Scene-01 日比谷三角
「綾瀬杜様、ご苦労様です」
「ありがとう」
舞台からバックヤードに戻る。
スタッフたちへ適当に挨拶しながら、素っ気ない従業員通路を奥へ奥へと進んでいく。
背中に拍手が当たるけどアンコールに応えたことは一度もない。
商売で歌ってる訳じゃないしね……
最後に、小さなエレベーターへ乗り込んだ。
エレベーターのボタンを押す――押したいんだけど、残念ながら無い。
大正のエレベーターはもっとゴツイ。何もかもが。
扉の開け閉めからカーゴの移動、降りたい階での停止、諸々をすべて人が操作しないといけない。
目的階での停止がなかなか難しく、ズレすぎて飛び降りたこともある。
今日は幸い一発で止められた。
蛇腹の扉を開けて短い通路を抜けると、周囲に華やかさが戻ってくる。
日比谷三角の上階に入っている『東京ホテル』だ。
さりげなく現れたコンツェルジュが一礼するけど、必要とされていないことを察すると一礼とともに再び気配を消す。
そのままロビーの階段を登り、最上階の廊下を奥へと進んでいく。
お客にジロジロ見られてるような気がするけど、無視。
スウィートに続く八角形の廊下を進んでいく途中、ふと窓を覗き込んだ。
見下ろせば、舗装もされてない日比谷通り。
道の真ん中には路面電車の軌道が走っている。
向かいには修復された日比谷公園が、その奥にはJR……じゃない、そんなのまだない。確か省線だったかな。そんな感じの名前をした電車が、遠くのガードへ消えていく。
見上げれば青い空だけが広がって――
呼吸数回分くらいそうしていただろうか。無意識に溜息が漏れた。
「ここ以外に、行くところなんてないか……」
呟くと、奥にある部屋へ入る。
アールヌーボースタイル――鉄と硝子とジャポニズム形式にまとめられたスィートは、僕の個室だ。他に人の気配はない。
「はー、すっきりした!」
大声で歌うのは気持ちがいい。たまりに溜まったストレスが少し発散してくれる。
溜息を漏らしつつ高価な子供用ドレスを雑に脱ぎ捨てた。
靴も脱ぎ、トップを兼ねたサテンのシュミーズとガーター付きメリヤスだけになると、意匠を凝らした木枠のソファに両足を投げ出して座った。
それほど大きなサイズではないけど、僕が小さいのですっぽり埋まってしまう。
「くああぁ……っ!」
そのまま大きく伸びをした。
幼くて凸凹の少ない身体が滑らかに反り、繊細に震え――パタリと脱力する。
「……」
テーブルに放り出しているタブロイド誌の束をチラっとみた。
横書きは何故か右から左。
簡潔、明瞭、痛快をモットーとしているゴシップ新聞で、三面にある小さな記事が赤鉛筆で囲まれている。
『夜のビル街にて都度目撃されし、幽霊怪盗の正体はいかに――』
いかにも何もあるものか。
次に、部屋の隅に放り出してるボロけた鞄を見た。
一昨日壊された奴だ。
中身は取り出し、僕が協力している魔術結社に渡してある。そろそろ何か分かりそうなものだけど……
いまは待つしか無い。
下着姿で放心していると、足の間の影がするりと動いた。
黒猫だ。まだ子猫といった体格で、首にはお洒落なタイ付きカラーを付けている。
『なんて格好だ、瑛音』
黒猫が股の間で喋る。僕の相棒である、黒猫のニュート。
彼は《旧支配者》バーストの末裔とか何とか――
「変なところをのぞき込むな、ニュート!」
黒猫はこっちの抗議を無視すると、シュミーズの裾が絶対領域に作り出している淡い影の中を露骨にのぞき込んできた。
すとんと落ち込んだ影に隠された、狭くて広大な空間を――
猫が興味深げに何度も頷くのでジト目で睨んでやる。
「僕のパンツを見て面白い?」
『時代が大正に移る前、欧州にはカストラートと呼ばれる人たちがいた。高音域を生涯維持させる目的で少年のうちに去勢されたシンガーのことだが、知っているか?』
「切れとでも!? いくら《転生》した身体とはいえ、今はボクのだよ!」
そうだ、ついてる。
見た目が十歳ぐらいの身体なので、分かり難いけど!
