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冒険少年  作者: 一倉弓乃
12/18

11 前彼

 木曜日は陽介が居合の日なので、冴は、夕食休業日だ。だいたいは、帰って来た陽介に茶かコーヒーでも飲ませて送りだし、陽介は道場の帰り食事をとってかえってくるので、自分は簡単な麺類やファーストフードなどで間に合わせている。

 ただ、たまには、大学から早退した陽介が畳にひっくりかえって苦しんでいるときもあるのであなどれない。

「…冴、…俺今日休むわ…」

「…布団敷きますね。薬は?」

「…さっき飲んだ…」

 陽介を休ませて、夕食をどうしようか考えた。

 …残り物になるな、それよりは、ピザでもとるか、と思った。

 縁側に腰掛けて、紫外線の除去された柔らかい陽にあたっていると、庭に小さな猫がやってきた。鯖白だ。

 冴は猫がきたからといっていちいち陽介には報告しないが、ここの庭には、実によくいろいろな猫がやってくる。陽介は猫が大好きなくせに、意外と猫の存在に気付かない。

 放っておくと、冴の足許までやってきて、冴の足にすりすりし始めた。

 冴はここの猫たちに滅法モテた。

 …故郷のドームではこの勢いで女にも同じようにモテた。

 エリアの女は「なにはさておきまずはお金」なので、そんなんでもない。安いシャツをきているだけで、自然と無視してもらえた。楽で良かった。

 冴が抱き上げてやると猫はか細い、絶え入るような声でにゃー…ん、と甘えた。すこし顎の下をくすぐってやると、「ああん、いやんいやん」といった風情で首をよじっている。

(…かわいいな、こいつ)

(ちょっと陽さんみたい…)

 …ちなみに冴は、女をかわいいと思ったことがない。それは幼い頃からさんざん年上の女たちにもて遊ばれたからで、とにかく、「あいつらは気をつけないとなに言い出すかわからんやつら、しかも言うことは7割嘘」と一括して評価していた。中学後半くらいになって、その評価には「女は年下でもやっぱり女」という一項目が付け加わった。テレビで「女の子は3才からもうすでに女」という話題を見ると「まったくその通りだ」と冴は思う。多分よのなかにはたいやきの型のような「女の型」というものがあって、そこに赤ん坊をぽいとなげこんでジュッとやると、もう女ができるのだ、くらいに思っていた。

 だからといって別に女が嫌いかと言うとそうではないのだが、ただ、「可愛い」という言葉にちゃんとあてはまる女に、残念ながら会ったことがない、というふうには感じていた。冴は猫が悶えていればかわいいなと思うし、陽介がそれとなく甘えてくると「なんでこの人年上なのにこう可愛いかな」とか思うのだが、なぜか、可愛い女には縁がなかった。まあ、かわいくなくても、別に女は面白いからそれでいいとは思うのだが…。

 そういえば、冴の母親も、かわいいというには程遠いタイプだ。親父より怖いと思うときもある。

 ユウにも母にも厳重に口止めされているので、冴はけっして陽介には言わなかったが、…冴が学校に行けなくなったのは、実は金銭的な問題もさることながら、女性問題が大きかった。

 冴は並行して3~4人の女と付き合っていることが多く…それはまさしく冴の感覚ではみんな「ともだち」だったのだが、…相手はことごとく、そうでなかったらしいのだ。

 冴は「おとなのあそび」は収入のある大人の女としかしなかった。それはまだ10才か11才くらいのときに、あの霊感親父からこわいことをしこたま聞かされていた、というのが大きい。お山の霊感少女の藍が妊娠したのに結婚を拒まれたときいたときなど、全身の毛が逆立つような恐ろしい思いがした。

 だからそうした同級生やら下級生やらの女の子たちは、あくまでクラスメイトであくまで後輩であくまで…以下略、だったのだが、むこうはもう、全然、全員がカノジョさんのつもりだったらしいのだ。今思えば、冴の俺様で絶対的で支配的な態度が、彼女たちに隷属感のようなものを生じさせていて、それが彼女たちに変な錯覚を持たせたのかもしれなかった。

