第九百六十六話 微笑みを取り戻そう
『勇者よ。悪魔に組みする者が口にした言葉が是か否かを問いたいと言うか?』
『であれば、その言葉は是である。由比浜風音は死んでいる。金翅鳥神殿、心臓球の間を越えた先で、由比浜風音なる者はすでに死んだ』
『今や世界は断絶されたが、その事実は記録に残っている。この知を司る神アナハスの名において由比浜風音の死を肯定しよう』
直樹の口が一言一句違えず、神殿で聞いた言葉を告げていく。それから震えながら「姉貴は死んだんだ」と口にした。
金翅鳥神殿の最後の戦いにおいて、直樹たちは風音たちを心臓球の間に送り、自分たちは延々と湧き続ける魔物の軍団を留めながら、トールに捕まっているミナカの救出をするために戦っていた。
悪魔ジルベールと風音の英霊がその場を嵐の如く通り過ぎていき、その後の英霊の気配が消えた後、トールは「風音さんが死にましたね」と言って揺さぶりをかけながら去っていったのだ。
直樹たちがそのトールを追うことはなかった。ミナカも気がかりではあったが、仲間の多くが疲弊し、ミナカの要望もあって彼らはすぐさま心臓球の間に向かっていった。
だが、向かった先にあったのは崩れ落ちて瓦礫の山となった心臓球の間の入り口だった。瓦礫の先には何もなく、瓦礫を掘り起こす間もなくダンジョンが崩壊し始めたために、彼らはその場を去るしかなかった。
「一応、アナハスは師匠の問いかけにも応じてくれて、弓花の死も確認されたんだ。エミリィやタツオ、レームまでは分からなかったけど、状況的に考えれば……だが、もしかしたらするかもな。まあ世界は断絶されてるからあっちのことは今じゃあ知りようがないってのが神官の話だったけど」
「…………」
言葉の出ないティアラに直樹が何もかもを諦めた眼差しで「ま、そういうことだ」と言った。
知の神アナハス。それは西の地に神殿を構える、知識を司る神である。
ゲームシステム的に言えばヒントをくれる神様であり、直樹は勇者という称号を得たことで任意の質問を一度だけ尋ねることができるようになっていた。
その頃の直樹たちは、ティアラとライルたちとはすでに別れており、ギャオたちと共に行動していた。
そして、彼らはひとまず風音たちの安否を知るための方法を探していた。ゆっこ姉からの提案もあって、元々は風音に与えられるはずだった勇者の称号を直樹は受けることでアナハスへの質問の権利を手に入れ、クロフェの推薦をもらい、西の竜の里ラグナの近くにあるアナハスの神殿に訪れていたのだ。
そこで直樹は尋ねた。「トールの言葉の通りに、姉は死んだのか?」と。
その答えはイエスだった。あちらの世界で風音は死んだとの答えが返ってきた。
「あちらには辿り着けた。だけど姉貴は死んだ。致命の救済のスキルのことも質問のレアリティが低いらしくて、ご丁寧に教えてくれてさ。因果律を書き換える力であれば死の記録は残らないんだとよ。だからそれもないって言ってた。な、殺されたんだ。悪魔どもに。俺はなんであのときに……」
心臓球の間には行かずに残ったんだ……と、そこまで口にする前に直樹は顔を伏せた。結果として風音たちは死に、ミナカもトールに連れ去られた。彼にとってはすべてが失敗に終わったのである。イフの話をしても虚しいだけだった。
それからティアラがポツリと尋ねた。
「ナオキ……三ヶ月前の神託は覚えていますか?」
「忘れるわけがない。俺もお前も、だからこそ必死に動いてるんだろ?」
直樹の言葉にティアラが頷く。ティアラの言う神託とは、三ヶ月前に神々が告げたものだった。
「『月の満ち欠けを四度越えた後、封印されし大魔王は復活する』でしたわね」
「続く言葉が『滅びの鐘が鳴り響いている。鐘の音を止めねば、汝らは滅びの道を歩むであろう』だったな。アバドンのことだ。ゆっこ姉の懸念が現実のものとなったんだ」
直樹が眉間にしわを寄せながら告げた。
アバドンは、ゲームである『幻想伝記ゼクシアハーツ』のMMOモードにおいて奈落の王とも呼ばれた最強のレイドボスの名だ。
その復活をゆっこ姉は悪魔の目的の候補のひとつとして推測していたのだが、状況は整いつつあり、神託によってアバドンのカテゴリである『大魔王』の復活が告げられたことで、その推測は確信に変わっていた。今の直樹たちはアバドンの復活を阻止すべく動いていた。
「止めないとな。ゲームの設定が確かなら、現実に世界が滅ぶかもしれない。それだけはさせない。もう、アイツらに何も奪わせる気はない」
そう言ってギュッと握る直樹の拳に、ティアラがそっと手を乗せる。それから直樹に対して「ねえ、ナオキ」と口にした。
「わたくし、思ったんですのよ。予言の日まで後一ヶ月。このままだとアバドンが復活するかもしれない。けれど、大魔王と呼ばれる存在が別にもいることをわたくしたちは知っていますよね?」
「何が言いたいんだ?」
ティアラの言葉の真意が分からず、直樹は訝しげな顔をしながら首を傾げた。その様子に少しだけ微笑みながら、ティアラは「ロクテンくんですわ」と返す。
「大魔王の器となったロクテンくんに乗るカザネであれば、もう大魔王と言っても良いと思います。であれば封印されし大魔王が復活する……とはカザネが復活することだと考えることも」
「止めてくれ。姉貴は大魔王じゃない。天使だ! 俺の天使なんだ!」
直樹がキッとティアラを睨んで、声を荒げた。
「じゃあ、なんだ? 復活するのは姉貴で? 俺たちがどうしようと関係なく姉貴が帰ってきてくれるのか? だったら滅びってのは何なんだ? 姉貴が世界を滅ぼすっていうのかよ?」
