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「やっと産まれた男の子の陽一さんを、佐和子さんは、それこそ寝食を忘れて必死で育てました。
教育ママ、とは、今は言わないのかな、とにかく、あらゆる英才教育を施していたようです。
翌年、年子で伊月さんが産まれました。世間というのは、無責任で口さがない。
まだやっと歩き始めたくらいの陽一さんがいて、ひどい言葉ですが、家畜腹だのなんだのと。
佐和子さんは、伊月さんが生まれた事を、ご自分の中でなかった事にしてしまいました。」
片桐さんと僕は、思わず息を飲んだ。
「具体的に何かをしたわけではありません。別な言い方をすれば、何もしませんでした。
実花さんを全寮制の中学にいれてから、
陽一さんには、やれ英会話だ、何とか教室だとべったりで、伊月さんには見向きもしない。
伊月という名前でさえ、太陽の陰に隠れるようにという意味だという話が、
まことしやかに語られるほど。
お父さんは、婿なせいか、仕事人間だったせいか、家庭のことには無関心。
先代は利発な伊月さんを気に入って可愛がっていたのですが、それは多忙な人で、
なかなか会うことさえできない。
何より、佐和子さんも先代の元には陽一さんしか連れていかない。
先代の強い勧めで、兄弟であまり差をつけては外聞も悪いと、
伊月さんは自宅でピアノとバイオリンを習っていました。
佐和子さんいわく、水泳や武道のような送り迎えの必要な習い事は陽一さんで忙しいし、
勉強は陽一さんがするからいい、というわけです。
しかし、やがて状況が変わってきた。
小学生時代は、学業の成績が大きく取りざたされる事はなかったのですが、
中学に入ると成績で評価されるようになる。
陽一さんは、お母さまが厳しく教育していたにもかかわらず、成績は中の下程度。
覇気がなく、引っ込み思案で無表情の、どちらかというと不器用そうな少年でした。
対して伊月さんは、明るく人懐っこい性格で友人が多く、学業も常に5位以内、
運動神経もよく、元からカンのいいタイプだったのでしょう、なんでも器用にこなす子でした。
一学年下にいるこの次男が、お母さまは疎ましくなった。」
「なんでっすか、どっちも自分が産んだ子でしょうよ。」
声を荒げる片桐さんに、困ったような視線を送ってから、続けた。
「本当にそうなんだ。
だけれど、世の中には兄弟を平等に扱えない親というのはいくらでもいる。
兄弟だからこそ比べられる。
同じ親から生まれて、自分が心血注いで育てた子より、
全くといっていいほど関わらなかった子の方が、あからさまに出来がよかったら。
何より、佐和子さんにとって、陽一さんがすべてだった。
陽一さんの邪魔になる存在が疎ましくなったんだろうと思う。」
しん、と空気が静まる。遠く、セミの声だけが響いている。
「誕生日にしても、陽一さんは毎年、たくさんの招待客を招いて、
結婚式の披露宴と見紛うばかりのパーティを開いて、山ほどのプレゼントをもらいます。
ところが、伊月さんには何もない。
伊月さんにとって、自分の誕生日というのは、自分が家族にとって必要のない子供なのだと、
思い知らされる日でしかなかった。
私はそれが不憫で、3度ほど、ハンバーグを作って食べさせました。
それだって、毎年じゃない、たまたま時間が取れた年だけ。
伊月さんが8つの頃、私はこの店を持たせてもらいました。
軌道に乗せるため、躍起になってやってきた。
本社にいっても、自由になる時間などほとんどなかったし、
5年前に社長が伊月さんのお父さんに代替わりしてから、ついつい足が遠のいて。
いや、これはいい訳でしかない。
2年ほど前だったでしょうか、久しぶりに伊月さんに会ったのですが、
私にすっかり心を閉ざしてしまって。
あの日、先日の伊月さんの誕生日、7年ぶりに彼と打ち解けて話すことができました。
その間、どんな思いで毎年誕生日を迎えていたのか、
どんな思いで、もう10年も前にたった3度ハンバーグを食べさせたきり、
ほとんど会う事もなかった私のところになど来ようと思ったのか。
なぜ、カードの一枚も送ってやらなかったのか。思うほどに、自分が情けない。」
ハンカチを取り出して目頭を押さえる細倉さんに、僕も片桐さんも言葉が出ない。
「こんな事、私の口からお願いするのも、可笑しな話でしょう。
けれども、どうか、あの子を支えてやって欲しい。どうか。」
そういって、深々と頭を下げる。
キイ、と軋んだ音が聞こえる。
風見鶏が、風が変わったのを知らせてくれていた。
もうすぐ、夏休みが終わる。