 絶対、絶対に寝ていない、キスもしていない、手も握っていない相手が、これまた絶対寝ていない…以下省略の相手とケンカになり、勢いで「あたしは寝たからね」という話になり、「あたしだって寝たわ」といいだし、「月島君、どういうことなのよ」になったところにまた別の一人が登場して「ごめんね二人とも、実は月島くんの本命はわたしなの」ときて…そしてさらにもう一人が「ええっ、あたしそんなふうに思ってなかったけど、ほんとは月島くんてそうだったの。じゃあ本命はあたしよ!」とひっくりかえす。最後の一人は常に天然ボケの著しいやつで、たしかに月島はこのタイプが一番笑えることもあって会う回数が多かったりして、みんななんとなく納得して残りの3人が泣き出す…だいたい、いつもそんな流れだった。だから母親も、「責任とってください!」には慣れてしまっていて、相手の親に「産婦人科で証明とってもってこい」とまで言い出す始末で…。冴はもういい加減うんざりしてしまい、高校にはいってからは、学校の女の子とは一切口をきかないようにしていた。

 …そうしたら、放課後あそんでいたお姉さんたち…というかおばさんたち…が同じ騒ぎを起こし、今度は相手も大人なので、もう、どろどろに怨念まみれな話となり、そのうちの一人が、二人刺した。命に別状はなかったが、冴も警察に呼ばれた。さしもの母も疲れきってしまった。ちなみに、おばさんたちの中には既婚者が2人まざっていたことがあとになってわかった。…ある程度はオサワリした仲でもあったので、余計大変だった。冴はしばらく、その二人の旦那から徹底して逃げ回っていたが、ある日追い詰められて結局一人返り討ちに合わせてしまった。…それがたまたま、仁侠な人だった。

 父親に相談したところ、死ぬほど笑われたのだが、「しばらく俺とSMクラブでも通うか?みんな大人でわりきってて全部自己責任だからいいぞ」という酷い返事しか返ってこなかった。いや、本当のことを言えば、もう一声あった。だがそれは「さすが月島家の息子だ。貴様は俺の親父と同じ顔だが、奴より大物になるぞ。」という有り得ない励ましだったので、残念ながら参考にはならなかった。

 そのあと事件が学校にもばれて退学になりかけたので、母が先手をうって金を積んで冴を休学にした。U市ぐらい田舎であれば、そういうことは金でいくらでもカタがつくのだ。だがその金は、今となっては、父親が最後にのこしてくれた金だったのだ。まったく、あのときもっと真面目に相談に乗ってくれれば、もう少し親孝行できたのに、と思う。

 困った母は、冴を水森のお山に預けるつもりだった。月島が亡くなって男手をほしがっていた頼子とは話がついていたのだが、ユウがこれをことのほかに嫌がった。

「どうして月島家って、そう閨が汚いの?! 3代目じゃないの!」

 そう喚かれたときには、さすがの冴も凹んだ。…月島のうちは3代続いて寝室が汚いという不名誉な称号を、お山の宮司からいただいてしまったのだ。…今考えても凹む。世の中、あの親父のような破天荒ばかりではないのだった。

 …久鹿家に嫁入り…もとい、下宿する話が出たのは、そのあと間もなくである。エリアに行っていたはずのユウが突然山にかえってきて、嬉々としてやってきて、無気味な猫なで声で言った。

「ねええ、冴、いい話があるのよ。まあきくだけでもききなさい…」

 …ユウは自分のところに「閨の汚い月島家の冴」をおいておくのがいやだったので、困っていた陽介をていよく利用して、冴を厄介払いしたのだった。

 母もユウも口をすっぱくして冴に言った。いくつの老女あるいは幼女であろうが、どんな関係であろうが、学校をでるまで絶対女と個人的に付き合わないこと。また、女関係のきたないところを、絶対に「清らかな久鹿センセイの御令息」に見せないこと。そうしないと、こんないい話がすべてオジャンになるのだから…と。

