01 橘家葬祭
(葬式って、続くよな…。)
陽介は、自分の喪服の袖口を見て思った。
汚れていた。
(まったく、おふくろがいなくなった途端にこれなんだから、なんでみんないるうちに死んでくれないんだか…。)
(よごれてんじゃねーかよ。あ-クリーニングださねーと…めんどくせえ…しかも暑ぃ…)
隣にいた父親に小突かれた。
陽介は伏し目がちにして、少しうなだれた。
そうしていると、陽介は、一見まるで、清らかで、打ちしおれて、悲しみの中にいる、美しい少年のように見えた。
…その見た感じがいいと言って、葬式では圧倒的に、久鹿の連れは次男の陽介だった。
橘先生は陽介の父の知人で、同じ党に所属し、ともに熱き州議会を戦い抜いた盟友の一人だった。倒れて2週間ほど入院していたが、そのまま亡くなった。息子は陽介の幼馴染だ。もっとも、年は橘の息子のほうがだいぶ上だが。
「…おまえな、橘には随分かわいがってもらったんだから。殊勝にしておれ。ばかもん。」
「…はい。」
たしかに橘先生はいい人で、陽介を猫可愛がりしてくれた。陽介的にも、「いいおじさん」の一人だった。死んだときけば、正直悲しい。「親戚の中の特別好きなおじさん」みたいな距離感だった。
しかし、葬儀ではしばしば、思わぬ人間関係が露呈するものだ。
橘家の場合は、その兆しはすでに入院中からあった。
親父が倒れたと橘が言い出したのは、10日くらい前だったように思う。すでにそのとき、亡くなった後の準備はととのっていた、と陽介はふんでいる。だが一応時間をとって、2日後に「見舞いに行きたい」と橘に申し出た。父に相談するまでもなく、橘の父親に、それがたとえ意識不明の寝顔でも、別れを告げたいと思ったからだった。陽介は義理の葬式は別として、春に大切な人を亡くしており、人の死に対してはまだ必要以上にナーバスだった。
しかし橘はそれを頑強に拒んだ。
陽介ははじめ、ひどく傷付いた。昔から、橘に「俺の親父にべたべたなつくな」とヤキモチをやかれることはあったけれども、死を前にして、そこまでやるか、と思った。
それらの抗議は無言でも顔に全部出たらしい。陽介の顔をみた橘は、苦虫を噛み締めるような顔になり、言った。
「すまん、陽介、ごたごたしていて…お前がくるともっと荒れそうなんだ。おまえの名誉にもかかわることだから、…お前だけは、今はこないでほしい。」
…そのとき、著しく、妙だな、とは思ったのだ。
やはりその利発さを橘の父に愛されていた安西が、見舞いに行ったあと、「もう昏睡してたよ。いちお、枕許でサヨナラだけしてきた」と言っていたのが3日前。
昨日通夜に参加した安西が、慌てて陽介に電話をかけてきた。
「ヨースケ、大変なことになってる…こないほうがいいかも…」
と…。
ここいらあたりで、陽介は、かなりさめてきていた。
これは何事か、あの安西でさえ、俺に説明したくないようなことがおこったに違いない、との認識に至った。
しかしそういうことに無神経な父は、平気で陽介を葬儀に連れて来た。
葬儀場にきてみて、陽介は妙なことに気がついた。
…若くてけばい男が何人もいて、そのうち何人かは、未成年だった。
葬儀がおわってから、その連中がなにかもめ事を起こした。
「帰るぞ、陽介。」
父にいわれて、後ろ髪をひかれる思いで立ち去ろうとしたら、顔なじみの橘の母が走ってやってきて、陽介の袖をつかんだ。久鹿が割って入ろうとしたが、間に合わなかった。
「陽介さんっ、陽介さん、ごめんなさい、ごめんなさいね…橘が…橘が、何かしませんでしたか?! …陽介さんのような、清らかなぼっちゃまに…橘は…!!」
…多分、父は知っていたのだろう。すごく冷静だった。はげ頭の汗をハンカチでおさえながら、「まあまあまあ、富江さん…、おちつきなさい。」などと言って橘夫人をふりほどき…、そして、その隙に陽介に「逃げろ」サインを送った。
しかし陽介は呆然と立ち尽くしていた。
つまり、つまり…
息子の橘が走ってやってきて、陽介の腕を掴んで、幕の外まで引っぱって行った。
「…陽介、すまん。実は病院に、…あの男妾どもがおしかけてな…。俺もおふくろも、おやじのそんな趣味まったくしらなくて…。
…な、親父は…お前になにもしてないよな?! いくら可愛がってたからって…」
…いいながら、橘の顔が不安気にくもってくるのを見て、陽介はものすごく憮然とした。
「…お前の親父とはなにもねーよ。」
なるべく無駄なことを言わないようにそう言い捨てると、ちょうどそこへ、父もはげ頭の汗をふきながら、出て来た。
「おい、帰るぞ陽介。」
陽介は橘の手をふりはらって、父親とともに歩き出した。
父親が小声で言った。
「…橘は、ゲイの集まる店で倒れたんじゃ。ハシャギ過ぎじゃろ。…昔からそういう趣味じゃったが、家族のまえでは真面目にしとったからの、わしゃ放ってたんじゃ。あいつがホモでも、わしゃゼーン然こまらんかったからの。…だからお前も放ってあるんじゃぞ。橘に感謝するんじゃな。橘がおらんかったら、わしゃ自分の息子が男と同棲なんかしたらショック死じゃったろうて。…まあ、清らかな、は言い過ぎじゃな。顔だけじゃろ、おまえが清らかなのは。…袖も衿もよごれとる。洗濯しろ。」
…じゃお父さんが橘先生に感謝するべきだよな…と、陽介は「けっ」な気分で思った。
…昔、女友達が陽介にたずねたことがある。
あんただったら、父親が実はゲイとカレシが実はゲイと、どっちがいい?!と。
そいつは親父がゲイだった。そして後に、弟が、親父の恋人とデキちゃったんだそうである。
…ほんの1年半くらいの時間しかたっていないのに、随分昔のことのような気がした。
「…カクレかよ…橘先生。」
「…ということじゃ。…みたろう、10代の、女顔の子がすきでの。…お前はストライクじゃ。それはきづいとったから、いつもわしがちゃんと釘さしとった。」
「…騙された…」
陽介はそう呟いた。
父は言った。
「…橘は立派な男だった。…あの趣味以外は、100点満点の男じゃった。まだ死ぬには早過ぎたのう。」
「…」
陽介は、それで一気に、哀惜が失せた。
橘先生が嫌いになったわけではなかったが、急激に「葬式モード」から「通常生活」に引き戻されたのだった。
…俺って、ひょっとして鈍いのか、と思うと、無性に腹が立った。
表通りで、父の車が迎えにくるのを待っていると、突然右側から、猛スピードの車がかっとんできた。父の護衛が思わず二人をかばったほどの勢いだった。陽介は恋人を奪った事故を咄嗟に思い出し、身を竦めた。別の車が、凄まじいスピードで音をたてながら、前の車を追ってゆく。
「…なんじゃ、あぶないのう、なに町中でカーチェイスやっとるんじゃ。…しかしあの車、なんかどっかでみたことあるのう…」
父が憮然として呟くと、護衛が何かを耳打ちした。
「あ、そうか、あいつか。…なんかやらかしたのかのう。」
陽介は父の独り言を聞きながら、痛む心臓を押さえた。動悸と震えがとまらない。
父が気付いて、護衛に、陽介を支えるように言った。