第85話 王太子の晩餐会2~征服帝~
「師匠!」
レベッカに呼び掛けられるまでも無く、ノアもその異様な影に気付いていた。
大理石の床を、まるでゴキブリの様な影が無数に足元を通り過ぎ、雛壇の王家に向かって行くではないか。
ノアは不用意にも、反射的にグラブフォルム王に視線を当ててしまった。
その視線に気づいた彼の王は、あからさまに不快な表情を見せる。
「レ―ヴァンの賢者よ。余がこのような醜悪で汚らしい低俗な術で、この祝いの席を汚すと思うのか」
「これは私が浅はかでございました。平にご容赦を」
「……解かればよい。それよりこの汚物を早くなんとかせい。せっかくの酒と料理が台無しになるぞ!」
「かしこまりました。早急に対処致します」
『フレイヤ、聞こえるか』
『はいノア様、クリアです』
『解かっていると思うが、発生源を特定できるか?』
『はい……今ターゲットを視認しました。……席次から……ヘッグルント公国外交官夫人です』
『よろしい、それとなく外に連れ出してくれ。あとは任せる』
『おまかせを……』
「つくづく興味深い術よな。それにあの娘もなかなかの使い手のようだ。貴殿は良い駒ももっているのだな」
「お褒めに預かり、光栄です」
――もはや白を切るのも失礼か。
「それよりその汚物を放っておいてよいのか? もうすぐ雛壇を登って王家に辿り着くぞ」
「ああ、あれですか。ご心配には及びません」
ノアは全く気にする素振りを見せず、鹿肉のステーキをナイフで切り分け、口に運んでいる。
グラブフォルム王が追う視線の先の呪いの影は、王家の席の手前の一線に到達すると、淡く青白く発光しながら次々に消滅していった。
「!!!! 魔力結界か!」
「如何様な術式が展開されているのか……実に興味深い」
グラブフォルム王は王家の座す雛壇を見回した。
「さあグラブフォルム陛下、極上のステーキが冷めてしまいますよ。どうぞお召し上がり下さい」
タイミングよくステラがグラスに赤ワインを注ぐ。
微笑みを添えて。
「ほう、料理に酒を合わせるか」
グラブフォルム王は肉を大きく切って口に運んだ。
「美味い! このソースが絶品だな。葡萄酒の芳醇な味わいが良く合うぞ」
どうやらグラブフォルム王の機嫌も直った様である。
ほっと一息つけたノアは晩餐会場を見渡してみる。
招待客余すことなく公平に提供される至高の肉料理。
それを成すための技術や努力は、誰もが想像にたやすかった。
ノアは笑顔で舌鼓を打つ招待客らの光景に、満足するのだった。
そしてコース料理は新たな展開を見せる。
アイリ特製ショートケーキの登場であった。
『これが噂の王妃殿下のショートケーキですわ!』
特に女性客の反応が著しい。
このショートケーキは、王妃殿下が茶会を開催する時の秘密兵器である。
よってごく少数の上級貴族のご婦人しか、その正体を知らない。
この時代では有り得ない上品な甘味は、貴族婦人界隈で急速に口コミで広まっていたのだ。
楽団の演奏もスローテンポの優雅な曲調に代わり、テーブルにはフルーツやお茶が提供されはじめた。
「さて、我々はこのあたりで失礼しようかの」
食後の紅茶で十分に余韻を楽しんだバーグマン国王は少しよろけながら立ち上がった。
王妃もそれに従う。
「誠に良き晩餐、そして記憶に残る夜であった。賢者殿、またお会い出来る日を楽しみしていますぞ」
テーブルを囲んでいた全員が見送りに立ち上がった。
「はい陛下、いずれまたお会い致しましょう」
およそ一年後、二人は以外な形で再会を果たす事になるのだが、今は知る由もない。
「シャープール……。ほどほどにな……」
「陛下、国母様、ご自愛を……」
一言ではあったが、グラブフォルム王の言葉に嘘偽りは無かった。
