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梔子の夢  作者: 石構紅康
5/7

まぼろし

 悲痛な悲鳴を上げ、止め処なく涙を流す少女を見詰めながら白い青年は、脳裏に一人の着物を着た美しい町娘の姿を思い浮かべる。

 ──藤…。

 白い青年は、砂名の悲しみに胸を痛めていた。

 ──もう少し早くこの妖獣─狼臥ろうがを始末していれば、いや、あの時に封じるのではなく消滅させていれば、この少女を悲しませる事はなかっただろうに…。

 これは、全て自分のせいだと白い青年、珀影は思う。

 そして、その思いが隙を生んだのだろう。

 金色の狼、狼臥が珀影の手から逃げ出し、倒れ伏す明砂の身体に飛び込んでいった。

『ちっ』

 思わず舌打ちした珀影の足元で、今までピクリとも動く事のなかった明砂の身体が動き、その身を起こした。

 砂名は目を見開いて明砂を見詰める。

 涙は、止まってしまった。

「明砂ちゃん…」

 呆然と呟く砂名に明砂はゆっくりと手を伸ばし、涙で濡れる頬を撫でた。

 そして、その喉から出て来たのは、明砂の声。

「小娘、この身体を我に渡すがいい。さすれば、この先も兄の温もりに触れる事が出来よう…砂名(・・)

 口調は、狼臥そのもの。

 声は、明砂そのもの。

 砂名は唇を噛み締め、迷う。

 ──明砂ちゃんが、側にいてくれる…でも、これ明砂ちゃんじゃない。でも、側にいて欲しい…。 

 そんな砂名の耳に、目の前の操られた明砂とは発せられるモノとは違う、慣れ親しんだ声が響いた。


『砂名』


 名を呼ばれ、砂名はその声がした方を──明砂の身体の背後に視線を向け、愕然とする。 そこに、宙に浮いた半透明の明砂がいた。

 その表情は苦しげだった。

「明砂ちゃん…」

 その表情は、悲しげだった。


『辛いんだ』


 たった一言、半透明の明砂が呟く。

 自然と、砂名の頬に再び涙が流れる。

 明砂の悲しみが伝わって来たからだ。


『自分の身体が人を殺した。でも、何も出来なかった…見ている事しか、オレには出来なかったんだ…! もしもこれ(・・)がそのままオレの身体を支配する事になったら…これから先も、ずっとこれ(・・)が人を傷付けたり、殺す姿を見ている事しか出来ない…。それに、さっき砂名が襲われそうになった時だって守れなかった……オレは、お前を守ってやれないのが一番辛い…一番、辛いんだ…!』


 初めて見る、嗚咽を堪えて涙を流す明砂の姿。

 しかし、それこそが、砂名が大切に思う明砂自身の姿だった。

 目が醒めた気がした。

 思考が回復してくる。


 ──コレ(・・)は、明砂ちゃんじゃない。こんなのに、明砂ちゃんが務まるはずがない! 

