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俊也は、最初こそトイレから出たり入ったりしていたが、そのうちにトイレから、出て来なくなった。
あの下剤は、結構強力な薬だったらしい。
「…そろそろだな。」
佑が、腕輪の時計を見て言った。郁人は頷いて、そうして、二人は立ち上がった。
振り返ると、皆は各々で持ち寄った毛布にくるまって、規則的な寝息を立てていた。
「…行くぞ。」
そうして、二人は誰も起こさないように、そっとそこを出て、トイレへと向かった。
一番佑の部屋に近い位置のトイレへと到着した二人は、お互いに向き合った。
「じゃあ、郁人は一応中へ。オレが外で叫ぶから、そしたら出て来てくれ。みんな、それで来る。正念場だぞ、郁人。」
郁人は、さすがに緊張した顔をした。
「やるぞ、佑。」
そうして、郁人はトイレの中へと足を踏み入れる。そうすると、感知式の電灯が、パッと着いた。
その扉を閉めて、佑は後頭部を押さえると、声を限りに叫んだ。
「わあああああ!誰か、誰か来てくれ!」
声は、思った以上に反響して、突然にバアンッ!!と大きな音がしたかと思うと、懐中電灯の光が、幾つも浩二の部屋の方向から出て来た。佑は、そこにうずくまってそれは苦しそうにした。そもそも、ここでしくじってはと、それは緊張していたので顔色は良くなかったはずだ。
ちなみに、真っ先に来たのは謙太だった。
「佑?!どうしたんだ、大丈夫か?!」
トイレの扉が開いていて、郁人が出て来ていた。
「オレにも分からないんだよ!トイレが俊也に占領されてるから、仕方なく二人でここへ来たんだ。オレが先に入って、佑が見張りに立ってくれて。中に居たら、すごい叫び声がして。」
佑は、頭を押さえたまま、言った。
「真っ黒い服を着て、目出し帽被ってるヤツがいきなり暗闇からヌーッて出て来て殴ったんだ!すぐ暗闇の中に消えてったからよく見てないが、突然で!」
謙太が、佑の肩に手を置いた。
「もう大丈夫だ、みんな出て来てる。でも、気のせいじゃねぇのか?」
すると、三階へと繋がる階段から、三つほどの光がちらちらと揺れながら降りて来るのが見えた。来た!と佑がそれを見て思っていると、先頭の真代が言った。
「どうしたの?」
謙太が振り返って、女子達を懐中電灯で照らして見ながら、答えた。
「ああ、降りて来たのか。なんか佑が、殴られたとかなんとか言ってよ。急いで出て来たんだ。」
向こう側から、郁人の声が言った。
「オレ達浩二の部屋に居たんだ。そっちの、205号室。だけど、俊也が腹を壊してトイレから出て来ないから、オレと佑で外のトイレに出て来たんだ。オレが入ってる間、佑は外で待ってたんだけど、なんか暗闇から何かがヌーッと出て来て、頭を殴られたって。」
「暗闇から?」
涼香は、不安げに懐中電灯を振り回して辺りを照らした。しかし、目に見える範囲には何もなかった。
「オレ達が来た時もそうだったんでぇ。気のせいだろうと言ってたんだが。」
すると、目の前の床の絨毯にうずくまって片手で頭を押さえていた佑が叫んだ。
「気のせいなんかじゃない!殴られたんだぞ、後ろから!なんか固いもので後頭部に衝撃が来て、振り返ったら目だけ開いた黒い何かを被ったやつがいた。だからみんなを呼んだんだ!叫んだらすぐに居なくなった!」
郁人が、肩をすくめた。
「オレはトイレの中だったし、見てないんだ。」
真代が、眉を寄せて言った。
「その時、みんな部屋に居たの?誰か居ないとかは?」
謙太が、首をかしげて顔をしかめた。
「みんな居たように思うんだが…何しろ、見張りがトイレに出てた二人で、他は床で雑魚寝してたんでぇ。いきなり声がしたから、慌てて出て来てその時誰が居ないとか確認してねぇ。」
真代は冷静に、懐中電灯を振って一人一人確認した。
「みんな居るみたいね。俊也さんだけ、居ないみたいだけど。」
郁人がそれに渋い顔をした。
「だからあいつ、寝る前にパン食べた後ぐらいから腹の調子が悪いとか言って、何度もトイレに行っててね。しまいには出て来ないから、オレ達仕方なく外へ来たんだもの。まだ部屋のトイレなんじゃない?」
それを聞いた涼香が、ハッとしたように、言った。
「それって…今、俊也さん、一人?」
皆が顔を見合わせる。人狼たちには、皆が何を考えているのか分かった。
その時、やっと氷の時限装置が機能したのか、浩二の205号室の方から、叫び声が上がった。
