感情を手に灯す男
甲斐美典はサイドテーブルに手を伸ばし、煙草とライターを掴んだ。
適当に掴み過ぎてぐしゃりと煙草の箱が潰れたが、気にせず潰れた箱から一本取り出し、口に咥えた。
絡まっていた女の腕を解き、煙草に火を着ける前に髪ゴムを解く。無造作に肩にかかった髪の毛を縛り直した。それから煙草に火を着け、一口含み煙を吐き出すと、隣に居る女が言った。
「相変わらず淡白な男」
女は前にからかってしつこく腕を絡めようとしたら、怖い顔で甲斐に睨まれたことがある。
彼はそういう時、無意識に眉間に皺を寄せる癖がある。その時、知ってしたけれどもたまにしか見ないその顔に、女は竦み上がったのを覚えている。
二口目を飲み込み煙を吐き出すと、甲斐は言った。
「わかっていることをわざわざ口にするとか、無駄な体力」
女は「甲斐らしいわ」とくすくすと笑った。
そんな女はわかっているからとうに着替えだしている。
甲斐という男は全くもってマイペースである。だが、女にはそれがちょうど好かった。
会いたい時だけ会って、相手の知らない顔を垣間見れば楽しいし、日常的でないのにまるでいつも通りなことが安心感をもたらす。
「じゃあ、あたし帰る。忙しいの」
「俺だって帰るよ。忙しいんだ」
「知ってる」
「忙しいのにわざわざ誘ったの?」
甲斐がそう尋ねると、女は冗談地味た言い方をした
「悪い? 会いたかったのよ」
その言い方に甲斐がくすくすと笑いだし、煙草を消すと着替えだした。
「早くしなさいよ、のんびりさん」
「ちょっと待ってよ、忙しいからって急かし過ぎ」
「あんたがのんびりし過ぎなのよ。忙しいんでしょ?」
「つれないのだか、なんだかわからないねぇ、俺たち」
そう言って甲斐は肩を竦めた。
帰り支度を終えて、一緒にホテルを出て駅まで歩くと、互いに別方向に別れた。女は電車へ、甲斐は自分の車を停めてある駅前のパーキングへと。
彼がたまにしか会わないその女と会ったのは、この日が最後となった。元々、彼女の方から誘われて時間が合えば共にするが、彼の方から誘うことはなかった。
甲斐は下の名前で呼ばれることがほぼない。もちろん家族は名前で呼ぶが、親友すら名前を呼ばない。甲斐と呼ぶ。
彼は名前を聞かれれば「甲斐です」と答え、下の名前を聞かれても「甲斐でいいです」と押し通す。
車の鍵を解錠してドアに手を掛けたら電話が鳴った。運転席に乗り込みながら、のんびりと電話に出る。
「かんちゃん、なにー? 俺忙しいの」
甲斐が開口一番にそう言うと、電話の向こうの相手、神田敏夫は苦笑いを浮かべずにはいられない。
神田が連絡すると甲斐は必ずそれを言うから、定型のように神田は甲斐に「つれないねぇ」とぼやく。
「でー? どうしたの。どうせさ夜来るんでしょ」
わざわざ電話をしてくるということは用事があるのだろうから、甲斐はそう聞いた。
「何故か小説の依頼が来てさー。いや、小説は大学の文芸部以来なんだけれどな、実は」
神田はフリーライターを生業にしている。それだけで食っている代わりに、年中飛び回っては缶詰になってと忙しい人間だ。
暇な時はだらだらと毎日のように甲斐の店に入り浸る。
「良かったね」
「あー、そうだねー」
自分のことなのに、神田は何故か他人事のように棒読みな言い方をした。それから彼は言った。
「書いていい?」
「書けば?」
「いいんだ?」
「止めても無駄でしょ、かんちゃんの場合。やだって言っても無視していつも書いてたじゃん」
甲斐の記憶力の正確さは素晴らしいが、覚えてなくていいことまで覚えられていて、神田は時々苦情を言いたくなる。
「それもそうだったな。無駄な時間使った。じゃあね」
そうして神田からの電話はぷりつりと切れた。
この二人の男は時間の使い方が似ている。人が無駄だと言うような事に限って、これは必要な時間だと費す。
毎度無駄なことを聞いてくるなと思いながら、長身で体格もそれなりの甲斐には不釣合いで窮屈な小さな車を発進させた。
