第71話 オートキュイジーヌ<後編>
王立学院の夏休みも終わりに近づいた九月十日。
いよいよ試食会の当日を迎えた。
スタッフは午前中早くから王宮に上がり、厨房で仕込みに入った。
初めて王宮に上がったサーシャとステラは、初めは緊張している様子だった。
本日のシェフであるハーロルトは、声を掛けた二人の後輩料理人のサポートを受け、忙しく仕込みを行っていた。
エジェリーとレベッカも、今日だけは厨房の雑用係である。
時間と共に、着々と準備は整っていった。
今宵の試食会の会場は、王宮フロア階にある賓客用の食堂である。
少人数をもてなす部屋であるため決して広くはないが、内装の設えはとても豪華だった。
部屋の南側は美しい内庭に面している。
その内庭が茜色に染まるころ、会場のテーブルセッティングも完了した。
そろそろお客様が到着される頃である。
この時間、エジェリーとレベッカには案内係をお願いした。
外が夕闇に包まれる頃、全ての招待客の着席が完了したようだ。
ノアは厨房で最後の女性給仕人のミーティングを行う。
真っ白のブラウスに黒のボトムス、そして黒いエプロンの装いのサーシャとステラ、そしてアイリとリーフェは少し緊張している様だ。
「皆さん、緊張しなくても大丈夫。練習した通りにやればきっと上手く行きます!」
四人はノアの言葉に深く頷いた。
「さあ、オートキュイジーヌの始まりだ!」
そう言ってノアは厨房を後にした。
ノアは扉を開き、試食会場へ入った。
招待客はバイエフェルト伯爵夫妻、料理長夫妻、給仕長夫妻、副料理長夫妻の八人だった。
すでにテーブルについた招待客の中で、ひと際存在感を示していたのは、やはりエジェリーの母君だった。
エジェリーの美しい黒髪は、やはりこの人からの贈り物だったのか。
「皆様、本日はこの試食会にご参加いただき、ありがとうございます」
珍しく執事風のコスチュームで身なりを整えたノアが挨拶した。
「先日、バイエフェルト伯爵とのお話の中で、『なにか新しいアイディアを』と仰っておりましたもので、『それならば、百聞は一見に如かず、ぼくが試しに作ってみましょう』と言う流れで、この試食会を開催する事になりました」
ノアは招待客の反応を確かめながら、ゆっくりと語る。
「今宵の晩餐のテーマは、経験した事のない新しさであり、お客様を気遣うおもてなしです。ぼくが考える至高の宮廷料理、オートキュイジーヌをどうぞお楽しみください」
挨拶を終えたノアは胸に手を添え、深くお辞儀をした。
「そう言われましても、テーブルにはカトラリーが綺麗に並べてあるだけ。賢者様は何を食べろとおっしゃるのか。今さら料理が間に合っていないなどとおっしゃりませんでしょうな」
ノアを煙たがっていた料理長が苦言を呈す。
「やめなさい、あなた!」
夫人が恐縮して旦那の太ももを叩いた。
ノアは特に料理長からの言葉に不快感を表さなかった。
「それでは始めましょうか!」
ノアが廊下へと通じる扉を開いた。
すると左手に二枚の皿を乗せたサーシャとステラ、アイリとリーフェが隊列を組んで入室してきた。
タルトやカナッペなどの一口大の可愛らしいおつまみが綺麗の並べられた一皿を、それぞれの目の前に向きを整え提供していく。
ちなみに身分差を考慮し、バイエフェルト伯爵夫妻は独立したテーブルで召し上がって頂く。他の六人は円卓を囲んでもらっている席次である。
「始めにお出しするのはアミューズ・ブーシュでございます。どうぞそのまま手でつまんでお召し上がりください」
本来このアミューズ・ブーシュは、ノアの前世でもかなり新しいメニューだが、このひと時は必要と考え、あえて採用する事にした。
ステラとサーシャが白葡萄酒をグラスに注いで回る。
シャンパンがあればベストであったが、まだこの時代には存在していなかった。
