一章 探偵に午睡は遠く.二節
乾燥した空気が充満する車内で、片桐玲士は目を覚ました。
漏れ出す息は荒く、冷房の設定温度は21℃の低温だというのに肉体は汗をかいている。
何かに追い立てられるような緊迫感、一歩も動くことを許されない緊張感。相反する二つの感覚が背筋を伝い、心臓は激しい動悸を刻んでいた。
口内に薄っすらとした苦みが広がり、溜まった唾を飲み込む。鈍痛を訴える頭を振るうと、切るのが億劫で伸ばしっぱなしの髪の毛が額に張り付き、不快感を加速させた。
瞼は鉛のように重く、全身を包む気怠さは晴れる気配がない。眩暈はより酷くなり、喉はカラカラに乾いていた。全体的に睡眠前よりも体調は悪化しているようだった。
誰に向けるでもなく、クソ、と毒づく。
悪夢の後の目覚めは、いつだって最悪な気分になる。
少し落ち着いてから自身の状態を俯瞰する。
ダッシュボードに投げ出された足を下ろし、限界まで下げられたリクライニングシートを引き上げる。ドリンクホルダーには缶コーヒーが蓋を開けたまま収まっていた。
退屈な任務に耐えかね、知らずに舟を漕いでいた………にしてはかなり快適な睡眠空間が形成されている。数十分前の自分の手際の良さに惚れ惚れした。
同時に、お前が眠ったせいで俺はこんな目に遭っているんだぞ、と恨み言を吐きたくもなった。
ルームミラーを見ると、青褪めた男の顔が映っている。目元には深い隈が刻まれており、組織の先輩や上司の多くから喧嘩を売ってるのかと幾度となく誤解された凶眼がこちらを見つめていた。
垂れ下がった長めの黒髪は目つきの悪さを隠す手助けをしている、と言えば聞こえは良いが、艶の欠片もないそのヘアスタイルはただ自堕落さをアピールしているだけである。
黒いスーツジャケットには皺が見て取れ、昔から愛用しているよれた白シャツと抜群の相性を誇っていた。出勤前にネクタイを締めた記憶はあるが、現状首元は開放的になっており、ネクタイも目下行方不明である。そういった事情を考えると自分の記憶は信用に値しない。
改めて片桐玲士という男のあまりの社会不適合者具合に辟易する。
改善する必要があることは認識しているが、どこから手を付ければいいのかわからないし、正直言って自分にそこまで労力をかけたくない。
同じようなことを一ヶ月ほど前に考えたことがあったが、その時もこんな感じで先延ばしにしていた。
髪の毛をかき上げ、缶コーヒーを手に取る。口をつけて飲み干すポーズをとったが、中身は微々たるものだった。数ミリリットルの黒い液体が喉に流し込まれ、数滴の雫が後に続く。
満足感は毛ほどもなかったが、一連の動きは若干残っていた眠気を覚ます目的は果たしており、今まで無視していた面倒事に対処するための意思を与えてくれた。
視線を前方から傍らに向ける。
先刻から黒いスマートフォンが耳障りな電子音をかき鳴らしていた。
着信音だ。
登録している人間の限られた片桐の電話帳と、この時間帯・この状態で自分に電話をかけてくる奇矯な存在。その二つのヒントを照らし合わせると、自ずと発信者は思い当たる。
画面を覗くと〈所長様〉からのイブニングコールだった。
もう既にかなり嫌だが、意を決して受話器アイコンをタップする。
「────業務中に昼寝とは。随分と良い御身分ですね?」
開口一番、車内の空気よりも冷え切った声が響いた。
美しい氷晶のように澄み切った音色だというのに、その奥に潜む光すら吸い込む暗黒物質を否応なく想起させてくる。
「貴方がこの探偵事務所に所属してから早五年、あと数ヶ月で六年目を迎えます。六年といえば小学校に入った幼児が立派に成長して卒業するまでの期間ですよ。彼ら彼女らはその小さな体躯に多くの知識を学び、多くの経験を詰め込むことで躍進を果たす。幼少期の子供たちと小学校卒業時の子供たちでは、同じ呼称であっても同一の存在ではありません。ある種の進化、異なる生物への変容とも形容できるでしょう。そして、彼ら彼女らはその進化にすら満足せず、いつか起こる芽吹きを目指して新たな段階に向かうのです。………本人が望む望まないに関わらず、子供たちを取り巻く世界は更なる進化を望み、そのサイクルは回り続ける。現代人という新生物はそうやって発展してきたというのに、貴方ときたら」
彼女は電話口からも聞こえるようにわざとらしい溜息を吐き、話を続ける。片桐が口をはさむ猶予は与えられなかった。
「私が与えたこの任務はそんなに困難でしたか?肉体は疲労し、精神は困憊し、束の間の午睡にその身を委ねてしまうほどに?………だとすれば、この采配を下した私の失敗ですね。『車内からある男性を見張っておいてほしい』。私が貴方に頼んだのはたった、それだけのことでしたが、貴方には荷が重すぎたようです」
掌で顔を覆って嘆く、そんな芝居がかった動きをしている様子が目に浮かぶ。台詞の節々はイントネーションが強調されており、そこに込められた悪意がひしひしと伝わってくる。
確かに任務の内容はそうなのだが、男が現れる十時間前から待機し、用意された食事以外は食えず、買い出しどころか車内からの一切の移動を禁止された、という事情も加味してほしい。それだけの責め苦を受けてなお、仮眠したのはつい二十分前というのはなかなか頑張った方なのではないか。
とはいえ、彼女の言ってること自体は真っ当なので反論の余地はない。22歳にもなって年下に説教されている居心地の悪さと情けなさを耐え忍ぶしかなかった。
それから数分、体感では数時間に及ぶ針の筵を終え、片桐は悪夢を見た時とはまた異なる虚脱感に苛まれた。
「───では己の無様さと情けなさは大いに自覚できたようなので、反省の念を込めた心からの謝罪を期待します」
「………俺は小学生でもできるような簡単な任務で、睡魔に無様極まりない敗北を喫し、業務中にアホ面晒して眠りこけてしまいました………今回のことは一から百まで俺の不徳の致すところであり、弁解の余地もありません………海溝より深く反省し、今後はこのような失態を繰り返さぬよう、細心の注意を払い、気を緩めることなく全力で職務に臨む所存です。どうか、所長様の寛大な御心によってご容赦いただきますよう、謹んでお詫び申し上げます」
所長の押し殺し切れていない笑い声が聞こえた。あと録音機の終了音もだ。
「っく、ふふふ、えぇ、良いでしょう。仕方なく、許してあげましょう」
「|寛大な処置、誠にありがとうございます」