甲斐はこの車をひどく気に入っている。
学生時代に安く買ったこの中古の車は、後部座席を倒せば荷物もそれなりに載るから仕入れには困らない。
女を乗せたことはない。乗せたことがあるのは極少数の気を置かない友人たちだけだ。
この車は甲斐にとって特別な空間である。彼にとっては自身の部屋も特別な場所であり、あまり人を入れない。
ただ稀に、招いてない人間が勝手に部屋で寛いでいることはある。苦情を言っても無駄な相手だから放ったままにしている。
その親友に甲斐は部屋のスペアキーを奪い取られたが最後、ことある毎にその始末だ。
鼻歌混じりに運転し商店街の端っこにある自宅へ戻ると、甲斐はシャワーを浴び直した。乾かした髪を丁寧に結び、ぱりっとしたシャツに袖を通す。
しっかりと身支度を終えると一階にある店へと降りていった。
甲斐は眉間に皺を寄せる癖とは裏腹に、不機嫌な時というのがとても少ない。ご機嫌に開店準備を済ませて、最後に店の看板を外へ出す。開店には少し早いからまだ灯りは点さない。
看板には、「BAR comet」と書かれている。
それが彼の営む店の名前だ。
彼は若くして店を持つバーテンダーである。
甲斐が店の中に戻るなり、カランと扉が空いた。
「ちょっと。まだ営業時間前!」
「甲斐くん、腹減った。助けて」
入ってくるなりそう言ったのは、常連の星降夜であった。
売れっ子作家の彼の名は「ほし」が苗字で名前の「降夜」はそのまま「ふるよ」と読む。
このロマンティストは書くこと以外、普段の生活能力が著しく低い。
仕事で人前に出る時のびしっとした格好の姿と普段の姿は別人のようにしか見えない。
ぼさぼさの頭で適当なサンダルでよれよれのチノパンによれよれのロングTシャツを身につけて、商店街をふらふらしており、周りからは夜先生と呼ばれている。
「夜くん、彼女に作って貰えばいいじゃん。徹夜明け?」
「そう、徹夜明け。てかね、彼女じゃないし、学生は。お隣さん」
降夜は隣に住む変わった生業を持つ女性、仲尾あづみと懇意にしている。
あづみもたまにcometへやって来る。
二人は互いに好意丸出しで早くくっ付けば良いのにと思うが、くっ付くつもりがなさそうだ。
降夜は学生とあづみのことを呼ぶが、彼女は数年前に学生を卒業している。
「じゃあ、そのお隣さんに頼めよ」
「無理ー。学生は今、出張中だ」
「それはご愁傷様でーす」
それまで立ち話をしていたが、甲斐は降夜に席を勧めて自分はカウンターへ入って行った。
「夜くん、いつもの?」
「うん、でも。それより先にフードメニュー欲しい」
「ジンくん、いらっしゃい」
「おう、甲斐。久しぶりー」
降夜にメニューを渡していたらやって来たのは、常連であり親友の一人でもある生田迅である。
彼はカメラマンを生業にしており、人を撮るのは好きじゃないと言いながらスタジオカメラマンをしつつ、スケジュールが空けば自然の中に逃亡して風景ばかり撮っている。
「人間界へようこそ」
「俺、元々人間……甲斐、ひどい」
このやり取りはいつものことで、もはや挨拶のようなものだ。
「テキーラよろしく」
カウンターに腰を掛けながら迅が注文を言った。
「一杯目からテキーラ?」
「そう、テキーラ。嫌なことを流したい」
迅の嫌なことがなにかわかった甲斐は、敢えて彼に尋ねた。
「かんちゃん?」
顔を曇らして苦虫を潰す迅は中性的な男前が台無しだ。
「かんのやつさ、学生時代からペンネーム同じなんだよ。どっかの編集部にあいつのファンがたまたまいて、お願いされたから交換条件出したんだと」
「かんちゃんから聞いたの?」
「違う。その編集さんから連絡来た。仕事じゃ断れない」
神田は迅の性質をよくわかっている。
嫌なものは嫌でも、仕事は仕事、自分のようなフリーランスは内容はどうあれ、仕事をもらえるのはありがたいことだと思っている。だから迅は余程じゃない限り断れない。
