04 食客
4 食客
しばらく冴とカリントウを食べていると、電話がかかってきた。母だった。冴が対応していたが、やがて陽介のところにやってきて、
「久鹿先生が御連絡なさったそうで、…百合子さんが、いらっしゃるとのことでした。」
と告げた。
陽介は頭をぐしゃぐしゃやったが、仕方がないと思い直し、起き上がって服をきた。
「陽さん…大丈夫ですか。」
「ああ、だいじょーぶ。」
陽介はにっこり答え、布団をかたづけた。
…母がここを出て行ったのは、陽介の18の誕生日の前後だった。昨年の10月だ。だから、陽介が月島のところに転がり込んでいた時期と前後している。母もいっぺんに越したわけではなく、しばらくいたりいなかったりで、新しい部屋を選び、のんびり荷造りをしてぼちぼちと生活空間をシフトしていったような運びだった。
「…でも…久鹿先生も、いろいろ工夫なさる方ですね。」
冴が微妙な言い方をした。
まさにそのとおりだ。
「…ほんとはね、俺が生まれたとき、引き取って、本妻の佳代子さんに育てさせようとしたらしいんだ。でも佳代子さん、口では了承したけど、本音はよほどいやだったみたいなんだよね。まあ、そうだよね。」
冴は複雑そうな顔になった。
「…それで、親父も困って、俺のために一応この家を用意して…それで、人をやとったわけ。実の母親をね、乳母として雇ったわけ。俺が20才になるまでって約束で。」
「…実の母親なんだから、実の母親でいいと思うんですが。」
「まーね。でも、親父はね、百合子さんを、愛人として大事にしたかったのね、本当は。子供なんか、抱かせたくなかったの、自分の女に。所帯臭がいやだったの。」
「…だからって。」
「うん…子供なんだよ、親父は。」陽介は苦笑した。「…でも、18才成人制が一般化してきたろ。それで、うちも、18才成人制になっちゃって…。」
…というより、父は、陽介がよその家に転がり込んだ時点で、母親の役目はここまで、と判断したらしいのだ。
…陽介は家事は一切出来ない。なんの準備もなく、2年早く母親を取り上げられた。
「…でも、いいじゃない、おかげで、冴と会えたし。」
陽介がにこにこすると、冴はちょっと困ったような照れたような表情を目に漂わせたが、それを隠すように長い睫でまばたきすると、陽介の唇に軽くキスした。
母が「年季明け」し、月島を失った陽介が帰ってくると…一匹の猫もいないこの広い日本家屋での、人生初の独り暮らしが待っていた。それでも陽介が寝込んでいた間などは母がいてくれたらしいのだが、なんとか床をあげると、ただ母親のメモだけが山積みになって残っているという有り様だった。…皿の洗い方、ごはんの炊き方、掃除機のありか、食べ物の選び方、雑巾がけの仕方、生ゴミの出し方…。
むろん、全てなど到底無理だった。
陽介は月島と暮らしていた間に幾許かおぼえたこともあったし、それほど深刻というほどでもないと…最初は思った。
2週間たって、自分がゴミ出しのサイクルについていけていないと悟ったとき、陽介は焦った。それをきっかけに急に自信がなくなった。
食べ物などは意外と、買って食べたりもできるのだが…やはり、ゴミの分別はきつかった。それから、洗濯はなんとかできるのだが、掃除がきつい、なにしろこの屋敷はすべて畳部屋だし、部屋数も多いのだ。
陽介は父に電話して、家政婦を要求した。
答はこうだった。
「…なんじゃ、どこかで、飯をつくって掃除してくれる優しいカワイイ女の子を、自力でつかまえてくりゃよかろう。そしたらみなタダなのじゃし、家賃ロハで食費ももってやれば、すごく喜んで一緒にすんでくれる女の子はいっぱいおるはずじゃ。9月からダイガクセイじゃろが。車の免許もとったんだし。
…おまえがどうしてもというんなら、エリアの外の子のビザ発行の手伝いくらいならしてやらなくもない。地方のアウトエリアで殻無し娘スカウトしてくるか?お前の母の百合子は日本海側の片田舎の市場で魚をさばいとった娘で、スカウトしたら二つ返事じゃったぞ。
…おまえ、ちゃんと有能な側近スカウトして使う力はあるんじゃ、月島みたいな男、わしでもよう使いこなせんちゅうに…あのサディストの我侭親父に比べたら、女なぞ簡単じゃ、簡単。
