15 指揮官募集
「いやー、昨日はごめんっ、帰ってくる前に嫁さんとつぶれちゃってー。」
ナルミは翌朝5時半には目をさましたらしく、布団を自分で片付け、勝手にシャワーをつかって、6時にはお湯まで沸かして陽介と冴をテーブルに迎えた。
冴が二日酔いの頭痛にうなってテーブルに突っ伏すと、ちょっと苦笑して、「僕の倍はのんでたもんね。日本酒はああいう飲み方はやばいよね。」と言って、グラスに水をくんで冴にさしだした。
陽介は言った。
「…あんた、…飯できる?」
「…まあ多少は。」
「…じゃ、コーヒーいれてくれ。…冴、水のんだら風呂いってこい。こんな酒臭い状態で学校行ったら、生徒指導室直行だ。匂いが抜けないなら今日は仮病で休むんだな。」
冴がよろよろ風呂に向うのを見送り、鳴海はコーヒーを探して、おとしはじめた。
「…あんたは大丈夫みたいですね。」
「僕は大人ですから。…銀行屋さんの飲み会はけっこう凄いよ。まあ、学校関係者ほどじゃないけど。…ごはんつくるね?」
「ああ、頼んます。」
陽介はパネルに新聞記事のデータを読み込み、椅子に座って読み始めた。
「…昨日は俺になんか用だったんじゃないんですか?」
「…うん、いつきに会えたから一応君にも報告しておこうかと思って。いろいろありがとう。…昨日嫁さんにはいっといたけど…まあ、多分おぼえてないな。」
「…なんの話でそんなに追い詰め合ったんです?…どういうプレイ?」
「うーん、まあ、そうだなーっ…」
鳴海はそこまで言うと、しばしコーヒーに没頭した。
それから顔をあげて言った。
「…いつきはお見合いしてくれるってさ、例の話も乗り気で…。打ち合わせもすませたよ。…ただね…弟を一人つれていきたいと…。ベルジュールが彼の親権をにぎっていられるのは18才の誕生日までで、リミットらしい。多分、市長は親権が行使できなくなるなら、同じ人質でももう少し言うことをききそうな別の兄貴どもと交換したがっているはずだと彼女は言うんだ。…そうして放されたら最後、ハルキはいろいろ知っているだけに安全が…」
「…」
陽介は鳴海がおとしてくれたコーヒーを一口飲んだ。冴がいれるのと味が違った。
「…へヴィなテイストですね。」
「がつんと重いデショ。」
「同じ豆とも思えない。」
陽介は、たちあがって冷蔵庫からパンのふくろや、マーガリン、ジャム、…といったものを出して並べた。鳴海はフライパンを火にかけて、卵の調理を始めた。
「…カズ、つくれんだねー、俺も練習しなきゃな。」
「…すぐできるようになるよ。きばって難しいものからつくろうとさえしなきゃ…」
「やっぱりまず卵かな。」
「そうだね。…スキムミルクない?」
「ない。」
「牛乳は?」
「…んーと…」
陽介は冷蔵庫をさぐって牛乳を出した。
「…ハルキは、まあ、つれてったほうがいいですよ。」
「…なんで。」
「…カズがいつきの御機嫌とり全部してたら、スケジュールがすすまない。忙しいときハルキにあずけとけば、適当にメンテやっといてくれる。…まあ、いつきのお世話係だな。あいつあれでもお嬢じゃん?」
「…でも、おかしくない?あの二人。」
「…うん、まあ、…デキてないのは体だけってとこかな。」
「…由々しき問題だな。よくそれを知ってて婚約案をだしたね、きみは。」
婚約案を出したのは冴であって陽介ではない。だが、採用したのは確かに陽介だ。
「…俺はちゃんとムッシュー高野には言ったんだぜ、話すすめる気ならいつきの男関係は整理付けておけって。そうしたらいないから大丈夫ってむこうが請け合った。」
「…それなのにいつきに会ったときは焚き付けたわけだ。」
「…焚き付けちゃいないよ。」
「…焚き付けた。寝てやれっていっただろ。」
陽介は鳴海の顔をみてにっこりした。
「いいだろ、どうせ偽装婚約だし。…それとも、いつきを本気でひきとる気なの?カズ。農園でももってないと、あいつの餌はまかないきれないぜ。高野さんもそう言ってた。」