 …実際、そんな話を陽介は喜ばないだろう。そう思うと、笑い飛ばした親父は大人物だったという気もしてくる。…まあ、自分の恋人を結果として冴に相続させたような親父だ、なまなかのことでは驚かないのも当然とも思うが。

 ユウは父と陽介のことは知らなかったのか、それとも清い仲だとでもおもっていたのか、父の恋人に冴を預けることに関して、とくになにも感じていない様子だった。…単に自分のこと以外はどうでもいいという女なのかもしれない。いや、きっとそうに違いない。女というのは概してそういったものだという気もした。

(まあでも、清らかそうな陽さんも、閨はぼちぼち汚いな、多分…。そりゃそうだ、恋人の息子と平気で…いや、平気でなく寝るくらいだからな。)

(平気でないあたりがエロいんだ、あの人は。) 

 冴は猫をすっかり昇天させて、腹をごにょごにょ撫でてやりながら思った。

(…俺も陽さんの布団の染みなんざ知りたくなかったが、まあ、仕方ない…お互い様だからな。)

 猫は不意に起き上がって、板床にコロンとおりると、ぷるぷると体を震わせた。2~3回胸のあたりの毛並みをなめて整えると、そのままぴょー、と走って出ていった。

 冴が顔をあげると、別の猫がいた。白黒だ。…模様がなんだか、黒ヘルに黒パンツのようだ。

(…)

 だまって見ていると、その猫は冴をさけるようにして、縁側にとすっと上がった。そして足音をしのばせて、陽介がよこになっている布団のほうへ近付いていった。

(…まあいいだろう、別に。)

 そのまま放っておくと、

「…いでっ!!」

 陽介の声。冴は慌ててそちらへいくと、猫が陽介にパンチしたらしかった。

「…アトム……俺へばってんだから大人しくしてろ。…冴、…この子になんかやってくんね…?」

 冴はアトムをさっと抱き上げると、そのまま邪魔にならないように台所へ連れて行った。

 台所でアトムに水とカリカリをやってもてなしていると、何やらまた声がした。陽介が独り言でも言ったのかなと、たいして気にもとめなかったが、やがて明らかに別人の声がして、冴は奇妙に思った。

 …そういえば、たまに玄関ではなく縁側からのりこんでくるセールスマンがいる。やばいか?と思って静かに様子をうかがうと、こんな声がした。

「…いつからなんですか。」

「ん…直人さんが亡くなってからだよ。」

「…直人、亡くなったんですか?」

「そう、今年の春、事故でね…」

「…」

 親父の話してるな…とだけ冴は思った。ということは、知り合いだから、ほっといてもいいかな、と思って、またアトムに意識を戻した。アトムはのんびりとドライフードを噛み砕いていた。

 冷蔵庫を開けて、中を確認してみたが、本当に残り物しかない。残り物のごはんでも陽介はけっして文句などいわないが、寝込んだ後の夕食は、ちょっとうまいものを食わせたい気がした。

「…それまで直人さんと暮らしてたんだ。それで…」

 …なんかかなり詳しく話してるな、とは思った。

 客なら茶でもいれっか?…と思ったが、追い出す客ならまずいな、と思い直して、もう少し話しをうかがった。

「…今は冴と暮らしてる。」

 俺様登場だな、と思った。そんなら茶よりも本人登場してやっか?と思った。

 すると、陽介が冴を呼んだ。

 そ知らぬていを装って、冴が行ってやると、陽介の布団の近くに、髪の長い、眼鏡をかけた男が一人座っていた。しっかりした体つきで、日焼けしていた。年はもしかしたら同じくらいか?と思われた。…初対面にありがちな間抜け面をして、ぼけーっと口を開けている。冴は陽介の顔を見た。陽介はかろうじて起きてはいたものの、苦しそうに、立てた片膝を布団の上から抱えるようにしてうずくまっていた。