女はカワイイだけじゃない、強いし、優しいし、頼りになるぞ。幸いお前は百合子に似たから二枚目になった。わしは何も心配しとらんから。」
…衝撃の展開だった。
父の罠だったのだ。
陽介はほんの数週間で血抜きされたような脱力ぶりとなった。とにかく、つらい、ただの生活が日常が、つらい、いきているのがつらいのである。
ふらふらで学校ドームの図書館に逃げ込んだら、やはりエスカレーター進学で、この休みにいろいろ免許をとるため、エリアに滞在していたユウとばったり会った。
月島の葬儀のことなど挨拶代わりに話したあと、新学期になったらドミがあくから、そうしたら宿泊代もたすかるわー、やっぱり宿は高いわよね、などとユウが言うのを聞いて、陽介は血迷った。
「水森、おまえ…畳掃除とゴミ出しと飯炊きできるよな…?」
「そんなことくらい5才の時からできるけど?」
「…俺ン家、新学期まで住まない?宿代、浮くだろ。」
…さすがに、ユウは冷静だった。まず、陽介になにがおこっているのかを適確に聞き出し、そうして少し考えて、すぐに判断した。
「わたしはダメ。だって慎二さんがいるのに同級生の男と住むなんて。絶対無理。いくらお金がたすかっても、それはダメ。そもそもあんたと暮らすのなんか、やだし。
…でもあんたの話をきいて、思い出した子がいるの。今、高校生で…。去年授業料が払えなくて進級試験受けられなかった子なんだけど…。すごくいい子なの。真面目な子で頭もいいのよ。あんな子が勉強できないなんて、間違ってる!
男の子なんだけど、母子家庭でそだってて、お宅と違ってお母さん働いてたから、御飯つくれるし、几帳面で掃除もできるはずよ。ゴミだしなんて朝飯前よ。
あんた絶対一目で気に入ると思う、請け合うわ。そうよ、あの子をあんたが預かってやればいいんだわ。あんな田舎のドームより、エリアのほうがいろんなチャンスがあるもの。編入試験でS-23の2年にいれればいいわ。そうしたらあの子も地元でいらない留年して恥かかなくて済むもの。」
「ちょっとまて、エリア税や授業料までは払えねえぞ。」
「それは大丈夫。」
「だって去年払えなかったんだろ?」
「大丈夫、今年は。生命保険成り金よ。その子の養育費ときどき出してたお父さんが亡くなったから。」
「…!」
「…そうよ、ナオト叔父の忘れ形見よ。」
…天が落ちて来たようなショックだった。
実際そのとき倒れたらしいのだが、ユウがタクシーをひろって載せて送り返してくれたそうだ。
3日後に会うことがいつのまにか決まっていた。
連邦チューブラインサービスの州都中央の駅で11時に待ち合わせた。ユウがひきあわせてくれる約束だった。
陽介は直人がなくなってから、ときどきひどく具合が悪くなるようになり、最初はショックのせいだろうと…次に、栄養失調かと…ついにどっかわりんじゃねーかという結論に達したが、病院で点滴をうとうが精密検査しようがいっこうに変化はなかった。ついに心臓がばくばくしてとまらなくなったとき、これはもしやと思って精神科のある病院にいったら、どうやらビンゴだった。
「御様子見て下さい」の決め台詞とともに、袋いっぱいの薬を渡されて、俺もついにか、と父のところにいる兄の顔を思い出した。なんとなく不思議な感慨があった。あの兄の病気にふりまわされてずっと貧乏くじをひかされてきたが、これからは等分に分けてもらえるな、と皮肉な調子で考えた。
人ごみに弱くなっていた。午近い州都中央ステーションが、今の自分にとって、少しきついのははじめからわかっていた。けれどもそんなことをユウに話すのは嫌だったし…自分でもなんとなく情けなく思った。直人さんが見たらなんて言うだろう…そう思うと恥しい気がした。
薬を倍飲んで、無理をおして出かけた。
…結果、待ち合わせ場所に立っていることができなくて、ユウにメールをうって、店の一つに入った。駅構内の地下の一角、アイリッシュパブが近かったので、そこにした。コーヒーを買って、一応通路のほうを向いた向きで座り、ユウを待った。
陽介はそんなにコーヒー好きと言うわけでもなかったが、直人はコーヒーが好きだった。だから陽介は、コーヒーの香りにあたっているのがすきだ。コーヒーの香りは直人との時間を思い出させた…。
