第2話 自己紹介
私は『何も知らない孤独な地縛霊』として語れる全てを、愛しの女神様にお伝えしました。
嘘は吐きません。
実際どうして自分が地縛霊になれたのかなど、我が事ながら分かっていない事に満ちています。
生きている時は気づかなかっただけで、世界には意外と多くの幽霊が居座っていたり、彷徨っていたりするものなのでしょうか?
「どうせなら地縛霊じゃなくて、守護霊になりたかったです」
「……そうだな。それなら、家族を見守る事も出来る」
彼女は孤独な私に同情してくれたようで、優美な細面をいくらか曇らせます。ちょっとした陰りが浮かぶ横顔も、そこはかとない色気があっていいですね。
あー、好き。
「とりあえず、こっちも自己紹介をしなきゃだよな。俺の名前は―――」
彼女がにこやかに名乗り始めた途端、かつんと何か硬いものが床を叩く音が響き渡りました。
それは彼女の腰のベルトから吊り下げている鞘の端が勝手に上下した事によって生み出された音でした。
動いていた唇が再び閉ざされます。刹那の逡巡。まるで自身の隣に座す家庭教師にノートの端を軽く叩かれ、計算式の誤りを指摘された事に気づいた生徒のごとき反応です。
「あー……分かったよ」
刀の柄をそっと撫で、次いで彼女はやれやれと肩を軽く竦めてから、私を見つめ直します。逡巡が失せた代わりに、かすかな照れが面に浮かびます。私の記憶にしか残せない事が悔やまれる愛らしさです。
「改めまして、俺の名前はイキリアクメ太郎だ」
沈黙。
私も、目の前の自称イキリアクメ太郎さんも、口を動かしません。
じぃ~~~っと見つめていると、彼女のほっぺたの赤味がより深まっていきます。
「どう考えても、今は下ネタを挟み込むタイミングではなかったと思うのですが?」
「……ち、違うんだ。これは俺の退魔人としての正式名称なんだ。正式に登録もされてる。そしてこの刀はデンマだ」
「もう一度確認させて頂きますけれど、断じてふざけているわけではないのですね?」
「マジだ。漢字では『夷斬悪滅太郎』と『鈿碼』って書く」
イキリアクメ太郎さんは虚空にぴんと立てた人差し指を舞わせて、己が名前を認めて見せます。
「この場合の夷は蝦夷とか夷狄じゃなくて、単純に脅威を意味する。守るべき現世に襲来する討ち祓うべきモノたちって事だ。さらに夷って字には『平定する』とか『穏やかにする』って意味も含まれる。つまり霊刀を振るい、外敵を斬り祓い、滅しきる。そんな日ノ本の快男児となれって願いがこめられた名前なんだよ。そして鈿碼だけど、鈿は青貝細工の事で、碼はメノウを表わす字だ。えっちぃ意味は全然ない」
言われて見れば、鞘には実に細かく煌びやかな装飾が施されています。まるで宝石を散りばめたかのような色合いですが、これが青貝によるものなのでしょう。
「ちょっと妙に思えるかもだけど、そ―ゆーもんだと納得してくれ。そもそも命名者は俺じゃない。この鈿碼が作られたのなんて、鎌倉時代だそうだからな」
「由緒ある名刀なのですね」
「退魔霊刀夜狩悪滅極太刀鈿碼。刀匠として名高い波高島忠光の傑作だ」
本当に他意はなかったのでしょうか? 実はタイムスリップした現代人が悪ノリで命名してません? そう思うも、告げたところで詮無いので頷いておきます。
「…………なるほど。それでは太郎さんとお呼びしてもよろしいですか? 長いですし」
「うん、今は退魔人として活動中だしな。あっ、退魔人ってのは『魔を退ける人』って書く。そのまんまだな。幽霊やら妖怪やらを倒して街の平穏を守るヒーローみたいなもんだ」
「地縛霊である私とこんな風ににこやかに会話している事がお仲間さんにバレちゃったら、太郎さんは何かしらお咎めを受けてしまうのでは?」
「何も問題ないから心配すんな。人外なら何でも斬るわけじゃない。それに今このお喋りはサボってるわけじゃなくて、情報収集の一環だ」
まぁ、私には太郎さんに有用な情報を渡す気なんて、まったくないのですけれども。
(ふむ。がっつかなくて正解でしたね)
飢えた犬が涎を垂らして餌に喰らいつくがごとく、勢いよく飛び出して抱きつきにかかっていたならば……太郎さんは反射的に居合斬りを放ち、こちらを一文字に分断していたかもしれません。
