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冒険少年  作者: 一倉弓乃
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05 冒険少年

「年季明け」した母が今どこに住んでいるのか、陽介は知らされていない。「わしの女に何のようじゃ」と父に暗に拒まれて以来、聞く気がなくなった。  

 10匹以上の猫をかかえているので、半端な場所ではないはずだったが…それ以上は見当もつかなかった。

 母は今も父から「年金」をもらっているらしいが、一応その他に「退職金」として、弾丸のように突っ走る真っ赤っかの小さな新車をもらったそうだ。母はそれがたいそうお気に入りらしい。赤い車に似合うように、いつもブルーのデニムをはいて、サンダル履きで颯爽とやってくる。そうしていると、母は活動的で勇気があって若々しく攻撃的に見えた。和服の母からは考えられない姿だった。…なるほど、母が所帯化するのを父がいやがったのはこのあたりにあったのだ。

 持参したバスケットにはそうせきくんやぱすた、それに新顔のアサガオという白黒猫がはいっていた。頭の柄がアサガオに似ている猫だった。アサガオは人懐っこく、陽介の足にすりすりし、冴の足にすりすりし、満足した後は食卓の上にごてっと横になっていた。

「…おかあさん、漱石君だけでもおいてってください。」

 ごろごろと陽介に甘える漱石君をふかふかと愛撫して、陽介は猫たちを見回して言った。

「駄目ですよ。猫がいると旅行できないでしょう?男の子は旅をしなくては。」

「でもそうせきくんがいないと…なんか俺ストレスがたまって…」

「ストレスは大人のスポーツで解消なさい。」

「…それが女親のいうことかい。」

「まあっ、ほほほほほ、言いますね、陽さん。陽さんもだんだん親離れしてきて、お母さん誇らしいわ。お母さんも子ばなれしなくちゃね。」

 母は高笑いしながら、あっというまにクリーニング屋を呼びつけて、陽介の喪服やスーツを一山預けた。部屋を一気に検分し、冴をこきつかってこれまたあっというまにぴかぴかに仕上げた。冴は姑にこき使われる嫁のように、いくぶん遠慮がちな様子で働いた。

 …うちの母は偉大だったんだと思った。

「ごみ、ちゃんとだせてますか?」

「あっ、…冴がやってくれてるから…」

「じゃ、分別表つくっておきますね。陽さんも少しずつ練習してくださいね。前日の夜にやってしまうといいのよ。」

「…はい。」

「具合、別に悪くないんでしょ?ちょっとびっくりしただけですよね?」

「ああ、もう大丈夫です。」

「久鹿もおおげさよねえ。どうしてそばにいたなら陽さんをだっこしていーこいーこしてくれないのかしら。男親って融通がきかないわ。だから陽さんを預けるの心配なんですよね。」

 昔は「だんなさま」とよばれていた父が「久鹿」に格下げになっている。母の自己認識は、まちがいなく「乳母」から「愛人」にシフトチェンジしていた。

 それはともかく、久鹿の父にそんなことを葬式の花環の前でされるのはいやだな、と陽介は思った。禿げが好きな陽介だが、ビジュアル的にどうだろうという気がした。葬式の花環や喪服はあの陽気なハゲの輝きに似合わない。なんかもっと明るいひまわりの花畑とか一面のジャガイモの花畑みたいな…空気の澄んだ初秋の北海道みたいなとことかで陽気な柄のかりゆしウェアで…