ぼんやり地下街の通路を見ていると、たまたま、物凄い美形の男子が向いの売店のそばで、こっちを向いて電話しているのを見つけた。大学生かな、それとも働いてるのかな、凄みのあるビジンさんだな…と陽介は思い、ぼんやりと彼を見つめた。黒いボタンのついた少し光沢のある白いシャツを着ていて、黒っぽいデニムをはいていた。ただそれだけなのだが、とてもシャレて見えた。美しい人間というのはそういうものだ。はるきが言ってた、美形の兄貴が普通にきていた服をお下がりにもらって着ようとしたら、いきなり野暮ったくてびっくりすることがままあると…あれはいつのことだったっけ…もうあの細い兄貴のお下がり、おめー着れねえじゃんよ…。
そんなことをとりとめもなく考えていたせいで、その子が自分を見つめ返しているのに気付くのが遅れた。強い視線に気がついた瞬間、陽介はぼんやり見とれていた自分をひどく恥じた。
それでも陽介のように「可愛い子」時代が長かった人間はそれなりのハッタリがきく。陽介はそのままふっと微笑んで、それから何事もなかったように静かに視線を外し、コーヒーを口に運んだ。通路の彼は電話を終えて、間もなく立ち去った。…ほっとした。彼はきっと、見られることに慣れているんだろうな…怒らなくてよかった…そう思った。
「おい」
声をかけられて振り返ると、ついさっき思い出したばかりの人物がいた。
ハルキの数多い兄の一人で、兄弟の中で一番小柄できれいな男だ。どんな変な服でも無難にオシャレに着こなすのが彼の特技だ。…ハルキと違って、そんなに巨大化もしていなかった。まったくどうしてハルキだけ…。陽介は憂鬱に思った。
「…おひさしぶりですね、夜思にいさん。」
めんどうに思いながら一応挨拶をした。
すると、挨拶を省略して、夜思が言った。
「…お前、あのボディガード、どうしたんだ?」
何の話がまったくわからなかった。
「…一人でぼーっとしてぶらぶら歩いてると、さらわれるぞ。…尾藤家はここんとこもめてて…ベルジュールが約束を破ってハルキをどこぞにかくしたきり我々に会わせないので…お前をつかって向こうをつつくかという案がずっと出ている。僕と一輝は意味ないとおもってるけどな…。おまえがベルジュールの身内じゃないのはわかってるし…。ハルキともあの女とも、ここんとこ切れてるのは知ってるから。…おまえ、前のとき、電話をむこうに差し入れたりしてだいぶやってくれたじゃんか。それでもダメだったんだし…。僕と一輝はそう思ってるんだが…。
でも一輝は最終的にはいつも母の言いなりだし、父だってそうだ。仁王は小夜以外の兄弟はどうでもいいと思ってる…。
お前ずっとボディガードつれて歩いてただろ。だから父も母も二の足ふんでたんだ。あいつただもんじゃないだろ。お前を付けてると抜け目なくこっちを見つけるし、…ミハがいっぺんつかまってボコられた。…親父が言うに、なにか武術をかなり上のほうまでやった奴に間違いないと…。親父は、信仰のほうはUFOマニアだが、武術は本物だ。」
陽介はやっと理解した。…直人のことだ。別にボディガードだったわけではないが、結果としてそう機能していたのは確かだった。陽介は当時どうしたことかよくチカンにあっていたのだが、それを笑い話代わりに話したところ、直人が一緒に歩いてくれるようになって、直人と歩くようになった途端ぴったりおさまった…。それで学校の行帰り送り迎えしてもらっていたのだ。そうしたからといって、交遊にさしつかえるような友達もいなかった…。
「…今度、小夜が嫁に行くことになって、どうしても式にハルキを呼ぶと言ってきかないんだ。ハルキが来られないなら嫁にいかないとまで言い出した。…こんなこと小夜の元カレクンにいうのも難だが、すごくいい縁談なんだ。相手の男もちょうどいいくらい年上で紳士だし、金持ちで、教団の援助をしてくれている。なにより小夜もなついてるしな。…いままではお前の件は仁王が乗り気でなかったこともあって実行には至らなかったが、あそこまで小夜がさわぐと、仁王がその気になるかもしれない。…そうなったら、お前、ひとたまりもないぞ。」
陽介はコーヒーを置いて、顔を歪めた。
「…小夜のやつ、いつまでも祟りやがる。…いっとくが俺を捕まえたって、ベルジュールから助けはこねえぞ。」
