第44話 迷いと光明
ベランジェは部屋に入って来るなり腹を抱えて笑い転げた。
「人の顔を見て笑うのは失礼極まりない、ということを教えてくれる友人はいなかったのか?」
「ルーシュが言ってくれなければいないね」
「いま伝えた」
そんなにひどい表情をしていただろうか? 銀製のペーパーウェイトに映る顔は曲線に沿って歪んでいてよくわからない。
ベランジェはまるで自分の部屋であるかのようにゆったりとソファーに掛けた。座るなり手近なクッションを抱きかかえるのは一体どういう心情なのか、全く理解できない。
「頼まれてた件だけど」
「ペパンだな。カツーハにちゃんと送り返して来たか?」
「いやーそれがさぁ! しばらくここに残るって言うんだよね」
「と言うと」
席を立ちベランジェの対面へ座ろうとした矢先、奴は腕の中のクッションをこちらに放り投げた。いや、投げつけたというほうが近いか。そして礼儀礼節など忘れてしまったかのように、俺に人差し指を突きつけた。
「と言うと、じゃないよ! き、み、が、悪いんだからな。ペパンはルーシュがエリス嬢を都合よく利用しようとしてることを知ってる」
隣室にはエリスがいるんだから声のトーンを落とせと手で伝え、クッションをベランジェに返しながらソファーへ。クッション返す必要なかったな……。
「利用とはまた人聞きが悪いな」
「人聞き? 実際そうでしょ。大体、絶対に結婚しないと言ってた男が手のひら返すなんてどうした風の吹き回しかと思ったんだよ。そもそも結婚する気がない……いや、離婚すればいいと思ってるんだからよりたちが悪いと言える」
「だが彼女にはそれなりの立場と金銭的補償を――いや待て、これは段階を追って話をさせてくれ」
「僕は理解してるつもりだよ、その顔が千の言葉より君の気持ちを物語ってる。でもペパンは君の幼馴染じゃないからね。とにかくそういう訳だから、ペパンはその時が来たらエリス嬢を連れて帰るそうだよ」
主人の前だと言うのにゆったりとソファーに背を預けて足を組むベランジェの表情は呆れの色が濃い。
「困ったな」
「好きなんでしょ」
「ああ、より正確に言うなら愛してる」
「わー臆面もなくよく言うよ、ごちそうさま! で、期間限定ってのはなんで訂正しないのさ」
「気持ちに気付いたのは彼女が病床から目覚めたときだった」
最初は婚約の話さえするつもりはなかった。父の顔を立てるためにカツーハまで行ったが、「親友の娘は幸せに過ごしていた」と伝えてそれで終わりにするつもりで。
ところが虐待されているとなれば話が変わる。だから結婚を口実に彼女を連れ帰り、時が来たら自由にすることにしたのだ。それが一緒に過ごすようになってから、同情だったはずのものが少しずつ色を変えていったのは間違いない。
混血だと知ったときの憤りは言葉では言い表せないが、それは自分の感情の裏返しだった。好意を持っていたから、信頼していたから。だからこそ何も相談されなかったことに呆然自失となったんだろう。
倒れた彼女が目を覚ましたときに俺を見て嬉しそうに笑って……俺は彼女を生涯愛すると決めた。そう、もう手放すつもりなどないのだ。
「あれからもう十日以上経つんじゃない?」
「あのなぁ……。相手は混血で、俺はダスティーユの後継者だ。言ってる意味がわからないわけではあるまい?」
「あはは! 元々結婚するつもりもなかった男が血筋の心配かい?」
ベランジェの言いたいこともわかる。元々そうするつもりだったのだから、傍系から養子を連れて来たらいいと。
だがそれはエリスから子を持つ権利を奪う正統な理由になるか? いや、そうじゃない。俺が、俺自身が彼女との子を欲しいと思ってしまっているから悩むんだ。
だがこの点については、ひとつオーギュストに確認したいことがある。
「それなんだが――」
自身を落ち着けるように深く息を吐き、自論についての意見を求めようとしたときだ。ざわりと室内の空気が動いて肌がぴりぴり痺れる感覚。
「邪魔する、セルシュティアンよ」
「オーギュスト……」
エリスの祖父、オーギュストはまるで最初からそこにいたかのように扉の脇に立っていた。
ベランジェは席を立って俺の横へと移動する。
「すごい、本当に城に入って来た!」
「つまらぬ嘘はつかんよ。それで、どんな話を求めている?」
一体どのような理屈が走っているのか知らないが、彼は音もなく我々の対面に座って首を傾げた。
俺は何から聞けばいいのかわからず、結局単刀直入に問うことにした。
「あなたは我がリュパン家の始祖ではないか」
「へっ?」
俺の言葉にベランジェがのけぞった。俺とオーギュストの顔を見比べながら、次の言葉を待っているようだ。
オーギュストは小さく笑って頷く。
「よう気付いた。闇の血はすっかり薄れもはやただの人間だが……お主らリュパンの始まりは我が息子よ」
「あなたは人間という存在そのものを尊重しているわけではない。血族を大切にしているのではないか、と思ったんだ」
「ふん。息子が生まれた当初は人間と吸血鬼の真なる共存を目指していたのだ。しかし人間の寿命のなんと短いことか! 我らが人間との約定を守ろうと努めても、お主らは約定そのものを忘れてしまう。吸血鬼を恐れ、憎む。共に酒を飲み踊った人間は土に還って幾百年だ、仕方のないことと理解してはいるのだがな」
怒ったように口を引き結んだオーギュストだったが、その瞳には悲しみがのぞいている。彼が見ているのは古き時代の子孫、否、友人の姿だろうか。
だがこれで……これで俺は心置きなくエリスを迎え入れられる。吸血鬼と戦って命を落とした先祖や諸先輩方に顔向けができないと思っていたが、そうではない。俺たちは始まりから既に吸血鬼と共にあったのだから。
オーギュストに握手を求め、手を差し出した。
「後日カツーハとの親睦会を開催する。ぜひオーギュストにも参加してほしい」
「楽しみにしておこう」
まずは、俺の宝を傷つける者たちをどうにかしないとな。




