08 嫁
鳴海とマヤ夫人が帰った後、陽介は冴と二人でドライブに出かけた。ドライブとか買い物とか散歩とか、そんな緩い目的でのんびりと二人の時間を楽しむのが、最近の二人の週末の常だった。鳴海がきて若干予定をかきまわされたが、1時過ぎには、二人はもういつもどおりの日課にもどっていた。
エリアを出てすぐのあたりにある、行楽客もぼちぼち多い山に車で登った。
7合目あたりのドライブコース沿いに、ビーチパラソルほどの大きさの小さな紫外線反射ドームがぽこぽこ並んでいる展望席のようなところがあって、中はテーブルもある。飲み物は自動販売機だが、山腹を這い登ってくる上昇気流が喩えようもなく美味いので、陽介たちはよくここに肺を洗濯しにくる。山はすっかり紅葉していて、赤や黄色の彩りが、着物の柄のようだった。…ここにもきっと、山の姫が住んでいるに違いない…そんな気持ちにさせる、艶やかな眺めだった。
鳴海が帰ってから、冴はずっと考え込んでいるようすだった。
陽介は冴の分も飲み物を買い、景色のいい席を選んで座った。
陽介のあとに席につきながら、冴は言った。
「…陽さん、さっきの話…」
「ん?」
「…俺はあまり賛成しないです。」
陽介は飲み物を冴に一つ渡し、自分の分は自分でプシュっとあけた。
オレンジスカッシュの香りが、夏の名残りのように広がった。
「…どうして。」
「…あんな町中でカーチェイスするようなやつ…。どんなことがあるかわからないですよ。」
陽介は微笑んだ。
「…冴は過保護だな。俺のこと真綿でくるんでるだろ。」
「…倒れかかったのはだれですか。」
「俺だけど…」
「…」
冴は黙って飲み物を開けている。
「…冴、別に…心配するようなことは、おこらないと思うよ。だって…まあ、ちょっと人を一人送り込むだけだし…。」
冴が猜疑心に満ちた目で見た。
「…あっ、信じてないな。」
「…あなたはお人好しなんですよ。ほっときゃいいのに。」
「俺のどこがお人良しだよ。」
「…親父とかかわり合いになったり、ミズモリに俺をおしつけられたり、お母さんのつくりすぎた料理を全部たべてやったり、先生の策にはまって栄養失調になってやったり。今度はP-1にあの得体のしれない物語り男を紹介ですか?」
冴にそう言われると、なんとなく、そうなのかもしれない、という気分になった。…だからといってとりやめるわけにもいかない。
「…まあ、得体はしれないが…でもあの人は、けっこう身元のしっかりした人ではあるんだよ。有名人なんだ。」
「どこがどうしっかりしてるんですか。」
「だから、経済の世界ではみんながしってる有名人なんだって。…冴はカズが嫌いなの?」
「…あの男、あんたの知合いだけじゃなく、百合子さんからもアプローチしてたんですよ?」
「まあ、仕方ないじゃない、キリは機嫌が悪かったんだと思うよ。俺が直人さんとこ行き始めた頃から、随分怖かったから。…今のお前みたいに。」
陽介がそういうと、冴は少し気分を害したようだった。
「…陽さん、あのね…」
「それに俺は別にお人好しで直人さんやお前と時間すごしてきたわけじゃないから。…ものずきっていうんならともかく、お人好しってなんなんだよ。」
「…」
冴はメロンソーダを飲んで回答を拒否した。