そしてノアはこのタイミングで、真っ先にエジェリーの母君に挨拶に行った。
「初めまして。ノア・アルヴェーンと申します。今日はあなたにお会い出来る事を、たいへん楽しみにしておりました」
それは決して世辞では無く、本心だった。
彼女はそっと立ち上がり、椅子から少し立ち位置を離すと、素敵な青いイブニングドレスの裾を少し持ち上げ軽く視線を落とし、優雅な挨拶を披露した。
「賢者様、こちらこそお会い出来る事を心待ちにしておりましたのよ。エリナリーゼ・バイエフェルトでございます」
ノアとバイエフェルト伯爵夫人の視線が初めて合った。
なぜか不思議な感覚を覚えるノアだった。
「お話は後程ゆっくりと致しましょう。まずは料理をお楽しみ下さい」。
そう言ってノアは椅子を添えて夫人を着席させた。
ノアはバイエフェルト伯爵にも一礼すると、隣の円卓に挨拶に向かった。
そしていよいよオートキュイジーヌ本番が始まる。
頃合いを見計らってセルヴーズが次の一皿を運んできた。
「オードブルにございます」
「これはなんと美しい盛り付けだ! 色合いも実に素晴らしい」
バイエフェルト伯爵がまず感嘆の声をあげた。
「おい、まさか一品ずつ、順番に出してくるつもりなのか……」
料理長は驚愕の表情を浮かべ、その皿を凝視した。
「どのカラトリーを使えば良いのかしら……」
副料理長夫人が不安そうな声を上げた。
「外側のナイフとフォークからお使い下さい」
アイリが優しく声をかけた。
「これは塩味と酸味が効いて、食欲が掻き立てられますね!」
副料理長が生ハムや生野菜の味を確かめながら感想を呟いた。
上々の反応にノアは手ごたえを感じる。
「スープでございます。本日は王道のコンソメスープに致しました」
銀製のスープカップからは湯気が揚がり、熱いスープである事が解った。
「たかがスープ! と侮る方は、この中にはいらっしゃいませんでしょう。この熱い琥珀色の液体の中には、恐ろしい程の手間暇と、料理人のセンスと情熱が溶け込んでおります」
ノアは自信たっぷりに料理長を見た。
料理長は相変わらずの仏頂面でスプーンを口に運ぶと、瞬時に目は大きく見開かれ、しばし動作が停止した。
それをノアは見逃すはずもなく、ニヤリとほくそ笑んだ。
このタイミングでアイリが、パンの好みを聞きながら提供していく。
さて、次は今回最も悩んだ一品だ。
「魚料理でございます。ムニエルに致しました」
「これは何のお魚かしら?」
「このお魚は今朝アゼリア川の支流で釣りあげた桃鱒でございます」
料理長夫人の質問に給仕のサーシャが即座に答えた。
もちろん『月下の一角獣』の男どもが獲って来た魚である。
本来なら真鯛や鱈やヒラメといった白身魚や海老が手に入れば苦労しない。
しかしここ王都サンクリッドでは、海の幸は全く手に入らなかった。
この問題は前世が日本人であったノアには、普段の食生活からして途方もない欠点であった。
幸いこの世界でも、川の上流や湖には多彩な淡水魚が生息していた。
その中でも今回チョイスした桃鱒は、前世でのニジマスに似ていて大型のモノは脂のりも良かった。
「とても食べやすいわ! そして凄く美味しい!」
料理長夫人が絶賛した。
魚料理を女性に喜んで頂くのは、ノアの一つの課題であった。
正直大皿に盛られた魚料理を取り分けて食べても、冷めてしまってあまり美味しくないのである。
「なんと、これは皿まで温めてあるのか!」
料理長が驚きの声を上げて給仕長の反応を確かめた。
給仕長は皿に両手を添え、言葉が出ないようだ。
「お口直しのソルベにございます。本日はリンゴのシャーベットにしてみました」
「今度は器までキンキンに冷やしてありますよ!」
副料理長が驚きの声を上げる。
「まあ、なんて爽やかなのでしょう!」
――頬に左手を添え、うっとりとした表情を魅せる伯爵夫人は美し過ぎます!