「ぎゃああああ!」
俊也の声だ。
しかも、佑や郁人達が望んだ、完璧な悲鳴だった。
「俊也!」
謙太が、打ち合わせ通りに物凄い勢いで走り出した。それは、反射的に駆け出したように見えた。
思惑通り、それにつられて、知美の脇に居た拓也も康介も駆け出すのが見え、真代がその後ろを全速力で駆けて行く。知美は、その後ろを走り出し、涼香がそれを追って行く。そしてそれを、駿が、浩二が追って行った。
残るのは、美久。
佑は、美久の4の番号を襲撃先として入力するとサッと立ち上がって、打ち合わせ通りに階段裏へと入った。そこに、黒い繋ぎがあるのだ。
「え?私、私懐中電灯が…」
美久が、脅えたように言う。郁人が、にっこり笑った。
「じゃあ、とにかくトイレに。中に居たら明るいから。ほら。」
と、強引に美久を押し込んだ。そして、戻って来た佑が、黒い繋ぎをエプロンのように前に下げて、駆け足で戻って来て、そして、ためらいもなく美久へと、ナイフを両手で構えたまま体当たりするように突撃した。
「え…!?」
美久は、後ろへと吹き飛ばされて倒れた。佑の手は、握っていたナイフから離れていたが、真っ赤に血がついていた。
「ほら、服貸して!」
郁人が言い、佑は慌ててそれを郁人に渡した。郁人がそれを通気口の向こうへと押し込む間、佑は足元の美久を見下ろした。
美久は、目を開いたまま、まだぴくぴくと痙攣するように動いていた。
刺した胸からは、どくどくと血が流れて床を汚し続けていた。郁人が、戻って来て佑の手をがっしり掴むと、その手を血の中へと突っ込んだ。
「う…っ!」
佑は言ったが、郁人はそのまま、手を頭にがっつり付けた。
「行くぞ!命が懸かってるんだ、今は生き残ることを考えろ!」
そうして、一瞬にして終わったそれを邂逅する間もなく、佑は自分が殺した相手の血を頭との間に握りしめて、郁人と共に必死に走った。
そこまで、まるで永遠のような一瞬のような、そんな時間感覚だった。
開いたままの扉へと飛び込むと、皆がトイレの開いたドアの中を見ていて、こちらには気付いていなかった。
佑と郁人は、皆に知られないように息を整えながら、じっとその様子を見守った。
「何があったんだ。あっちじゃ佑が殴られたとかで、大変だったんだぞ。」
謙太の声と、それからなぜか、トイレを流す音がする。俊也の、びくびくとしたような声が聴こえて来た。
「腹が痛すぎて立てなくて、ここに座ったままウトウトしてたんだ。そうしたら、急に首筋に、何か冷たいものが落ちて来て。」
「冷たい物?」
言って、謙太は上を見上げた。謙太は、打ち合わせ通りにちゃんと率先して行動してくれているようだ。
天井から水が沁み出ているのを、皆で確認している。
「なんだ、水漏れじゃないの?」
後ろから、郁人が確かに自分が居ることを印象付けておこうと入り、便座に登ると、その蓋を見た。そして、怪訝な顔をした。
「…あれ?ネジが無いな。だからネジの穴から水が足れて来たのか?」
しかし、下に居た謙太が顔をしかめて答えた。
「そもそも水がそんな所から漏れるのがおかしいだろうが。」
郁人は、首を傾げながらも、ゆっくりとそれを、下へ下ろした。
蓋の上にこぼれていたらしい、水が一気に下へと落ちて、下に居た俊也がまた、悲鳴を上げた。
「うわ!なんだよ、冷たい!」
郁人はそこから天井裏を覗こうとしたが、背が足りない。なので、謙太が代わって便座に登ると、そこから、中を覗いた。
そうして、言った。
「…トレーがあるぞ。そこに、デカい氷が入ってる。アイスピックとかで砕いて使う、あれだ。」
涼香が、身を乗り出して来て、言う。
「下におろせる?」
謙太は、黙って腕を伸ばした。そして、言った通りの物を引っ張り出すと、水がこぼれて来るそれを、慎重に下へと下ろした。
佑は、きちんと氷の時限装置を設置してたようだ。
それを見た皆が、怪訝な顔をした。
「…なんだこれは?」
佑は、自分も居ることをアピールしようと頭を押さえて、不貞腐れたまま後ろから、言った。
「知らん。オレと郁人が見張りに立ってる間に、トイレに行ったのは俊也だけだぞ。浩二の部屋なんだし、浩二が何か知ってるんじゃないのか。」
しかし、浩二は戸惑いがちに首を振った。
「オレは知らない。そもそもどうしてそんな所にこんなものを置くんだよ。人狼の嫌がらせか?」
涼香が、首を振った。