「或いは前後の文に連続性はないのかもしれません。カザネの復活と、滅びの鐘は別の案件なのかも? それこそアバドンの復活を指しているのかもしれません」
「戯れ言だッ!」
そう言って直樹はティアラの手を振り払うと、自身の顔を己の手で覆った。その直樹を見ながら、なおもティアラは強い意志を持って言葉を重ねる。
「戯れ言かもしれません。けれども、わたくしはそう思いたい。神が言おうと、悪魔が言おうと……あの子と二度と会えないなんてわたくしは認めない。だから、わたくしは戦いますわ。状況からすれば世界に危機が近付いているのは事実ですもの。わたくしはカザネが戻ってきたときに、カザネに胸を張れない自分でいたくはありません。そしてあの子が戻ってきたときには『少し問題がありましたけれども、わたくしたちで片付けてしまいましたわ。急いで戻ってきたのに残念でしたわね』って笑って言ってあげるつもりです」
「ただの妄想だよ。そんなこと」
「だとしても……それでも、わたくしはあの子に笑われる真似も悲しませる真似もしないと決めたのです。それが、わたくしがカザネに報いるということ。ナオキ、あなたはカザネと再会したとして、そのとき笑えますか? 胸を張って自分を誇れますか?」
「いいや。いいや、俺は駄目だ。駄目なんだよ。駄目なら姉貴が叱ってくれるんじゃないかって……そんなことも考えてる。俺はもう……」
弱々しくそう返す直樹を見て、ティアラはその震える身体を静かに抱きしめた。
その苦しみをティアラも理解している。自分の言葉が夢物語だと自覚もしている。それでもティアラは自分の足を止めたりはしない。だから直樹にも、ただ憎しみだけで選んだものではない、もっと相応しい道を進んで欲しい……とそう願っていた。だが直樹の瞳の闇は晴れない。
「ただ……アイツらを許さない。それだけは決めている」
怨念が込められた言葉が部屋に響く。そして、ティアラがゆっくりと口を開いた。
「ねえ、ナオキ。わたくしはカザネにそっくりなあなたの笑顔が好きでしたよ。ただ、それが見たかった。わたくしがここに来た理由は、本当はそれだけなんです。ここに残されたカザネにわたくしは会いたかった」
ティアラはそう言ってから、静かに直樹から手を離して立ち上がると、振り向かずに部屋から出ていった。そして直樹はひとり取り残され、その場で嗚咽する。
「笑えるかよ。もう姉貴はどこにもいないんだぞ。もうどこにもな」
そう言って直樹はひとりで泣き続けた。
やがて涙も枯れ果てたのか……気持ちが落ち着いた直樹は顔を上げて、誰もいない部屋を見た。
窓の外はまだ薄暗いが、庭で騒いでいる者ももうほとんどいない。それから直樹は窓に映る自分の顔に気付いた。映っているのは涙と鼻水の混じった酷い顔だった。だが、それこそが己の今の顔なのだろうと直樹は素直に思う。
「けど……」
直樹はそう口にする。気持ちは変わらない。泣きはらしたからと言って、内に秘めた怒りも悲しみも憎しみも消えはしない。けれど……と直樹は想う。ティアラの言葉をゆっくりと思い出しながら、かつての頃を思い出しながら、姉の顔を思い出しながら直樹は呟いた。
「それでも姉貴なら、きっと……」
きっと……その先の言葉は声にはならなかった。だが、それが恐らくは最初の一歩だった。
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「黒き一団。揃いました」
レイゲルの声が響く。
今は獣海討伐の翌日の昼過ぎだ。ティアラ王女の呼び出しに応じて、直樹たち黒き一団が町長の館の応接間に並んでいた。その中でギャオはなぜか泣いていた。
後に彼らが話を聞いたところによると、町一番の美人を紹介されたはずなのになぜか翌日には牛糞まみれで牛泥棒として監獄に入っていたのだという。
警護兵もさすがにそんなクソまみれの泥酔獣人が英雄のひとりだとは思わなかったらしく、檻から出すのに随分と苦労したと探しに行った騎士のひとりが語っていた。
なお紹介された美人はマリアンヌ(雌牛)。理性が最後に勝って未遂であったらしい。危なかった。
ともあれ、黒き一団はその場にいて、膝を突き、頭を垂れていた。今は私的ではなく、公的な立ち会いである。それが他国の王女と接する彼らの正しい立ち位置であった。それからティアラが手を挙げて口を開く。
「みなさま、昨日はご苦労様です。そして、お顔をお上げ下さい」
そう口にしたティアラの前で、黒き一団がゆっくりと顔を上げる。そしてティアラはその中に、今はいない友人を見た。ティアラの瞳に映ったのは失われたはずの笑顔であった。
「あ……」
それはもう届かないと想っていたはずのものだ。
笑っていたのは直樹だった。まだ瞳の中にある暗い色が晴れているわけではないが、それでも直樹は目の下を赤くしながら、ぎこちなく笑顔を作っていた。
これでいいのかというか? とでもいうかのような直樹の視線を感じて、ティアラはその瞳に涙を滲ませながら頷く。
勇者。勇気ある者。あらゆる難敵と立ち向かい、切り開く勇敢なる英雄。
或いは、そうしたものになるための最初の一歩こそが、その微笑みであったのかもしれない。けれども、それは彼らにとって今は関係がないことだ。
(……お帰りなさいナオキ)
口には出さぬものの、ティアラは心の中でそう呟く。
そうして、ようやく『仲間との』再会を果たしたティアラの頬からは一筋の雫がこぼれ落ちたのである。
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