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諦めた者が願う着地点

「覚えてて。このギターと音色、あとこの曲。目印だから」


 これから全て忘れる者にそう言ったところで、無駄なことだった。その時はどうして気付かなかったのだろう。

 当時の自分が如何にまだ子供だったかと時々省みる。

 約束など無駄でしかなかった。

 今の自分なら彼女の願いに違う決断をしたのだろうか。

 考えても仕方ないことだと、甲斐は考えるのをやめた。


 現れた愛しい人は甲斐のギターの音色にうっとりと耳を澄ませていた。

 彼女の綺麗な笑みを目にした瞬間、大量の古い記憶が渦のように溢れ出し、同時に様々な音が湧いた。


 

 甲斐は壁に立て掛けた年季の入ったギターの前にあぐらをかいて座っていた。

 ギターを見つめながら、時々回顧する。

 まだ幼かった自分と出逢った頃から変わらない彼女が過ごした少しの時間は変わらず心地好かった。 

 あの人はどうせ、今日も世界は美しいと笑っているに違いない。

 想像したら楽しくなって、甲斐は気まぐれにギターを手に取った。

 調律の狂っている弦を上から一つずつ鳴らし、そしてペグを少し捻る。数回それを繰り返すと、調律はぴったり合った。

 たまにしか弾かないのに、こういう感覚は何故か狂わないから不思議だ。

 拍子を取り、馴染んだ一音目を弾き、甲斐はある曲を弾き始めた。


 曲名は「あまねく音」。

 

 彼女の目に映る美しい世界を音に重ねたそれは、人より身体の大きかった彼が九歳の時に父からプレゼントされたギターから紡ぎ出された逸品である。

 


 甲斐がギターを弾く姿は、大切な人を抱きしめて愛の言葉を囁いているようだと誰かが評したことがある。

 ゆったりとした音色には愛の切なさや優しさが滲み、激しい旋律は情熱的な愛の詞るべとなって響く。

 甲斐の父は元プロのミュージシャンであり、地元でギター教室を営んでいる。

 父の指導で彼は小さい時からギターを嗜んできた。

 彼女の愛するこのギターと共に一生を歩んで行きたいと願っていた彼は、ある日、忽然と人前で演奏することを辞めた。

 メジャーデビューを目前にバンドを抜けると言った甲斐に、高校時代から共に音楽を奏でてきたメンバーは寂しそうに頷いたけれど、ひとつだけお願いをされた。

 今まで演奏してきた甲斐の書いた曲も全てが自分たちの証だから、今まで通り奏でさせてほしい。

 彼らがそう言った時、甲斐はどう答えようかと少し考え込んでしまった。

 すると、次に掛けられた言葉に彼は目が醒める思いを抱いた。

「誰だか知らないけど、甲斐が届けたい曲、俺たちが代わりに届けてあげるよ」

「色んな人が聴いてくれれば、その人もいつか聴くかも知れないって思わない?」

 そんな風に思われていたのかと肩を竦めずにはいられなかった。

 高校時代に、誰も居ない音楽室で「あまねく音」を弾いていた。誰も聴いていないと思っていたら、バンドメンバーの天と新が外でこっそり聴いていた。そうしてその曲やろうと押し切られた。 

