鼻を啜り、口元をへの字にしながら明砂は砂名の頬に手を添えた。
「俺、このままだと成仏も出来ずに悪霊化して、第二の狼臥になるって言われた」
「え…?」
「狼臥が俺の身体で人を殺しただろ? あれ、狼臥が消えた事で事件にはなっていないんだけど、人を殺したのは事実として身体に残っているらしいんだ。それで、その時の血の穢れってやつのせいで悪霊化するんだって」
「そ、んな…珀影様、何とかならないんですか?!」
助けを求める二対の目に、珀影は白い双眸を細めながら見詰めつつ、しっかりと頷いた。
「大丈夫、何とかなるよ」
「本当ですか!」
飛び上がって喜ぶ兄妹に、珀影は優しく微笑む。
「ただ、砂名の力を借りる事になるけどね」
「私の力? 私に霊力とかそんなのないと思いますけど…」
「砂名に危険が及んだりしないんですか?」
二人のそれぞれの問い掛けに、珀影しっかりと答える。
「砂名はわたしが宿っていた梔子の木の実を食べていたから、わたしが持つ力を共有出来るから問題はないよ。それに、すでに危機は去っているのだから、危険もない。ただ…」
一度区切った珀影を、兄妹はお互いに庇うように抱き合ったまま見詰めて言葉を待つ。
そんな二人に珀影は苦笑した。
「大丈夫、危険な事は全くないよ。四十九日まで傍にいるだけだから」
「四十九日まで?」
「そう。それまでは夢の中で会う事が可能だよ。ただ、それを過ぎると明砂は天に還る事になる」
どくん、と心臓が跳ね上がった。
そして、震える声で尋ねる。
「…も、もし傍にいなかったら…どうなるん、ですか…?」
「すぐではないけど、悪霊化は確実。四十九日までしっかり君の霊力を使って浄化してあげないと、兄君は永遠に失われてしまうよ」
「別れが分かっているのに、傍にいろと…?」
その呟きに珀影は頷いた。
「その通り。─わたしが死ぬ時、藤は村人達に小屋に閉じ込められ、わたしに対する人質にされていたから別れなど言えなかったよ。…それを思えば随分と幸せだと思わないかい?」
悲しげに言われたその言葉に、兄妹は顔を見合わせて俯いた。
「…離れる日が分かっていても、傍にいられる時間が残されている事に感謝しなきゃな…」
明砂は小さくそう呟き、砂名を抱き締める。
「明砂ちゃん…」
砂名の両目から涙が盛り上がり、ころんと零れ落ちた。
明砂はそんな砂名の涙を少し乱暴に拭い、いつも見せていた太陽みたいな笑顔を浮かべて見せる。
「痛いよ明砂ちゃん!」
「砂名、泣くな。折角少しだけだけど時間が残されているんだぞ? しかも、この世界が夢っていうんだったら…」
明砂は額に手を当てて、少しの間沈黙した。
その途端、世界が一変する。
「う、わぁ…」
「おっしゃ! 大成功w」
真青な南国の海の真ん中に立っていた。
そんな二人のすぐ傍で、何故か海の真ん中にあるという、不自然な梔子の木の下にいる珀影が困り顔でいるのが笑える。
「色々夢を操るのは構わないけど、この梔子の木を消そうと考えないようにするんだよ」
「どうして?」
「ここは『梔子の夢』。この世界の礎はこの梔子の木なのだよ。花が全て散りゆき、最後にこの木が消えた時が四十九日になる。─心しておくようにね。…わたしは暫くの間消えておくよ。またね」
そして、珀影微笑を残してその場から消えたのだった。