「…僕はそう思ってるが、…おまえも女のいる集団ていうものとコミットすれば、どうして尾藤家があれだけ暴走せざるをえないか、そのうち理解できるようになる。…僕がおまえに情報を流してるわけもな。」
「…夜思兄さんはなんで俺を助けてくださるわけ?」
陽介がめんどくさそうにきくと、夜思は言った。
「…間違っていたら、とめるべきだ。結局家族のためにはそれが一番いいんだ。僕は手段は選ばない。たとえスパイよばわりされても、結果が良ければそれでかまわない。」
夜思は少し昔のハルキの面影がある可愛い顔でオトコマエにそう言い切ると、自分の紅茶を飲み、腕時計を見た。
「…一番いいのは貴様がちゃんとボディガードを連れて歩くことだな。それがてっとりばやい。…貴様を捕獲すりゃベルジュールは動かなくても、いつきが動くだろう。尾藤家はそれで十分だ。」
「…こねえよ、もう縁切れたって。」
陽介がうんざりして投げ遺りに言ったとき、ふっと目前に女が現れた。
「夜思兄さん、久しぶりね。」
ユウだった。
ユウは夜思の妹の小夜とは親友だ。
そして、夜思の天敵だった。
「…小夜、お嫁にいくんですってね。お手紙を頂いたの。…おめでとうございます。披露宴には是非おうかがいしますね。」
「ああ、ありがとう。小夜が楽しみにしていると思うよ。」
夜思は短く答えると、腕時計を見て、飲みかけの紅茶をテーブルに置くと、軽く手をふって店を出て行った。
「…なにからまれてんのよ。あんなオカルトマニア、睨めばすぐ退散するでしょ?」
…そんな眼力は普通の人はもってないんだよ、とユウにオシエテやれるほど、陽介は元気ではなかった。
「わたしもコーヒーもらってくるわ。…冴、あんたもおいで。何にする?」
陽介はそのときまで、そこにもう一人いたことに気付いていなかった。
ふと顔をあげると、目が合った。
…さっき、通路で電話していた、あの彼だった。
彼は少し黙って物言いだけに陽介を見つめていたが、もう一度ユウによばれて、仕方なくカウンターへ向った。
彼がテーブルを離れた途端、どっと心拍数が上がった。
(…あれかよ?!)
(…ど)
(…俺にどうしろと?!)
急に自分が血迷ったことをしているのに気がついた。そもそも、ユウに声をかけた時点ですでに血迷っていたのだが、そのときになって陽介はようやく気づいたのだった。
(…俺、あの子の親父と出来てたんだぞ…?)
ざーっと血がひいていくのが自分でわかった。
(お、おちつけ、落ち着け、俺!)
(大丈夫だ、あの子のお母さんだって手堅くだましおおせたじゃないか。)
(なんとかこの場を取り繕って…)
(断れば…)
(いやむしろ、向こうから断ってくるように仕向ければ…)
陽介はコーヒーを飲んで、少し気分を落ち着けた。
(そうだ、あの年の男の子が、俺んちの家事やって学校通うなんて、そんな条件快く飲むわけない…いくら経済的におトクだっていったって、ただそれだけのことだ、我慢して、頑張ろうとしているだけだから…)
(遊びたいさかりだし…部活とかだって、なにかやりたいことが…)
(家事なんてしてたら何も出来ないからな。)
(それに母子家庭でかーちゃんのことも心配だろうし…)
(落ち着け、俺。大丈夫、なんとか追い返そう。)
陽介がやっと体勢を立て直したとき、ユウと彼が戻って来た。
二人はコーヒーを…多分ユウのカップのこの強い香りはモカだ…彼は…
(あっ…これは…)
陽介はどっと落ち込んだ。
味の好みというのは、遺伝するのだろうか、と思った。
「…何人見知り能力発揮してんのよ、ばかねえ。…ナオト叔父の息子さんよ。つきしま・さえ。16才だけど、今年17になるわ。もう、やあねえ。あんたたち、直人叔父挟んで一応知合いみたいなもんでしょ。」
陽介の肩をどんと叩いて、ユウが気合をいれてくれた。
陽介はやっと笑顔を作って、「久鹿陽介です。」と言った。
ユウが、「久鹿先生の息子さんよ。」と付け加えた。ユウの田舎ではどうやら父は有名人らしかった。きっとなにかで活躍したのだろう。
「はじめまして。」
喋るのをきいて、さらに落ち込んだ。見た感じどこも似ているところがないのに、声だけは父親と同じなのだ。…その幾分尊大な喋り方まで似ている。