「…陽さん、横になってたほうが。」

「…うん、大丈夫だよ。…ハルキ、冴だ。」

 ハルキ。…ああこれが、と冴はおもった。ハルキはハッとして、ああ、どうも、こんにちは、と頭を掻いた。…冴と初対面の人間はだいたいこんな反応であることが多い。

 先日のP-1詣出でゲーム盤のコマの配置がかわったのだな、と冴は理解した。

「冴、…これがおまえのいうところの『突然悲劇的にさらわれてそれっきりになった元カレ』のハルキ。」

 …なにもそれをバラさんでもよかろうが、と思ったが、…やはりハルキは顎を落としていた。冴は聞かなかったふりをしてハルキの目を見つめて言った。

「…こんにちは。」

 それから陽介をもう一度見た。

「…陽さん、お茶でもいれますか?」

「…ああ、俺はいらない…ハルキになんか出してやってくれると嬉しい。」

 冴はちょっとため息をつき、陽介のそばにテーブルをひっぱってやった。陽介はそのテーブルにもたれかかった。

 修羅場に巻き込まれるのもイヤなので、そのまますぐに座を辞して、台所でコーヒーのためにお湯を沸かし始めた。

「…」

 陽さんは、ああいうワイルド風味のインテリみたいなのが好みなのか、とちょっと思った。眼鏡オシャレじゃん、と思った。

 またしばらく、話声がしていた。お湯を沸かしていたので何を話しているかまでは聞こえなかったが、別段口論になっているようすもなかったので放っておいた。

 アトムはまだのんびりとドライフードを味わっている。

 しばらく話が続いた後、ハルキが幾分高い声で言った。

「…先輩が辛かった時期に、おそばにいられなかったのは、…それは本当に…悪かったと思います。だけど、…それにしたってどうしてたった1年半くらい、待っててくれないんですか?…酷いですよ。…直人とちょっと浮気するくらいなら仕方ないったって…あんな綺麗な子家に入れて…あなたは酷いですよ! どうしてそうやってすぐに寂しさにまけてしまうんですか?いつもいつも!」

 …そらみろ、と冴は思った。逆の立場だったら、俺なら刺してる、と思った。俺の女友達(?)は、別に俺が女と同棲してなくても他の女刺したし、と思った。

 戸棚をあけて、百合子が作っておいていったドライフルーツのパウンドケーキをだし、丁寧に切った。

「…そうだな、ごめんな、ハルキ。」

 …喧嘩する体力がないのだな、と冴は思った。たしかにあの状態では、言い争いは無理だ。…だが、それが幸いしたかもしれないな、と思った。

 案の定、ハルキは黙り込んだ。 

 沸騰したお湯を、ドリッパーに注ぐ。

 コーヒーの芳香が漂った。

 アトムがにゃーと言った。コーヒーくさいと訴えているようだ。

「…おまえ、いつきと寝てやった?」

 お。と冴はおもった。ニュースで云々の話にはいっている。

 …コーヒーの膨らみ具合をみながら、細くお湯を注ぎ続ける。

 …この豆は直人が好きで飲んでいた豆で、冴は最初は嫌がらせでこれを飲んでいた。

 お前は俺のことをなんだと思っているんだ?とりあえずお前のなかでだけでもしっかり定義づけしとけ、そのうちいたぶってききだしてやるからな、というような気持ちだった。

 しかし陽介が泣き出しそうな顔をしたのを見て、冴のほうもひどく辛くなってしまい、うわー、俺が悪かった、ごめん、と思った。そのくせ、陽介は別の豆をかってくると、あからさまにがっかりするのだ。

