第5話 揺れる身体
玄関、洋間、和室、床の間、押し入れ、茶の間、納戸、物置、キッチン、トイレ、洗面所、浴室、2階の子供部屋、クローゼット、屋根裏部屋……その他諸々。
薄暗さに怯まず、蒸し暑さにへこたれず、大半の罠にも苛まれず、太郎さんは家中を余すところなく見て回り終えました。
結果から言えば、昔日より抱き続けて来た私の理想は実現しませんでした。
見目麗しいお客様を己が手の平の上で巧みに翻弄し続ける? いいえ、振り回されたのは、むしろこちらの方です。
ですが……もういいのです。目論見を完全に打ち砕かれてしまった私ですが、不満はさほど大きくありません。
『太郎さんではなく、別の誰かが来てくれればよかったのに』などとは、まったく思いません。
太郎さんでよかったのです。
私を見てくれて、お喋りもしてくれて、気遣ってすらくれる太郎さん。あまつさえ、太郎さんはこの潤いのない廃屋から私を連れ出すと約束してくれたのです。
新生活のスタートに胸が高鳴ります。
「大方の調査は完了っと。最後に本命のキッチンだな」
「…………え?」
もはや見るべきところも、発動可能な罠もなし。これより慣れ親しんだ廃屋を後にし、私は太郎さんに手を引かれて久方ぶりに『外』へ。多くの人々が行き交う『街中』へ。
虚空にふわふわ浮かび、ウキウキと笑みを浮かべていた私を尻目に、太郎さんはすたすたとキッチンに向けて歩いていきます。
何故、今さらキッチンへ?
当然キッチン内にも太郎さんは視線を巡らせています。その際は特に何も仰っておりませんでしたし、さして不可解そうな面持ちにもなってはいませんでした。
包丁やガラスのコップを始め、置き去りにされた調理器具や食器が多かったため、キッチン内で騒ぎを起こすのは危ういと判断し、私も大がかりなトラップは設置しませんでした。万が一にも、乙女の柔肌を傷つけるわけには参りませんもの。
ゆえにキッチンはこの廃屋内において最もあっさりと通過出来た区画です。
キッチンが本命? 疑問を膨らませつつ、私は太郎さんの背を追います。
苦もなくキッチンに到着した太朗さんは、特に注目すべき点などない極めて普通の床へと視線を落としました。
「葉月、この床をどう思う?」
「どうと聞かれましても……」
重厚感あるチークなフローリングです。いくらかの汚れや傷を見つける事が出来ますが、血飛沫や血文字といったホラー要素は見受けられません。
ただの床。それ以外に、どんな感想を抱けばいいのでしょうか。
「こっちに来て、もっとよく見てみろ」
出入り口付近に浮かんできょとんとしていた私に向けて、太郎さんは手招きします。
近づく必要があるのでしょうか? いいえ、ありません。キッチンの床に注目するくらい、ここからでも十分に可能です。わざわざ寄るまでもありません。
…………?
何故、私は素直に頷いてすぐさま前進しないのでしょう? せっかく太郎さんが私を呼んでくださっているというのに。
奇妙な感覚。
呼ばれて嬉しい。
けれど、動けない。進みたくない。
太郎さんへと近寄りたい。というか、四六時中ワケもなく密着していたいくらいです。
しかし、寄りたくない。太郎さんが今立っている場所からは出来る限り遠ざかっておきたい。
「鈿碼も気づいてなかったし、葉月にも見えてない。俺にだけ見えてる」
ぽつりと呟き、太郎さんはキッチンの床へと鈿碼さんの切っ先を這わせていきます。ひどくゆるゆると、静かに。
何とも不思議なもので、太郎さんが正方形を描き終えるやいなや、何もなかったはずのそこには床下収納用の蓋が出現しました。
同時に近づきたくないという感覚も私の中から散っていきます。
「人払いと隠蔽の重ね掛け。俺みたくかなり眼がよくないと、これは見つけられない」
つまり、誰もが至極自然に『ここには何もありませんから、さっさと他の場所に行きましょう』と考えさせられるという事でしょうか?
ただし隠蔽効果に惑わされず、床下収納がある事に気づいている太郎さんにとっては妖しさ満点。何かあると声高に叫んでいるようなもの。
太郎さんが慎重に蓋を外すと、そこには貯蔵用の缶詰やボトルの類いではなく、縄梯子がありました。
床下の収納スペースは奈落と化しており、底は闇に包まれて判然としません。
「空間が拡張されてる。マジで当たりかな、これは」
バックパックから取り出した懐中電灯で、太郎さんが『地下』に光を射し込ませます。
長年に渡り暮らし続けたこの廃屋にこんな空間があっただなんて、私は知りませんでした。
この縄梯子を下りた先には、何があるのでしょう?
不可解で、不気味です。
既に死した地縛霊であるというのに、小さくない恐怖がこみ上げてきます。
初めで味わう感覚。独りでこの廃屋に入り込んだあの日ですら、こんな心地にはなりませんでした。
もし、太郎さんの想定が的中していたなら?
もしも、ここが大蛇なる妖しい老人の根城のひとつであったなら?
私は…………何なのでしょう?
私は本当に自業自得な地縛霊なのでしょうか?
自分の本名が思い出せません。
親の顔すら忘れ去っています。
思い出せないだけ? 忘れているだけ? 本当に?
実は……私には最初から何もなかったり……?
多少、思うところがなくもないですが、過去なんてどうでもいいですよね!
大切なのは今この瞬間であり、その後に続く未来です。
そしておっぱい!