 甲斐が書いて持ってきた歌詞で合わせてみると、彼はぼやいた。

「なんかさ、これ、天ちゃんに書いたラブレターみたいでヤダ」

 ボーカルの天の透き通った声で歌われたら、自分が書いた詞が甘い愛の言葉のように響いて恥ずかしかった。

「ロマンティストな甲斐らしくていいじゃん」

 新はそう言ったけれども、甲斐は「ヤダ」と譲らない。そうして天に押し付けた。

 数日後に天が持ってきた自分とは全く違う彼女の言葉に甲斐は満足した。

 甲斐が抜けて天と新のふたりになったこのバンド「FEU」のアンコールで、この曲は必ず歌われる。ファンの間でも人気がある。

 彼らがデビューして数年経った今でも、古参のファンから甲斐の復帰を願う声は止まない。

 甲斐の曲を聴いた知り合いのミュージシャンから紹介してほしいと頼まれる度に、天と新は無駄だよと肩を竦める。


 そんな甲斐は今、バーテンダーとして小さな店を営み、たまに気まぐれでギターを鳴らす程度だ。

 相当な理由がない限り人前で弾くことはない。



 前の家より少しだけ星が良く見えるベランダで、天音は夏の星座を見送っていた。

 ふと微かな光を放つ流れ星が通り過ぎた。嬉しくなった彼女は部屋に引っ込み、棚から一枚のCDを取り出した。

 このDCを花純からもらった時、色鮮やかなピアノと透き通るような声に、天音は一瞬で魅了された。

 ジャズテイストな音楽を奏でるそのバンドはボーカルとピアノのツーピース。他のミュージシャンとコラボする時以外、他の楽器を取り入れることを一切しない。

 その中でも天音が特に好きな曲は「あまねく音」という曲だ。

 ピアニッシモで始まるピアノのイントロにボーカルのフェイクが重なり始め、幻想的な世界が静かに広がって行く。

 静かに躍るピアノの音と、語りかけるように響く声と言葉の数々が、身体を包み込むように染みる。

 普遍の愛を囁くようなゆったりと流れ行くその曲に、時間が止まったような感覚を抱く。

 何度も聴いているその曲は、まぶたを閉じると天音に不思議な光景と感覚を齎した。

 どうしてか込み上げる懐かしさは言葉にしたくないほど心地は好い。

 その光景はまるで具体性などなかった。曖昧で何を表しているのかなんてわからないけれども、微笑みを浮かべるには充分だった。



 花純は天音の部屋をノックした。

「ねえ、天音ー」

 彼女からの返事はなく、花純は浸っているのだなといきなりドアを開けた。勝手に開けて天音と呼ベば、流石に天音も気付く。

「お母さん、邪魔しないでよ」

 構わず花純は聞いた。

「良いことあったでしょ?」

 一度CDを止めながら、天音は首を傾げた。

「特になかった」

 失礼な副担任の男が脳裏に浮かぶも、これは良いことのうちに入らないと苦虫を潰しそうになった。

「ねえ、この重そうなカバンなに?」

「学校の先生が前の学校の教材持って来いって」

「奇特で親切な先生ね。良いことあったんじゃない」

 再度、天音は親切心とは判断しづらい篤の暴言を思い出し、むっとした。

「北野先生って、とても変な人」

 その変人ぶりを天音は花純へ訴えるように話した。

「見る目があるわね。良い男そうだわ」

 天音は絶句した。花純の良い男の基準が謎過ぎる。

 他にも学校での出来事を天音が話すと、花純は愉快そうに言った。

「面白そうな学校じゃない、化け猫天音。じゃあ、あたしは寝るわ」

 化け猫と言われた天音が憤慨する前に、花純はとんずらした。



「お母さんて本当、物言いがひどい」

 愚痴をこぼすと、気を取り直してCDを頭から再生した。

 せっかく素敵な気分だったのに。花純のせいで台無しだ。思い出してしまった篤の失礼さが頭から離れなくなってしまった。

 初対面の、しかもあのような人間に弱みを見せてしまったことが悔やまれる。 

 あの時、自分が絞り出した言葉は具体的に思い出せない。篤は目を見開いて自分を見ていた。思わず逃げ出した。

 天音は篤が言っていた貪欲という言葉を思い出し、辞書に手を伸ばした。

 項目には知っている通りの説明が記載されていて、すぐに辞書を閉じた。


 あの人は失礼だけれども綺麗でもある。


 まだよく知りもしない篤を再び思い浮かべると、そんなことを思ってしまった。どうしてかはわからない。


 自分の綺麗ってなんだろうか。


 うっかり篤に綺麗という言葉を当てはめてから、天音は考えた。

 

 今日会ったばかりなのに、篤に対する綺麗は何故か上位に入っている。「FEU」の「あまねく音 」はもちろんそれ以上の上位に入る。洸との口付けの時間はとても綺麗だが、最上位ではない。 