「ばれるだろ、向うに。」
「ばれないよ。向うはいつきのカレは俺だとみんな思ってるから。ハルキはダークホースってわけ。」
「…きみ、けっこう誠意ないよね。」
「誠意?なにそれ。…て、うそうそ。…あ、煙あがってるよ。」
鳴海はあっ、とあわてて、火を弱めた。幸いまだ鍋には何もいれていなかった。
「…まあ、チームは組むから、多少はいつきの希望のメンツがいてもいいんだけど…」
「…ハルキは頭もいいし、体力もあるし、なにより勇気がありますよ。ここ一番のときに頼りになる。俺は押すね。」
「…でもハルキをつれていったら、君はもう荷担してくれないんだろ?」
「俺の役目はもうおわったでしょう?あんたといつきを会わせてやった。それで精一杯ですよ。」
「…僕はハルキをつれていくくらいなら君をつれていきたいんだけど。体力系は金であつめられるが、ブレーンは完全に御縁だからね。…いつきはきみの命令なら聞くはずだ。彼女は君を信頼している。」
「…」陽介は顔を背けた。「…俺そういう体力ない。…毎月精神科で袋いっぱい薬だされてるんですよ。あんまりへばるから、ベッド買おうかって話になってるくらいで。…それに、会ってみてわかったけど、むこうが俺を、はともかくとして、俺のほうはもうあいつのこと信用できなくなってるんだ。…怖いんだよ、あいつのこと。」
鳴海は短くため息をついて、火を調節しなおした。それからそこにハムを入れた。ハムが焼ける音が響く。そのあと、卵を焼き始めた。
「ま、仕方ないか。新婚だしね。…皿だして。3枚。」
鳴海は片手間に冷蔵庫にのこっていた青菜とタマネギを刻み、小さな鍋にコンソメをとかしてタマネギのスープをつくり、青菜はフライパンにのこった油で炒めた。
冴があがってきたあたりに、ちょうど皿が並んだ。ロールパンをト-スターに放り込み、鳴海は冴にコーヒーを渡した。冴は一口飲んで唸った。
「…くどい。」
「お湯足す?」
「いや、…。」
冴は手をのばして牛乳をとり、コーヒーに注いだ。
陽気な音がパンの焼き上がりを告げた。
3人はパンを分けて、食事を始めた。
二日酔いの体臭はなんとか抜けたので、陽介は冴を車で高等部の校門まで送ってやった。
「…冴、俺に内緒でカズくんと昨日はなんのわるだくみ?」
運転しながらたずねると、冴は臭い消しのグミを噛みながら言った。
「…悪巧みじゃないです。…俺が一方的にいびりまわされただけで。」
「…でもカズもおなじくらいダメージうけてたけど。」
「…それはまあ、ただでやられないのがSのプライドというもので。」
「…どんなプレイだよお前らほんとに…何言われたの?」
「…勘弁してください。素面じゃあとても…」
冴はそういって、頭をぐしゃぐしゃにした。…本当にひどいダメージをくらっているようだった。この自信家の冴をここまで凹ませるとは、あなどりがたし鳴海一彦、であった。
「…具合悪かったら帰っちまっていいぞ。じゃ、いってらっしゃい。」
「大丈夫ですよ二日酔いくらい…いってきます。…気をつけてくださいね陽さん。」
駐車場に車をいれて、まだ大学的には随分早かったが、校舎に入った。
日当たりのよいロビーに、びっくりするような人物がいた。
パンチのきいた黄色系のワンピースを着て、パールピンクのルージュをひいたいつきだった。かかとが15センチもありそうな白いサンダルが、日焼けした肌にキョーレツに似合っていた。頭のてっぺん近くで、茶色く灼けた髪を椰子の木みたいなポニーテイルに結っている。
「よっ。新婚さん。」
「…なにやってんだお前。」
「あんたを捕まえるのに四苦八苦ってわけさね。…まだ時間あるっしょ?」
「あるが…」
「一時間目なによ。」
「連邦憲章と日本州憲法の抱合せ。」
「さぼれんなもん。教授よりテメ-のがくわしかろ。」
