白い青年
後日、明砂に助けられた子供と母親が明砂の部屋へとやって来た。
「先日は本当にお世話になりました。何とお礼を申し上げたら良いか…」
母親は嬉し泣きに泣きながら、明砂に礼を言い続ける。
そして助けられた子供は明るい笑顔でベットの上の明砂にまとわりついている。
「ありがとうお兄ちゃん!」
「怪我がないそうで、良かったね」
「うん!」
砂名はその様子を笑顔で見守っている。
しかし、明砂の様子が微かにおかしい事に気付いていた。
まだ具合が悪いのではないか? とは思ったが、そうでもないらしい。
ただ、肌を刺すような感じが、明砂からするのだ。
どうしてだろう?
なんでだろう?
──コレ(・・)は、なに?
そこまで考えた砂名は、ハッと身を強張らせた。
──私、今、何を考えていたの? 明砂ちゃんを、コレ(・・)って、思った?
砂名は自分の身体をぎゅっと抱き締める。
自分が何を考えていたのか、分からない。
その夜。
病室で寝ている明砂は笑っていた。
小さく、くつくつと、喉を鳴らして笑っていた。
その目は何故か金色に輝いて見え病室には濃い瘴気が漂っており、看護婦達もその部屋を巡回せずに無意識の内に避けている。
そして、外ではその部屋を監視するかのように佇む白い影がゆらゆらと揺れていた。
毎朝の日常。
朝食の時間に、砂名はいつものように梔子の実を頬張りながら朝のニュースを見ていた。
『昨夜、帰宅途中の女性が襲われ殺害される事件がありました。女性は数十カ所を切り付けられ、死亡。怨恨の可能性があると見て警視庁が捜査が開始しました』
「うっわ~朝からヤなニュース!」
そう言いつつも、砂名にとっては他人事。
梔子の実を食べながら、さっきのニュースの事を忘れてしまった。
ブロロロロ。
キイイー。
家の前に自動車が止まる音がする。
砂名は慌てて玄関に飛び出していった。
検査も終わり、明砂が一週間ぶりに帰って来たので嬉しくてたまらないのだ。
まだ、あの不快な感じは拭い去られてはいないのだが…。
「お帰り!」
車庫に入れようとしている自動車の脇で、砂名が叫ぶ。
その瞬間、強い風が吹き抜けていった。
「うわっ!」
『お気を付け。アレはもう、君の兄君ではないよ』
聞いた事のない、男の声。
しかし、砂名が振り返った先には誰もいなかった。
梔子の木以外には。
「な、なに、今の…」
呆然と、寒気を感じていた砂名の背で、重い音と母の声が響く。
ドサッ
「明砂!? どうしたの!?」
「明砂ちゃん!?」
砂名は梔子の木から視線を外し、倒れ込んでいた明砂が目に飛び込んだ瞬間駆け出して、慌てて明砂の腕に触れた。
「明砂ちゃん!? 顔が真っ青だよ!」
しかし、砂名の声など聞こえていないとでも言いたげに、明砂は小さく呟いた。
「あの木…ヤツだ。ヤツの匂いがする…」
「明砂、ちゃん?」
明砂は、狂気に満ちた表情で顔を上げた。
憎しみの炎がちりちりとその大きくて優しげだった目で輝いている。
──な、なに? 何なの?
砂名は怯えるようにして、明砂から後退る。
そして、いつもの明砂からは考えられない行動を起こした。
今まで倒れ込んでいたとは思えないほどの素早い身のこなしで立ち上がった途端、母を突き飛ばして車庫へ走って行ったのだ。
「藤子!」
父は慌てて妻に駆け寄るが、大した事にはならなかったようだ。
「大丈夫よ、あなた」
しかし、砂名はそれどころではなく明砂を追って車庫へと飛び込んだ。
「明砂ちゃん! 一体どうしたの!?」
明砂は自動車のオイルを取り出し、自動車の中から父のライターを掴んで梔子の木に駆け寄った。
その瞬間、砂名は明砂がやろうとしている事に気が付く。
「明砂ちゃん、ダメ…!」
しかし、明砂は止まらない。
そのままもどかしげにオイルの蓋を開け、中身を全て梔子の木に掛け出したのだ。
「明砂ちゃん!」
砂名は明砂を止めようと必死になって腕に縋り付く。
だが、それでも死にかけて今まで入院していた明砂の強い力に勝てずに引きずられる。
「明砂ちゃん! 家に燃え移ったらどうするの!?」
「明砂! 止めなさい!」
父の怒声にも、明砂を止める事は出来なかった。
明砂はライターでオイルに火を落とす。
ボッ。
信じられないほどの早さで、火は瞬く間に梔子の木全体に燃え広がっていった。
砂名は明砂の腕から手を離し、呆然とその光景を眺めていた。
そして、ふと我に返って隣に立つ明砂を見上げた。
──笑って、る…?
