第21話 彼女は弱者で俺は卑怯者で
夜が明けて昼を過ぎてもエリスは目覚めない。医師も原因不明だと首を振るばかりだ。
少しは何かを食えと医師に部屋を追い出されたが、結局なにも喉を通らずにまたエリスの眠る部屋へ戻って来た。扉の前にはベランジェがいて、俺の姿を見つけるなり困ったように眉を下げる。
「全然寝てないじゃない、少し休むべきだよ。エリス嬢は僕が看ておくからさ」
「なぁ、『飯を与えない』ってどういう意味だ」
「敵の言葉を真に受けて! 奴らは僕たちが動揺するのを喜ぶ生き物だって知ってるでしょ」
ベランジェが苦笑を浮かべて俺の背を押した。
こんな状況で寝られるわけがないだろうと抵抗したところで、バタバタと家令が駆け寄って来る。仕事はできるのだが、ちょこちょこと小走りで城内を移動することが多いのは彼の唯一の難点か。
「セルシュティアン様、エリスお嬢様の幼友達を名乗る男が」
「幼友達?」
カツーハを出る際に馬車を止めたそばかすの男を思い出す。顔の造りは判然としないが、エリスを見る真っ直ぐな茶色の目はよく覚えている。
「お嬢様はお休みになっていると伝えたら暴れ出しまして。その、『殺す気か』と。死なせたくなければ会わせろと言って聞かんのです。朝から何度追い返しても居座るので、そろそろ牢へ入れたいとの相談があり……」
「連れて来い」
「は……? は、はいっ!」
家令は再び小走りで去って行った。もっと早く走っていいぞ。
「ありゃ。急に敵の言葉が信憑性を帯びてきちゃったね」
「少なくとも、俺が知らない何かがあるのは確かだ」
「おっしゃる通りさ。これでエリス嬢が目覚めてくれたら、僕も少し仮眠できるってね」
片目をつぶったベランジェの目の下には確かにクマが残っている。気にしなくていいって言ってやれるのは、エリスが起きてからだな。
ほどなくして、旅装のままの若い男がやって来た。確かにあの日、馬車を止めてエリスとの別れを惜しんだ男だ。ペパン、と言ったか。
ペパンは部屋に入るとエリスの眠るベッドへ駆け寄って、俺を睨みつけた。
「ほかの人を部屋から出してください」
「……必要なことなんだな?」
「早く!」
焦りというよりももはや切羽詰まったと言える声が室内に響く。俺が頷くと同時に従者たちが部屋を出て行った。
「その人は」
ペパンがベランジェを顎で指す。
「コイツはいい」
「わかった」
そう言って彼は自分の荷物からナイフを取り出した。ベランジェが銃をとるべく腰に手を伸ばすのを制止する。あの男が俺たちに敵うはずがないし、それにエリスを傷つけるわけもない。そう、エリスを大切に想っているのは明白なんだ。
ペパンは左の袖をまくって、躊躇いなくナイフを突き立てた。
さすがにそれは予想外だった。俺もベランジェも声ひとつ出せずにただ見守ってしまう。
左腕をエリスの口元に寄せると、流れ出た血が彼女の唇を赤く染める。ペパンが右手で彼女の顎に触れ、口を開けさせた。小さく動く細い首。
いや待てよ、嘘だろう……それじゃまるで、まるでエリスが吸血鬼みたいじゃないか!
ほぼ丸一日なにも食ってない空っぽの胃から何かが出そうだった。
苦しそうだったエリスの呼吸が次第に落ち着いていくのを、本来なら喜ぶべきことを、見ていられない。
「ルーシュ!」
部屋から飛び出した俺の背をベランジェの声が追いかけて来たが、構わず庭へ逃げる。日の光を浴びたかったんだ。エリスは確かにこの庭を、太陽の下を歩いてたんだと実感したくて。彼女は吸血鬼なんかじゃないと。
ベンチでどれくらいぼんやりしていたのか、ペパンがメイドに案内されながら俺のところへやって来た。
「部屋に戻れよ」
「は?」
「は、じゃねえよ。あいつが目覚めたとき、アンタがそばにいてやるべきだろ。結婚すんだから」
「俺は……」
最初はもちろん、結婚するつもりだった。彼女にも言った通りすぐに別れる、形だけの結婚ではあるが。
彼女が混血だと知ったときは裏切られたような気がしていた。形だけの結婚であって公爵家に吸血鬼の血が混じるわけでもないのに。こちらの都合だけで彼女をここまで連れて来たのに。なぜか騙されたような気持ちになっていた。
そして今、俺は……。
「血は混血が生きるために必要な栄養素だよ。病気をしないのは吸血鬼の血が流れてるからだけど、ノーコストでそれができるわけじゃない。ちょっと考えりゃわかるだろ」
「……考えたことがなかった」
「それの何が婚約者だよ。貴族ってのは相手のこと知ろうとしねぇのか」
ペパンが俺の横に座る。
貴族の常識なんか知らねえよとでも言いたげに。
「混血だと知ったのが最近のことだったんだ」
「言い訳だね。いきなりああなるもんか。弱ってくエリスに気付かなかった、見てやらなかったんだ」
最初に顔色が悪いと思ったのはいつだった?
怪我をした騎士から目を逸らすのは、痛々しいせいじゃなかったのか?
黙ったままの俺に、ペパンはぼそぼそと喋り続ける。それは俺に聞かせるというよりは、どこか懺悔のような響きをもった独り言に思えた。
「病気や怪我がなくて、暗闇を恐れないって羨ましいと思うだろ。でもさ、血が必要なのに牙がないんだぜ。理解者がいないと生きることもできない弱者だ。だからエリスのおばさんはウチにエリスを託した。それなのにさ……」
俯いて自分の膝を殴りつけた。守ってやれなかったと、そう呟く声が俺のみぞおちのあたりを深くえぐる。
「行けよ、行ってやってくれ。ルーシュってアンタのことだろ。エリスはアンタの名前呼んでたんだからさ。どう思っててもいいから、せめて目が覚めたときにそばにいてやってくれよ、頼むよ」
膝の上の拳は震えていた。
俺は自分が、頼むという言葉がないと動けない卑怯者なのだと初めて知った。