「…昨日カズからおおよその報告は受けてるぞ。」
「うん、行くとはいってわたさ。…それよりちと付き合えや。」
「どこに。」
「どこでもよかんべ?」
いつきは不敵に笑って早口でそう言った。
…もしこいつが男だったら俺は一体どうなっていたんだろう、と陽介は少し思った。
陽介はそのまま成す術もなくいつきに拉致され、大学から連れ出された。
表をまわって高等部の入り口のほうへ行き、そのまま、エリアにつながる渡り廊下に入った。…陽介も高校時代はここの通路を歩いてかよっていた。ハルキと連れ立って…小夜と連れ立って。随分昔のことのようだ。
登校ラッシュの高校生に逆行して、学校ドームから出る。
「…おい、どこいくんだよ。」
「…ん、あたし今日P-1に一旦戻るわ。ラウールがかえってきたらしいから、一度顔みせとかないとね。」
「あ、そう。」
「ウン、…送りに来てもバチ当たんねーと思うが。」
「…お前それなら早く言えよ、車あんのに…」
いつきはぷはっと笑った。
「…男と二人で車にのっちゃだめって、パパが言うの。」
「どこのパパじゃ」
「ブロンドでアメジストの瞳で妙なる美声のベルジュールさんよ。」
「…お前が男を殴り殺したら尻拭いに困るからか?」
「あーっはっはっ、嘘よ。…帰る前にちーと、一カ所よっとくかと思って。」
いつきは鳴海のような豪快さで笑った。…もう笑い方がうつっている。
いつきは先に立って道をまがった。
「あっ、…おい、そっちいくと…」
陽介は少しあせった。渡り廊下をわたってすぐのところに、翼光教団の教会、つまり、ハルキの実家がある。
「…ちょっとまて、いつき、…あの…」
「なにキョドってんの?」
いつきはニヤニヤ笑って、尾藤家の門をあけるとどんどん中に入った。…礼拝堂に電気がついている。早朝礼拝でもしているのかもしれない、…それはともかく、陽介にとってここはあまり気持ちのいいところではなかった。一度ヤバい目にあいかかって…。
「いつき、どうする気なんだ。」
「…落ち着きなさいよ。」
母屋の玄関で呼び鈴を鳴らした。
そこに、ちょうどでかける格好だった夜思がいたらしく、返事があって、ドアが開いた。
「…」
夜思もいつきの顔を間近で見て、びっくりしたようだった。
さしもの夜思も声が出ない。
いつきが凶悪に微笑んだ。
「おはよ、夜思兄さん。…小夜が結婚するってきいたからお祝い言おうと思ってね。会いたいの。…いいでしょ?」
「…断る。」
「…断らないほうがいいわよ。」
夜思が素早く陽介に目をはしらせた。陽介は言った。
「悪い、夜思兄さん。俺、今こいつに逆らう体力がなくて…わかるだろ?俺だってこの期に及んで小夜になんか会いたくない。」
「…今は時間が悪い。母も父もいるし…」
夜思のこめかみを汗が伝った。…そうなのだ、いつきが本気でかかってくると、ものすごいプレッシャーなのだ。気持ちはよくわかる。
「あたし時間がないのよね。10時にはチューブのランチにのりたいの。…とりつがないつもりなら、あんたをシメ落として中におしいるわよ。いいの?」
いつきは目を細めてこう続けた。
「…あたしハルキちゃんと1年南米にいたのよ。あの子の組手の相手してたのあたしなんだから。…あんた一人で今のあたしに勝てるかしら…?」
…夜思はとりあえず、中に引き返して行った。
少しして、夜思は小夜をつれて戻って来た。
「いつきちゃん! 嬉しいわ、ひさしぶりっ!!」
「ハーイ小夜、ひさしぶりだねーっ。」
小夜はキャッと喜んでいつきに抱き着いた。
「…小夜、僕はでかけるからな。」
「はぁい、いってらっしゃい夜思兄さん。」
「…じゃ、俺も夜思兄さんといっしょに大学行くわ。」
逃げようとした陽介の衿を、がしっといつきの日焼けした手が掴んだ。
「…あんたは駄目。」
夜思はおもいっきり走って逃げた。裏切り者、と陽介は思った。(…大いに筋違いだが。)