 …思わず妄想が走ったので、首をふって振払った。

「…何考えてたんですか?」

 母がニコニコしてたずねた。

「…見逃して下さい…。」

 陽介は額をおさえた。

「…男の子は大変ねえ。」

 母はわかっているのかいないのか、トボケたコメントを残して台所へ向った。

「今日は陽さんの好きなミートローフでもつくりましょうね…。あと、少しいろいろ作り置きしていってあげるわ。冴、こっちへきて手伝って頂戴。」

「はいっ…」

「冴は本当にかわいいわねえ。誰に似たの?おばさん男にはちょっと詳しいほうだけど、冴みたいに綺麗な子みたの初めてよ。」

「…祖父と同じ顔らしいです。父によく罵られました。」

「…直人さんも大人気ないわねえ…そんなこと気にしないのよ?」

「え…あ、はい。」

 …もとより自分に絶対の自信がある冴は、そんなこと少しも気にしてはいない。冴にとっては「あの変態の親父」より、若くて美しい自分のほうが圧倒的に「正しい」のだ。

 陽介は料理になってくると、出る幕がない。一人食卓について、そうせきくんとアサガオ、猫を2匹かかえこみ、新聞を読み始めた。すると、母が言った。

「…陽さん、お母さん最近フラワーアレンジメントとスペイン語と初級カバラ入門にかよっているんですけど…」

「…その最後のはなんなんですか。」

「ちゃんとユダヤ人のラビがしている神秘学の講座よ。生涯教育センターで木曜日にやっているの。」

「…さいで。」

「…そこで会った人に、陽さんのこと聞かれたのよね。ほら、おかあさん、陽さんと似てるから、見る人が見ればすぐわかっちゃうでしょ。」

 陽介は新聞から顔をあげた。

「カバラのクラスですか?知合いかな。」

「ちがうの、アレンジメントのクラスよ。」

「女ですか?」

「それが男の人でね。珍しいでしょ。でもほら、グリーンアレンジメントだから、植木屋さんとかもいるにはいるんですけど…その方は…なんといえばいいのか…陽さんやキリさんの同類っぽい、モラトリアムの遊び人て感じなの。」

「…実の息子にモラトリアムの遊び人はないでしょ…?」

 渾身の抗議を母は華麗にスルーした。

「すごい美女が送り迎えしているのよ。ぜったい、お金持ちのおぼっちゃまよ。」

「なんて人?」

「みんなにはカズくんって呼ばせてるけど、本名はわからないです。」

「カズくん…。」

 陽介はしばらく考えたが、だれも思い浮かばなかった。

「その美女の送り迎えね、どうやらSPらしいのよね。お母さん、いつきちゃん思い出しちゃった。いつきちゃん、また遊びにきてくれればいいのにね。」

 陽介はそれをきいて微妙に落ち込んだ。

 母と二人で陰気に暮らしていた頃、いつきは二人の食卓にやってくる、大ぐらいの陽気な珍客だった。

「…そうですね…。」

「…美人になったかしらねえ、あの子…。」

 母は心配そうに言った。

「…どんぐりは元気ですか。」

「ええ、元気よ。しゃーっ、て。あいかわらず。」

 母は凶暴なヤマネコの鳴きまねをした。ドングリは密輸され、帰るべき国がクーデター騒ぎで帰られず、あちこちたらい回しのすえ、陽介の母のもとに流れ着いた可哀相な野生動物である。…その人生(?)史は、いつきに少し似ていた。

「…まあ、多分、いつきも元気でしょう。」

(…俺の元カレと仲良くやっているようだし。)

 それは口にださず。

 陽介はまた新聞に戻った。

 その夜は母の作ったウマイ料理を3人でたべた。

 母は日持ちする料理を冴に教え込みながら作ってたくさん冷蔵庫につめ、戸棚にはパウンドケーキやらクッキーやらをストックして、ようやく満足して、帰り支度した。

 冴と二人で母を見送りに出た。名残惜しく陽介にしがみつくそうせきくんをぱりぱりと剥がして車に載せたあと、母の赤いミニが遠くなるのを、二人で見送った。

「…冴、散歩いこうか。食い過ぎて腹きついわ。消化しよ。」

「ええ。」

 そのまま二人で散歩に出かけた。

 エリアでは紫外線を嫌って、日が暮れてから散歩やジョギングをしている人間が多い。

 陽介も直人と暮らしていた頃は、よくジョギングに連れ出された。慣れるまではつらかったが、慣れれば体を動かしたほうが調子がよいと思うようになった。

 もっとも、直人が亡くなってから、一人で走ることはなかった。直人のことを思い出すし、思い出すとつらいし、…それはともかく、一人で出歩くと暇つぶしの散歩おじさんや散歩おばさんに滅多矢鱈と口説かれてめんどくさいのだ。昔かわいかったころはかえってこんなことなかったのだが。…まるで親と同居していないというのを見すかされているかのようだった。なぜかすぐ陽介のうちにのりこんで来ようとするのだ。やれお菓子があるだの、庭をみせてほしいだの。失礼にならないよう断るのが大変だった。