明砂は狂気を孕んだ表情で、恍惚と言った体で、燃え上がる梔子の木を見上げて笑っていた。
──怖い…。
そう、唐突に思った。
そして数十分後。
後に残ったのは、梔子の木の燃えかすだけ。
黙って見ていた明砂はその様に満足げな様子で、玄関の方に向かう。
あれほどの炎と煙が上がっていたというのに、近所の人は出て来なかった。
消防に連絡された様子もない。
──おかしい。
明らかにおかしい状況なのに、まるで何事もなかったかのようだ。
「明砂、どうしたの急に。身体はもう大丈夫なの? やっぱりまだ退院は早かったのかしらね?」
そんな問題ではないのだが、母も父も明砂の突然の梔子の木の放火に興味を覚えていないのは明らかだった。
──どうして?
明砂の背を見送りつつ、砂名は呆然と立ち尽くしていた。
そして、水樹家全員の目が明砂に集中していたその瞬間、梔子の木から淡い光が砂名の背を目掛けて飛んでいく。
しかし、誰も気付かない。
もちろん、当の砂名も気付かない。
ただ、何かの気配を感じ取っただけだった。
だが、その淡い光が砂名の背に入り込んだ瞬間、砂名の身に異変が起こった。
「ん…?」
強烈なまでの睡魔が襲って来たのだ。
──何でこんなに眠いんだろう?
砂名は開けっ放しの玄関から入りつつ、目を擦る。
その様子に、母が気が付いた。
「あら砂名、どうしたの?」
「…分かんない…なんか、眠くて…」
退院して来たばかりの明砂にくっ付いていたいが、睡魔には勝てずに砂名は大きなあくびを噛み殺しつつ、食事もせずに部屋へと戻っていった。
砂名はベットに入るなり眠りに着いてしまった。
そして、夢を見る。
白い花が咲き乱れる梔子の木の下に、一人の青年が立っている夢。
白い、白い、長い髪の、青年。
着流しの、不思議な雰囲気を醸し出した青年だった。
その青年がゆっくりと不思議な色をした目を瞬きし、申し訳なさそうに囁きを洩らす。
『申し訳ないけど、その疲労感は慣れるまでは辛いだろうね。なんと言っても、わたしに生気を吸い取られているのだから…しかし、わたしはまるで寄生虫のようだ…』
その不思議な青年は、苦笑したかのようだった。
砂名は、夢うつつのまま、呟き返す。
「え…? 貴方は、誰? 何を言っているの…?」
『わたしは生前から強い力を持っていてね…占いとか、物の怪退治とか、色々やっていた祓え師だよ。でもね、そんなわたしだったからなのか、私は死後もこのように存在し続ける事が出来たんだよ。生きている、とでも言うのかな? まあ、生あるモノに宿り、その生気を得る事によって、だけどね…』
白い青年は、切なげにそう呟いて真っ直ぐに砂名の方を見た。
優しげな、目をしている。
しかし、その双眸の色は…。
「白い、目?」
白目の部分も、虹彩の部分も、白だった。
それなのに、はっきりと分かれているのが分かる白い眼差し。
──なんて、きれいな人なんだろう? その髪も、着物も、全部が白くてきれい…。
そんな砂名の心中を見破ったのか、青年が淡く微笑んでみせた。
『おや、この色を見ても怯えないね? まるで初めて会った時の藤のようだよ』
──ふじ?
