首吊りの談 序章
─────かち、かち、と音がする。
真っ暗な部屋の中に、無機質な異音が鳴っている。
布団を捲って顔を出し、音の出所を探す。
やがて、それが壁掛け時計の音だと気付いた。のっぺりとした外観の時計は、今この時にも秒針を刻み続ける。
兄のおさがりのこの部屋の、一際古臭い時計。普段は対して気にも留めないその音が、酷く耳障りだ。
一度異音が気になると、連鎖するように不協和音が部屋を満たしていく。
切れかけた蛍光灯が点滅する音。家の前を走る自動車のエンジン音。風が窓ガラスを揺らす音。身体が冷たい布団に擦れる音。
自分の部屋だというのに、どこか異質な雰囲気を感じる。まるで世界全体が私を排斥しようとしているようだ。
形容しがたい不安感が喉の奥からせり出してくる。気持ちが悪い。
これだから「夜の静けさ」ってやつは嫌いだ。
枕元に置いてあるスマートフォンを手に取り、電源をつける。暗い部屋に慣れ切った網膜にブルーライトが突き刺さり、目を細めた。
ホーム画面には私を含めた友達グループの写真。こんな時間でも何人かは起きているはずだ。
どうせ反抗期の親不孝者の集まりだ。今更騒音の迷惑なんて知ったこっちゃないだろう。そう自分に言い訳をして、チャットアプリを立ち上げる。
グループを選択し、指でタップ。現れたトーク画面の上部にあるアイコンに触れ、グループ内通話を開始、
……しようとした瞬間だった。
何かが軋む音がした。
今までの環境音とは、何か、根本から違う。
例えるならば──古い木材に誰かが体重をかけているような、そんな人為的な音だった。
慌てて立ち上がり、部屋全体を見回す。当然だが、部屋の中には私以外誰もいない。
だが、ただの気のせい、と思い込むにはあまりにも音が明瞭だ。
私が困惑している間も軋む音は続き、部屋の中を不穏な空気で満たしていく。靄のように漠然とした不安が音という外殻を得て、形を持った恐怖へと変じ、背筋を伝う。
しかし、少し冷静になって考えてみると、私の部屋にそんな音を出すような古い木製の家具は無い。
勉強机は高校に入ってから新調したばかりだし、ベッドは金属製、タンスや本棚の使用期間はせいぜい2年程度だ。確かに壁掛け時計は古いが、軋む程ガタが来ているわけではない。
つまりこれはただの空耳。もしくは木材が気温や湿度によって膨張した音だろう。
ほっ、と息を吐き、額から垂れた汗を拭う。気付くと、背中も冷や汗で湿っていた。
全く、とんだ一人芝居だ。
こんなに怖がりだっただろうか、私は。最近嫌なことや妙な事件が頻発しているから、ノイローゼ気味なのかもしれない。
明日は高校を休もう。担任の田代は愚鈍だから私の噓にすぐ騙されてくれる。
そんなことを考えていたせいで、一昨日の出来事を思い出してしまった。
こちらを睨む血走った目、鬱血した首筋の痣、ぎしぎしと軋む麻縄。
───あぁ、本当に最悪。
胃から酸っぱいものがせり上げてくる。口を掌で抑え、一拍置いてからそれを飲み込む。
喉が少し胃酸で焼け、イガイガした。
痛みや不快感が怒りとなって心中を満たす。奥底の恐怖を塗り隠すように。
あの生ゴミ女。
部室で自殺なんかしやがって。意趣返しのつもりか?
アイツのことを考えるたびに、思考を左右されているように感じて、無性に腹が立つ。
グループ内ではあの女について言及することは禁忌になっているから、この感情を共有することさえできやしない。
苛立ちを発散する術がない以上、私にできることは逃避だけだ。
乱れたベットシーツを整え、枕の位置を正す。
くだらない気の迷いを捨てて、思考ごと脳を休ませようとする。
その時だった。
がたん、
何かが倒れる音だった。
すぐに、木製の椅子が倒れた音だと気付く。
言い訳のしようがないほど、それははっきりと空気を揺らし、私の鼓膜を震わせた。
音は私の真後ろから聞こえた。何もなかったと、確認したはずの場所から。
空気が変わる。
不可逆的に、致命的に。
淀んでいく、張りつめていく。あってはならない何かが広がる。
体毛が逆立ち、心臓が激しく悲鳴をあげる。喉は異様に乾き、声ひとつ出せない。
────するり、するり、
何かが床を擦っている。規則的に、不規則的に、風に揺れるように。
周囲の明度が急激に下がり、部屋の中が深海のような闇に侵されていく。
悪寒が全身を覆い、異様なプレッシャーに曝されて吐き気がこみあげる。
────するり、するり、
何かはゆらゆらと揺れながら、じっ、と私の背中を見つめている。
振り向きたい。私の恐れなどまやかしだと吐き捨てられるように。
振り向きたくない。それを直視してしまうのが怖い。
相反する二つの思いを抱えながら、頬を伝う汗を見送る。
────ずるり、ずるり、
音が肉感を伴う。輪郭を形作り、具体的な■■へと変わっていく。
それが地面をこすり、耳障りな音を立てる。
きぃきぃ、と麻縄が軋む。
やめて、見たくない、振り向きたくない!
必死に心の中で懇願するが、私の首はそれを無視して、筋肉を動かし続ける。
影が見えた。
横向きで倒れた椅子が見えた。
はためくスカートの裾が見えた。
死斑が浮き出た足が見えた。何度か爪先が地面に触れるが、硬直しているのか身じろぎもしない。
頭を上げて、それの全体像を把握しようとする。意識して動いてるんじゃない。もはや私は条件反射で動く虫と変わらない。
振り向こうとしてしまったから、もうそうするしかないんだ。
そして私は、首吊り死体を見た。
私の顔は血の気の失せた顔をしていただろう、彼女と同じように。
彼女の身体は、まるでてるてる坊主みたいに、垂直に垂れ下がっていた。
首に食い込んだロープが、彼女の唯一の支えとなって、その存在を固定する。
顔は蒼白になっていて、鬱血の痕がやけに目立つ。
真っ赤に充血した眼が、私を睨みつけている。
口元は苦痛に歪み、それでもなお言葉を紡ごうと、固まった筋繊維を解す。
お前の番だ、と。