そして私は『正気を失い、見境なく生者に襲い掛かる亡霊』などと記録されたのでしょう。本当は至極善良なる地縛霊でしかないというのに。
「急に考え込んで、どうしたんだ? 何か思い出せそうか?」
「いえ……単純に女の子に『太郎』というのはいかがなものかと、ちょっぴり気になりまして」
「俺は男だぞ?」
「………………は?」
2度目の沈黙の後、私は疑問に満ちた一音を零すとともに、太郎さんの丸いお胸をもにゅぅっと揉みにかかります。
「んっ! ぁぅっ♡」
今の私には実体的な手はないため、この揉みしだきもテレキネシスによるもの。とはいえ、廊下の奥から玄関方面へ意識と力を集中させるよりも労力は少なく済み、また感覚も鮮明です。
それこそごく普通に五指を蠢かせるのと同じ感覚で、私は太郎さんの張りがありつつもすこぶる柔らかな魅惑の丸みを味わう事が可能です。
背後から差し込まれた手の平に胸を揉まれてびっくりする太郎さんを、真正面でじっくりと鑑賞する。これは幽霊ならではですねぇ。
「ぅあ、んっ♡ くぅ、はぅっ、ん、あ♡」
私が感じる、この素晴らしい柔らかさ。
人工的に後付されたものではなく、間違いなく天然モノ!
しかも感度は最高。ちょこっと弄っただけなのに、ぷるぷるの唇からは火照った吐息が漏れ始めます。
男の子?
いいえ、女の子です。
しかも『えっちな漫画に登場するために生まれ落ちたような女の子』って感じです。下衆な輩に襲われ、手荒に扱われようとも、すぐさま『悔しい! でも感じちゃう♡』とかモノローグして、あひんあひん嬌声を張り上げまくりそうな気がします。現にだんだんと瞳も蕩け始めて、完全にメスの顔に移り変わりつつありますよ、太郎さん。
「男の子らしさ、皆無ですけれど?」
「お、俺は、男だ。てか、早く手を除けてくれ。ノータイムでいきなり胸に触んなよ。少しは躊躇しろよ」
「すみません。長年独りだったので、ちょっと他者との距離感が曖昧で」
名残惜しいものの、2つの膨らみから手を離し――――――代わりとばかりに、私は太郎さんの股間を軽く叩いてみました。パンパンっと。
「んひぅっ♡ ちょ、お、おまっ!? くぅ♡」
これはセクハラではありません。相手の主張の真偽を判断するという必要性に駆られて実施したボディチェックです。
ナニかしらの物体が隠されている様子はありません。私はちょっと震えながら『た、タマがないです。チンも……』とでも呟くべきでしょうか?
「精神的にはともかくとして、肉体的には紛う事なく女の子ですよね」
「は、はぁはぁ、はふっ……いや、だから、心身ともに、俺は男なの。もちろん、戸籍上も。今は、呪いを受けて一時的に女っぽくなってるだけっていうか?」
「それってお湯を浴びたら男に戻ったりしません?」
「え? 何故にお湯? ど―ゆー発想だ? 禊的な観点か? 残念だけど戻んないぞ。風呂は普通に入ってるしな」
ごく自然に返答してくる太郎さんに、私はちょっとしたジェネレーションギャップを感じます。
そうですか、通じませんか。
私はずーっと死んでましたし? 見た目こそ同年代ですけれど、私と太郎さんの間には大きな世代格差が横たわっているのでしょう。納得せざるを得ません。
というか……もしかすると私がお慕いしていたお姉様方にも、今ではもう太郎さんのような年頃のお子さんがいてもおかしくなかったり?
お姉様方はどのような人と結ばれたのでしょう?
私が憧れた方々、あるいは私を慕ってくれた後輩たちが既に一人前となり、新たな生命を育む。それは当たり前の展開なのでしょうけれども、何やら……ちょっと複雑な気分です。
私は独りぼっち。
この廃墟とともに、世界の流れから取り残された亡霊。
…………寂しいものですね。
とはいえ、自分の知り合いが恋愛とも結婚とも延々無縁のまま妙な方向に拗れていた場合、途轍もなく居た堪れなくなってしまいますので、是非とも全員に思う存分日々をエンジョイしていて欲しいものだと思います。
「ところで、君の事はなんて呼べばいい?」
「え? あっ……」
問いかけられて、ようやく気づきます。
思い出せません。
私は……何と言う名前だったのでしょう?