 人間にとって、あらゆる感情は甘美な糧だとなにかに書いてあった。…悲しみでさえも。冴は陽介を見ていると、本当にそうなんだな、と思ってしまう。

 最近は、その悲しそうな顔が可愛く、いとおしく、この豆以外は絶対に買わない冴だ。

 忘れたくても忘れられないかわいそうな陽さん。冴の声や気配こそが、その男をおもいださせているに違いない。…そうやって冴はただいるだけで陽介の心を引っ掻いているのだ。

 …その手ごたえが…。

 …その痛みが…。

 コーヒーが強く香った。

「…僕は姉が必要な生き物で、いつきは弟が必要な生き物なんですよ。ただ、その需要と供給が、お互いに噛み合っているだけなんです。…誤解ですよ。」

 やっぱりなー…と冴は思った。

「…おまえ、馬鹿じゃねえの。」

 陽介の声でそんな台詞が出たので、冴は思わずお湯を注ぐのをやめた。

 …あの「可愛い優しい清らかな陽さん」の口から出た台詞とは思えなかった。

「…いつきがお前のことずっと好きなのしらねえのかよ。」

(…あんたそれ俺にふせてたろーーーー!!) 

 冴は思わず向こうの部屋のほうを見たが、あやうくコーヒーが全部落ちかけたので、慌てて底にすこし残したところでドリッパーをはずした。このさいごの数滴のえぐみが、冴は嫌いだ。

「…たとえそうだったとしても、僕はあの人とは寝ませんよ。…姉の代わりですから。」

「…ハルキは、一年くらい俺といたっけか?」

 陽介の妙に静かな声が薄ら寒く言った。

「そうですね。」

「…俺はね、ハルキ、…いつきが、行きずりの田中さんと寝ようが、だれさんと寝ようが、別にどうでもいいの。そのことは言ったことあるよな?それでも俺は田中さんと友達でいられるし、たのしく話せるの。

 でもね、ハルキ、おれは水森はきらい。なんであんなぱっと出のやつが、生物学的に女だからって理由だけで、いつきの親友ヅラすんだよ。おまえの姉貴も嫌い。たかだか2~3回いつきに餌やったくらいでなんであんなになつかれてんのよ。おかしいだろ。」

「…」

「…でも一番きらいなのは、咲夜。…ちょっといつきの弟に顔を整形で似せただけだろ。何様なんだよっつーの。」

「…先輩…」

「…弁明は?ハルキ。」

「…」

「…弁明しろ。」

「…」

 ここでコーヒーだ、と思ったので、冴はカップのお湯をあけて、コーヒーをつぐと、歩き出した。冴の前を、食事をおえたアトムがとことこ走った。

「…お話は佳境ですかね。」

 冴はわざとはっきり言って、ハルキのそばにコーヒーとケーキを置いてやった。

 …陽介は、息も絶え絶えに、テーブルにはりついていた。まったくどっちが追い詰められているのやら…これはもう限界だ。ハルキも声にこそだしていないが、「先輩…」という顔で心配そうに見下ろしている。

 アトムはテーブルに飛び乗って、陽介の頭をがつっとなぐった。

「…っ、冴、アトムを連れて行け。」

「…アトムじゃなくて、陽さんをつれていきましょう。…あんたもう無理ですよ。」

 冴はハルキにコーヒーを指して、飲んで待ってるように合図してから、陽介をかつぎ起こして、そのまま2階へ運んだ。2階の陽介の部屋に布団を敷き直し、陽介をねかせた。陽介は汗をかいて、息が浅く早くなっていた。ふれていると、ひどい動悸が伝わって来た。

