第30話 ドブネズミみたいってのは言い過ぎだと思います
泣いてるうちに少し寝ちゃったみたいで、鳥のさえずりに起こされました。吸血鬼の気配はもうどこにもなかったので、そっとお世話になった民家を出てその場を離れて。
日は顔を出したばかりだし空も雲が多くて薄暗いのだけど、おかげさまで本当に寒いな! よくよく考えれば夜着に薄いガウン羽織っただけだし、ルームシューズだし、そりゃ寒いんですよ。はー、まさかこんなことになるなんて。
たくさん泣いたおかげで今はちょっとすっきりしてます。が、さてどうしましょう。どうって、カツーハに帰るのが現実的かなぁ。ペパンのところは騎士団の人が見張ってそうだし先ずはひとりで領都を出て、あとから連絡するのがいいかな。
あ、でもカツーハに帰って騎士団の人たちが攻めてきたらマダムたちに迷惑かけちゃうか。じゃあどこか全然知らないとこに――。
「寂しいよぉ……」
比較的大きな通りに出て、でもまだ外を歩く人は全然いなくて。立ち止まって通りの前と後ろを見ても私ひとり。これからの私の人生みたい。
どこかから目覚めた人たちが一日を始めようとする音や「おはよう」ってあったかそうな声が聞こえてくるけれど、私におはようを言ってくれる人はいなくて。
地面の石がルームシューズごしに足の裏に刺さるのが痛い。宝箱も置いて来ちゃったし。
「ルーシュさまおはよ」
呟いてみたけどもちろん返事はないわけで。
できるだけ痛くならないようにポテポテ歩いてたら、しばらくして後ろの方から馬車の音が近づいてきました。慌てて確認したけど狼の紋章ついてないし公爵家の馬車ではないから隠れなくても大丈夫そう。
なのにその馬車は通り過ぎてすぐ、私の前方で停まりました。目の前で扉が開いたかと思ったらにゅっと顔が出て来た。
「淑女がなんて恰好をなさってるんですか。普通淑女はひとりで外を歩きません」
「ベ……ベッカ夫人だぁ」
びぇぇと泣き出した私を馬車に押し込んで、ベッカ夫人は何も言わずにご自身のお家に連れて行ってくれました。
「ここはベッカ男爵家のダスティーユ領邸です。わたくしがダスティーユ城へ登る際に使用するだけですから、侍女なぞおりません。どうぞご自身でどうにかしてくださいませね」
そう言いながら、ベッカ夫人はご自分より年上のメイドさんと一緒になって私のためにお湯を用意してくれました。身体の汚れを落として温まったらなんだかお腹がすいてきちゃった。
ベッカ夫人のドレスをお借りしてバスルームを出ると、テラスに案内されました。小さなお庭は綺麗に整えられてて、テーブルはそれを鑑賞できるように配置してあります。
「……今日は授業はしませんから、どうぞ楽にしておかけになって」
「はい!」
「と言われても、最低限のマナーはお守りくださいね」
「……ハイ」
テーブルにはサラダとパンと卵とハムが並びました。美味しそう!
私がぱくぱく食べてる間に、ベッカ夫人はベッカ本邸からの帰り道だったんだと説明してくれました。私が倒れて急遽お休みになったから、自宅に戻ってたんですって。
「ドブネズミみたいな若い娘が歩いているから何かと思ったら、伯爵令嬢だったんですから我が目を疑いましたよ」
「私、お城に戻れないからベッカ夫人のお仕事もなくなっちゃいました」
「それは主たる公爵様がお決めになることです」
何言ってんだこのオバサンと思ったけど黙っておきます。淑女はいらんことを言わないものだそうです。
「わたくしは昔、少しいいところの伯爵家に末女として生まれました」
「突然の昔語り」
「年寄りの話は黙って聞くものですよ。行儀見習いとしてダスティーユ城を訪れ、現公爵様のお母上にお仕えしました。彼女は慈善活動に力を入れていて、救貧院にもよくお顔をお出しになりました」
老人とか病気とかで働けない人のための救済施設ですね。仕事の斡旋とかもしていると本で読みました。
「その日は朝からあまり天気に恵まれなかった。降り出した雨は強くなる一方で帰るに帰れず、わたくしたちは救貧院で一晩を過ごすことにしたのです。そしてわたくしは生まれて初めて出会った」
ベッカ夫人が銀器をおきました。なんとなくちゃんと聞かないといけない気がして、私も真似をしてフォークを置いて、口の周りを拭います。
「吸血鬼」
「え」
「彼女が手にかけたのは、もういつ亡くなってもおかしくないと医師も投げ出した病人でした。彼女は『ごめんなさい、痛くないからね』と声をかけて病人の命を奪ったのです」
「彼女って」
「貴女によく似たお顔の若い女性でした。彼女の姿はまるでこの世界から見放された病人を救う慈愛の女神のようだった」
ママンだ。そう思いました。
「その後わたくしはこの地で騎士として奉職する男爵家の長男と恋に落ち――」
「恋するんだ」
「します。それから約二十年の歳月が経過して、わたくしは再びその女神と会うことになりました。最低限の貴族のマナーを教えてやってほしいと当時の公爵夫人に請われたのですが、平民の女性として私の前に立った彼女は初めて出会った日と寸分違わぬ姿だったのです」
「ママン……」
「今回、平民レベルの女性の教育をとお話をいただいた際、わたくしももう年ですからあまりに酷いようなら辞退しようと思っていました。なのに、貴女はあの日の女神のようなお顔で現れるから。ああ、これがわたくしの運命なのねと」
ベッカ夫人は遠くの空を見つめて小さく息をつきました。
曇っていたはずの空はいつの間にか青く晴れ渡っていて、鳥がピチチって鳴きながら飛んでった。
「ダスティーユという土地は吸血鬼とともにあるのです。わたくしはそれを知っています。だから貴女が混血であろうと、森に帰ろうと、気にしません」
「吸血鬼とともにある……それって、どういう」
「貴女もいずれわかることです。それより、貴女がどこに行くつもりであろうと淑女教育は終わりませんからね。そのふやけたお顔をどうにかなさい」
「へぁっ!」
びしっと背を伸ばしました。やっぱりベッカ夫人怖すぎるんですけども!