だまりがちな男二人を無視するようにユウは独断で話しをすすめ、あっというまに、…陽介が口を挟む余地などまったくないままに、冴が「2~3日ためしに滞在してみる」というところまで決定してしまった。
…この女本当にヤバい、このまま育ったら、まちがいなく縁談おばさんになる…と陽介は思ったが、後の祭りだった。
冴はそうして陽介の家にやって来た。
「…ごめんね、汚くしてて。」
「…想像してたのよりはきれいです。」
冴は一応遠慮がちにお世辞を言い、よかったら、今すぐ、少しかたずけましょうか、と言って、父親に良く似た手際のよさで、あっというまに台所を片付けた。そして掃除機をかけるために、縁側を開けて、唸った。
「…これは…綺麗なお庭ですね。」
「…ああ、庭だけは庭師がきてくれるから…。あの、疲れてない?一休みしない?」
「今、きれいにしたら、なにかいただきましょうね。」
あべこべに諭すように言われて、陽介はおもわず黙った。
冴は慣れた様子で畳部屋に丁寧に掃除機をかけ、テーブルを綺麗に拭くと、勝手に台所をあさって、お茶をいれてくれた。どこにあったのか、乾菓子が出て来た。
「…茶室が二つもあるんですね。」
「うん…俺、いただくくらいしかできないんだけど…まあ、宝の持ち腐れかな…。」
そう答えながら、テーブルにへばりつく陽介を見て、冴は淡々と言った。
「…お疲れですね。」
「…うん、ずっとなんだ。…元気がでなくて…薬のんでる。人ごみがにがてなんだ。」
陽介は、へばっていたテーブルから起き上がった。それから、少しいろいろ、高校生活でやりたいことはないのか、とか、普段どうしているのか、とか、雑多にたずねた。
冴は適当に答えていたが、そのうち、話の腰を折って、逆に陽介に言った。
「…父の通夜をやってくださったそうで…。ありがとうございました。」
「…いや、俺、直人さんに、…言い尽くせないほど世話になったから。…あの程度のこと、恩返しの足しにもならない。」
「…亡くなる半年くらい前に、父と会ったんです。父は、じきに自分の寿命が尽きるので、持ちものを処分して、エリアに出ることにした、と。それで少しまとまった金をもらって…。そのときに…久鹿先生の御子息のことを聞きました。」
陽介は血の気が引いた。
「…何て…?」
「…いえ、いろいろと、雑多に。…そうですね、例えば…父の友人の居合道場にかよっているとか…、とても立ち姿が美しいとかそういったことを…。」
「…」
「…それを聞いていて、とても心配になって…。」
…へ?と思った。
「…あなたは御存知ないかもしれないが…父は大変な悪人で…。父はあなたがとても気に入っているようすでした。父が愛情豊かな人であることは否定しませんが、その表出のしかたは、幾分変質しています。これは危ない、と…。母にも相談したところ、母も同じ意見で…。このあいだ母が、いちどエリアにお邪魔したとき、あなたにお会いしてお話したと…。」
「うん、会ったけど…。」
「…母に遠慮して、本当のことが言えなかったのでは…?」
どきっとした。
冴はさらに言った。
「…あの父が、何もしないわけがない。」
「…」
…確かに、勿論、あの月島直人がお気に入りの男の子に何もしないはずはないのだけれども…ないのだけれども…
(…もとの妻子が二人してなぜそれを俺に言うんだ?…)
目眩がして来た。
…冴は察して、すこしテーブルから離れると、畳に手をついて、頭を下げた。
「…お詫びのしようもありません。」
「…やめてくれよ。」
「…久鹿先生の大事な御子息に…」
陽介は気が狂いそうになった。
「やめてくれよ。直人さんと俺のことにお前や別れた妻やうちの親父は関係ねえだろ。」
「…犯罪です。」
「そんなんじゃない!」
「…父は母をあやうく殺しかけてるんです。」
「それはおまえのおふくろとお前の親父のことであって、俺には関係ない! 直人さんが俺を殺すはずないだろう!!」
その叫びは、冴を驚かせた。
「…あんた、あんな変態親父を信じてたんですか。」
陽介は泣きたかった。
ただ息子だというだけで、なんでこんなに、自分の大切な思い出を踏み荒らされなくてはならないのだろう?何の権利があって?