「さて、いよいよメインの肉料理は鹿肉の希少なフィレの部位をステーキにしてみました」
この『ステーキ』という言葉は、ノアの前世の記憶では、もともと『焼いた鹿肉』を指す古代ノルド語が語源であった。
王道中の王道で、真っ向勝負だ。
「この一皿はシェフが試行錯誤で誕生させた作品です。最良の焼き方を研究し、幾多のソースを試し、付け合わせの温野菜までこだわり尽くしました。どうぞシェフの熱い情熱と共にお召し上がりください!」
そしてサーシャとステラが赤い葡萄酒を提供していく。
目の前に置かれたステーキの皿を見て、衝撃を受けているのは料理長と副料理長だ。
この時代の宮廷料理では、肉は大きな塊で焼くのが主流である。
個別に丁寧に焼かれ、さらに焼き立てで提供されたステーキは、彼らの想像を絶していた。
ナイフで切り分け、口に運ぶ料理長。
「格が違う……」
それだけ言うと、彼は黙々と食べ続けた。
そして生野菜、チーズ、甘い菓子とメニューは進んでいく。
甘い菓子はもちろんアイリのショートケーキだ。
「この柔らかいケーキはいったい何なの!」
「こんな美味しいケーキは生まれて初めて食べたわ!」
「もうお腹は一杯なのに……。いくらでも食べたくなってしまうわ!」
女性陣の絶賛に、心の中でガッツポーズを取ったのは、もちろんアイリである。
そして食べやすく切った桃や梨のフルーツを出して余韻に浸って頂く。
最後にコーヒーと小菓子だが、残念ながらコーヒー豆はまだ手に入らなかった。
香りの良い柑橘の香油を添えた紅茶で代用する事にした。
全てが終わると招待客は、皆言葉は無く、至福の表情に包まれていた。
「本日はいかがでしたでしょうか」
ノアが自信を持って感想を聞く。
「あまりにも想像を超えておりましたぞ。まるで天の国で食事を頂いた様です。料理はとても美味しく、そして美しい……。感激の一言では言い表せない……」
最初に感想を述べたのはバイエフェルト伯爵だった。
「賢者様、あなた様は天使様ではございませんか? いや、そんな事はどうでもいい、私は、賢者様に弟子入りを強くお願い致します」
やはり最も興奮しているのは料理長だ。
「料理長が弟子入りなどと、とんでもない。ぼくは料理に関して多少の知識を持っているにすぎません。もとより、ぼくのノウハウごと全てあなた達に差し上げる考えで、今宵の試食会を催しました」
ノアは料理長に優しく語りかけた。
「ああ、あなた様は理由があって賢者様なのですね。堅物な私にも十分理解が出来ましたよ……」
「初めにも言いましたが、今回のテーマは『経験した事のない新しさ、それとお客様へのおもてなし』です。ぼくが皆さんに伝えたかった事は、『お客様に美味しく、楽しく召し上がって頂くための最善の追求』です」
「料理は作りたてが一番美味しいですよね。温かい料理は温かいうちに、冷たい料理は冷たいうちに。今回のコース料理は最善を追求した結果です。ぼくは料理を振る舞う側として、当然の責務だと思っています」
「おっしゃる通りにございます。実に耳が痛い!」
料理長は自らの頭を軽く叩きながらそう言った。
「そして料理は厨房から運ばなければ、お客様の口に入りません。今回ぼくは給仕にもこだわってみたのですが、お解かりになりましたでしょうか」
そう言ってノアは特に給仕長に視線を当てた。
「はい、賢者様。正直『大変なモノを見せられた』というのが実感です。しかし大変勉強になりました」
ノアは給仕長の理解にとても満足した。
「お気づきでしょうが、その手間といったら半端な労力ではありません。本日は八名の少ないお客様なので対応には苦労しませんが、みなさんの戦場は数百人を相手にする大規模なものです」
「まして次回予定される王太子殿下の晩餐会となれば、お客様は国賓であり、名だたる貴族の方々でしょう。皆さま舌も肥えているし、文字どおり口もうるさい。このオートキュイジーヌを採用するのであれば、かなりの覚悟と努力が必要でしょう」