股の間から太ももに移ったニュートが呵々、呵々と笑う。
『当時の音楽家たちが知れば、お前を去勢しようと群がったろう。男と看破できればだが』
ニュートが一度言葉を切った。
くっくっくと猫らしからぬ皮肉気な笑顔を浮かべる。
『その身体を作り出した《魔術師》イーフレイムは大変な変人だ。受け継がざるを得なかった瑛音には同情するとも』
「やかましい!」
『おいやめろ』
両足を畳んで足の間にニュートを押し込む。
そのまま胡座に移行した。
ニュートが前足で太ももをぺしぺし。ブレイクの合図だ。
「こっちはその変人と精神を《交換》されたせいで、令和から大正みたいな異世界に島流しだよ。早く元に戻してくれってイース本国に言えと何度も!」
イース……イースの大いなる種族!
宇宙がいまみたいに拡大して冷える前、様々な《法則》を体現する超存在が存在していた。通称は《旧支配者》。
イース人もその一柱で、特性は《時》の支配。
もっとも、他の《旧支配者》みたいに邪神っぽくはない。どっちかというと変な外星人という感じか。
実体のない精神体らしいけど。
そういう存在を笑い飛ばせていたのは、転生する前までだ。
はあ……
『ここは異世界というか、分岐したIF世界だな。日露戦争が日英露仏にプラス数カ国にまで発展した、もう一つの《大正時代》だ』
ニュートが戒めからするりと抜け、僕のお腹に背を擦り付ける。
シュミーズの端が大胆に捲れ上がった。
『それと――元の身体はもうない。何度も説明してきたが、お前はイーフレイムが仕掛けた《精神交換》という魔術のターゲットにされたのだ。イーフレイムが未来へタイムトラベルするための生け贄としてな』
「安心して、イーフレイムも恨んでるよ!」
なにしろ転生の魔術を使った張本人だ。
だけど……
『当人は虚空の彼方で《門にして鍵》に触れ、魔術的に四散したが。皮肉にも転生――精神的タイムトラベルに成功したのは、生け贄だった筈のお前だけだ』
そう、とっくに死んでる。
ただ死んだだけじゃなく、ヨグ=ソトースという旧支配者中のド支配者に激突して。
タイムトラベルには向いてなかったのかも知れない。
「でも、何か手は……」
『お前と《接触》したイース人たちが、何か考えてくれているのかも知れないが……答が出るまではまだ時間がかかろう。その間はこの大正で上手くやっていくしかない。お前もその身体自体は嫌ってないのだろう? ときどき風呂でこっそり悦に……おい待て、こっちは猫だぞ!』
「のぞくなー!!」
『猫に何をいう。飼い主のお風呂タイムを見張るのは、我らの種族的本能だ』
「普段は猫扱いするなと言ってるくせに……あと、君は相棒! 飼い主とか呼ばないでよ、気持ち悪い」
ひょいとニュートを解放する。
「――で、用件はなに? またタブロイド誌の記事でもあったのか、それとも今度は僕が記事になったとか」
《旧支配者》が絡む神話事件は、たまにゴシップ記事になることがある。
もちろん、誰も信じてはいないけど。
ニュート曰く、この時代のゴシップ記事は八十年代のニフティフォーラム、九十年代の2ちゃんねるに勝るとも劣らないとか。
どっちも知らないから、どういう意味かは分からない。
『わたし自身は結社のメンバーではないとあれ程……分かった、降参だ。まずその前に、この前はご苦労だった。イース人からも神託が来ている。曰く――あと一息だから、本の《死刑》を頑張れヨロシク=オネガイシマス』
「翻訳アプリ変えてって、言っておいて」
イース人は《時》を支配してるけど、直接の歴史改編を嫌がる。
だから各時代でエージェントを雇う。
この大正時代では僕とニュートというワケだ。
彼らの目的はただ一つ、『カブトムシは嫌』
意味はよく分からない。
ただ、同じ神託を受けたイース教団、魔術結社の人たちは人類救済と理解したらしい。何故に。
それ以来、結社とは共闘する仲。
発明されていたエアコンやシャワー、それに水洗トイレが使えるのも彼らのお陰だ。
ジブリみたいな原始生活を覚悟してただけに、とても助かってる。
『結社にも別件の神託が行っているはずだ。お前が依頼した資料の調査も進んでる筈で……ほら、さっそくだ』
それきり黙った。
正確にはにゃーとか、うにゃあとかは喋るんだけど、それだけだ。
どうしたものかと思案していると、扉が軽くノックされる。
「いるよー!」
答えてからふと自分がまだ下着姿だったことを思い出して、慌てて着替えに手を伸ばす――けど、ニュートの気まぐれで空を切った。
ニュートが悪いわけではないんだけど、ギリギリで間に合わない。
床に尻餅をついたのと、執事風のタキシードを着た長髪の少年が現れたのは同時だった。
鍵? 大正時代は何もかもが手動だよ!
少年は惨状を一瞥して素早く扉を閉じると、必要最低限の動作にあらん限りの敬意を込めて礼をした。