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チリン。
目覚める時、よくイメージするのは、深海から明るい水面を目指して浮かんでくる光景。
万華鏡のように彩を成す水面すれすれのところ、意識の表層をまどろみながら漂う。
寝室の温く澱んだ空気はくったりとして心地いい。きっと大方の人が「至福」とする一瞬。
チリーン。
脈絡もなく響く鈴の音に、思わず眉をしかめて、かろうじて舌打ちを堪える。
さっきまで穏やかに揺蕩っていた意識は、無理やり現実に引き出された。
明るい水面は消えて、今、脳裏に映し出されているのは、
真っ暗な闇の中、ぼんやりと光っている、古びた真鍮製の鈴。
澄んだ音というより、どこかザリザリとしたノイズが混じる。
せめて今日くらい、幸せな気持ちで目覚めたかったのに。
いや、今日だからこそ鈴に起こされたのか。
両手で顔を覆って長く息を吐いて、自分自身に「忘れたわけじゃないよ」と、
心の中で声を掛けてから目を開ける。
ベッドサイドの窓へ視線を移すと、カーテンの隙間から光の帯が流れ、
埃がその中を思い思いに横切っていく。
少しだけ起き上がり、手を伸ばして静かにカーテンを手繰ると、
光の帯はそのまま広がって部屋を明るくしていく。
ガラス窓の向こうは、申し分のない快晴だった。
ざわざわと浮足立った空気の教室。誰もが自分の居場所を探るように、
ある人は息をひそめて周囲を窺い、またある人は手近な誰かに話しかけて他愛もない話に興じている。
きっと、他のどのクラスも似たような状況だろう。荷物を鞄から机に移す手を止めて窓の外を見た。
空は水色に透き通って、ふんわりとした真っ白な雲が気持ちよさそうに浮かび、
視線を下方に移すと、ほぼ満開の桜の、淡いピンクの枝が風に揺れている。
うららかな、春の善き日。
しっとりとした若草の上を裸足で歩いて、爽やかな風を受け、気ままにごろんと寝ころんだら、
すごく気持ちいいだろうな。
「どうも。」
その声が自分に向かっていると感じて振り向くと、男子生徒が人懐こそうな笑みを浮かべて立っていた。
きれいなひと。
背は170cmちょっとくらいだろうか。
緩いクセのある、明るい髪の色、はっきりしているけれど、穏やかそうな目。
「隣の席の、こうさきいつき。よろしくね。」
穏やかな笑みのまま、そういって少し首をかしげた。
「あ、えっと、佐倉修輔です。よろしく。」
我ながらぱっとしない応え方にうんざりする。
気まずくて少し俯くと、くすりと笑って、「しょうさわにって?」と聞いてきた。
「しょうさわに?」
なんだろう、聞き間違い?初めて聞く言葉に、思わず同じ単語を繰り返す。
「よしざわ二中、だろ。」
こうさきと名乗った男子生徒の背後から、別な声が答えた。
「祥沢市って、ここの隣の市だよ。そこの、二中。俺はたかぎみなと。」
そういって、僕に向かって片手をあげた。
挨拶の代わりなのだろう、ほっとして、お礼と同意の意味を込めて小さく頷く。
切れ長の奥二重、広い肩幅に短い髪を立たせている。
身長は軽く180cmを超すだろう。余裕のある、落ち着いた態度が大人っぽい。
「ああ、祥沢市ね、聞いたことある。遠いの?」
「うーん、電車で二駅。そんなに遠いわけじゃない、かな。」
「いっちはさ、他県から来てんの。こっちの事は、あんま詳しくないんだよな。」
ああ、それで。神崎君が祥沢市をよく知らないらしい訳がわかった。
こうさき君も、みーサンキュ、と軽い調子でお礼を言っている。この二人はすでにとても仲が良いらしい。
カラリ、と教室前方のドアが開いて、担任教師が入ってきた。
「で、だ。まずは委員長と副委員長を決める。立候補するやつはいるか?」
教壇に立つ当クラスの担任教師は、30代前半から半ばくらいだろうか。
椎野と名乗り、教科は歴史を担当していて男子バレー部の副顧問だという。
快活でどっしりした、頼れる男性という印象を持った。
委員長。そんな面倒も目立つ事も真っ平だ。
自分だけでなく、クラス全員が同じ思いなのだろう、素早く先生から視線を逸らし、
気配を消す努力を始めたのを感じた。
「立候補、は、いないか。本来なら選挙とか推薦とかするんだろうが、まだ顔と名前も一致してないだろ。
ということで、こっちで適当だと思ったヤツを指名する。」
嫌な予感にとっさに顔を上げる。
「お、佐倉、なかなかカンがいいな。委員長よろしく。」
目が合うと人の良さそうな笑顔を僕に向けてそういった。