バーグマン両陛下の退席の後、しばしの沈黙が訪れたが、それを破ったのはノアだった。
「遙か東の地の征服帝よ。あなたは前世で成しえなかった偉業を、今世で果たすおつもりですか」
グラブフォルム国王が驚愕の表情を浮かべる。
「さすがはレ―ヴァンの賢者よ。余の過去にも詳しいようだ。どこまで知っている?」
ノアはニヤリと口角を上げ征服帝を覗き込んだ。
「あなたの事は、図書館の歴史書から学びました」
グラブフォルム王の口元は笑っているが、眼光はなお鋭い。
「ならば話は早い。レ―ヴァンの賢者よ、どうだ、余に仕えぬか」
エジェリーとレベッカは驚きを持ってお互いを見合った後、すぐにノアの横顔に視線を移した。
そしてお互いの肌に悪寒を感じている事に気付かされた。
「手始めにグスプク一国をくれてやろう。あそこは米と魚が美味いぞ」
「あらあら、そんな約束をしてよろしいのですか。グスプク王が怒りますわよ」
シーリーンが横目で王を見ながら諭す。
「あの男は使えんし、何よりつまらん! いずれ首を挿げ替えるつもりでおるから、丁度良いのよ」
「出過ぎた口を挟みました、ご容赦を」
瞼を閉じた彼女はそっと頭を下げた。
「なるほど~。米と魚は大好物なのですよ。魅力的なお誘いですね」
ノアはまんざらでもない笑顔で答える。
「さらに征服した大地など欲しいだけくれてやるぞ。貴殿にはそれだけの価値がある。貴殿が治めれば民草も救われよう」
「私があなたの右腕となれば、あなたの覇業は二十年から十年、いや八年に短縮される事でしょうね」
「さすがに良い読みをするぞ。ますます気に入った!」
「あなたと共にそんな人生が送れたら、さぞや楽しいのでしょうね……」
「フ~ッ、惜しいな」
「ええ、まったく」
「そうか……レ―ヴァンの賢者よ。貴殿は再び余の覇道の前に立ちはだかるか」
「前回は私ではありませんが、今回もそうなるのかもしれませんね」
しばしの沈黙の後、グラブフォルム王は立ち上がる。
「今宵は実に楽しき宴であった。レ―ヴァンの賢者よ、次に会う時が楽しみだ」
グラブフォルム王は側妃を連れてテーブルを後にした。
その背中にノアは声を掛ける。
「そうそう、あなたは三百年前の過去からやって来たようですが、私は四百年後の日の出の国からやって来たのですよ」
これを聞いてゆっくりと振り返った征服帝は、この日一番の真顔になったのかもしれない。
「なるほど……今世はさらに楽しめる……と言う事か」
「いずれまた貴殿とは再会を果たすであろう。それはこの様な祝いの席であるかもしれんし、戦場であるかもしれぬな」
「はい。出来れば前者であって欲しいものです」
グラブフォルム王はしばらく真顔でそんなノアを見つめた。
「まだ若きレ―ヴァンの賢者よ。貴殿が人の世に絶望した時、いつでも余を訪ねてくるがよい。歩む道は決して一つではないはず……」
「あなたの言葉は誘惑が強すぎていけない」
ノアは小さく首を振った。
「さてと、シーリーンよ、行くか。そなたの言はいつも正しい。礼をいうぞ」
「もったいなきお言葉」
彼女はとても嬉しそうに王を見上げた。
ノアそしてエジェリーとレベッカは、彼の王の背中が見えなくなるまで視線を外さなかった。
「師匠、あのグラブフォルム国王陛下は……いったい何者なの?」
「あの方は歴史上もっとも広大なモンデール帝国を築き上げた人類史上最強の英傑、征服帝の生まれ変わりさ」
「ぼく達はもっと真剣に急がなければいけないようだ。エジェリー、レベッカ、頼りにしているよ」
ノアはグラスに残った真紅の葡萄酒を目の前でかざして眺めた後、一気に飲み干した。
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