ノアの言葉に料理長達は顔を見合わせ、深く頷き合った。
「なにを今さら。私達は知ってしまった……。もう後戻りは出来ません」
「見事成し遂げれば、宮廷料理の歴史が変わります。あなたたちが国王陛下の料理人として、この世界一のおもてなしを成し遂げ、歴史に名を刻む事をぼくは望みます」
わずか八名の客ではあるが、盛大な拍手が沸き追った。
ノアは右手を胸に、長く頭を下げて拍手に答えた。
「それでは最後に本日の料理長をご紹介しましょう」
ノアの合図でリーフェが扉を開けると、ハーロルトが恥ずかしそうに現れた。
再び拍手が沸き起こる。
「ハーロルト、実に見事だった!」
料理長は目に涙をため、ハーロルトを絶賛した。
気難しい職人の親方は、どの世界でも涙もろい男が多い。
「バイエフェルト伯爵、これでハーロルトさんをお返し致します。彼ら優秀な料理人の皆さんが協力すれば、素晴らしい晩餐会が開ける事でしょう。もちろんぼくもこの先協力を惜しみません」
「賢者ノア・アルヴェーン殿。我々は素晴らしい教えを頂きました。改めてお礼申し上げます」
バイエフェルト伯爵は立ち上がり、ノアに深く頭を下げた。
「時にバイエフェルト伯爵。今回少し不満に思った事がありまして」
「何でございましょうか?」
「料理を盛り付けるお皿です。料理とは、芸術です」
「聞いたか! パトリック!」
「はい、料理長! 感動して涙出ますよ!」
「正直料理が映える良い皿がありません。白磁のお皿はやはり厳しいですか」
「さすがは賢者殿でございますな。食器についても造詣がお深い。白磁の皿は遠く東の国より海を渡ってくる珍品であり、金のごとく高価です」
「なるほど、やはりそうですか……」
ノアは顎を撫でながら考えた。
「それならいっそ作っちゃいますか!」
一同が驚愕の眼差しでノアに注目した。
「ぼくはなんとなくですが、白磁の材料と作り方を知っています。もちろん焼いた事はありませんが。陶芸ギルドと協力すれば、なんとかなるでしょう」
「まったくあなた様という方は……。どれほどの知識をお持ちなのでしょうか」
「と言う事で、サーシャさん、ステラさん。今度は冒険者ギルド総出で土探しをお願いしましょうか!」
サーシャとステラは『やれやれ……』と言った表情でお互いを見合ったが、すぐに『かしこまりました!』『了解です!』と元気よく返事をした。
「それでは皆様、本日の試食会にご参加頂きありがとうございました」
ノアに合わせ、スタッフ一同深くお辞儀をした。
そして一列に整列し、お客様の見送りを行う。
もちろん最初に退室するのはバイエフェルト伯爵夫妻である。
バイエフェルト伯爵は言葉を発せず、ノアと固い握手を交わし、ハーロルトの肩を『ポンポン』と叩いた。
「賢者ノア・アルヴェーン様。どうぞエジェリーをお願い致します」
バイエフェルト伯爵夫人は多くを語らなかった。
それが、その一言をいっそう際立たせた事は、言うまでもなかった……。
バイエフェルト伯爵が差し出した左腕に軽く手を添え、伯爵夫人は優雅に会場をあとにした。
* * * * *
そしてこの後、ノアはとある陶芸工房と極秘で技術提携するのであった。
前世の記憶で、白磁器の生産に成功すれば、莫大な富をもたらす事を知っていたからである。
程なく原料であるカリオン石は冒険者によって発見され、ノアは高温に耐える新たな窯を起こした。
そこで焼き上がって行く美しい白磁器達は、ノアの貴重な活動財源となって行くのであった。
17世紀、ヨーロッパでは中国の磁器や日本の伊万里などが金の如く価値がありました。純白で薄く、硬く艶やかな硬質磁器はヨーロッパでは未だに造りだす事が出来ず、列国の王侯貴族、事業家達はやっきになって、その製造技術を見つけようとしていました。
そして1710年にザクセン(ドイツ)でマイセンが産声を上げます。




