第32話 大人たちが教えてくれたこと
ベッカ夫人の本日最後の授業は、完璧であれ、でした。
彼女の私室に連れて行かれて、これは若い頃に着ていたものよと素敵なクロークコートを着せてくれました。クロークコートは袖のないケープで丈が膝まである防寒着です。ベッカ夫人のイメージとはちょっと違う真っ赤なコート。
「主人がね、華やかな色も似合うと言ってくれたの。でも年齢とともに恥ずかしくなって。古いものだから貴女は嫌かもしれないけれど、最後に着てあげてくれたら嬉しいわ」
「すごく素敵なコートです」
「社交辞令としては零点ですね。でも心から言ってくれてるのね、ありがとう」
そして、靴も。これは昼間のうちにメイドさんが買って来てくれたんですって。私が出て行きたくなったらいつでも出て行けるように。
「新月に気付いてからずっと心ここにあらずだったでしょう。やるべきことがあるのなら行きなさい。けれど淑女ならいつ何時も完璧を演じなさい」
「ありがとうございます、ベッカ夫人」
いちばん厳しく躾けられた淑女の礼を披露して。
「ええ。今までで最も完璧に近いですよ」
エントランスで、小さなカバンをひとつ持たせてくれて。
「では、次の授業でお会いしましょう」
ベッカ夫人はそう言って頬にキスをくれました。
男爵邸を出てカバンの中身をちらっと確認したら、吸血鬼対策グッズでした。カバンの隅っこには「NからRへ」と刻まれています。ベッカ夫人のお名前はレベッカだから、きっとご主人からベッカ夫人へのプレゼントだわ。……え、もしかしてこれノロケだった?
でも、ここまでしてくれたからには無事にこの夜を乗り越えないと。
カバンを肩から斜めに掛けて、小さな銃を取り出しました。まず銀の弾を詰めて……ああもう、この作業があるならお家の中でやればよかった! 火薬はこれ、グリスはこれ。気ばかりが急いて手が震えちゃう。
やり方はお父さまに教わったから大丈夫。今になって銃の手入れや使い方を教えてくれた理由がわかりました。私をダスティーユへ送るつもりだったからなのね。
はい、完璧。ほかに聖水瓶もカバンから出しておいて、どちらもコートのポケットに放り込みます。大きなポッケ! よし。準備は完璧です、淑女ですからね。
さて、吸血鬼は一体どっちに――。
「きゃあああっ! いやっ、助けて!」
気配を探るまでもなく、近くで悲鳴が聞こえました。まずはそっちに行きますか。
私の目標はヴィクトーをぶっ飛ばすことです。あいつ、人間を死なせない派閥って言って近づいてきたくせに、全然そんなことなかったもの!
それから、人間が誰も死なないようにすること。
そのためには騎士団の協力が必要です。私は気配がわかるだけで戦うことはできないから。人間を守るという点においては協力できそう、できたらいいな、してくださいお願いします。
もうあとはなるようになれです。よほどのことがないと死なないっていう体の丈夫さを最大限に利用して、ね。
どうにか迷子にならず、逃げ惑う女性のところへ向かうことができました。まぁ、たまたま運良く彼女もこっちへ走って来てくれたと言うのが正しいんですけど。
私の視界の片隅で逃亡中の女性が細い道へ逃げ込むのが見えました。それを追う吸血鬼の姿も。あれは追い掛けるのを楽しんでいるようです。ニヤってしてるのがすごく気持ち悪い。
一歩遅れて私も細道へ飛び込みました。そこは袋小路になっていて、壁を背に尻もちをついた女の人とそれを襲おうとする吸血鬼が。
銃を構えて、撃鉄を起こして。心臓を狙う……ってどこだっけ、心臓?
まぁいいや、たぶん胸の真ん中のちょっと左寄り。
引き金を引くと同時にものすごい破裂音が響いて、私の腕がぶいっと上に持ち上がりました。そうだ、銃って反動があったんでした!
って反省してる場合ではありません。振り向いた吸血鬼は耳から血をだらだらと垂らしています。えっ、めっちゃ効いてるじゃん。新月もたいしたことないな!
「ハンターか……? いやただの人間か。くそ、痛ぇな」
吸血鬼はちらっと女性を見てから、私に向き直ります。武器を持ってる私を先にどうにかしようと思ったみたい。正しい判断。
そこへ、騎士団と思われる人たちの声が聞こえて来ました。こちらの銃声に気付いたみたいですね。思ったより近くにいたっぽい!
「あ。思い出した。金髪、赤紫の目。ヴィクトーが探してる女だ」
「……あなたミネットを知らないの? 最近吸血鬼になった方? あ、だから弱いんだ」
吸血鬼は生きた時間が長いほど強くなる傾向にあります。この吸血鬼はまだ若いから新月でもあれだけの傷を負ったんですね、さすがにもう治ってるけど。
でもそんなことより、私を見てママンを思い出さないなんて失礼すぎます、絶対このひとはママンのこと知らないんだわ! 私、絶世の美女だったママンにそっくりなんだからね!
弱いって言ったせいかわかんないけど、吸血鬼はすごい怒りだしてしまいました。
「クソガキが……! ヴィクトーは生きたまま連れて来いって言ってたが、生かしちゃおけねぇ!」
「え、命令は聞いた方がいいと思う、たぶん」
私、自分で言うのもアレですけど吸血鬼界の命運を握ってると思うんですよね。死なせたらヴィクトーすっごく怒ると思うな。
真っ直ぐにこちらへ向かって来る吸血鬼を、ちょっと身体をよじっていなします。小さな頃からママンとこういう遊びをしてたの。ママンにタッチされたら負けよって。勝てるわけないんだけど、この吸血鬼はママンより遅いから大丈夫。
ただ体力が違うからいつまでもは耐えられないのが問題かなー! せめて騎士団の人たちが来るまで……!
「わぁっ!」
「捕まえたぞ、クソガキ!」
躱すときに置いてきぼりにした左腕がつかまりました。腕をひねり上げて、ぶら下げた状態で地を蹴る吸血鬼。待って、脱臼する、ちょっと!




