プロローグ
新社長就任のセレモニーを抜け出して、安西キリウは中庭で煙草を吸っていた。顔には、女にひっぱたかれた跡がついている。気の強い女だ。それでも嫌いではなかったが。別れたいというのであれば仕方あるまい。
いつでもそうだが、たとえ結婚する気はなくても、永久に付き合うというつもりでなかったとしても、別れはつらい。安西キリウは金持ちのイケメンで相手には困らなかったが、それでも、気持ちの整理というやつが、いつだって必要になってしまう。
とてもそのままセレモニー会場のまずい酒をのんだり、新しい女を漁りにもどったりという気分ではなかった。
何か拍手が聞こえた。安西は時計をみて、ここからあとは交流会だなと踏むと、外から駐車場へ回ろうと思い、煙草を携帯用の灰皿にいれた。
「キリ」
呼ばれてふりかえると、中庭の街灯の下に、ほっそりした陽気な男が立っていた。やり手で油断できないやつなのだが、安西はなんとなくこの男が憎めない。
「やあ。…いいの。抜け出して。」
「いいんじゃない、もうお祝してあげたし。」
「でもキミのごくろうさん会もかねてるじゃーん。」
「あっはっはー、金儲けに血道をあげてるやつらが、去って行く人間に興味もつと思う?」
「そっかー。」
彼は安西にカクテルを一つもってきてくれていた。
安西は受け取り、彼と乾杯した。
「新社長の新時代に」と彼は言い、安西は「終わった季節に」と返した。
二人は明るい色のカクテルを一気に飲み干した。
「…キリは、司法試験受けるの、今年も。」
「まあ、形だけね。親の手前。…金はあるし…なんかゆっくりやりたいこと探すよ。カズは。」
「んー、ぼくはね、旅に行くよ。」
「旅?」
「うん、冒険の旅さ。」
そういったとき、彼の目が少年のようにきらきら輝いた。
「…本気で信じてるの、なくなったお母さんの夢物語。」
安西がそう言うと、彼はにっこりして、うん、とうなづいた。
「…ブレーメンに行っても、音楽隊なんかないかもしれないよ。」
安西が皮肉な調子で言うと、彼はにこにこした。
「そうしたら、僕が音楽隊を作るよ。」
安西は苦笑した。…これをほんとうにやってしまうのが、この男のコワイところなのだ。ある意味、非常にクリエイテイブともいえる。いろんなものを創造する特殊なパワーをもっている…ように、安西には見える。
「そう…。幸運を祈ってるよ。…僕はキミのファンだった。キミといると、いつもわくわくしたよ。今度はどんな悪さしようかって。」
彼はそう言われてアハハハハと朗らかな声を立てた。
「ところでキリ、旅だつ僕に、最後の餞はしてくれないの?」
「…何だい。」
「…久鹿の次男に紹介してよ。以前からいってるじゃないか。」
安西は目を細めた。
…イヤだった。
安西キリウは久鹿の次男には特別な執着があった。しかも、自分が向こうを思うほどに向こうが自分を思っていないのも知っていた。
この明るくて精力的な同級生が、久鹿陽介のよい友達になれるのはわかっていた。それにカズは今、久鹿陽介のコネクションを必要としている。紹介すれば陽介からもカズからも自分は感謝されるだろう。悪い話ではなかった。
それでも、安西には、無理だった。
今この状態であの陽介に会ったら、また何をしでかすかわからなかった。陽介はそういう…不安定な安西を悪事に走らせるような奇妙な魅力のある子だった。年上の恋人を捕まえて以後は、一般人にひっそりまぎれようとするのをやめたらしく、一気に垢抜けて、ますますレベルアップしている。本人も「最近どうしたことか数少ないホモのチカンに集中的にあうよ」などと笑っていた。陽介は安西の悪さをいつも多めにみてくれるものの…陽介が本気で怒ったら、安西と陽介の仲はそれで終わる。
だから会いたいのを我慢している。本当は会いたい、とても。会って怒らせたりこまらせたりしたい…。安西にとっては彼は究極のイヤシ系なのだ。
「…かんがえとく。今スグは無理だよ。」
「どうして。」
「…あいつ、ヤサをかえたりしてなかなか捕まらないし…どうやら恋人と暮らしてるらしいし…なんか護衛つれて歩いてるみたいだし。とにかく、今は無理。なんか普通の状態じゃないんだよ。」
「キリ、普通かふつうでないかは問題じゃないよ。僕は彼にまた別の人を紹介してもらいたいだけなんだ。時間も手間もとらせないよ。会わせてさえくれたらそれでいいんだ。…キリと彼の友情の邪魔はしないよ。」
「…今度ね。」
安西はカズの顔を睨むと、もっていたグラスを目の高さに持ち上げ、そのまま手を放して足許の石畳で割った。
…友情なんてないから、邪魔もできない。けれどもカズはきっと、陽介を遠くにつれていってしまう…
そんな予感がした。
カズに背を向けて安西は歩き出した。
…今のカズの顔はみなくても見当がついた。
きっとそれは、安西がまだみたことのない、凶悪な顔にちがいなかった。