「…小夜、結婚するってハルキちゃんに聞いたの。おめでとう。…大学行かなかったのね。」
「うん、あまり勉強も興味ないし、うち、お金ないから。いつきちゃんは今どうしてるの?」
「…ハルキちゃんと一緒にいるよ。」
「そうなんだ…。」小夜の目に一瞬、昏い表情が浮かび、そしてすぐ消えた。嫉妬の色を姉らしい愛にすりかえて、小夜はにっこりした。「ハルキ、迷惑かけてない?」
「ぜんぜん。いいコだよ。…小夜、これ、…小夜に似合うかなあ、と思って。あたしからお祝い。」
いつきはそう言って、小夜に小さな箱を差し出した。
「わあ、なんだろ、ありがとう…あけてもいい?」
「勿論。」
小夜が箱をあけると、中には宝石を使った細工物のブローチが入っていた。
「きれい!」
「物はわるくないと思うよ。ラウールんとこの出入りの業者だから。…使って。」
「ありがとう。」
小夜はもう一度いつきを抱き締めた。そのとき、ちらっと陽介を見た。陽介はひたすら我慢した。
「…小夜、じつはあたしも今度婚約するんだ。」
「え゛っ。」
小夜は「ぶる」のを忘れて素で驚いた。
「…そんなにおどろかなくてもいいんじゃない?」
「…?」
小夜は声には出さず、陽介を指差して不安げにいつきに首を傾げた。
「あー、ちがうちがう。こいつは用があって今ちょっと連れ歩いてるだけ。」
小夜は少しほっとしたようだったが、すぐにハッとして言った。
「…いつきちゃん…そ、それは大変だわ。まずこの髪は半分くらいきって、まいにちトリートメントしないと。あと、ポニーテイルは駄目よ。…それに少し日焼けを抜いて、顔もマッサージして…だんな様より筋骨隆々もまずいと思うわ…。もちものは整理した?…下着、いっしょに買いに行く?ドレスは?式場は?」
小夜は大真面目でいつきの手をとり、心配そうに言った。
「そっか、見合いの心得はここにききに来ればよかったのか…」いつきはプッと笑った。「…大丈夫。全部ラウールのスタッフがやってくれるから。…小夜、今って、早朝礼拝中?だれがやってるの?」
「あ、一輝兄さんよ。」
「見てってもいい?」
「勿論。」
いつきに手をひっぱられて、陽介はずるずると礼拝場に一緒に連れて行かれた。
礼拝堂に入ると、一輝が白い典礼衣装をつけて、数人の信者のお祈りにつきあっていた。…信者は出勤前の会社員といった感じだった。いつきと陽介が入ると、一輝はゆっくりと顔をこちらに向けた。陽介はヒュ-、と思った。
(…ビトウ家の兄弟、みんな二枚目だよな…カックイイ…長男はワンランク上の品格があるわ…典礼衣装似合うなぁ…)
一輝はピクリと眉を動かすと、祈る信者をそこに残して、まっすぐ大股に3人に近寄って来た。
「…小夜、どうした。」
「…いつきちゃんが結婚祝をもってきてくれたの。…礼拝を見たいって。」
一輝はいつきと陽介を順に見て言った。
「…部外者は信者さんの迷惑になるから、おひきとり願いなさい。」
「ケチ」
いつきがすかさず言った。
一輝は無視して、無言で小夜にプレッシャーをかけた。
小夜は仕方ないわ、という顔でいつきを見た。いつきも肩を竦めた。
「…一輝、親父どもじゃどうせあたしとは会話にならないから、あんたにいっとくわ。…もうすこし先だけど、ハルキを連れて行くから。」
いつきがそう言うと、一輝は優雅に目を伏せて言った。
「…ハルキの人生はハルキのものだ。私は止めはしない。」
「…ありがとう。あんたは話がわかるわ。…じゃあ、尾藤家みんな、せいぜいお元気でね。どうせまた会うと思うけど。」
「…どういう意味だ?」
「…必ず会うわよ。」
「…あのまちへ行くのかね?」
「…」
いつきは笑っただけだった。
一輝は不敵に笑い返した。そしてチラッと陽介を見た。
…おい、と陽介は思った。
…これじゃあまるで、俺も行くみたいじゃないか…?