「…冴、いつきのことは話したことがなかったと思うけど…」陽介は言った。「いつきは、一時期仲がよかった友達なんだ。まあ、いろいろと忙しいから、お互い、あんまり四六時中遊んでたってわけじゃないんだけど。
…いつきにはあれはすごくいい話だと思うんだ。…だから、なんとか回してやりたいんだよ。
俺自身は正直、例のドームにかかわりあいになる気はないよ。
…だから最悪でもP-1詣出1~2回程度だと思う。それ以上は、俺も持ち札ないし。」
「…カズのほうは、多分まだ隠し札があると思う。」
「…そうだね。でもいいじゃないか。…彼は、冒険家志願なんだから。…俺そういうの好きだよ。応援してやりたいじゃない。」
「ばかばかしい。何が冒険家ですか。あいつはかなりの策略家ですよ。」
「それはわかるよ。でも、自分のやりたいことを、他人から馬鹿にされてでもやり抜こうとしているんだから、いろいろ工夫せざるをえないって部分もあると思うよ。」
「…俺は…陽さんは利用されていると思う。」
「…なんで?」
「…」
「…しててもいいよ別に。痛くも痒くもないし。」
「…奴が、あなたの利点は何一つ言わなかったの、わかってるんですか?」
「わかってるよ。だからキリの紹介が必要だったんだろう。そして、だからこそキリも紹介しなかったんだよ。…祈りが命がけでしかとおらなかったのは、妥当性が低いからさ。」
「…」
冴は、親父とあんたの仲を妬いた男なら、考えたことは一般的な利害だけじゃないだろ、という顔をしたが、口にはしなかった。そのかわり、別のことをいった。
「…その陽さんのお友達の女性のことですが、…鳴海はその子のことも、所詮利用するだけだと思います。…前のときだってそうだったわけでしょう。恩返しするような言い方をしていたけれど、彼女に本当になにか利があるとはおもえない。…ただ辛い思いをして終わりかもしれない。…仕事が終わったあと、彼女には帰る場所がなくなるかもしれない。あれは裏切りをそそのかすのと同じですよ。」
「…なんでそんな考え方するの?…冴は誰かに利用されてるの?」
「…そうじゃありません…ただ…」
「ただ…?」
陽介が首をかしげると、冴は言った。
「…陽さんみたいに、裏がない人間ばかりじゃないですよ。」
陽介は笑ってオレンジスカッシュを飲んだ。
「…別に俺も裏がないわけじゃないかもしれないよ、冴。」
「…あるなら話してください。」
「…俺は高3のときに当時の恋人と友人を、P-1に没収されたっきりなんだ。」
冴は黙って陽介の顔を見た。
「…そんでその二人は向うで仲良くやってるらしいわけ。」
さすがに冴も驚いたようだった。
「…それは…」
「だろ?…連中、俺に挨拶くらいいれてもいいんじゃね?…ていうか、俺は、言い訳してほしいのよ。…そうしたら、責められるじゃん。それで謝ってくれれば、バカヤロ-って言って許せるじゃん。」
「…」
「…別に、いいんだよ、俺にはあの頃は直人さんがいてくれたし、今は冴がいるし…いいんだけど…こういう終り方はないだろって思うの。なんか、決着をつけておきたいんだよ。」
「…」
「…俺は多分、もっと本気で、捨て身くらいの気合でやれば、去年のうちにだって、ほんとはラウールに会いにいって、いつきに会わせろってごねるくらいはできたと思うんだ。…だけど…自分のためにそこまでやる気になれなかった。なんか馬鹿みたいだし…そうして会ったところで修羅場になるだけだから…みじめじゃない?