今、私の傍には太郎さんがいてくださるのですから、それでよしです!
…………………………本当に?
そもそも何故、私は同性の身体に、その胸部に、こうも強く執着しているのでしょう?
私自身が生まれ持った性なのでしょうか?
それとも……後天的に植え付けられたもの? 私はいつからこれほどまでのおっぱい好きに?
思案を中断。
このまま考え込んではゲシュタルト崩壊を引き起こしかねない気がします。
今は深く考えないようにしましょう。
「太郎さん、このまま行くんですか? 何かあるかもって分かっただけでいいんじゃないですか?」
単独行動は危険です。ここは一時撤退し、お仲間を引き連れて突入するべきではないでしょうか?
「ここで帰っても……十分な成果ですって、褒めてもらえるとも思う。後の事は頼りになる大人たちが対処してくれるはずだ。俺なんかよりずっと上手く、手早く」
しかし、太郎さんには退却する気などさらさらないようです。その眼差しは地の底を見据え、鈿碼さんを握る手の平にもより力が注がれています。
「俺は成長しなきゃいけない。現状を脱するために……自分の殻を破るだけの経験が必要なんだ」
その意気込みは青臭くも尊いものなのだと思います。
ですが、高みばかりを見つめ過ぎた結果、思わぬところで蹴躓き、転んでしまいそうで……ヒヤヒヤします。
若者が戦果を求めて猪突猛進するって、物語的には失敗フラグです。夢は叶いません。
私がよく知る空間内であれば大抵の失敗は微笑ましく見守れそうですが、その先は完全なる未知。命を落とす可能性すらあり得ます。
「安全第一ですよ? 命あっての物種っていうじゃないですか」
「分かってる。でも、俺は行くよ。心配してくれてありがとな」
「そんなに生き急がなくても……」
「そんなに猶予は残ってないんだよ、俺には」
ようやく私へと視線を戻した太郎さんは、苦味を多く含む弱々しい笑みを浮かべます。
「俺の彼女は退魔の名家のお嬢様でさ? そして俺はその娘の最有力婿候補になった。ありがたい事に、ご両親の覚えもかなりめでたい感じだった」
「でも……太郎さんは今、女の子」
「その通り。婿候補として今の俺は不適格極まりない。あっ、別に急に素っ気ない態度を取られてるとか、そんな事は全然ないんだ。むしろ皆すっげぇ優しくしてくれてる。それこそ、本当の家族みたいに」
御家も太郎さんの事情や御息女の気持ちをよくよく理解し、可能な限りの配慮したくは思っているのでしょう。
しかし御家は恙なき存続のために、時として非情な決断を下す必要があります。
太郎さんが後継ぎを生み出せない状態にあるのならば、きちんと事に及べる男性を別途用立てなくてはならないのです。
『私が本当に愛してるのは貴方だけ。でもそれはそれとして子供は絶対に産まなくちゃいけないから、ちょっと親が決めた男の人と子作りしてくるわね。私、本当は……君との赤ちゃんが欲しかったなぁ』なんて愛する人に告げられるのはキッツいですよね。
しかしまぁ、後継をすこぶる重視する旧家に生まれ落ちたからこそ、太郎さんの彼女さんはハーレム展開にも理解を示すのでしょう。
正室や側室や大奥など、戦国大名じみた単語にも馴染みが深い家風であるはず。
太郎さんが男のままでさえあれば、若きリビドーを心赴くまま開放して構わない極楽な環境だったのでしょうけれど……人生、常に順風満帆とはいかないものですね。
「そのうちきっとどうにかなるって暢気に構えてたら、あっという間にタイムリミットが来て後悔する」
「明日から頑張る。来年の夏までには絶対に痩せる。そういって本当にダイエットを完遂しちゃう人って、あんまりいませんもんね」
「だろ? だから、今だけちょっと生き急ぐ。少しでも現場に出て、経験積んで、成長出来るように頑張るんだ」
個人的に太郎さんには女の子のままでいて欲しいのですが、恋人さんを他の男に寝取られて憔悴している横顔は見たくないです。
悩ましいところですね、とっても。
結局、私は太郎さんを応援する事にしました。覚悟を固めて奮起している太郎さんを見て、足を引っ張ってやろうなどとは到底思えません。
「頑張ってください、太郎さん。でも、無理はし過ぎないでくださいね? 頑張るのは心と身体を壊さない程度に、です」
「はは、ありがとな。うん、気をつけるよ」
私の声援を受け、太郎さんの面が綻びます。
気合は入っている。しかし思い詰め過ぎてはいない。そんな程よい心持ちとなってくれたようです。
「じゃあ、行くか」
太郎さんは鈿碼さんを逆手で持ち、ライトを咥えてから縄梯子を掴みます。
黒く細長いサバイバル特化であるらしい、武骨なハンディライトを咥える巨乳美少女。
本人にはまったくそんなつもりがない点も、エロティックさを深めています。
……って、もう少し私も気を張りつめませんとね。大した事は出来ないのですから、せめて周辺の警戒くらいは頑張りませんと。
そうして降り着いた地の底で太郎さんを待っていたモノは、猟銃を手にしたマネキンでした。
動かないはずのその指先が、躊躇なく引き金を引きます。
「がっ!?」
乾いた轟音が、太郎さんがライトで射した先から響きました。太郎さんの身体が揺れました。
「ぁぎっ!?」
また、発砲音。
太郎さんはなおも散弾を浴びます。
ライトが落ちます。鈿碼さんも落とされます。太郎さんの身体が一層揺れます。
私は、何も出来ませんでした。