「砂名、どうした?」

 狼臥が取り憑いている明砂身体から発せられる声に、砂名は我に返った。

 そして、ゆっくりと顔を上げて狼臥と対峙する。

 狼臥は、まだ砂名の頬に手を添えていた。

 しかし、強張った砂名の表情を『己が身と家族の保身を心配して』と勘違いしたらしい狼臥は、嗤って見せた。

「ああ、心配するな。…約束しよう、お前と家族には(・・)、手を出さぬと」

 残忍な、笑み。

 『には』と強調するその姿が浅ましく、嫌悪を抱かずにはいられなかった。

 砂名は怒りと悲しみに唇を噛み締めて狼臥の手に触れながら、呟いた。

「あんたなんか明砂ちゃんじゃない。明砂ちゃんは、私の大切な人なの。とっても優しい人なの。人を助ける事はしても、絶対に人を傷付ける人じゃないの。だから…」

 砂名は涙を流したまま、狼臥の手を頬から引き剥がして振り払った。

 そして全身で、全霊込めて拒絶する。

「明砂ちゃんの手を汚さないで! 消えて! 明砂ちゃんの身体から出て行ってよ!」

 その叫びに、今まで何もせずに見詰めているだけだった珀影が動いた。

 明砂の身体に取り憑いている狼臥をむんずと掴み、そのまま身体の外へと引き摺り出す。


『そういう事だから諦めなさいね? 狼臥?』

 優しく、冷たい声で珀影は言い、そのまま恐怖の表情を浮かべている狼臥を握り潰した。


『グワァァァァーーーー…』

 醜い断末魔の声。

 それはあっけない幕切れだった。


 長年の封印のお陰で、狼臥は大分弱っていたようだ。

 だから力を取り戻すために凶行を繰り返したのだろう。


 ──これが、『当時』であれば私は死ぬ事もなく藤と生きていられたのだろうか…。

 ふっと寂しい気分を味わった珀影は、掌に残っていた狼臥の残滓を浄化の真白き炎で燃やし尽くした。


 その瞬間、明砂の身体も取り憑いていた主と同じ運命を辿りさらさらと、音もなく明砂の身体が消えてゆく。


 その様子に痛ましげに顔を顰めつつ、珀影は明砂を見た。

 砂名もつられて明砂の方に視線を向ける。

「明砂ちゃん…」

 明砂は、微笑んでいた。

 いつもの優しい、笑顔だった。

『ありがとう、砂名。それに…珀影様…?』

『何故、わたしの名を知っているんだい? 狼臥がわたしの名を呼んだ時は、君はいなかっただろうに…』

 くすくすと笑いながら問う珀影に、明砂の霊体は笑ったまま答える。

『きっと、オ…私の祖先だという藤さんの記憶ではないでしょうか?』

『なるほどねぇ? まあ、君達二人は、本当に藤と似ているからね。…あの世とやらにもしもまだ藤がいたら、よろしく言っておいてくれないかい?』

 明砂の霊体は微笑んだまま、頷いた。

『分かりました。じゃあ、砂名? 後を追ってきたらダメだよ? いいね?』

 いつも通りの優しい声と、残酷な言葉に、砂名は泣いた。

 泣きながら、頷いた。

 そんな砂名に安心したかのように、明砂は光となって蒼穹そらに昇って逝く。

 そして、明砂であった光が見えなくなった瞬間、砂名はその場に泣き伏したのだった。




 しばらく時を置き、砂名が泣き疲れた頃。

 ようやく、悲痛な表情で砂名の泣いている姿を見詰めていた珀影が動き出した。

『もう、泣くな…』

 そう囁き、珀影は小さな砂名の身体を抱き寄せた。

 抱き寄せる事が出来ると言う事は、珀影は実体を持っているのだと砂名は思う。

 そして、ちょっと慌ててしまった。

 辺りも暗くなって、男女が二人きり。

 その事実のようで現実味のない現実が、砂名の頭を駆け巡る。

「は、珀影様!?」

 しかし、珀影は砂名を抱き締めたまま、耳元で囁く。

『泣かないでくれ…これからは、わたしが君を守ろう。君を傷付ける全てのモノから、君を守り通すから…だから…』

 泣かないで…。

 優しく甘い、青年の声。

 珀影は砂名を抱き締めたまま、その身を砂名の身体に溶け込ませていった。

