今の自分を満たすもの
八月三十一日、夏休み最後の日、洸が天音にメールを送った瞬間、彼女からのメールが届いた。
『キスしたい』
そう一言書かれたそれに、洸はくすっと笑った。
洸が送ったメールも一言、『キスしたい』。
どうしてか淋しいと思ったことはなかった。
天音と交わす口付けの代わりに、『キスしたい』の一言で何故か満たされるから不思議だ。恋愛でもない、友情だけでもない、そんな特別な関係性は離れ離れになっても続いている。
住所も教えてもらっているし、会いに行けない距離でもなく、会いに行こうと思えばいつだって行ける。まだ会いには行っていない。
昼下がり、洸は終えていた身支度を一度鏡でチェックすると家を出てた。
一人抜けた五人は相変わらず賑やかだ。
天音が居なくて寂しいことは誰も口にしなかった。
会おうと思えば会える距離、電話もメールもあることだし、会いたい時に会えばいい。天音もみんなと同じように思っている。
「ねえ、うちらってホント、誰も恋愛関係にならないよね」
ファミレスでわいわいランチを摂りながら、脈絡もなく柚葉が言った。
「だってお前ら彼氏いるじゃん」
真佐美が呆れたように言うと冷えたメロンソーダを啜った。
「それはそうなんだけどさ。あたしが言ってるのは天音」
男子三人は揃って首を傾げた。
「あの美女、万年フリーだよ!」
夕方からデートなのだと粧し込んだ柚葉がお前らダサいとばかりに言う。
「天音は天音じゃん。別に興味ない」
そう代弁した真佐美に、それはそれで酷い言いざまだなと揃って苦笑いを浮かべた。
「あ、でも俺、洸は天音に興味あると思ってた」
「あ、あたしも」
「え、俺も」
小夜以外の全員がそう言ったが、洸はそういう意味の興味を天音に抱いていない。
「天音ちゃんは、好きとかそういうのじゃないよ。あっちも同じ」
洸のその発言に小夜はため息を吐いた。
「天音って本当に男に興味あるのかねえ」
「でも俺、間違いなく天音に合いそうなの、ひとり知ってる」
ぽつりと言ってしまってから、舜はまずいと慌てた。
全員の視線が舜に集中する。
「だれ?」
「どこの誰?」
「遂に天音にも春?」
「舜だけ知ってる人?」
まちまちに問いただしてくるが、ひとりずつ対処するのも面倒くさい。
「秘密」
舜は自分でうっかりしておきながら素知らぬふりをした。そうしてさっさとスプーンを持ち直し、食べかけのオムライスを口に運びはじめた。
天音に似合うと彼が思っているその相手は、彼女のような女が絶対に好みだという自信がある。
ふたりがそういう関係になるのは世間体が悪いけれども、もし天音が良しとすれば、それもいい。
ふたりが出会って時間が経たないとわからないことだが。
「ていうさかさ、男居るのに俺たちと年中連んでるお前らもどーなんだよ」
少ししてから舜はそう付け足したものの、小夜の彼氏も柚葉の彼氏も社会人。二人ともに昼間は暇人なのだ。
八月三十一日、夏休みの最後の日、奏が天音に英語を教えるはずが、天音に奏が英語を教わっていた。
天音の授業は延々終わらず、飽きた奏が「もういいよ」と言いだした。
隣同士で座っていたふたりが勉強道具の片付けをしていると、手が少し触れた。瞬間、いきなり奏が天音の手を握った。
「な、なに?」
突然のことに驚いて、戸惑っている自分が天音は悔しく、恥ずかしかった。
「別に。姉さんが如何にモテない女か確かめた。いや、これはモテないわ」
「は?」
天音に大きな目で睨みつけられたから、奏は降参とばかりにぱっと手を放した。
「奏は出会ったばかりなのにシスコン」
意地悪く天音が言った。
「そんなわけないじゃん」
不機嫌そうに奏が返す。
「じゃあ、なに?」
「だから、姉さんがモテないこと確かめただけ」
それからふたりは少しの間、無言になった。
「別にいい」
「え?」
「手くらい幾らでも貸してあげる」
天音の手はいつの間にかテーブルの下に降ろされていた。
奏が天音の手に自身の手を絡めると、肩が少しぶつかった。
頭一つ分下にある天音の頭を奏が見下ろしたら、彼女は可笑しそうに笑っている。
「やっぱり奏はシスコンなのね。仕方ない弟だこと」
「だから違うって言ってるじゃん」
「じゃあなに?」
奏は答えないくせに手を離さなかった。離さなかったのではなくて、離せなかったが正解だ。
遠い写真の中に居た天音が近くに居ると確かめたかった。それを言わそうとしている天音はずるいと勝手に思った。
「馬鹿らし」
奏はそう言って天音の手を離すと立ち上がり、自室を出ていこうとした。
「あー喉乾いた」
「あたしも」
天音も立ち上がり、奏の部屋を後にした。
階段を降りながら天音が不機嫌そうに言った。
「奏って大概失礼よね」
