神視点
「ハァ、疲れたのじゃ」
そう呟いた菊那が、その場で大きく息を吐きながら、ゆっくりとその座椅子に座り込んだ。そこはアキハバラスカイツリー内にある、菊那のために用意された部屋であった。
アキハバラスカイツリーは魔力の川に干渉するための巨大な魔術装置としての側面もあり、場合によっては菊那がこの場にやってくる必要もあったために、こうした休憩室が存在していたのである。とはいえ、今回は風音たちのダンジョン作成の付き添いで彼女は来ていたのだが、今の菊那は周囲の者がかつて見たことがないほどに消耗していた。
もっとも周囲にいる彼女の巫女たちは、気遣わしげな顔こそするものの何も口にはしない。それは菊那を神の分身、絶対上位存在であることを教育として受けているが故の所作であった。だから菊那に声をかけたのは彼女らではなく、その場に共にいたひとりの老人であった。
「で、菊那様。お身体は大丈夫なんですかい?」
一緒にこの部屋にやってきた扇の言葉に菊那が弱々しく笑う。
菊那は扇が坊主の頃から知っていて、こうして気後れすることなく会話のできる相手であるからこそそばにも置いていたのだが、その扇に対してであっても今回ばかりは菊那も「微妙じゃな」と弱音を吐いた。
「相当に疲れたわ。もっとも妾自身が……というよりも妾の本体が消耗しきっておると言った方が良かろうがな。あちらのダメージが、同調によって妾にまで届いて負荷がかかっておるのじゃよ」
その言葉には、扇と巫女たちが驚きの顔をする。
菊那の本体は数千年の歴史を持つ神、今は真名からくる干渉を避けるために菊那と名乗っているが、本来であれば誰もが知る国造りの神の名を冠する存在だ。
「……何があったんです?」
心配そうな顔をする扇に対し、菊那はさてどう言ったものかと眉をひそめた。
本体の負荷の原因は明らかだ。この世界を含めた八つの世界すべてを支える大神がその場に降臨し、そのあまりにも巨大な存在に当てられたことで吹き飛ばされそうになったのだ。別に何をされたわけでもないが、大神と菊那の存在の規模は象と蟻よりも大きな開きがあり、菊那にとって大神とは文字通りの超越存在であった。
「大神様がな。亜空間の修復のためにあの場に現れたのじゃ。あのときの変調はそのためじゃ。その影響を最小限に留めるために我が本体は耐えておったというわけじゃな」
「大神様? それって……あの、この世界を支えているとかいう」
扇も大神のことを全く知らないというわけではなかった。アトラスというコードで呼ばれていることも扇は以前に聞いたことがあったが、それでも大神のことを正しく理解できているというわけではない。むしろ菊那の本体が敵わない相手だということに対して信じられないという顔をしていた。
「うむ。妾のようにこの地を管理しているだけの存在とは、言葉通りに次元の違う方じゃよ。正直に言えば、手心を加えてくださったのじゃろうな。あの方が触れれば、それだけで水面の泡のように妾の本体なぞ吹き飛ぶ。こうして生きていられるだけでも恩の字じゃろう」
「な……どういう化け物なんですか、そりゃあ」
扇が思わずそう言ってから「いや、すみません」と急ぎ口にする。それには菊那も「妾は気にせんよ」と返した。
「とはいえ、あまり外では口にせんようにな。神々の中には崇拝しておる者も少なくはない。場合によっては、口にした途端に消失させられかねん」
菊那の忠告に扇の顔が青くなった。その様子を見ながら菊那は風音のことを思い浮かべる。
(片割れが、あの娘であろうことは知らぬ方が良かろうな)
それは扇が信用できぬのではなく、小さき頃から成長を見ている扇が可愛い故の判断であった。
わずかでも扇からそれが漏れれば、それは扇に間違いなく厄災をもたらす。目の前にあれば試さずにはいられないのが人間だ。どうあるにせよ、知ってしまえば世界は動き、大神の片割れとして接触しようとするだろうと。人間はそういう生き物だと彼女は知っていた。
(人としての運命を全うするならば、非業の死を遂げようともあの方も何も言うまいがな。けれども、あの娘を通じて自分に干渉をかけてくるならば、容赦はすまい。そのときは、世界ひとつでは勘定が合わぬかもしれん)
そこまで考えてから、菊那はブルッと己の小さな身体が震えたのを感じた。
触らぬ神に祟りなしというが、ただ意識を向けるだけで、重圧で神を殺せる相手である。存在の一端に触れただけで菊那の本体は消滅しかかり、その深さを知ったことで逆に神としての格も上がっていた。ある意味では菊那は賭けに勝ったと言えるかもしれないが、ともあれ同じような綱渡りは二度とごめんだと菊那は感じていた。
(まあ、今回の件が終わっても、あやつらは今後もここには立ち寄るであろうがな……さて、どうなることやら)
菊那は、今まさに地下でダンジョンを生成してアナザーワールドに向かおうとしている風音たちのことを考える。
(大神が彼らを助けるということは恐らくはなかろう。大神は、いや妾の本体も含めて、神は人という存在の生と死を愛おしく思うておる。その生き様こそを愛する。己がそれに手を加えることで濁ることを嫌うのだからな)
安易に力を与えれば、堕落し、その精神性を貶める。それを楽しむ神もいるが、長きときを生きる彼らにとって、それは一種の娯楽に近いものだ。本能に近いレベルで、彼らは観測することこそを良しとしていた。
(まぁ、そうでなき者もいるにはいるが……な)
聞けば、大神の法により己の意志を保ちながら神であり続けるジルベールなる存在があちらにはいるという話であった。それはコミュニケーターである菊那にとっては「よく耐えられるものであるな」という認識だった。
魔力の川の流れにさらされれば、人の意志なぞ軽く吹き飛ぶ。耐えて百年。その過程で、神は大神のように己が根幹を凍結し、菊那のように存在を分離させることを学ぶのだ。
(それを己の意志だけで対処する。それだけでも奇跡に近いが、それが創造神になるというのか。まあ、本来であればやってみろと言いたいところではあるが)
神は可能性を愛する。世界を八つに分けた理由のひとつがそれだ。滅びもまた多様性のひとつであり、ジルベールの試みはむしろ好ましくもあった。故に真に神性足る彼らは手を出さないし、そうであろうことは相手も織り込み済みだから、大胆にも行動に出たのだろうと菊那は予測していた。
「もっとも、今回は分が悪いかもしれぬな」
「何がです?」
そばにいた扇が首を傾げて尋ねるが、菊那は少しだけ笑って「なんでもないのじゃ」と返しながら目をつぶった。本日は菊那としても少々どころではなく疲れたのだ。そして、菊那がゆっくりと眠りにつき始めた一方で、風音作によるダンジョンは徐々に広がりつつあったのだった。