「…失礼します。」
陽介はいち早く言って、一人先に礼拝堂を出た。…いつきもまもなくやってきた。
「おい…てめ…」
「しーっ、お祈りしてる信者さんにわるいでしょ。さっ、じゃお暇しましょうね。…小夜、じゃあ、お幸せにね。」
「うん、いつきちゃんもね。」
女二人はばいばーいと手を振って別れた。
尾藤家の門を出てから改めて陽介は言った。
「いつきっ、てめーーっ! やりやがったな?!」
「あんら、なにを?」
いつきはニヤニヤ笑って言った。
「…あっ、そうそう、あんたにもこれ上げるわね。世界一美しい花嫁さんとペアでつかって頂戴。お・め・で・と、新婚さん。幸せにくらしなさいよ?」
いつきはそういって、小さな箱を二つ寄越した。…多分、カフスボタンだな、という箱だった。
「…あ、ありがとう…」
「さてと。んじゃ、州都中央までいくか。」
いつきは通りまで出ると、無人タクシーをとめた。
州都中央の駅は、世界各地に旅立つビジネスマンや旅行者で、もうすでに賑わっていた。
いつきはどこかに電話をかけた。落ち合う場所を打ち合わせている。話は一瞬できまって、いつきはそのまま電話をしまった。
「荷物は?」
「もう送ったわ。」
「…当分P-1か?」
「婚約するまではね。順調にいけば、来月には鳴海の家に根拠地移動してると思うわさ。」
「…そうか。…まあ、タッシャで暮らせ」
「…もう帰る気?ちゃんと乗り場まで送りに来なさいよ。」
「俺2講目生物学で、すごく受けたいんだよ。」
「薄情ねえ。生物学は来週もあるけど、人間はいつも日本にいるわけじゃないのよ。だいたい教養の生物学なんか、あんた知りつくした内容でしょ?」
陽介は不貞腐れたいのをじっと我慢した。…おっしゃるとおりだ。
…いつきが鳴海のでかい仕事に入ったら、もう2度と、一生会えないかもしれないのだ。
そう自分に言い聞かせて、いつきのあとをついて行った。
「いつき、朝なんか食べ…あ…」
…見る前に気がついてもよかったきがするが、陽介は待ち合わせ場所らしきにハルキがいたのを見つけて、ものすごく憂鬱な気分になった。
「…先輩。」
「…オハヨ。」
「…お見送りですか。」
「ああ。」
陽介がとりつくしまもないので、ハルキはいつきに言いかけていたことを言い直した。
「…朝、食べた?」
「いや。でもいいわ、パリで食べる。」
「4時間以上ありますよ。」
「うーん。」
「なんか買って乗ったほうがいいですって。…どうせすぐおなかすいて凶暴になってくるんだから。僕にもついでに飲み物買って来てくれると嬉しいし。」
「…そうね。じゃ、ちょっと買ってくるから、陽介とここにいて。」
「え…」
断る暇を与えずに、いつきはぱっと走って行った。…あのハイヒールで、すごい。
「…」
二人はなんとなく黙り込んた。
…ハルキがこうなってから、並んで立つのは初めてだった。
背丈が随分のびた。…一輝よりはまだ少し低いのだろうか。
陽介の背丈はとうに追い越していた。
…抱き着きたくなるようなイイ肩になっている。
「…先輩…。」
ハルキがなにやら、気まずそうに言った。
顔だけ向けると、ハルキは言った。
「…先輩、僕は…僕は、先輩に顔向けできなくなるようなことは、何一つしていません。」
「…」陽介は返事をしなかった。
ハルキはもう一度言った。
「…弁明の義務は感じません。…どうして先輩に捨てられなくちゃいけないのか、僕には理解できません。…むしろ弁明するのはそちらだと思います。」
陽介はハルキを見つめて、言った。
「…俺のほうはお前の言うとおりだよ。たった一年半、待てなかった。寂しくて。…他に聞きたいことは?」
「…冴とは…どっちがくどいたんですか?」
陽介は鼻で笑った。
「下世話だな。…俺だよ。冴はストレートだし、実家にいたときは女にもモテたみたいだ。冴のほうから俺を口説く必要は何一つないだろ。」
「…なんとも思わなかったんですか。…だれのこともおもいださなかったんですか?…僕のことも…直人のことも?」
「…」陽介はハルキから目をそらした。「…思い出したよ。…思い出したけど…しょうがないだろ。…お前も直人さんもいないんだから。」
「目の前にいなきゃ、愛せないわけじゃないでしょ?…あんなに直人と離れていても、忘れなかったんだから…。」
