P19
湊を見送った後、すぐに出かけるのかと思っていたら、着替える前にシャワーを浴びるという。
「修、先に行って。その間に服、用意しておくから。
お風呂のものはなんでも好きに使って。
はい、これタオルと、とりあえずこれ着てて。あ、下着は新品だからね。」
上機嫌でそう言う伊月に、言い返す間もなく脱衣所に押し込められてしまった。
ぱたんと閉まったドアを呆然とみつめてから視線を移すと、洗面台の鏡の中、
Tシャツやらタオルやらを抱えてぼんやり立っている自分が見返している。
なんだか間抜けな姿に大きくため息をついて、諦めてシャワーを借りる事にした。
「お先に…って、何してるの。」
リビングの光景に思わず髪をタオルで拭いていた手が止まる。
ソファや床のラグに所狭しと服が並べられていて、フリーマーケットみたいだ。
「んー、悩むよねえ。これいいなって思うんだけど、ちょっと暑そうでしょ。
こっちも捨てがたいけど、これだと僕が着る物、修と合わせるのが難しいっていうか。」
手近にあった何枚かをそういって順番に僕に見せたり、
体の前に合わせたりして首をかしげて口を尖らせる。
「服なんて、なんでもい」
「何言ってるの、良くないよ!こんなチャンス、なかなかないんだよ!」
いいかけて、その剣幕に押されて、黙るしかなかった。
こんなチャンスって。そりゃ、こんなおしゃれで高そうな服、着たことないけれど。
「あーーーもーーーー、だめだ、先にシャワーしてくるから、修も選んでて!」
煮詰まった伊月が、そういってお風呂に駆け込んでいくまで、
しばらくファッションショーが続いた。
服を着替え続けるのが、こんなに疲れると思わなかった。
身の回りに散らばった服はさっきよりさらに増えている。
よくこんなに服を持ってるな、と感心するのと呆れるのが半々。
選んでいてといわれても、僕の意見は基本的に聞き入れられていない。
仕方ないので、伊月が「却下」といって放り投げっぱなしにしている服を拾い集める事にした。
ふと、黒いアップライトピアノの隣、いつも座っている方からちょうど死角になるところに、
そんなに大きくないハードケースが立て掛けられるように置いてあるのが目に入った。
これって、きっと。へえ、伊月も、そうか。
思わずくすりと笑って服を拾い続けた。
すっかり服を片付け終わって、待ちくたびれた頃、やっと伊月が戻ってきた。
窓の外はとっくに真っ暗で、満月に近い明るい月の光がベランダの手すりを照らしている。
それから割とすんなり2人の服が決まって、やっとでかけられるとほっとしていると、
次は髪を整えるという。
「修、メガネなくても平気なの?」
「うん、あった方が楽だけど、ないと困るって程でもないよ。」
「えー、じゃ、かけない方がいいのに。」
整髪料を慣れた手つきで手のひらに伸ばし、僕の髪を梳きながら、目を大きく開く。
前にも、そんな風にいわれた。確か、クラスマッチの時に。
困ったように曖昧に笑うと、伊月も察したように、ちょっと寂しそうな笑みを浮かべた。
「できた。どう?」
促されて鏡に向き直ると、今まで見た事のない自分の姿があった。
仕立ての良さそうなシンプルなシャツに、スカーフ。
いつも長めに下ろしっぱなしの真っ黒な髪は、伊月の指の通った跡のまま、毛束になって流されている。
それだけで、まるっきり雰囲気が変わっている。
驚いて鏡を見続ける僕の肩越しに、さっきの笑みのままの伊月がうつる。