16歳。学生。女子バスケット部。この廃屋に足を踏み入れたのは8月20日。
思い出せる事は多々あります。ただし、思い出せない事も多々あります。
誕生日は? 実家の住所は? 両親の名前は? 通っていた学校名は? クラスメイトや部員の名前は?
仲良しメンバーの名前も……思い出せません。慕っていた先輩や、気の置けない同級生や、可愛がっていた後輩がいた事は間違いないはずなのですが。
父と母の顔も……声も……何も思い出せません。どうして今までまったく気にならなかったのでしょう?
「私は、誰なんでしょうか? 分かりません。忘れてしまったみたいです」
「……そっか」
「とりあえず仮名を考えましょう。名無しだと何かと不便でしょうから」
「い、意外とあっけらかんとしてるな?」
16年間、毎日顔を合わせていたはずの家族に関してや、日々用いていたはずの名前が不明であるとの事実には多少のショックを受けました。
しかし、仕方のない事です。私には脳も神経もないのです。今こうして思考し、太郎さんとつつがなく会話出来ているだけでも御の字というもの。
私の人生のロスタイムは、あとどのくらい残されているのでしょう?
わずかだろうと、たっぷりだろうと、うじうじと落ち込んで過ごしていてはもったいない事この上なしです。
せっかく活動出来ているのですから、最期まで明るく楽しく元気に過ごしましょう。
『我思う、ゆえに我あり』です。
大切な事は、私の目の前に巨乳美少女の太郎さんがいるという事。
本当は男? 些細な事です。全てにおいて最高品質のおっぱいが今ここにある。ならばよし、全てよしです。
実は『自分は男だったという偽の記憶を植え付けられてしまっている女の子』との可能性も、無きにしも非ずですし?
「さて、どんな名前にしましょう? 太朗さん、何かアイディアあります?」
「う~ん、俺もネーミングセンスがある方じゃないしなぁ。いきなり聞かれても困る」
「じゃあ……天気とか季節とか、その辺から取りましょうか。あっ、今日って何日ですか?」
「8月20日だ」
――――――奇しくも私の命日です。やはり私たちの出会いは運命なのでは?
「はちがつ、はつか。8月は葉月ですし……初鹿葉月とでも名乗りましょうか。ふふっ、旧暦の呼び方は覚えているのに自分の名前は忘れちゃうなんて、私も結構馬鹿ですね。へっぽこな幽霊ですけれど、どうかよろしくお願いします、太郎さん」
「ああ。よろしくな、葉月」
太郎さんが首を垂れると、間を置かず鈿碼さんの柄も勝手にいくらか下がりました。わざわざ挨拶してくれたのでしょうか? 私も改めて2人に向けて頭を下げ返します。
「どこまで話したっけ? いや、まだ全然か。えーっと、俺が今日ここに来た理由は、ちょっとした調査をするためだ。人目に付きにくい場所にはろくでもないヤツが住み着いて、よからぬ事を企みやすいからな」
「騒動の芽は早目に摘み取るに限るというわけですね」
太郎さんが草の根分けてでも見つけ出し、人知れず討ち滅ぼしておくべき問題児は、今まさに目の前にいるのですけれども。
死体を隠蔽中の犯人と捜査中の名探偵が仲良く歓談しているかのような状況ではないですかね、これは?
かなりのカオスです。
「葉月はこの家の奥に入った事は?」
「いえ、私は玄関やこの廊下の辺りを漂っていましたから……」
『一度も奥に進んだ事はありません。詳しい事は何も分かりません』とはっきり告げては嘘になってしまうので、言葉の後半は申し訳なさげに視線を伏せる事で濁しておきます。
心惹かれる人には出来るだけ嘘をつきたくはないという乙女心。
しかし太郎さんにえっちぃ罠に引っかかって欲しいという下心。
どちらも嘘偽りない本心です。
「何でここにいるのかも分からないんだよな? 葉月がここに囚われている理由は、奥を調べれば分かるかもしれない」
太郎さんの情熱的にして純真な眼差しに、私は心ときめくとともにいくばくかの罪悪感を覚えました。
こんなにも優しく正義感溢れる人を我欲から奈落に突き落とし、無様を晒させようとするだなんて……なんて度し難いのでしょう。
でもでも、凛々しい人が『くっ!』って悔しげに呻いたり、我慢しきれず『きゃぅ♡』って声を漏らしちゃうのって、すごくイイですよね?
「どうか、お気をつけて」
私は改心する事なく、素知らぬ顔で太郎さんに告げました。