「…でも目の前にいる人間のほうがいいじゃないか。…抱き締めてくれる。」
ハルキはやりきれないといった顔で、むこうを向いた。
「…もう僕なんか要らないんですね、先輩。」
「…必要とか不要とかいう話じゃねーよ。…ただ、俺のそばにいてほしかったってだけ。そばにいてくれないなら…俺は他の男にいてもらうだけだって話。」
「…すきであなたを一人にしたわけじゃないです。」
「…うん、それは勿論、わかってるよ。」
「わかってても、許してくれないんですね。」
「…それは仕方なかったんだと思ってるよ。お前が俺を一人にしたからって責めてるわけじゃない。反対だろ、俺が一人でいられなかったことをお前が責めてるんだろ?」
「…」
「…寂しかったよ。」
陽介がぽつりといったときに、いつきが戻って来た。
「…こんなところで深刻な別れ話しないでよね。」
いつきはそう釘をさすと、ハルキに飲み物を投げた。ハルキは慣れた様子で顔の前でキャッチし、そのままフタをあけて、半分ほど飲んだ。
「…陽介、わかったでしょ?」
「…なにが。」
「…裏切ったのはあたしでもハルキちゃんでもないわよ。」
いつきは詳しくはいわなかった。…つまり、ハルキと自分がデキる余地はないということが言いたいのだろうな、と陽介は思った。…それでも陽介は、自分の中の疎外感を拭うことはできなかった。
乗り場のほうに移動した。
ランチは20名ほどが揃えば時刻に関係なく発車する。そろわなくても1名以上いれば、30分に一度は発車されている。…いけば乗れる、というテンポの運行だった。いつきとハルキは「市長枠」のパスか何かがあるらしく、一般の受付でないところを通るようすだった。パスポートチェックすらない。かわりに市民票をチェックされるようだ。ここまでだな、と立ち止まり、じゃあ、と手をふって帰ろうかと思ったときだった。
「あっ、陽介、ちょっとちょっと」
ごみついてるわよ、みたいな感じでいつきが手招きした。陽介がおもわず歩み寄ろうとしたときだった。
「…陽さん、だめですよ。…行ったら当て身入れられて、気がついたらパリです。いかないという約束でしょう?」
耳もとで聞き慣れた声がして、後ろから腕をつかまれて止められた。…それが、近づいて手をつかまれているだけなのに、がっちり固められて身動きがとれない。陽介はびっくりして視線だけ向けた。…見えない。
「…冴?」
いつきが凶悪な顔になった。
「…やるじゃないの、世界一美しい花嫁。どっからでてきたのよ。」
冴は陽介を引っぱって後ろに隠した。
「…やり方が姑息だぞ。」
「どうしてわかったの?」
「…尾藤家には内通者がいてな。」
陽介は、えーっ、えーっという顔で冴を見上げた。冴はいつきから目を離さずに言った。
「…諦めろ。」
「…ふーん。」いつきは傲然と顎をそらして言った。「ま、いいわ。…じゃあね、陽介。またあいましょ。…どっかからフリーメールでメールするわ。」
ハルキがいつきのうしろで「アネゴ…」というあきれ顔をしていた。
「…いつき、誘拐の予定だったの?」
「…指揮官募集中なのよね。」
「…僕にも一言いっといてよ…」
「…かわいいプレゼントやあんたのマジな泣き言があったから陽介がここまでぼけーっとついてきたんじゃないの。…ま、いいわ、今回は手をひいてあげましょ、世界一美しい花嫁の顔…じゃなくて、働きに免じてね。…どうせすぐに、尾藤家にしかけたやつが動き出すわさ。そうしたら同じことよ。見合いは来月だし、まだ急がないわ。」
いつきはハルキを促して、ランチへの乗り口のほうへ歩いて行った。
冴はいつきの黄色いワンピースがドアの向うにきえるまで、そのまま動かなかった。
始めて会った思い出のアイリッシュパブで、世界一美しい花嫁のすすめもあって、深窓の令嬢はやすませていただくことにした。別に動悸などはなかったが、…冴も休みたかったのだろう。なにしろあいかわらず二日酔いの様子だったし。この状態でよくぞ駆け付けたものだと思う。
冴が飲み物を買ってもってきてくれた。…コーラだった。…なんとなく有り難い気持ちになり、陽介は拝んでから飲んだ。
