大賢者は怠慢を許さない――勇者の甘さが凡人を魔人に変えた
「本気で、向き合ってくれ」
その言葉を受け、確かに勇者は頷いたのだ。
「そこまで! 勝者、オルシュ・リー!」
闘技場に、審判の宣言が響く。
荒くなっている息を必死で――外からはそう見えぬように気を配りながら――整え、男は残心を解いた。
(届いた……のか?)
目の前で神妙に目を閉じている対戦相手、ロウ・マーカスが確かめるように利き手を握り直している。
彼の剣は弾き飛ばされ、少なくとも一足では届かぬ先に転がっていた。
「勇者」の敗北。
闘技大会の決勝で起こったまさかの番狂わせに、観衆も水を打ったかのように静まり返っている。
オルシュは小さく礼をすると、控室へと戻っていく。
(……ようやく……)
凡人。
そう呼ばれ続けた彼とは対照的に、幼馴染でもあったロウは幼少の頃から天才だった。
ギフテッドとされる生まれながらの才能。中でも、世界を導くとされる勇者。百年に一人とも言われる天稟。
――その勇者に、たった一度とはいえ土をつけることが、どれほどの偉業であることか。まして、何の才能もない凡人が。
それを可能とした努力とは、如何ほどのものであったか。
単身で魔獣の巣窟に乗り込んだことや、いわゆる道場破りなど、挙げれば切りがない。
挫折も同じだけ。血反吐を吐かぬ夜など、数えるほどだった。
そして、過去の大会では勇者と相対し、敗北し続けてきた。
闘技大会で相まみえるチャンスは、今回が最後だ。
これが終われば、ロウは正式に魔王討伐軍の司令官となり、魔族領へ旅立つ。
周囲の者は、出発前の最後の箔付けとでも思っていたかもしれないが、オルシュには関係なかった。
魔王討伐。どんなに早くても、一年で終わるはずがない。
故に、ロウが次に国へ戻ったとき、オルシュは少なくとも、剣士としては生きていない。
無理な鍛錬の反動、といえばそれまでだ。
彼の体は既にボロボロで、それを診た医者はさじを投げた。
「来年も剣を振れる、などと思うなよ」
フォークを床に落とす金属音を聞くたびに、その宣告が蘇る。
それでも、とオルシュは自身の右腕に視線を落とした。
凡人たる自分が、勇者に本気を出さしめる一矢たり得た。刹那の間でも、対等になれた。
ぐ、と無意識に拳を握りしめる。
これまでの道のりは、無駄ではなかったのだ……と、この時のオルシュは確かに信じることができていた。
背後で引き上げる勇者が、汗一つ浮かべていなかったことには、最後まで気付けなかった。
◇
「あれだけ忠告しておいたのに……」
観客席の一角で、一人の少女が沈痛な表情でため息をついた。
エスメラルダ・クイン。
この世界に残った数少ない妖精族の一人。悠久の時を生きる大賢者であり、気まぐれに恵みや災厄をもたらす魔女とも恐れられている。
彼女は、この戦いに先駆けて、勇者に助言を与えていた。
必ず、本気で臨むこと。不可能というなら、それを飲み込ませるだけの誠意を示すこと。
賢者の言葉を受け、「本気で」と語ったオルシュにも頷いておきながら、ロウは最後まで手加減をしていた。
友に本気の剣を向けたくない。優しさという名の傲慢を、勇者は捨てられなかった。
「オルシュ……」
既に舞台から去った男の名を呼び、エスメラルダはその美貌を曇らせる。
愛しいあの凡人を待つ凄惨な未来に、自分は何をしてやれるだろうか。
あの男が求めるのは、他人からの同情や理解などではない。
ただ、納得したい。それだけの願いが、どうしてこうも遠いのか。
幼馴染とただの一度でも良い、対等でありたい。その夢を捨てられなかったことへの、罰なのか。
確かに、夢の実現を「剣」という場に求めたのは、稚気じみたものではあるだろう。
だが、儚い命を自ら磨き上げる足取りの、源泉であるその想いが、それほどに罪深いとでも言うのだろうか。
エスメラルダは瞑目する。
あるいは、今すぐに彼のそばに駆け寄り、海を渡った果ての地へと誘えば、全ては夢うつつのままに終わるのかもしれない。
(でも……)
あの「勇者」の愚かな行為で、どれだけオルシュが傷つくのか。
その様を思い知らせ、決して拭えぬ後悔を植え付けてやりたい……。そんな昏い欲望を抑えることは、今の自分にはできそうもないとさえ思えた。
それが、オルシュを守ることの放棄だとしても。
次の日。