青年は、少し悩んだ素振りを見せたが、砂名の疑問に答える。
『三百年ほど前の、君の祖先に当たる女性だよ。君達によく似ている…』
まるで、懐かしむかのようなその口振りに、砂名は微かな恐怖を覚えた。
得体の知れない、そう、幽霊と遭遇したかのような感覚。
しかし、青年は淡く微笑んだままだった。
『大丈夫だよ、わたしは君を取り殺す気なんてサラサラないからね。ただ…君達を見守っているだけだよ。だから、安心してくれるかな?』
笑ってみせる白い青年からは、なんの邪気も感じられない。
そう、今の明砂の方がよほど邪気を感じ取れるのだ。
無言で頷いた砂名に、青年は梔子の木を見上げて呟いた。
『でもね、わたしが生きていると知った皆は、恐怖におののいたものだよ。殺したはずの男が現れたのだからね…』
その瞬間、青年の記憶が砂名の脳裏を駆け抜けていった。
殺意に満ちた村人達。
青年の身体に振り下ろされたクワや鎌。
「きゃああーーー!」
思わず目を閉じた砂名だったが、それはすぐに消え去った。
そうして恐る恐る目を開けた砂名に、青年は微かに悲しみを帯びた双眸で砂名に語りかける。
『お気を付け。強き力を持つ者は、恐れられ、忌み嫌われるモノだ』
ゆっくりと青年は砂名に近付き、白い双眸を瞬く。
『わたしの一部を食してしまった影響で、君はわたしの持つ、普通の人間には見えぬモノを見る力を得てしまった…本当なら、後数日食して祓う力も得ていれば良かったのだけど…燃えてしまったのだから、仕方がない事だね』
淡く微笑む青年の言葉に、砂名は困惑するしかなかった。
不意に、青年がいつの間にか明砂によって焼かれて、無惨な姿となった梔子の木に変わったその木に、手を添える。
『藤がわたしのために作ったくれた墓から芽生え、わたしの霊力を養分として育ったこの梔子の木は、わたしの第二の身体となったのだよ。しかし、梔子の木は焼かれてしまった…すまないが、これからは、君の身体に宿らせてもらうよ』
青年は優しく砂名の頬を撫で、その身を光の粒に変える。
漠然と、青年がなにをしようとしているのか理解した砂名は慌てるが、すでに青年の身体は砂名の胸の辺りで半分ほど溶け込んだ後だった。
「ちょっ!」
しかし、最後まで叫ぶ事は出来ずに、青年を完全に砂名の目の前から姿を消す。
──私の中に、消えた!?
他者の気配がする自分の身を強く掻き抱いた瞬間、砂名は夢から覚醒した。
「──夢…?」
ベットの中から起き上がり、砂名は額に手をやって吐息を漏らした。
──なんてリアリティのない夢なんだろう…でも、なんだか…。
現実になりそうで、怖い。
砂名はベットから抜け出し、水を飲もうと扉の方へ向かった。
キイ…。
庭の鉄柵が開けられる音。
砂名は枕元に置いてある目覚まし時計を見て、それが朝刊の配達ではないと思う。
「まだ、早いよね?」
目覚まし時計は四時四十四分を指している。
朝刊が配達されるのは、六時近く。
おかしいと感じた砂名は恐る恐る窓に近付き、カーテンの隙間から外を見た。
すると、明砂が鉄柵を閉めて玄関に向かい、家に入ろうとしている姿が目に飛び込んで来る。
──明砂ちゃん? こんな時間に出掛けてたの? 釣りじゃあなさそうだけど…。
明砂は、いつもの釣り竿一式を入れたバックを背負ってはいなかった。
それどころか、何故だか恍惚とした表情をしてる。
しかし、次の瞬間その表情を急変させ、明砂は狂気に満ちた表情で砂名の部屋を見上げたのだ。
砂名は下から見えない位置に立っていたが、身を強ばらせて明砂に気付かれぬようカーテンの影に身を寄せる。
そして聞こえた明砂の呟き。
「くそっ! なんなんだよ、まだヤツの匂いがするヤツがいる!」
ワケの分からない、その呟き。
だが、なによりも恐怖を誘ったのは、明砂の殺意に満ちた表情だった。
そして、砂名は見てしまった。
明砂の背後に存在する、金色の獣の姿を…。
──な、なに? なんなの? あれは…?
恐怖におののく砂名に、穏やかな声が降り注がれる。
『まだ分からないのかい? アレが君の兄君に取り憑き、そしてアレが君の兄君の身体を操っているんだよ…とても残念な事だけど、ね…』
砂名の胸に微かな痛みをもたらすその声は、青年の──夢の中で出会った梔子の木の青年の声だった。
砂名は部屋の中を見回すが、誰もいない。
それどころか、胸が熱かった。
そう、彼が砂名の中に溶け込んでいった場所だ。
──なんなの…? 一体、何が起こっているの…?
「気持ち悪い…!」
砂名は自分の身体を強く抱き締め、そのままベットに潜り込んだ。
しかし、眠れるはずがない。
そう、眠れるわけが、なかった…。
──取り憑かれているって? 操られているって? 誰が? 明砂ちゃんが?
頭の中を、ぐるぐると回る青年の言葉。
しかし、砂名にはどうする事も出来なかった。