 他にもっと綺麗なものがあったはずなのに、それがなにか思い出せなくて、天音は悲しくなった。 



 いつの間にか次の曲に変わっていた。

 なんてタイトルだっけとブックレットを見たら、「ここにいて」と書いてあった。作詞作曲共に、「あまねく音」の作曲者と同じYOSHINORIという名が記されている。

 またこの人の曲、やっぱり綺麗だなとひとり微笑む。

 「FEU」の楽曲はボーカルのTENとピアノのARATA、そしてこのYOSHINORIという人のものが時々挟まれる。

 どれも名曲ばかりの中、天音が好きな曲はバンドメンバーではないYOSHINORIという人のものが多い。



 一曲弾き終わって自分のギターの音が溢れた部屋で、甲斐はその余韻に浸っていた。

 目を閉じて、記憶に残っているこの世で一番綺麗な人の姿を思い浮かべた。

 あの人がどこかでこの曲を聴いていたら面白い。なにも知らずにどんな気持ちで聴くのだろうか。



 甲斐が十歳になった時、彼女にお願いをされた。子供にはまだ多少重いギターケースを軽々と持ち、慣れない電車に乗り、浅木花純という女性を訪ねた。

 今ならまだ間に合うと言った花純は妊婦だった。

 花純の中に消えていく彼女を呆然と見送っていたら、花純が言った。

「預かっただけ。今はちょっと必要だったの。じきに返るわ」

 花純が言った「じき」がどのくらいの長さなのか、その時の甲斐は見つけられなかった。

 もしかしたら、生きて死ぬまで会うことはないかもしれないと高を括った。

 そんな甲斐の有り様に、思い出を持てど所詮は十歳、この妙に達観した十歳がこれからどんな人生を歩むのかと花純は非常に興味を惹かれたが、彼の素性は聞かずに別れた。


 