「…店寄ってアイスでも買おうか。」

「…太りますよ。」

「大丈夫だって。冴はアイス何が好き?」

「…スイカ。」

「きれいだよね、スイカバー。」

「陽さんは?」

「俺チョコチップバニラ。」

 二人で手をつないで、仲良く笑って、店に向った。冴が綺麗な顔で笑ってくれると、陽介はうれしい。

 コンビニも最近は終夜営業をやめて、ほとんどが11時閉店だ。エリア全体で電力が間に合わないらしい。省エネが叫ばれたが、電気料金はうなぎのぼり。どこかで大規模に漏電しているとまことしやかに噂されるほどだった。コンビニ業界はついに夜間営業を止めるところまで追い込まれていた。

 夜間営業縮小による消灯で治安の悪化が懸念されていて、エリアにはそこはかとなく不安がたちこめていた。

 店には二人のほかに客の姿はなかった。二人で冷蔵庫をのぞきこむ。店の音楽は、夏の名残りの恋物語の歌詞だった。おのおのアイスを引っぱりだし、レジに向った。店員がせいいっぱいの愛想で「いらっしゃいませー」とふしをつけて歌うように言った。

「…! 陽さん!」

 突然陽介は冴に袖を引っぱられた。店員が顔をあげ、その顔がゆっくりと大きな口をあけ…そのあたりで陽介はアイスボックス側に大きく引き戻されて、床に倒された。

 店員の悲鳴をかき消すほどの音とともにガラスが飛び散った。

 白い車体がカウンターにぐしゃりとあたって、エンジン音が止まった。

 外で別の車が音を立ててハンドルをきり、いささか慌てて去って行った。

 …しばらくして陽介はかばうように自分を抱いている冴の肩を掴んだ。

「…冴?」

「…大丈夫です。お怪我は。」

「…うん、俺も大丈夫みたいだ。」

「…動悸は?」

「…平気。」

 二人は注意して起き上がった。

 …カウンターの中で店員が腰を抜かしていた。声をかけると、無事な様子だった。カウンターは強盗よけに充分厚く作られている。それが店員を守ったようだった。

「ウヒャ-、まいったまいった、これは、誰かしんだかな?」

 そういいながら、運転者が車の後ろ、割れたリアウィンドウを破ってでてきた。

「…しんでねーよ。」

 陽介は憮然として答えた。

 運転者は、陽介の顔をみて、てへっと笑った。

「ごめんごめん、あんまり自分で運転しないからさ。ウハ-こりゃ大変だ、保険屋に電話しなくちゃ…」

 そこまでその運転者が言ったとき、不意にその額を、ツー…と血がながれた。

 陽介は嫌な予感がして言った。

「…あんた、頭打ってない?」

「わかんない。首はいたいけど…。いや、全身いたいけど…。悪い、電話こわれちゃってる、かしてくんない?」

 …そこまで言うと、とりだしていた電話をぽとりと落として、青年は気絶した。

「…頭やってるな。」

 冴はしらべて言い、青年が落とした電話をひろいあげた。

「…なんだ、こわれてないぞ。目がかすんできてたな。…馬鹿め。」

 フン、と鼻を鳴らして、冴はその電話で、救急車を呼んだ。 

 やってきた警察の事情聴取を受けて、アイスを買い直して帰った。

 帰り道、運転のへたくそな奴っているんだなあ、などと恋人を事故で失っている陽介が言うと、そうですね…と、父親を事故で失っている冴は答えた。



 陽介と冴は二人暮しでも毎晩調教をやっているわけではない。よっぽど興が乗ってくれば別だったが、普段はただ、普通に仲良く暮らしているだけだった。というのも、陽介は今の冴が本気を出すとまずいことが身に染みてわかったので、もしやるなら、そのうちどこかの同好のクラブで、年輩のマスター衆に調教をみせてもらうなりして、少し冴をしつけてからと思っていた。