確かにコーヒーは、今朝鳴海のいれたやつを飲んでからとても飲みたいとはおもえなかった。あれは本当にコーヒーだったのだろうか。なにかもっと濃厚にえぐい味の飲み物だった気がする。どういれるとああなるのか、いちどじっくり見せてほしいくらいだった。
「…夜思が高等部に駆け込んだのか?」
「そう。あれは目立った。『借りは返したぞ』と言っていたが…彼には礼を言っておいたほうがいいな。」
「…きっと噂がたつよ…冴と夜思のただならぬ仲説。…ああ、ときめくなぁ。」
「ときめかないでください。」
冴は眉をひそめて言った。
「…気をつけてください…ほんとうに…。あの女は俺がいままで見た人間の中で、もっともヤバい女の一人ですよ。」
「…ごめん、ほんと、ぼんやりしてた…。途中で気付いてもよかったのに…。気付きかかったところで、あいつ俺の乙女心をくすぐるようなプレゼントを…」
「乙女心…?」
「俺と冴でつかえって。」
呆れている冴の前で、陽介はいつきにもらった小さなつつみを開けた。
はいっていたのは案の定、カフスボタンとタイピンのセットだったが、すばらしく緻密な彫金のものに、透明でキラキラ光る石がいくつもはめこまれていた。
「…まさかジルコニアってことはありえねーよな、ラウールんとこの出入りの業者が…」
「…本物なんですか?…」
「…いつきって、あんなだけど、すげえお嬢なんだよ…養父だけじゃなくて、生まれも…。」
「…そうなんですか。」
「…総長付の近衛隊長って、宮廷人らしいんだ。軍のつよい国だったから、まあ…侯爵令嬢、くらいかな…。」
「…へえ。」
冴は二日酔いのせいもあってか、目眩を堪えるような顔をした。
もう一つも同じものだろうとおもってひらいてみると、もうひとつは、そろいのデザインのネックレスだった。
「わぁ…。」
「…これはすごい…。」
光にあたるとキラキラした。デザインのモチーフは、よくよく見ると美しい蛇が見えかくれする。…翠さんか…と陽介は思った。
「…冴、ネックレスね。」
「えっ、なんでですか。」
「だってお前スーツ着ないじゃん。」
「駄目です。陽さんがネックレスしてください。」
「なんで。」
「…なんででも。」
冴はネックレスを摘まみ上げて、陽介の首にあてて、見映えを確かめている。陽介はこの日、安くて派手な長袖のTシャツをきていた。鎖骨まで出ていたが、ダイヤのネックレスはさすがに服と合わなかった。冴は全然おかまいなしだ。…陽介は苦笑した。
「…な?乙女心をくすぐるプレゼントだろ?」
「…そうですね。」
冴は心ここにあらずで、勝手にネックレスを陽介の首に巻いて金具のとめ作業に入っていた。
「…陽さんは、こういうのをしなきゃ駄目ですよ。安いのは駄目です。」
「…服に合わないよ。」
「…じゃあ服を買いましょう。」
「…そういう無駄遣いはどうかと思うけど…」
陽介はおずおず言ったが、冴はもうウットリして「抱き締めてキスしたくてたまらないけど俺は我慢してるんだぞ」という顔だったので、あまり逆らわないことにした。…今抱き締められたら、2度とこの便利な店にこられない。
「…うん、じゃそうするよ。」
…冴は意外と光り物に弱かった。
時刻はもう10時をとっくにまわっていた。
二人が初めてここで会った日の、その時刻まであと少しだった。
陽介は通路の向いの売店を指して言った。
「…冴、おぼえてる?…初めて会ったとき、冴はあそこにいて、電話してたんだ。」
陽介がそっとネックレスを外して、今度は冴の首にかけ、冴の制服のネクタイを引き抜いてシャツの衿のボタンをはずして胸まで開けた。(高等部には制服があるが、式の日以外は私服でかよってもかまわないという緩い運用だった。比較的男子は制服を着ていることが多い。)…きれいだった。冴のほうがよく似合うと思った。冴に、うんといい生地の、綺麗なシャツを買ってやらなくちゃ、と思った。きっと、エリア中の女がうっとり見とれることだろう。自分の服とちがって、それが無駄遣いだという気はしなかった。
「…覚えてますよ。あなたはここにぼんやり座って、何か考え事をしていた。…俺に気付いてからは、見るともなく俺を見ていた。」
…そういえば、冴とこの話をするのは初めてだな、と思った。
「…見とれてたんだ。綺麗な男がいるなーと思って。ぼーっとしてた。」