死力を尽くしたオルシュが泥のように眠っている間、都市を襲った魔族の群れを勇者が難なく撃退していた。
人々はまことしやかにささやきあう。
やはり、闘技大会では勇者様は本気を出さなかったのだ。見よ、優勝者は無様に寝こけているではないか。
目覚めたオルシュは、世界が一変したことを知った。
お祝いをしてくれた酒場の主人が、気まずそうに目をそらす。酔っ払いがゲラゲラと笑っている。
呆然と立ち尽くす男の姿を、悲しげにエスメラルダが見つめていた。
◇
魔人と化したオルシュが、本気を出せ、と迫りながら勇者の仲間を、友人を……そして恋人を殺していく。
無念、怒り、そして恐怖に歪んだ顔が、音を立てて転がった。
悲鳴さえ切り裂いた黒刃は、鮮血を吸ってなお漆黒に沈む。
それでも、ロウが幼馴染へ向ける剣は最後まで震えていた。
「友達に、本気で剣を向けるなんて……できない……!」
「へぇ」
無感動にオルシュは呟いた。既に、その目に生気はない。
時として、人間の深い絶望は悪魔を呼び、その者を魔人に変えるという。ならば。
「友達と思ってくれてたのか」
「そうだ!」
「……なのに、対等とは思ってくれなかったのか」
ロウは絶句する。
次の瞬間、勇者の身を黒い刃が貫いていた。
力が抜けていく。
告げるべき言葉さえも零れ落ちる。
魔王の高笑いが聞こえる。
結局、誰ひとり救えないまま自分は死ぬ……。
「――はっ!?」
「目覚めたようね」
体中を嫌な汗でぐっしょりと濡らしながら、ロウは目覚めた。
目の前には、大賢者エスメラルダの姿が、ぼんやりとした灯りに照らされている。
「ここは……!?」
「討伐軍の宿舎よ。明日の出発に備えていた貴方を、私が訪ねた」
「……そう、そうだった……」
勇者は片手で顔を覆い、粘度の高い汗を拭う。
「僕は……何を……」
「未来を見せたのよ。私の未来視でね」
「そんな……!」
「貴方は、私の忠告を聞かなかったわね。優しさを履き違えたことで、すべてを崩してしまった」
――対等とは思ってくれなかったのか。
脳裏に、魔人と化した幼馴染の虚ろな目が蘇る。
試合前の、本気で、という彼の言葉を、自分はどう受け取った?
そもそも、受け取ったのか?
「オルシュ、は……」
友の名を、辛うじて絞り出す。
ここで呼ばねば、二度と口に出せなくなる気がした。
「貴方に聞く資格があると? ……と言いたいけれど、教えてあげる。彼は眠っているわ。私が眠らせている」
「……」
「未来視のとおりに、貴方が死ぬのを眺めても良かったけど……。それでは、あまりにも彼が救われないわ」
エスメラルダは、そこで少しだけ悲しげに笑った。
「僕は……」
「貴方の優しさは、多くの人を救うでしょう。でも、すべての人は救えない。優しさだけでは、救えない人がいるのよ」
以前なら否定できただろう理屈を、今、ロウは否定できなかった。
「勇者という力の意味を考えなさい。一を切り捨てて百を救う、ではないの。それは弱者の考え。大いなる力を持つ貴方は、百を助け、一すらも助けなければいけない」
だというのに。
美しくも冷たい声が鳴り響く。
「貴方は、結果として一を切らず、救えたはずの百さえ無駄死にさせた」
「僕……は……」
「今一度、知りなさい。貴方は、すべての人を救う責任がある。それは、力を得たものの義務よ。そして、救いとは、優しさだけが答えではない。……時には」
大賢者は、そこで目を細めた。
「『殺す』ことが救いになることさえ、あるのだから」
「……」
「勇者ロウ。大いなる力を持つものよ。貴方は、望むと望まぬとに関わらず、既に義務を負ったのです。その義務を、力の意味を、常に考えなさい」
灯りが、じじ、と音を立てた。
「……大賢者様は、これからどうなさるのですか?」
「そうね。彼を連れて、果ての地へ行こうかしら。あそこならば、彼の命もしばらくは持つでしょう」
そう言いながら、エスメラルダはじっと青年の瞳を見つめている。
そこに込められた意図を察し、ロウは震えながら頷く。
「……待っているわ」
音もなく、大賢者の姿が消える。
まるで、最初からそこには誰もいなかったかのようだった。
勇者は灯りの消えた部屋の中で、一睡もせずに考え続けていた。
十年後。
魔王を討伐した勇者は、単身果ての地へと渡り、しばしの時を過ごした。
帰還した勇者は、その地での出来事を、ついぞ一言も語ることはなかったという。