 冴はあらぬ思い込みをしていたようだったが、直人の趣味はもっとだいぶソフトなもので(少なくとも、陽介に対してはそうだった)、遊んでいる最中に生命の危機を感じたことは一度もない。それどころか直人は、陽介のからだにただの一つも痣や傷をつけなかった。いつも終わると怪我がないか丁寧に検分し、縛った後を温めるように手でつつみ、打ったところは優しく撫でたりしたものだ。服まで着せてもらうときもあった。直人はその前戯ならぬ後戯みたいなもの…終りの儀式みたいなものをとても大切にしていて、陽介はしばしば「この人もしかして、着せたいから脱がすのとちがうのかなあ」とまで思った。その時間は、陽介にとってもまた嬉しい時間で、どんなときよりもいちばん直人が自分を愛してくれていると感じられる時間でもあった。

 冴の作った傷はすぐになおって跡も残らなかったが、毎度あれをやられたら、さすがに危いと思った。

 そんなわけで、普段は二人で一緒の部屋で並んで寝て、盛り上がってるときは普通に抱き合って、そのあたりのレベルで生活していた。その程度でも別に不満が溜るとか物足りないというほどでもなくて…不思議とそうで…多分それは、お互いに「ホントは好きなんだからやろうとおもえばいつでもできるし」みたいな暗黙の合意があったからなのかもしれない…それなりに満ち足りて過ごしていた。

 そんなぬるい幸福の日々がいつもどおり数日あって、週末の朝寝坊からさめると、冴はもうブランチのメニューを庭の見えるテーブルに並べていた。

「陽さん、御飯できてますよ。…お庭、色付いてきましたね。綺麗ですよ。」

 といいながらいれるコーヒーの香りが、少し切ない朝だった。(もう午だったが。)

 陽介が服を着て席についたあたりで、唐突な来客があった。陽介が構わずクロワッサンをつまんでいると、冴が出に行った。出なくてもいいのに、と陽介は思ったが、やがて冴はもどってきて、こう言った。

「陽さん、…このあいだの、馬鹿運転者が退院して挨拶にきましたよ。どうします?」

「…」陽介はコーヒーの香りにあたりながら、少し考えた。「…しゃーねーな、あっとくか。」

 冴はうなづいて、客を通した。

「こんにちはーおじゃましまーす…やー若くてお美しい家政フさんでびっくり…あっ、御飯中?ごめんごめん。」

「…あんたも食う?」

「じゃ、御馳走に。」

 冴が急遽皿とカップを増やした。

「いやあ、先日はほんとに、御迷惑をおかけしました。警察や救急車を呼んでいただいたそうで、有難うございます。僕は鳴海一彦と申します。偶然でしたねえ。僕、安西の友人なんですよ。お噂だけはかねがね。」

「あ、キリの友達ですか。」

 陽介はそれをきいて初めて、あの事故後のふざけた軽さが納得できた。安西キリウは車の運転が滅法上手いので(それ以前にものすごくいい車にのっているので、事故防止システムがついている)けっしてあんな事故はおこさないだろうが、もし起こしたときは「ヤッホー、ごっめーん」で済ませそうな人物だった。多分ご友人もご同類なのだろう…と、自分が友人なことは棚にあげて思った。

「…まあ、別におれたち、居合わせただけで、怪我とかしなかったから…ただの市民の義務ってだけ…」

 陽介はそういいながら、その名前になにか聞き覚えがあるような気がして首をひねった。

(…?)