「なにが? そもそも姉さんに言われたくない」
そうしてふたりして不機嫌な顔でリビングに入って行く。
「姉さん、なに飲む?」
「ありがとう、あたしも麦茶」
「俺、麦茶飲むなんて言ってないけど」
「じゃあ、アイスコーヒー」
「面倒くさい女」
やはり不機嫌な顔でふたりしてキッチンに向かった。
天音がドリップコーヒーを落としだすと、奏が俺もと言った。
「奏は麦茶じゃないの?」
「コーヒー。俺はホットのまま」
一杯目が落ちると、天音は奏が戸棚から出してきたコーヒーカップに注ぐ。
「どうぞ」
「ありがとう、じゃあお先に」
天音は自分の分のコーヒーを落としながら、グラスに氷を詰め込んだ。
振り向くと、わざわざソーサー付きのコーヒーカップを出してきたくせに、奏は行儀悪くシンクに凭れてコーヒーを啜っている。
彼の隣に戻り、落ちていくコーヒーを見つめながら天音が言った。
「奏ってよくわからない」
「姉さんに言われたくない」
「面白い」
そう言って、天音は気の強そうな笑い声を立てた。
「おれ、褒められてるの? 貶されてるの?」
奏が諦めたように尋ねると彼女は「さあ?」と言っただけだった。
「姉さん、制服もう着た?」
「用意はしたけどまだ」
天音はソファへ移動しながら言った。奏は相変わらずキッチンでコーヒーを飲んでいる。
「奏は?」
「俺もまだ。用意はした」
コーヒーを飲み終えると、互いに部屋に引っ込んだ。
奏は制服に袖を通したが、自分の部屋には姿見がないから自分がどんな具合なのかわからない。
隣の部屋のドアの前で天音に声をかけた。
「姉さん、着替え終わってる?」
「終わってるけど、調整してる」
なんだそれと思いながら、着替え終わっているならいいかと、奏は勝手にドアを開けた。
「なにしてるの?」
「だから調節してるの」
よくわからなくて奏は首を傾げた。天音はスカートのウエストを折ったり戻したりを繰り返している。まるで間抜けな光景だと奏は思った。
「一番足が綺麗に見えるようにするの」
「へえ」
奏は呟きながら、天音の足を見つめた。
そんなことしなくても、すらっと背の高い天音の長い足は見惚れるくらいに充分綺麗だ。
天音はなにをそんなに拘っているのか。奏には理解出来そうになかった。
「馬鹿らし」
「いいじゃない、女子のこだわりなの!」
「モテる努力?」
「あたし、モテなくていいの」
奏はそうあってほしい。
本当は天音がモテるとわかっている。わかっているけれど天音がモテるという事実が嫌だ。
「姉さん。それ、他の女子に言ったらダメだよ」
スカートと鏡とにらめっこしていた天音が振り向いて、不思議そうに奏を見た。
「それはモテるから言えるセリフ」
呆れたように奏は言った。
「ねえ、似合ってる?」
「……さっきのアホな光景見た後じゃね」
奏が思いきり皮肉ると、天音は思いっきり不機嫌な顔をした。
天音はふとした瞬間にわからなくなる。
出会ったばかりの奏は、自分を姉として本当に受け入れてくれているのだろうか、受け入れるつもりはあるのだろうか。彼は、どんな人間なのだろうか。まだそれほど知らない。
まだ越してきて間もないこれからの生活は楽しみしかない。奏がそのうち天音を泣かせようとしていることなどつゆ知らず。
あたしにこの制服が似合わないはずがないと言わんばかりの顔で、天音が奏の前に見せつけるように立っている。
自信家で自分が綺麗なことを知っているなら、わざわざ聞いて来る必要はないじゃないかと思いつつ、本人が言ってほしそうにしているから、仕方なく奏は言ってあげた。
「似合ってる、似合ってるよ」
満足そうに天音が強気な笑いを浮かべる。
「てかさ、姉さん。自分で似合ってるって思ってるのに、なんで俺に聞くんだよ」
誰かに言われたいこともあるかもしれないが、言わせるのもどうなのだろうか。姉さんらしいかもなと、まだよく知りもしない姉相手に奏は思った。
奏もふとした瞬間にわからなくなる。
この出会ったばかりの姉は自分のことをどう思っているのか、なんだと思っているのか。
やっと会えた天音に、姉のようにしていてほしいのか、女としての彼女を魅せてほしいのか。わからない。
天音の泣いた顔を見たいという自分の欲求が何処から来るものなのか、彼はまだあまり考えたことがない。
花純から写真を渡された時から彼を惹き付けて止まない天音への興味が、日に日に更に増していくのは確かだった。
彼女の持っている顔に遍く触れたい、そしてそれが自分だけの特権になればいい。奏は無意識にそう思っていた。
写真を見た瞬間から、新しい姉は彼の特別な人となった。
会える日を長いこと待ち、やっと出会えた姉の横で、今の奏は時々自分自身に面倒くささを覚える。