だけど、カズの用事ってことなら、大義名分がたつじゃない。それがどんだけ下らなくても俺がしったことじゃないし。俺は言い訳さえあればそれでいいんだ。」
「…P-1に行きたいんですね。」
「…うん。」
冴は視線を落として軽くうなづいた。
「…陽さんがそういう気持ちなら、それは仕方ないと思います。」
「…うん…ありがとう、冴。…でも行くかどうかはまだわからない。プランによる。」
冴はうなづいた。
「そうですね。わかりました。…ただ、突然遠距離になってそのまま終わったカレがいたというのは、俺は今初耳なんですが…。」
陽介はそうだった、と思った。
「…そうだね、ごめん、黙ってて…。」
「…いや、いろいろ過去があるのは仕方がないです、あなたのほうが俺より2年余計に生きてるんですから…ただ…」
冴は言い淀んだ。
「ただ?」
「…万が一ですよ、陽さん、…そのカレのほうでは、まったく別れた気がなかったら、どうなるんでしょうか…。」
「…だって俺いつきとハルキが仲良さそうにしてんの、テレビのニュース画面でたまたまみたんだもん。…直人さんも見てたよ。」
「…親父がみてたんですね、一緒に。」
「見てたよ。」
「…そのとき親父、なんか言いませんでしたか?」
「…元カレ、きみの女とデキたな、って。」
やっぱり、という顔で、冴が冷たい飲み物容器を陽介の額にぺたっと押し付けた。
「…親父に騙されてないですか?」
…頭を冷やして考えろ、という意味なのだろうか。陽介はなるべくそうして考えた。
「…いや、別に、言われるまでもなく、俺も語弊を調整…というか、直人さん的言い回しに翻訳すれば、そういう出来事だなと思っていたから…。」
「でも親父がそう言わなかったら、一縷の望みをもっていたんじゃないですか?…よくよく考えるに、そのころの親父を客観的に評価するなら、百戦錬磨の中年間男という立場になるわけですが。そしてあなたの元カレは、奴の前にまんまと隙をさらしてたわけで…。おそらくあの男はここ一番のとき恋敵に情けはかけませんよ。むしろ今だとばかりに排除しようとするでしょうね。」
「…」
…画面でキスしていたわけでないのはたしかだ。ただ、喩えようもなく親密な感じだったというだけで…。
「…陽さん、誤解しないで下さいね。俺は別に、親父をけなしてあなたの機嫌を損ねたいわけじゃありません。あなたが親父のことを大切にして下さったお気持ちは、俺なりに一応わかってはいるつもりですし、それなりに感謝していなくもないんです。
…だから、そうじゃなくて、俺が考えてるのは、…あなたの超絶プラトニックな元カノなり、突然悲劇的にさらわれた元カレなりがやってきて、あんたと俺をかこんであなたの考えとはまったく逆の修羅場になることなんですが。…ほっといたほうがいいと思うのはそれがあるからなんですが。」
…それは考えていなかった。だが…
「…まさか、そんなこと絶対にないよ。」
「…じゃあ、俺も保身のために一策献じさせてもらいましょうか。」
「え…」
「…あなたがいうところの身元のしっかりした有名人で、超絶金持ちの鳴海の御隠居に言いなさい。『求婚しろ』って。そうすればラウールとやらを騙す必要もなく、そして彼女を返す必要もなくなるから。
…その人があなたのカノジョでなく友達だというなら、あなたはまったくそれでかまわないはずだ。…これで万一の時、俺のほうは修羅場る相手を、あんたのさらわれた元カレ一人にしぼれる。
彼女だって、ぎすぎすしていた15のときに水着やボールをプレゼントしてくれて、泳ぎを教えてくれた虫も殺せぬ二枚目のカレが、自分をずっと探していてくれたと知れば、いたく感動するだろう。ましてその相手が、その年齢ではありえないほどの大富豪であれば。…ガラスの靴の王子様だ。トロピカルパンチ大盛り食べ放題だ。
…彼女も男が『決まれ』ば、ある程度守りに入らざるをえない、あんたのことは実質はどうあれ友人に分類して立場を守るだろう。…鳴海カズくんへの愛はあとからついてくる。どうせ愛なんてしろものは育てなきゃ出てこない。はじめからあるわけじゃないです。
あの男も利用するならそれなりの責任をとるべきですよ。」
陽介は別の意味で青ざめた。そして首を左右にふった。
「い…いやだ、そんなおそろしいこと、俺はカズに言えない。あの恐ろしい神みたいな生き物を、…嫁?! …世界中のいかなる男でも、それは無理だ!」
「無理じゃない。俺でも嫁になれたんだ。女なら楽勝だ。」
陽介が言ったのは、「なるほう」じゃなくて「するほう」の問題だったのだが…冴にこれを言われると、さすがに返す言葉がなかった。