「…俺は懐かしかった。」
冴はそう言って、コーラをストローでかきまぜた。
陽介は首をかしげた。
「どうして…?」
「わからない。最初遠目に見つけて…この人に違いないと思って、そこから水森に電話をかけた。ここは待ち合わせ場所ではなかったので、待ち合わせ場所を確認するのに。…そうしたら、水森が迷子になっていたので、拾いに行った。」
「…なんだそうだったのか。」陽介は笑った。「…でも、どうしてわかったの?」
「…さあ。…なんといえばいいのか…自明の理といった感じだった。…目が合うと、なんともいえない懐かしさを感じた。」
「…」
陽介はとても驚いた。
冴は長い睫で目をかくして、更に言った。
「…笑って目をそらしただろう?…あのとき、とても苦しかった。…なぜだかわからないが…すごく苦しくて、…この人を知っている、と思った。」
「…あ、あんまり見つめたから、怒らせたかなと思って…恥ずかしくて…でも、別に怒ってなかったよね?」陽介はしどろもどろに言った。「…初対面なのに…懐かしいなんて、不思議だね。」
「…そう。とても不思議。」
冴はそう言うと、ネックレスを外して、箱の中に戻した。ボタンをとめて、衿を直した。
手を差し出すので、陽介はネクタイを返した。
陽介はふと、直人が自分が生きているうちは息子を紹介しないといって笑っていたのを思い出した。…会えばわかるよ、そう言って…。直人には、なにが見えていたのだろう…?
「…でも俺も、冴がそばにいてくれるとすごく安心するよ。…なんだかほっとするんだ。ずっと昔から、よくしっている人と一緒にいるみたいな感じなんだ。」
陽介がそう言うと、冴はちょっと照れたように笑った。
そして手早くネクタイを締め直した。
「…ところで冴、今日学校には何と言って…?」
「…俺の担任は小島なんだ。知ってるだろう、陽さん。」
「あっ、地理の?…俺1年の時担任だったわ。」
「うん、だから、陽さんのおうちの事情と言ったらすぐ帰してくれた。…住所同じだから、俺のこと護衛だと思ってるらしい。百合子さんがなんかのときにそう言ってくれたのかもしれない。」
「そうだったんだ。」
「おかげで二日酔いもばれなかった。」
「そうだな。」
あ、と陽介は思い出した。
「…冴、二日酔いで思い出したが…。今回のこれは…多分いつきのプランじゃないと思う。あの大雑把な女にしては、緻密すぎるから。」
冴は興味深そうに顔を上げた。
「…というと…」
「…多分、鳴海と『打ち合わせ』したんだと思う。」
冴は顔をしかめて、ストローを噛み潰した。
「…やっぱりあの男、怪しい。…昨日から、もしかして一連の流れなのか?」
「どうかな、そこまではわからないけど…。あっ、そうだ、冴、昨日の寿司代、どうした?手許にあった?たてかえてるなら払うよ。」
「あれっ…」
冴は頭をひねった。そうだ、注文したときは、たしか、デビットのたぐいで…と思っていたが、寿司が届いたときにはすでに泥酔していて…うけとったとき、どうしただろう?サインした記憶がまったくない。
でもなんの問題もなくうけとって食べた。
…寿司3人前にあのレベルの茶わん蒸しとなるとなかなかの料金のはずだ。
…茶わん蒸し。
冴はふと気がついて、ポケットから、鳴海にもらったカードを出した。そうだ、これで払った。そして驚いた。
異常な残額だった。
「…?何だそれ。」
冴はそれを陽介に渡した。
「…あれっ、金持ちだな、冴。なにこれ。直人さんの生命保険を一部お母さんがなんかあったときのためにくれたの?」
「…昨日、茶わん蒸し代だと鳴海にわたされて…。今初めて金額を見ました。」
二人は沈黙してしばらく考えた。
そして同じ結論に達した。
「…俺がいなくなったあとの、当座の冴の生活費…」
「…兼、口止め料…」
「あの野郎…冴を二日酔いにする気満々だったのか。」
陽介はカードを預かった。
「…俺からカズに返しとく。」
「陽さん、一人で会わないようにして下さい。あいつは別の意味で危ないやつです。」
冴は身に染みたようすで唸った。…たしかに、冴を二日酔いに仕立てるくらいだ、陽介を再起不能にするくらい、あの男にとっては簡単なことに違いなかった。