「…陽さん、薬、もう少し余計に飲みましょう。」

「…うん…」

 陽介は、もういつもの、冴の良く知っている、ふれれば落ちそうなか弱い「うちの陽さん」に戻っていた。薬をもう一服飲ませ、そっと柔らかい毛布をかけてやった。

「…言いたいことは言えましたか。」

「…うん…多分…。」

「…彼を帰していいですか?」

「…うん、今日のところはもういいよ…。…疲れ果てた…。」

 冴は陽介の額に手をあてて、呪文のように言った。

「…やすんでください。」

「…うん…」

 それからそっと手を離すと、階下へ降りた。

 下の部屋ではカラになった布団を離れ、縁側でアトムをあやしながら、ハルキがコーヒーをのんでいた。アトムはハルキによくなれているようすで、楽しそうにハルキの振り回すヒモと戯れている。

「…すいませんね、今日はスケジュールもキャンセルして寝込んでいたくらいの、最低の体調で…。」 

 冴が声をかけると、ハルキはふりかえった。

 そしてしみじみと冴の顔を見て言った。

「…ほんとあの人、手はやいよね…。1年半で二人同棲かあ…。」

「…あなたのあの理屈は正しいとは思うんだが…」冴はサーバーにのこっていたコーヒーを自分のマグカップについだ。「…しかし、正しかろうが正しくなかろうが、あの人は絶対に一人にしてはいけないんだ。尋常でなく寂しがりやだから。」

 ハルキは暗い顔になった。

「…知ってるよ。直人のときもそれでやられたんだ。…でも好きで一人にした訳じゃない。」

「…そうだろうさ。だれもすきでそんなことする奴はいない。」

「…。」ハルキは苦笑した。「…あんた、雰囲気、直人に似てるな。先輩はなんだかんだ言って、趣味は一貫してるってわけだ。」

 冴はあれっ、と思って言った。

「…息子だが。」

「…えーっ!!」

 …そういえば、陽介はフルネームで紹介しなかった。「親子どんぶり」といわれそうで恥ずかしいのだろうか。どうせじきにバレるんだろうに…。

「全然顔がちがう!!」

「顔は隔世遺伝だ。」

「どうして! どんな馴れ初めで!! まさか遺言状で愛人の地位を相続したんじゃ…!!あいつならやりかねない!!」

「そりゃいくら奴でも無理だ。人間の気持ちは遺言状で相続はできん。」

 …まあ、結果として相続したが。

 はるきはドン引きだったが、百合子の作ったケーキをすすめてたべさせると、幾分落ち着いた。懐かしい味がすると言った。

 冴はハルキに、ユウや母の勧めで父の死後、生命保険の有効活用よろしく母親に投資されてエリアにでてきたことだけを簡単に話した。陽介はたまたま家事のできる下宿人を探していたので、ユウに紹介してもらったとだけ言った。…表面的にはすべて事実だ。

「…それで同居して何ヶ月ぐらいでデキたの?どっちがくどいたの?」

 ものすごいツッコミが恨みがましい口調で入ったが、冴は優雅に無視した。

 陽介がものすごく苦しみながら、悩みながら、後悔しながら、それでもどうしようもなく、引きずられるようにして冴に近付いてきたことなど、そのあまりにも痛々しい姿のことなど、昔の男だろうがなんだろうが、二人以外の部外者に話す義務はなかろうと思った。

 デキたとか口説いたとか、そんな言葉はまるで、やすっぽい、薄っぺらい、意味のない、ただのステッカーみたいなものにしか思えなかった。

(まして俺が何万人の人ごみの中、待ち合わせ場所でもないところで、彼を間違いなく見分けただの、見つめあったときのなんとも懐かしいようないとおしさだの、にっこりされて視線を外されたときの喩えようもない苦しさだの…そんなもの口にしたところでのろけにしかならんだろ。そもそも陽さんにも言ってない。)

…と思った。

「…陽さんは、本当は、…いつもあんたのことをまってたと思うよ。奴と住んでるときも、俺がきてからも…。だがそういう時間があまりに長いと、また、とりわけ寂しかったりすると…気持ちは幾分変質してしまうからな。…本当は会えて嬉しいんだと思う。…まあ、だからってよりをもどされても困るんだが。」

