伏せられた刃の意味
ほんのわずかだった。
もし。もし、もう一度。かつての主と同じような人物に仕えることができたら。
「来ていただけて感謝します」
胸の奥底に沈めていた願いが、表層まで浮かびかけた。
エルグレインの名を知る人物というだけで、ミルティシアは強い魅力を感じていた。
彼女の知るエルグレインの名を冠する人物は、たった一人だけとはいえ――膝を折るに値するからだ。
「……まずは、どういうことか。お話していただけますか」
この男に連れられるまま、立派な屋敷の一室に通されていた。
そして、机を挟んで対面するように座る。男の佇まいには、貴族らしい育ちの良さは見えた。
「そうですね……まず初めに、こちらの身の上からお話させていただければ」
まずは名を名乗ってくれた。だが、そこにエルグレインの名はなかった。
「確かに、僕はエルグレイン家の関係者ではありません。――少なくとも、正式には」
一拍置いて、言葉を滑り込ませる。
「僕は、養子なんですよ。この家に引き取られたのです」
「それが、エルグレイン家とどう繋がるのですか」
「その前に。少しだけ、続けさせてください」
ミルティシアの疑問を、一度横に避けた。そして、言葉を続ける。
「貴女は……エルグレイン家が、すでに途絶えていることを、ご存知でしたか?」
考えたこともなかった。
かつての主は、エルグレイン家を継いでいない。エルグレイン家の存続については、一切関与していなかった。
「……確かに。主からは、家の後継者ではないという話は、伺っておりました」
ただひたすら、ミルティシアに人として、侍女としての振る舞いを教え込んでくれた。ただ、それだけの日々。
「そうでしょう。エルグレイン家は途絶えて久しいのですが……ある日。この屋敷の蔵書で、とある記録を見つけました」
その内容は、エルグレイン家の正統後継者に隠し子が存在した、というものだった。
「そして、僕はその方の血を継いでいることが、わかったのです」
「その、証拠などはあるのですか」
「残念ながら……物的なものは、見つかっていません。今はただ、僕の言葉を信じていただきたいのです」
ミルティシアの心に、僅かな疑念が湧き上がってくる。
「……申し訳ありませんが、それでは"言葉の強さ"は判断しかねます」
ミルティシアはゆっくりと姿勢を正す。
そのまなざしには怒気も蔑みもなかった。だが、曖昧さを許さぬ"光"が宿っている。
「そう仰るのも無理はありません。しかし、その事実を知った僕には、一つの"使命"が生まれました」
彼がゆっくりと立ち上がり、両手を大きく広げた。
「エルグレイン家の再建です。途絶えてしまった、あの素晴らしい名家を、この手で蘇らせる必要が」
「お言葉ですが」
ミルティシアが、男の言葉を遮った。
「一つ。お聞かせ願えますか」
「ええ、なんなりと」
「では。貴方様は、エルグレインという名に、何を宿すおつもりですか」
男はすぐに答えた。
「名とは、看板です。かつての名家が持っていた栄光を取り戻すことに」
「……違います」
ミルティシアは静かに目を伏せた。
「その名は、人に見せるものではありません。人の心を動かした……あの方は、名を振りかざしたことなど、一度もありませんでした」
男の表情に、変化が現れる。
「もう一つ。よろしいですか」
「……ええ、どうぞ」
「貴方様が"誰かに仕えられる者"であるとするなら。何をもって、それに値するとお考えですか」
「それは、血筋や責任の重さというものが――」
ふう、と。ミルティシアが小さく息を吐いた。
「それは、仕えさせるための言葉です」
男の目線が泳ぎ始める。
「"仕えたい"と思わせるのは、まったく別の、もっと小さくて強い何かです」
「……まさか、僕に忠義を見せる気を、僕に、エルグレインの名に仕えなおすつもりは、ないとでも」
男の声に震えが混じり始めていた。かろうじて、ミルティシアに目線を合わせることはできていた。
「それとも……"かつての主"とやらを、まだ引きずっているとでも」
その一言で。ミルティシアが、静かに立ち上がる。
「……エルグレインの名を……貴方様のように、"都合のいい記号"に落とされたことなど、一度も、ありませんでした」
そう発した声は、かすかに震えていた。怒りではない。悲しみがあまりにも深く積もりすぎたときの、冷たい音。
「私は……家に、名に仕えていたのではありません。人に仕えていたのです」
腰に下げられた曲剣の柄に、明確な意志を持って指がかかる。
怒号ではなく、呪詛でもない。ただ一言。
「忠義とは、誰かの言葉を聞くことではありません。誰かを裏切らぬために、自分を……」
ふっと息が途切れる。その手元に、意識が向いた。
「……自分を、律し続けることです」
主の言葉に泥を塗ってはならなかった。
刃を抜く一歩手前。怒りの臨界点で、ミルティシアは一拍の理性を取り戻し、柄からそっと手を引いた。
「主は……あの方は……旦那様は、"誰かの心を動かす力"を持っていました。貴方様には、その力を一切感じられません」
ミルティシアの眼差しに、冷たさが降りかかる。
「私にとって仕えるべき相手とは……血筋や、何らかの力ではなく。その"在り方"で決めるものです」
「……なら、試す価値はあるはずだ。貴女が、また誰かに仕えることができるかどうかを」
なおも諦めきれぬように、男が身を乗り出す。その目は、哀願というよりも、説得に近かった。
「違います。貴方様は……試される側なのです」
その言葉を聞き、男は脱力した。ソファに体重を預け、うなだれる。
「なんでだよ……"鉄の侍女"は、忠誠に厚い、最高のメイドじゃなかったのかよ……」
「……貴方様のような方には、刃を抜く価値もありません」
すっかり化けの皮が剥がれた男を背に、ミルティシアは屋敷を後にした。
改めて思い返す。旦那様は……もう、いない。
けれど──それでも。
旦那様が教えてくれたことは、まだここにある。
胸の内に。指先に。言葉の端々に、在り方として。
ならば私は、これからも。
その言葉の真意を、知るために。確かめるために。
「……そのためにも。やはり一度、屋敷に戻らなければいけませんね」
彼女の歩みは、まだ止まりそうになかった。
ここまでお読みいただきまして、本当にありがとうございました。
これにてミルティシアのお話は完結とさせていただきます
……が。一つだけ描きたい番外編があります。
その番外編の投稿をもって、作品の完結とさせていただきます。
ですので。ほんの少しだけ、お付き合いいただけると、幸いです。