第95話 聖女の帰還1~乙女達の想い~
<一月二十八日>
聖女テレージアが王都サンクリッドで過ごす最後の夜。
ノアは当然の如く、教会宿舎にあるテレージアの部屋を訪れていた。
「あーあ、明日帰っちゃうのか……。このまま時が止まらないかな~」
そう言って彼女はノアの肩に頭を寄せた。
暖炉の炎の揺らぎが、テレージアをさらに美しく見せている。
「ねえ、今夜は昔みたいに……一緒にお風呂に入りましょうよ!」
突然の申し出に、ノアはたいそう狼狽える。
「あの頃のぼくとは……今は違うんだよ」
「あら、わたしだって違うわよ!」
「でも……どうして⁈」
ノアの問に答えるテレージアの瞳は、少し妖しく揺れて見えた。
「あなたに呪いを掛けるの。今のわたしを決して忘れないように……」
「…………」
二人は暖炉の前のソファーから立ち上がると、きつく抱き合い、唇を重ねた。
そしてお互い、不要なモノを脱ぎ棄て始める……。
<一月二十九日>
レ―ヴァン王国、王都サンクリッドは快晴の朝を迎えた。
セント・アレク教会の馬車寄せには、すでに出発準備を整えた七台の馬車隊が完成していた。
今は静かに待つ、馬たちの吐く息は白い。
二人の聖女は大聖堂正面前で、教会聖職者達から別れの挨拶を受けている。
ノアはその間に、派遣する使節団に激励を行った。
それにしても馬車の前には見送りに訪れた人が多い。
バイエフェルト伯爵やスピルカ伯爵、そしてアールステッド侯爵の姿まで見える。
教皇に謁見また聖女の護衛という大役を担った息子や娘が誇らしくもあり、なにより往復三千キロにも及ぶ長旅を心配しているのは、至って当然の親心であろう。
「それでは主殿、行って参ります。万事このタイラーにお任せ下さいませ」
「あなたにすべてお任せします、タイラーさん。聖女様を無事、セントレイシアへ送り届けて下さい」
ノアに深く一礼すると、タイラーは愛馬に跨った。
「エジェリー。教皇猊下への親書を頼んだよ」
「かしこまりました、ノア……様」
その返事は少しぎこちないが、以前の落ち込み様はだいぶ影を潜めた様だ。
「レベッカ、何かあった時は君の魔術がみんなを救う。頼りにしているよ」
「まっかせなさ~い!」
そしてエジェリーとレベッカは『行ってきます』とノアに明るく手を振りながら、聖女の馬車へ乗り込んでいった。
その頃二人の聖女は、教会聖職者達との挨拶を終えたようだ。
ゆっくりと階段を降り、乗り込む馬車に向かってくる。
「精霊の聖騎士様、いえノア様。お世話になりました。聖女の務めを果たす最後に、この様な素敵な思い出を頂き、感謝致します」
「ローゼマリーさんもお元気で。これからのお役目も大変でしょうが、お身体をお大事に。ぼくの助けが必要な時はいつでも呼んでください」
ノアに深く一礼すると、ローゼマリーも馬車に乗り込んで行く。
一人残ったテレージアはうつむき無言のままだ。
「鈴華さん、近いうちにぼくは必ず君に逢いに行くよ。バルシュタットの屋敷で会おう」
ノアの言葉にテレージアは顔を上げる。
「本当に⁈ すぐに逢いに来てくれる⁈」
「ああ、約束するよ。なんでも口実を作って、絶対君に逢いに行く!」
「隼人さん、あまり無理はしないでね。わたしはそれだけが心配なの……」
テレージアの瞳はみるみる涙で潤んでいく。
「……愛しているわ」
「ぼくも愛しているよ、鈴華さん」
テレージアは口をへの字に結び、必至で泣くのをこらえている。
「ありがとう……その言葉でわたしはきっと頑張れる……」
その一言を最後に、テレージアは毅然とノアに背を向けた。
そして足早に馬車へ乗り込んでいった。
テレージアの乗車を見届けたノアは、タイラーに視線を送った。
タイラーも無言で頷く。
「これより我らは聖都セントレイシアに向け、出発する!」
馬上のタイラーより勇ましい号令が発せられた。
御者達は一斉に手綱を打って馬達に出発の合図を送る。
