二章 コーヒー・ノン・ブレイク.一節
天埜市───天埜港を中心とした貿易・漁業によって栄えた地方都市である。
人口は約45万人、面積は537.21km²。
港周辺は近代的なビル街やランドマークタワーが立ち並び、国内外からの観光客も多く来訪する。
その一方、内陸部に行くほど閑静な住宅街や旧市街の寂れ具合が目立ち、郊外には市名の元になった平野が広がる。
港湾エリアに都市開発の労力を注ぎすぎではないか、そういった批判が地域住民からは挙がり、市街地との対立を繰り広げている。
また、戦後の混乱期に極道や暴力団が多く参入し、海運や商業を取り仕切っていた地元ヤクザとの抗争が勃発した、という悪しき歴史も持つ。
現代では法整備によって大幅な弱体化を強いられた彼らに変わり、不良グループやギャングが跋扈しているエリアもある。その地区一帯は観光客はおろか地元民ですら、おいそれとは近寄ることができないほど治安が悪く、三つ巴四つ巴の勢力図により混沌とした様相を呈している。
車を月極の駐車場に停車させ、歩き出す。
鈍色の雲が空を埋め尽くし、いつ雨が降り出してもおかしくない。
そうなる前に、足早で事務所に向かう。
片桐の探偵事務所は、天埜の隙間に潜むように立ち並んだ、何とも形容しがたい区域にあった。人家はそこそこあり、何を造っているのかわからない工場も随所に見られる。住宅街とも言い難く、工業地帯とも判定できない。商店街にしては店舗は少なく、繁華街というには静まり返っている。テーマが一貫しておらず、町全体からとっ散らかった印象を強く受ける。
そんな街にひっそりと佇む、石灰色の塔。
四階建てのビルは、その名を………なんといったか。事務所が入っているビルの名なんぞそう思いだせるものではない。
一階には喫茶店が入っていたが、少し前に店主が腰を痛めてしまい、老齢だったことも相まって店を畳んでしまった。以来は空きテナントのままである。
飾り気のない階段を二階に上がると、柊木興業の看板。ガラスは黒く塗られており、中の様子はうかがえない。
どんな事業をしているのかは全く不明である。黒いスーツや柄シャツに身を包んだ屈強な男性が頻繁に出入りしているが、業務内容はわからない。
通り過ぎようとすると、偶然出てきた従業員と目が合う。お互い無言での会釈。
若干緊張が走ったが、特に異変は起こらず、無事に三階に辿り着いた。
今日は今野から入手した情報をもとに、所長と共に分析を推し進めよう。実地調査は明日からだ。
今後の計画を考えながら前方に目を向けると、そこには意外な来訪者がいた。
少女だ。長い艶やかな黒髪をした少女が、探偵事務所の扉の前に立っている。
ここからは横顔しか見えないが、目は大きく鼻のラインは整っている。
服装は、黒を基調にした古式ゆかしいセーラー服。スカート丈は膝下よりも長く、長いタイツによって徹底的に肌の露出を抑えている。
教科書然とした格好の中で、首に巻かれた包帯が際立っている。
全体的に、こんな場末のビルには似つかわしい存在だ。
彼女も片桐に気が付き、こちらに振り向く。声をかけようとした折、胸元の校章が目に付いた。
あれは──────
「そういえば、ちょっと気になる情報がありましたよ」
数十分前、解散際に今野が口を開いた。
「例の怪異。服装や性別がバラバラってのは誰もが口を揃えて言ってんですが、例外があったんです」
「例外?」
「制服を着た個体を見たって人がいて、その人がこんなことがあったとXで呟いたら、俺も見た!ってフォロワーが出てきたそうなんですよ」今野は炭酸飲料を飲み、ゲップを吐く。
汚ねぇ、という片桐の文句を無視して話は続いた。
「その人が言うには、そいつは女子で、服装も黒セーラー・長いスカート。─────そして校章がね、一致してたんだと。ただどうやら髪の毛が違ったらしいんです。枝主が見たのは長い金髪だったけど、フォロワーが見たのは黒。だもんで、『なーんだ同じ奴を見たわけじゃなかったのかHAHAHA』で話は終わっちゃった」
腕を組み、少し考えこむ。
今まであった目撃談では、怪異に特定の類似性は見受けられなかった。
異なる二体で服装が共通している。それも絞り込みやすい学生服というのは、使い方次第で調査に大きな進展をもたらすものだ。
「校章を見たといったな、具体的にどんなものだったか分かるか?」
「えぇと………黒い背景に、いろんな漢字が融合したロゴ、あと、なんて言ったかな、あの、葉っぱがいっぱいくっ付いた輪っかみたいな」
「月桂冠か」
「それそれ!オリンピックで被るやつね。白っぽい色の月桂冠がロゴを囲んでたらしい」
石英の月桂冠は如月女学園の紋章だ。
「高校が分かった。天埜の女子高だよ。これで今回の異変は天埜市内限定で起きてる可能性が高くなった」
これが市外や県外まで広がっていたら、いたる所を駆け回らなければならなかった。
そう思うとぞっとする。
今野は眼鏡の下の瞳を見開き、称賛の声を上げた。
「さすが探偵。女子高校生の制服に詳しいですね」
「嫌な言い方すんな。制服『にも』詳しいんだ、人をやばいマニアみたいに言うんじゃねぇ」
そして、現在。
片桐の目の前にいる彼女が着ているのは、紛れもなく如月女学園の制服であった。
「探偵さん、ですか?」
少女がおずおずと口を開く。
「依頼したいことがあります」