 顔をまじまじと見たが、やっぱり知り合いではない。

「けが人が僕だけだったのは、不幸中の幸いです。」

 鳴海はにこにこしながらそういってコーヒーをのんだ。

 …大学生くらいかと思うのだが、冴のような例もあるので、顔だけで歳は限定できなかった。

 包帯をまいているせいもあってか、「ころん」としたかわいい後頭部で、髪はよくいる亜麻色とココナツブラウンの中間ぐらい…世界混血児だ。目はぱっちりしているが、柔らかい印象の二重目蓋、それだけでなんとも優しそうに見える。口元はにっこりとつりあがっている。…福相だ。まあまあの美男子といえた。全体的に痩せていて、上品な高いスーツを着ていた。

「大丈夫ですか、怪我のほうは。」

「ええ、まあ、そう、ぼちぼち。…でも、障害ものこらなかったし、あの派手な事故としては限り無くラッキーかな。」

 …ようするにまだまだ治るのに時間が必要らしかった。  

「…あ、これ、僕の好きなお菓子です。お二人でどうぞ。」

「あ、どうも…」

 陽介がミルフィーユの箱をうけとると、冴が口をひらいた。

「よくここがわかりましたね。」

「コンビニできいたら常連さんだというから、近所でききながらきたんだ。一人は吃驚するような綺麗な子で、もう一人は清らかなおぼっちゃまって感じの、ホモのカップルみたいな仲良し二人組っていったら、ことごとくみんな知ってたよ。有名人。うん。」

 陽介は額をおさえた。

 聞かなかったふりで、冴が言った。

「…賠償、たいへんでしょう、あの事故じゃ。」

「うん、でも対物2億くらいかけてるから大丈夫。前に、人様のクルーザーにつっこんですごい賠償はらった経験があるから、そこはぬかりないよ。」

「…あんた運転しないほうが世の中のためだぞ。」

「…ちがうよォ、前のときはうちの女王様がァ…それに、追われてたんだもん。こっちだって命がけさ。」

 陽介も冴も「女王様」にピクリとした。鳴海はそれをみて、笑った。

「連れてこられればよかったんだけど、生憎お父さんが病気で里帰りしてるんだ。…すんごい女なのよ。僕のボディーガードだけど。みせたかったなー、なかなかいないからね、珍しいよ、ああいうの。」

「ボディガード…失礼ですが…お仕事は何を…?」

 陽介は遠慮がちに訊ねた。

「僕?…隠居しました。4月に。」

 冴がイラッとしたのがわかった。

 陽介が挫けずに訊ねた。

「隠居…ですか?お若いのに?」

「うん、銀行ごっこやってたんだよ、学校ドームで。卒業するから、在校生に席をゆずって、ついでに大手銀行の傘下にいれてもらって、僕はサヨナラしてきたんだ。学生なら口座もってるでしょ、子供銀行。」

 陽介は愕然とした。

「ナルミ頭取?!」

「はーい。」

 鳴海はかわいく返事をして顔の横でぱっと手をひらいた。

 キッズバンクは極東全州の学校ドームのみに窓口のある特殊な金融機関で、もともとは学生たちの実習機関としてタテマエは教育用に作られたものだった。ちなみに研修中、職務に応じて「研修手当て」も出る。しかし作られた裏の理由は、「教師を金銭業務から解放し、教育に専念させるため」であった。

 「生き残りたかったら金」の哲学はエリア社会を支配している。それゆえに、いちばん踏み倒しやすい学校の諸経費はいとも簡単に踏み倒され、学校経営そのものもあやしくなった時期があった。教師達は取り立て業務に時間をとられ、精神力を奪われ、教育現場は疲弊した。

 やがて「生き残りたかったら金」の哲学が逆に教育現場でも叫ばれるようになると、状況は一変した。義務教育終了後は、進級試験に受験料を儲け、払えない人間は一年停学となって、その一年強制労働をして資金をつくるか、学校をやめるかの選択を迫られるようになった。冴が郷里で進級し損ねたのも、この制度のためだった。

 さらに学校ドームは、子供達の健全な育成のために、学資保険を奨励するようになった。その運営機関として、S-23に試験的に設立された機関が、キッズバンクのはじまりである。

 資金があつまりだすと、運用が叫ばれた。S-23運営委員会はこの運用をプロの監視の元、学生の経済実習に利用するものとした。

 そうしてバンクは派生的にいろいろな業務をするようになっていく。少額の体験融資や少額の体験株取引などは好評で、そこで育って行く学生事業家もいた。業務のなかには学校ドームのもくろみどおり、授業料等各種費用の取り立ても含まれており、実習の学生が取り立てを行なうことで、さすがに恥じを知った親達が、学費の優先順位を入れ替える場合もあることはあったりして、一応の効果がでたのは事実だった。