仮に神田から先に話が回って来ていれば、断る種は準備出来たが唐突だった。
連絡をもらい、よくよく聞いた結果、神田の名前が出てきたのだ。
「仕方ないじゃん。大体、ジンくんだって他人が適当に描いたものなんて見たくないでしょ」
「それを逆手に取られて俺は最悪な気分なんだ」
一番最悪なのは俺なんだけどな、と甲斐は思った。
神田は甲斐の思い出を題材にする気だ。彼はどうしてもそれが書きたい。
性質的に、神田は彼から見た事実のままに書くだろうが、美化されたらどうしてくれようか。間違いなく、ぐうで殴りたくなることだろう。
神田が迅に出した依頼は小説の挿絵のことである。
迅は美術科を卒業しているため画力がしっかりとしており、それに加えて彼特有の味のある美しい絵を描く。
ただ、彼はひとつの題材しか描かない。だから絵描きではなくカメラマンとなった。迅の描くそれは神田の描きたい小説の世界と重なっていた。
甲斐と迅がそんな会話をしている時、降夜はお腹が空いていると言いながらも、まだメニューとにらめっこ中であった。
結局迅はいつもの酒を選び、一杯目からテキーラは諦めた。
どうせ今日は神田も来る。
彼が来たら恨めしそうにテキーラを煽ってやろうと考えた迅のトートバッグからは、スケッチブックが覗いている。
「甲斐くん、ミックスナッツ」
散々悩んでいた降夜の注文に甲斐は拍子抜けした。夜先生らしいと迅が笑い転げる。
「夜くんさ、そんなのでお腹膨れるの?」
「膨れる。それにナッツは身体に良い」
不摂生極まりない降夜の口から健康という言葉が飛び出した。
どうせあづみの受け売りだろうなと甲斐と迅は呆れた。
「こんばんはー。おお、ジンじゃん!」
カランとドアの音を鳴らして神田が賑やかにやって来た。
甲斐がいらっしゃいと言う前に、迅が「黙れ!」と言う。
神田は人間に転生おめでとうと言おうと思っていたが、先に迅に黙れと言われれば黙るしかない。
「甲斐ー、テキーラ」
「ジンくん、まだいっぱい残ってるじゃん。それ飲んでから言ってよ」
「ブッカーズ、ロックで」
甲斐は降夜の前にミックスナッツとカルアミルクを置きながら、珍しいなと思い、神田に尋ねた。
「ストレートじゃなくて?」
「うん、ロック。そんな気分」
そんな気分がどんな気分かわからないし、飲み方は自由だ。甲斐はピッケルで手早く丸氷を形どりはじめた。
「かんー、スケッチブック持って来たぞ」
迅は鞄からスケッチブックを取り出し、勿体振りながら神田へ渡した。
「たぶん、これ誰にも見せてない」
神田が、開いたスケッチブックを眺めながら感嘆を上げる。俺も見たいと甲斐が言うと、神田と迅は口を揃えて「嫌だ」と言った。
「ねえ、かん。この中から好きなの使ってよ」
「やだよ、描けよ」
神田がそう言うと、迅は困ったように言った。
「最近ね、描いてると胸がしくしくするんだよ」
神田も、丸氷を作り終えた甲斐も、首を傾げた。
「ジンくん、そのしくしくはどっちの意味?」
降夜の問いかけにより、迅は降夜と「しくしく」について語り出した。
ふたりとも美しいものが好きであった。彼らの美しいもの談義は永遠に続く。
神田は出された酒を一口味わい、煙草に火を着けた。そして徐に甲斐に尋ねた。
「お前もさ、しくしくすることってあるの?」
甲斐はしくしくがどんな気持ちかよくわからなかった。少なくとも必要性を今まで感じたことがない。そもそも甲斐は物事を全て理屈で片付ける癖があった。
「ないと思う」
「だろうね。じゃあさ、あの人もしくしくしたりすると思う?」
神田は言ってしまってから自分で切なく淋しくなった。
甲斐の手元でグラスがぱきんと折れた。
シンクでカシャンと音が鳴る。
この店はグラスが直ぐに足りなくなる。
神田が呆れたように言った。
「甲斐、その馬鹿力に感情灯すの止めて。感情はちゃんと顔に出せ、顔に」
人並み外れた馬鹿力の甲斐とて、そんな言われ方をしたのは流石に生まれて初めてだ。