「…信じてたかだって?当り前だろう。あの人以外の誰を信じろっていうんだ。友達だって恋人だって親父だって俺を裏切ったのに…他に誰が信頼に値するっていうんだ?…裏切らなかったのは直人さんだけだ! 」
陽介が言うと、冴は少し目を見開いて黙り込んだ。
冴はそうして少し考えていたようすだったが、やがて言った。
「…父は俺に…いくつか言い残してエリアに出ました。…なにか…最後は本当に必要とされている場所で生きたいから、とか…そういったことを。
…陽介さん、俺はここに残りましょう。あの手の施しようのなかった父を最後に善人にして下さった、せめてものお礼です。掃除と食事とゴミ出しを引き受けますよ。あと、…ボディガードも、なんでしたら。変なのに絡まれてるみたいだし。うちは古武道を継承している家系で、父は死の一年前に、俺を仕上げました。数え14才元服より少し遅れましたが。」
…やぶへびだった。
そんないきさつで、冴は陽介のところに住み、エリアの高校に通うことになった。
冴はユウの言うとおり、真面目で、頭が良くて、頑丈で勤勉な男子だった。編入試験などなんの準備をせずに受けてきて、文句のない成績で通過した。非常に落ち着いていて、陽介より年上のように感じられる場面も多かった。…多分、苦労して育っている、ということなのだろう。
…本人には言えないが、正直なところ、その高飛車で俺様で押しの強い不遜な態度は、月島直人に生き写しだった。直人をそのまま若くしたような感じなのだ。陽介はそういう気風に気骨の強さみたいなものを感じ…自分には最近まったく足りないものだとも思っているのもあって…単純に憧れをもった。…直人に対してもそうだったように。
それでも直人と冴は、顔も違うし歳も違う。まったく別の人格なのだ、ということは、折に触れて自分に言い聞かせた。冴は大人びていても自分より年下なのだし、甘えて、負担をかけてはいけないと思った。冴には冴の人生があるのだし、それは冴自身もすでにたくさんの苦難をかかえているということなのだし、陽介の気持ちをささえる義務など少しもないのだと思った。冴の人生はできれば、なるべく普通に近い形のもののほうがよい、せっかくエリアに出てきたのだから、いらない苦労をしてもらいたくない、なんらかのチャンスをつかんで成功して、幸せな大人になってほしい、なんたって俺をあれほど愛してくれた直人さんの大切な忘れ形見なんだから…と思った。また、陽介を信頼して一人息子を預けてくれた川上さんに対して、顔向けできなくなるようなことはするべきでないと思っていた。
…思ってだけは、いた。
陽介はいけないいけないと思いながら、ずるずるずるずると冴に近付いてふみこんで行き、まとわりついて不必要に間合いをつめ、ついにはあからさまに誘惑までして…そしてある晩、このエラそうな息子が父親の性癖をどうしてあんなにコケにしていたのか、どうして親父の代わりに自分が土下座して謝ったのか、思い知るハメになった。
いい気になって冴にまとわりついていた陽介は、その日、妙に機嫌のよかった冴に突然言われた。
「いつも思ってしまうんだ。あの変態親父が、陽さんみたいなきよらかで可愛い人をどうやって騙して…そしてどんなふうに毎日いたぶってたんだろうって…そう考えはじめると…もう…気が狂いそうで…」
そういいながら冴は陽介の顔をなでて、初めて口づけた。
そこまでは陽介も夢見心地だったのだが。
冴はどこからかナイフを出して、陽介の着衣を上から下まで一直線に切り裂いた。
切っ先が皮膚を引っ掻き、陽介の体には一筋の長く浅い傷が走った。傷からはゆっくりと血が滲み出し…冴は、残りの衣服をざくざくと機嫌よく切り裂いて陽介から剥ぎ取り、満足げに陽介の裸を見下ろすと、自分の刻んだその傷を、下から上へゆっくりと…舐めた。
…月島冴は態度と声だけでなく、そのヤバい性癖も、きっちり父親から遺伝していたのだった。