 そして、残ったのは、砂名一人きり。

 後には明砂の自転車と鞄だけが残っていた。

 砂名は自分の身体を抱き締め、涙を一粒だけ零す。

 ──暖かい…。

 前は気持ちが悪かった彼の温もりが、暖かかった。『君は一人じゃない』と言っているかのように仄かに暖かい、彼の気配。 

 失っていた力が、沸いてくるようだった。

 砂名は唇を噛み締めてからゆっくりと顔を上げ、大きな大きな赤い満月を見上げたのだった。



 それから暫くの間、砂名は座り込んで明砂の鞄を抱きかかえてたった一人で玄武の滝をぼーっと眺めていた。


『砂名ーーーーっ!! どこだーーー!!』


 不意に聞きなれた声が聞こえ、泣き過ぎて腫れぼったい目を隠すように膝を抱えて砂名は呼ぶ声の主が来るのを黙って待った。


 やがて、足音と共に声の主も砂名の前に姿を現す。

「砂名! やっと見つけた…!」

「…一平君…」


 心ここにあらずといった砂名の様子に、一平は駆け寄る。

「心配、したんだぞ…! 明砂みたいに、砂名、ちゃんまで失うかと思って、俺…」

 くしゃり、と一平の顔が泣きそうに歪んだ。

 それを見て砂名は驚く。

 この、ひとつ上の従兄弟は、兄同様に自分の前で泣いた事なんてなかったのに…。


 砂名の乾き切っていない目から、再び涙が零れ落ちる。

「…ごめん、一平君…心配掛けて、ごめんね…?」

「明砂の後を追ったりしないでくれれば、それで良い。元気になるまで、砂名の気が済むまで、俺が明砂の代わりにずっと傍にいるから」 

 痛ましげな表情で搾り出すかのように一平はそう言い、力強く抱き締めた。

「ちょ、ちょっと! 一平君…!?」

「俺が、傍にいるから…」

 180近い少年に抱き竦められた砂名は、すっぽりと腕の中に包み込まれて身動きひとつ出来ない。

 強い力なのに、包み込む腕の力は優しかった。

 子供の頃から知った仲だし、仲も良かったが…大きくなってからこんな風に抱き締められた事はなかったために焦ってしまう。


 しかし、当の一平は顔を赤くしたまま砂名を見下ろして、小さくホッと吐息を洩らした。

「泣き止んで良かった」

 その優しい表情と態度に、どうしてか胸がぎゅっと痛くなる。

 だけど、砂名にはそれが何なのか分からずに小さく首を傾げることしか出来なかった。


 ──


 不意に、甘い、甘い、香りが辺りを満たす。

 一平もそれに気が付いたのか、辺りを見回した。

 そして、二人が同時に瞬きをした瞬間、周りの景色が一変する。


「う、わぁぁ…」

「花なんて、咲いていたっけ?」


 周りの木全体に、真っ白な六弁の花が咲き乱れてその花が甘い香りを漂わせていた。

 砂名は一平の腕から逃れ、近くの木に咲いている真っ白な可憐な花に触れて匂いを楽しみながら呟く。

「これ、梔子の花だ」 

「昔からこの山には梔子の木が多くあったって話しだよ」

「昔から?」

「うん。…明砂が死ぬ直前(・・・・)にも話したんだけど…昔…この山には『珀影はくえい』っていう祓え師がいて、そいつがこの滝壺に狼の化け物を封じ込めたんだ。その珀影っていう祓え師が山全体に魔除けのために梔子の木を植えていたって聞いた」


 その言葉に、砂名は珀影の事を言おうかどうしようか一瞬迷った。

 しかし、それ以上に一平に言葉に引っ掛かりを覚える。

「─明砂ちゃんが、死ぬ直前…?」

 そう、一平は『死ぬ直前』とはっきり言った。

 その前にも『明砂の後を追ったりしないでくれれば』とも言った。


 ──どういう、事…? 明砂ちゃんは死んだ事になっている、の?


「うん、そう。…早いよな…ここで明砂が子供を助けて死んじまってから…12日、か。…砂名ちゃん…明砂を助けられなくて、ごめん…」

 その言葉に、砂名は驚きに目を見開く。

 謝られた事に対してではなく、明砂があの時に死んでいる事になっている事に対して驚いた。


 ──本当に、どういう事なの…?