 キッズバンクに口座をひらくためには、学生本人であるか、その親権者か、あるいは学校ドームの職員である必要があった。子供達の認識としては「お小遣いを貯金しておくところ」「授業料をはらいこむところ」「ちょっとクジや株がためし買いできるところ」「契約によっては、少し授業料をたてかえてくれるところ」「学校の費用を滞納していると、差し押さえや取り立てをされるところ」「電子マネーの管理元」というような印象の機関だった。

 ここでは一度の取り引き額の上限が低めにさだめられており、それは損益がですぎないための安全弁となっていた。学生運営者を保護し、学資保険の元金を守るためでもあった。

 それが近年一部の学生たちのもくろみで、取り引き額のタガが一時的にはずされた。学生投資家とよばれた彼らは、裕福な家に生まれ育ち、資金が豊富で、子供のころからネットで株遊びをしているような…陽介の友達でいうと、安西キリウのような一派であった。

 キッズバンクはもともと全取り引き項目において低額取り引きに重きがおかれているのだが、ある手順で連続的にいくつかの種類の取り引きをおこなったとき、極わずかな利益がでることがあった。それは仕組み上のいわばバグというか、計算式の妙技ででてしまう不思議な差益だったのだが、一部の学生投資家たちはそれに目をつけた。少額ならどうということはなくとも、限度額の上限がなくなれば、それは魅力的な利益たりえた。

 取引限度額の壁を打破するために、一人のネゴ上手なリーダーがかつぎだされた。それがS-23大学部経済学部の鳴海一彦、後のバンク運営委員長である。…鳴海頭取、というのは徒名だ。

 彼の精力的な交渉で、キッズバンクは口環を外された。おかげで安西たちはかなり美味しい思いをすることになった。

 しかし当初から、巨額の損失がでる危険性は強調されつづけていた。

 「ナルミ頭取だから大丈夫」とか、「ナルミ頭取なら信用できる」とか、「ナルミ頭取ならまかせてもいい」とか。そんな形で綱渡り経営して来たのだが、鳴海一彦が卒業してバンク運営委員から外れるとなったとき、S-23ドーム運営委員会と日本州学校ドーム連盟はバンク運営委員会に強く要請して、外部の正式な銀行組織に経営を委託することで合意した。…あまりにも危険だったからだ。そうして「子供銀行の夏」、大人たちの間では「ヤンチャ祭り」と呼ばれた狂乱の学生バブルは終息した。外部のプロが大量に入って来て、ナルミ頭取に骨抜きにされた人員と入れ代わった途端、あっというまに、口環を締め直されたのである。

 陽介も同じ学校ドームS-23に春まで在籍したそのカリスマのことは聞いたことがあった。だが見るのは初めてだった。…こんな男だとは思ってもみなかった。

「ぼくねえ、もう、うんざりしちゃったんだよ! もう、金持ちも貧乏人も等しく嫌いさ!! すぐ僕に火炎瓶ぶつけるんだから!! ほんと、やめてせいせいしたよ!」

 …授業料のとりたてを代行しているため、恨まれる商売なのだった。

 なるほど、隠居、というわけだった。

「…そうだったんですか…。今後は、とくに御予定なんかはないんですか。…えと、人生の。」

 陽介があっけからんと聞くと、鳴海もあっけからんと答えた。

「あるよ。僕ね、冒険に行きたいんだ! だから、冒険家!」

 冴がくらーっと倒れかかった。陽介はハハハと笑った。

「冒険ですか。いいですね。どちらへ?」

 …陽介は冴よりは、まだしもいくらか金持ちの非常識に慣れていた。

「アフリカのほうなんだけどね。…そうだ、ね、面白い話するから、聞いてよ!」

 鳴海は楽しそうにそう言い、話しはじめた。

 …驚愕の物語を。

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