「…喜んでるかな。どうだかね…。」ハルキはため息をついた。「本当のこと言えば、最後のほうはだいぶさめてたのも事実なんだ。…途中で先輩が直人に恋しちゃって…僕はさすがに割り切れなくて。…でも直人と暮らして、あんなめもあてられないほどきれいになられちゃったら…今更僕にどう太刀打ちしろと…。」

 …やっぱり割り込みだったのか、と冴はイヤーな気分になった。こんなところで息子ほどの年の子供を相手に情け容赦なく色事のかけひきやってやがったのかよ、くそ親父め、と思った。

「…直人に恋しちゃったんじゃなく、直人が恋しちゃったんだと思うぞ…?」

 冴は実の息子にのろけていた馬鹿親父を思い出し、一応遠慮がちに一言いっておいた。

 今度はハルキが短く息を吸って、それを完璧に無視した。

「…いつきの件は僕的にはすごく衝撃だった。僕は…勘違いしてたと思う。」

「…」

「…僕は、なんだかんだ言って、いつきは先輩の女だと思ってた。でも…そうじゃないんだ。…先輩は、いつきのたちのわるい女友達なんだ。」

「…まあ、男だからな。」

「ちがう、あの人は女なんだ。…きみは姉妹はいないんだっけ?」

「いない。」

「…女の中にはいるんだよ、独占欲がつよくて、1対1の友情しかだめで、そのせいで少しずつ女社会で排除されていって、最後は男だますしかないってタイプの女が。」

「…」

「…僕の姉がそうだ。…先輩も多分それなんだ…。ただ男だからわかりにくいだけで…」

 ハルキはそう言ってムシャクシャしたようすで頭を掻いた。その髪に、アトムがニギャーとじゃれつく。

「ハァ…」

 アトムによじのぼられ放題になりながら、ハルキはため息をついていった。

「…変な図だよね。今カレが前カレをなだめる図。」

「…。」

 冴も頭をかいた。まったくだ。ただ、冴はなんであれ、自分を取り囲んで口々にせめたてた女達のような姿を、けっして陽介に見せたくないと思っていただけなのだが。

 ハルキはまたため息をつき、コーヒーを飲み干すと、立ち上がった。アトムがぽてっと床に落ちた。

「…帰るよ。」

「…送りましょう。」

 二人のあとを、アトムもついてきた。

 門の外まで送っていくと、ハルキはふりかえって言った。

「…冴、お父さんのことだけど…。僕は…直人のことは別に嫌いじゃなかったよ。先輩が直人を好きになったのは直人が悪いわけじゃないし…それに、直人は僕が先輩のそばにいるあいだは、一度も先輩に電話しなかった。…けっこう義理堅い人だったんだ。…僕はたまに直人に絡んでたけど、直人はめんどくさそうにしたりしながらも、ちゃんと相手してくれたもんだよ。…亡くなっちゃったなんて、すごく残念に思う。早過ぎるよ。」

 冴は驚いた。

「…そ…うですか。」

 …父の部下も含めて、ここまで父を買っている人物は…いや、たとえ内心買っていても、息子の冴にここまではっきりと言う人物は他にいなかった。まして、父はこの人物の恋敵だったのに。

「…うん。なかなか自分の親父のことはよくわからないと思うし…僕も自分の親父のことはよくわからないけど…僕が知る限り、直人は立派な人だった。とても頼りになる人だったよ。…冴は月島の血を誇りに思うべきだ。」

「…」冴はあっけにとられて、一瞬言葉を失った。少し考えて、とりあえず、「…ありがとうございます。」と言った。

 ハルキが大股で遠ざかって行くのを見送りながら、冴は、

(…陽さんは…もうすこし寂しさを我慢してあの人をまっていたほうがよかったんじゃないだろうか…)

と思った。

 それは自分とハルキをくらべてどうこうという話ではないのだが、多分、直人のことを話せる相手が陽介にいるとしたら、それはハルキなのではないだろうかという気がしたのだ。

 おかしな話だった。

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