馬車隊はゆっくりと動き始めた。
その時、大聖堂の鐘は打ち鳴らされ、去り行く聖女との別れを惜しんだ。
帰路の行程は、ここレ―ヴァン王国王都サンクリッドを出発。
カールソン砦を通過してヘッグルント公国に入る。
さらに国境を越え、ラデリア帝国へ。
帝都バルシュタットのノアの屋敷に立ち寄った後、最終目的地の神聖シャール国へと向かう。
その道程はおよそ千五百キロに及び、二十日前後を要する大旅行である。
* *
馬車の後面ガラス越しに、ノアの姿を最後まで脳裏に焼き付けていたテレージアは、やがて彼が見えなくなると、力なくシートに座りなおした。
左右の車窓の外は、聖女を見送るための人々の喚声が続いている。
今の彼女には、そんな歓声はまったく届いていない。
「わたし、王国の外に出るの初めてだわ!」
「もちろんわたしだってそうよ。でもなんか、ワクワクするわね!」
そんな言葉を交わしながら、エジェリーとレベッカは沿道で手を振る市民に笑顔で答えていた。
テレージアの向かいの席では、旅の始まりに高揚する、二人の会話が続いていた。
「うるさ……」
「うるさい……黙れ……!」
突然テレージアは激高した。
「あんた達は、ズルい、ズルい、ズルい、ズルい、ズルいのよ!!」
「毎日あの人の傍に普通にいて、普通にお話して……。ズルい、ズルい、ズルい、ズル過ぎる!」
テレージアは両手を振り乱し、まくし立てる。
「わたしはこれでもう何年もあの人に逢う事が出来ない。この絶望感があんた達に理解できる⁈」
テレージアの怒りの声は、やがて少女の泣き声へと変わっていく。
「わたしだって好きで聖女なんかやっているわけではないのよ……。辞められる事なら今すぐにでも辞めたいわ」
そして両手で顔を覆った。
「あの人の傍にいつもいたいだけなの。そんな簡単な事がわたしには許されないのよ!」
「あの人を困らせたら、わたしは絶対あんた達を許さない!」
テレージアは涙を満たした瞳で、二人を睨みつけた。
しばらく車中は沈黙が続いた。
沿道の歓声と、車輪の音だけが馬車内にこもる。
「わたしはね、師匠に少しだけ愛されれば、それでいいんだ~」
レベッカが俯きながらボソッと語り始めた。
「わたしはね、聖女様やエジェリーのように美しくないし、バカだし……。魔術しか取り柄がないの」
「わたしが師匠の事が好きだと言っても、きっと笑われるわ」
「師匠の恋愛感情は、ほとんどが聖女様とエジェリーが占めているって事ぐらい、痛いほど解ってる。それでもね、ほんの少しだけは、わたしにも……もらえるんじゃないかって、期待しているの」
「ほんとバカよね、わたしって……」
そう語り終わった後、彼女のスカートの上には数滴の涙がこぼれ落ちた。
隣に座るエジェリーは、弱気な本音を見せたレベッカの横顔を、不思議そうに眺めていた。
それから時はどのくらい流れたのであろうか。
エジェリーも自らの本音を、なぜか吐露する。
「わたしは選ばれし聖女様でもないし、レベッカの様な一流の魔術士でもない。わたしは彼にとって、なんの役にも立たない普通の女の子なの」
「彼の傍にいる事が相応しくない事ぐらい、あなたに言われなくても、ちゃんとわかっているわ!」
エジェリーの視線はテレージアを突き刺す。
「それなのに彼を独占したいと思っている自分が、嫌で嫌で仕方がないのよ!」
最後に声を荒げたエジェリーも、やがて肩を震わせながら俯き、涙を落とした。
三人の乙女は、それぞれが思い悩んでいる事を、理解するには至ったようだ。
しかしすぐに打ち解け合えるにはおよそ程遠い、理不尽なわだかまりが存在しているのは事実であった。
そんな光景を静かに見守っていたローゼマリー。
――ノア様も罪なお方。こんなに純真な少女を三人も泣かせて。
――わたくしも、この娘たちの様に若かったら、きっと同じ想いに苦しんでいたのでしょうね……。
遥かセントレイシアへの旅路は、今、始まったばかりであった。