 しかし、状況が全く掴めずにいる砂名から視線を逸らし、一平がゆっくりと口を開く。


「…話しを変えるけど…今日は始業式だったのに学校から来ていないって連絡があって、慌てて部屋を探ってみたら明砂の鞄を持って行ったみたいだし、暗くなっても帰って来ないっておじさん達から連絡が来たから、心配になって探しに来たんだ。多分、ここだろうって思って」

 その言葉にますます混乱する。

「私、始業式にも部活にも顔を出したけど…?」

「学校から来ていないって連絡があったらしいけど…? それに、放課後一緒に帰ろうと思って砂名ちゃんのクラスを覗きに行ったら、いないって俺も言われたし…」


 何が何だか分からず、砂名は視線を彷徨わせる事しか出来なかった。

「じゃぁ…明砂ちゃんが溺れて、一週間入院して、退院した後の何日間は一体なんだったの…? 今までの記憶は一体なんなの…? あ、殺人事件! 世間が騒いでいた女の人ばっかりを狙っていた、あの…!」

「砂名ちゃん? 明砂は溺れた次の日にちゃんとお葬式をしたじゃないか。それに…そんな事件なんてなかったけど…」


 砂名は目を見開き、後退る。

 ──記憶が、違う…? なかった事にされているの? それとも、この一平君はさっきの金色の狼とか…?


「どう、なっているの…?」

 砂名は自分の頬を両手で包み込み、混乱したまま視線を彷徨わせていた。

 そんな砂名の肩に一平が触れる。

「砂名ちゃん? 大丈夫? …この12日間ずっとショックのせいか、心ここにあらずって感じだったからね…」


『砂名、あの赤い月がこの山の霊力とわたしの霊力を使用して、明砂が狼臥に乗り移られたという事柄を消したみたいだよ』

「え…?」

 突然聞こえた珀影の声に、砂名は目を丸くして思わず珀影の姿を探してしまった。

「どうしたんだ?」

 そんな砂名の様子に、一平も首を傾げる。

 どうやら珀影の声は聞こえていないらしい。

『そんな事はわたしには出来ないけどねぇ。…一体どれだけ高位な神が動いたのやら…』

 珀影の呆れた声が聞こえて来るが、砂名はどうしていいのか分からず不安げに一平を見上げた。

「砂名ちゃん?」

 そんな砂名の様子に、一平は心配そうな表情を浮かべて彼女の手を取った。

「一平君?」

「…帰ろう? おじさんやおばさんが心配しているよ?」

 優しい声音に、砂名は何も考えずに頷いていた。

「うん、帰る…」

 一平は砂名の手を引き、明砂の自転車の所まで歩いて行った。

 傍には一平の自転車が乱暴に転がされており、それを軽々と起こしてからちらり、と砂名に視線を向けた。

「どうする? 明砂の自転車を自分で漕いで帰る? それとも、もう暗くなって来たし今日は俺の後ろに乗って帰って、明日にでも一緒に取りに来る?」

 その問い掛けに一瞬考えてから、砂名は手に持っていた明砂の鞄と自分の鞄を籠に入れて微笑みを浮かべた。

「自分で漕いで行くよ。これ以上一平君に迷惑を掛けたくないし、明砂ちゃんの物を置いて行きたくないもん」

 砂名は明砂の自転車に跨った。 

 そして何かを言いた気な一平に視線を向ける。

「さぁ、帰ろう?」

「…ん。暗いから気を付けて帰るぞ。…と、その前に…」

 一平は徐に携帯をポケットから出して素早く何かを打ち込んだ。

「誰に?」

「ん、父さんとおじさんに送った」

「…私も送っておこっと…」

 

 辺りはすっかり暗くなっているし、どうやら自分は無断欠席した上、行方不明扱いになっていたようなので、メールをしなければきっと余計に怒られてしまうだろう。

 

『砂名』

「珀影様?」

『これを持ってお帰り。そして、枕元において眠ると良い』


 携帯を鞄にしまった砂名の手の上に、木の上からパキリという音と共に梔子の枝が落ちて来た。

 一平はそれを取ろうと手を伸ばしたが、砂名はやんわりと押し留める。

「いいよ。折角の贈り物みたいだから部屋に飾っておく」

「そうか? じゃあ、帰ろうか」

「うん」


 そして、二人は暗い山道を自転車で帰っていったのだった。


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