 どうして今年は夕立が少ないのだろう。ふと甲斐は思った。

 雷があまり鳴らなければ、自分たちに呪いをかけた日を思い出すことも少ない。しかし、それはそれで不自然な感覚も覚えた。

 最悪な終わりと最高の始まりを兼ねたそれは、素晴らしい思い出かもしれないが、雷は好きじゃない。

 遠過ぎて朧げにしか覚えてないその記憶の中で、最悪な部分と最高な部分だけが印象深く鮮明に残っている。


 夏の星座が去りかけているこの頃、あの人は何を思いながら空を見上げているだろうか。 

 空を見上げた拍子に、互いに違うことを思ったならそれでよかった。


 重なり過ぎることは必ずしも良いこととは言えないと甲斐は思う。

 同じものを見て違うことを感じて、交わした言葉の先に思いが重なれば、それが彼の幸せに繋がった。



「なーに? 篤」

 甲斐は電話に出ると、面倒くさそうに言った。

 面倒くさそうにするくせに、彼が必ず出ることを篤は知っている。

「お前、まだ起きてたの」

 存外に寝ろよと含ませて甲斐は言った。彼が仕事を終えている時間、すなわち夜中だ。

「レイの面倒くさい電話に付き合ってたら、ピーク過ぎた」

「ご愁傷様。まあ、明日は土曜だしね。俺は仕事だけど」

「あ。明日って土曜か」

 天音に明日と言ってしまった気がするが、流石に休みの日にわざわざ学校には来ないだろう。そういうタイプではないと、篤はまだよく知らない天音の性格を決めつけた。

「それで、夜中にどうしたの」

「面白い女に会った」

「よかったね」

 どうでもよさそうに甲斐は言った。

 どうせすぐに面倒くさくなったとか、なんか違ったとか言い出すに違いない。

「気が強くて、友達居いなそうな奴」

 それのなにが良いのかと突っ込もうにも、この言い方は相手のことをかなり気に入ってしまっている時のものだと甲斐は知っていた。

「……一応確認するけどさー」

 まさか流石にそれはないと思いたい。

「教え子じゃないよね?」

「卒業するまで待てば問題ないだろ」

 当たり前のように言った篤に、甲斐は電話越しに盛大なため息を吐いた。

 見知らぬ自分の後輩に、甲斐はひどく同情した。

 篤は誰かを好きになって恋愛に至っても、早々に相手に幻滅されるか飽きるかのどっちかだ。長く続いたところを見たことがない。

「一ヶ月で嫌われる確信がある」

 彼は気に入ると、どんなことでも飽きるまで追いかけるから厄介だ。

 対人間の場合、相手に迷惑な行為は決してしない。しかし彼にとって、嫌われたとかそういうことは大した問題ではない。でなければ、甲斐の部屋の鍵はとっくに返って来ているだろう。

「まだ嫌われてはいないと思う」

「その自信は一体どこから来るの」

 一ヶ月で相手に嫌われなければ、一ヶ月で篤の方が飽きそうだなと甲斐は思った。

「友達いなそうで気が強いって、どんな子?」

「可愛くて可哀想な奴」

「なんなのその曖昧な言い方」

「可哀想だよ。なにも知らず、なにもわからないで、なにかに怯えてた」

 篤の声は沈んで聴こえたが、甲斐は気付かない振りをして、わけがわからないと返した。

「震えそうな声で縋られた」

「だから?」

「……どうにかしてあげたい」

「それだけ?」

「ああ」

 これは本気の、決定的な終わりが来るまで飽きないやつだ。

「レイちゃん、なんて言ってた?」

「時々お前が羨ましいだと」

「……レイちゃんらしい」

 玲二は絶対に自分の綺麗を曲げない。 

 偏屈だとみんな呆れつつも、あの純粋さが羨ましいと思っている。

 人を綺麗にする仕事をしている玲二は自分の手を加えなくとも堪らなく綺麗なものを知っていて、常にそこを目指し化粧を施し続ける。

 彼にしてみたら、うまくいかないことばかりだ。

 どんなに頑張っても、施す相手は彼女じゃないのに、自然と手は彼女を目指していて、結局がっかりする。

 そこにあるのは造形美の問題ではなかった。誰もが持っている本当の綺麗を引き出してやれない自分に落胆する。

 落胆したくない玲二は本気の相手に絶対触れない。

 篤も玲二も、自分の気持ちにまっすぐで純粋だなと常々甲斐は思ってきた。しかし、篤の純粋さと玲二の純粋さは全く別物だ。

 篤のような純粋さの方が損ばかりする。

 少なくとも甲斐はそう考えている。

「その子何歳?」

「十七、二年生」

「お前の性格で一年半は絶対にあり得ない」

「俺、待てるよ? 五年でも十年でも、たぶん待てる」

 篤の神妙な声に、甲斐は返答が出来なかった。

 甲斐の言葉を待つ篤と、なにも言わない甲斐。しばらく無言が続き、どちらともなくおやすみと言って電話を切った。


 

 教え子と結婚したなどという話は山ほどあるし、世間体を除けば歳の差なんてなんら恋愛に支障などない。

 甲斐はよくよく考えると、今まで年齢を気にする必要がない経験しかなかったことに気付いた。

 そもそも、自分の体験してきたことがちゃんと恋愛と呼べるのかも怪しい。それでも本人はそれなりに本気で向き合っているつもりだった。

 誰を見てるのと聞かれたある日、ごめんとしか彼は言えなかった。

 数年前に、彼は恋愛を諦めた。自分には向いてないと放り出した。


 あの人がちゃんと生まれていれば同じ歳かなと、ぼんやりと思った。

 もし出会えたなら、篤ではないが十歳差だ。その差が大きいのか小さいのか、いまいち甲斐にはわからなかった。


 会うことはないだろう。出会う手段がない。


 諦めているけれど、諦めているとは誰にも言わない。

 そんなことを言えば、お前は仙人みたいだと言われるに違いなかった。

 自分は人間だし、人間を捨てる気もない。

 彼女が人間である自分を愛していることは確かで、彼女が彼に望む限り、人間であり続けて生きることをやめない。

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