「こんな嫌がらせをしてもどうにもならないわ。そうだとしたら、何か意味があるはずだもの。」
しかし、佑はわざと息を乱して、唸った。
「なあ、それは後にしてくれよ。なんか気が遠くなりそうだ。傷がどうなってるのか、ちょっと灯りの下で見てくれないか?しこたま殴られたんだぞ?」
みんなそれを忘れていたらしい。
駿が、奥へと歩いて行きながら、非常灯を明るい蛍光色の物に変えた。
「ほら、こっちへ来い。見てやるから。確かそっちの棚に救急箱があったはずだ。」
佑が、頷いて頭を押さえたままそちらへ歩き出す。
もちろん、自分の後ろ姿を見せるためだ。思った通り、全員が息を飲んだ。
佑の後頭部からは、おびただしい血が流れているように見えただろうからだ。
ここで、傷を確認しに駿以外の誰かが来たら面倒だった。
本当ならこの辺で、美久が居ないことに誰かが気付いてくれて、確認に行ってくれるのが一番だったが、こちらから言う訳にもいかない。
「ちょっと…血が!すごいわよ!」
涼香が叫ぶ。
佑は、言われて駿の前に座ったところだったが、ハッとした。そうだ、演じなければ。
なので、押さえていた手を放して、見た。
「うわ…!」
血まみれになった自分の手を見て、少し大袈裟かと思ったが、佑はフラッと椅子の背へと寄り掛かった。駿が、後ろへ回り込んで、その傷を覗き込んだ。
もちろん、何もないのだが、駿は言った。
「これ…結構切れてるな。でも、傷は深くないみたいだ。頭って出血が激しいんだよ。押さえてたから止まって来てるみたいだし、消毒してガーゼを当てておこう。」
駿は、救急箱を持って来てさっさと傷口の洗浄をしているように、血を洗い流してくれている。
「謙太さん、血がすごいからちょっと拭くよ。タオルを濡らして持って来て。」
駿は、どうやら覚えている分謙太のことは呼び捨てに出来ないらしい、と佑は思った。謙太は、頷いてユニットバスへと入って行った。そうやって皆でぐったりする佑の治療をせっせとこなす駿を見ていると、涼香が何かに気付いたように、キョロキョロと回りを見回した。
「…なんだよ。」
康介が、鬱陶しそうに言う。涼香は、そんな口調など気付かないように、うろたえたような顔をして康介を見た。
「美久さんは?」そして、振り返った知美と真代に言った。「美久さんはどこっ?」
佑は、俯いて気にしていないふりをしていたが、内心やった、と思った。早く騒ぎになって、こっちは頭の傷を何とかしなきゃならないんだ。
知美と真代は、顔を見合わせた。
「だって…涼香さんと一緒に降りて来たんじゃないの?手を繋いでたじゃない。」
涼香は、首を振った。
「あの子急いでたから懐中電灯を持ってなかったでしょう!だからそうやって降りただけで、降り切ってからは放してたわ。すぐ後ろに居たのに!」
郁人が、息をついた。
「だったら、トイレなんじゃないの?あそこのトイレ、めちゃくちゃ大きくて綺麗だから。女子っていちいち男子がたくさん居る時トイレ行って来るって言わないと思うけど。」
涼香は、ぶんぶんと首を振って否定した。
「懐中電灯持ってないって言ったでしょう!みんなが急に走り出しちゃったから、怖くてトイレに籠ったのかもしれない。探しに行くから一緒に来て!あの子一人じゃ危ないもの、一緒に居なきゃ!」
郁人は、うんざりしたように息をついたが、頷いた。
「仕方ないなあ。じゃ、何人かで行こう。佑はオレと二人でトイレに行った時に前で待ってて襲われたんだし、何人かで行った方がいいだろうし。ええっと…誰が行く?」
皆こちらを見ている。だが、涼香は急いで割り込んだ。
「選ばせて!」と皆を見回して、「俊也さんと謙太さんは?」
謙太は、濡らしたタオルを何枚か駿に渡しているところだったが、涼香を見た。
「オレはいいが、俊也は無理だ。あいつ、また便器と友達になってやがった。」
言われてみると、またバスルームの扉が閉じている。涼香は、ため息をついた。
「こんな時に、白い人が役に立たないわね。じゃあ知美さん、謙太さん、郁人さん、来て。他はここで待ってて。」
知美は、驚いたのか慌てて涼香の方へと歩いた。残る駿が、タオルを血だらけにして佑の髪を拭きながら、顔を上げた。
「気をつけろよ。佑は生きてる…襲撃はまだ成功したことになってないぞ。」
涼香が、顔をこわばらせると、頷いた。
「分かってるわ。」
そうして、涼香、知美、謙太、郁人の四人はまた、部屋を出てやたらと広い廊下を照らして歩いた。